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第七章 正雪は微笑む
七の三
冬の鉛のようにくすんで重そうな雲の下で、小源太はかじかむ手をはげますようにして、長屋の家の戸に手を伸ばした、時だった。
「ごめんくだせえ」
どこかから、しゃがれた声が風に流されてきた。声は気のせいかと思えるほど小さく、小源太は自分を呼んだものとも思わなかったから、気にもとめずに立てつけの悪い戸を開けようと力を入れたが、もう一度、
「ごめんくだせえ」
と確かに聞こえた。
声のしたほうに首を回すと、いつの間にそこに立っていたのだろう、老人が小源太の後ろに、杖によりかかるようにして立っていた。老人の肌の色は今日の空を写したようにくすんでいて、頬は削ぎ落としたようにげっそりとこけ、目はこぼれ落ちそうなほどぎょろりとむき出しで、骨に皮がかろうじてからみついている体をして、立っているのもやっとといったふうであった。小源太は体ごと振り向いた。じっくりと見るまでもなく、これはいけない、と感じた。あきらかに、死神にとりつかれている。
灰色の髪は元結がゆるんでみじめに垂れていたし、月代はいつ手入れしたのかもわからぬほどぼさぼさであった。その瞳は濁っていたものの、いくばくかの精気をにじませて小源太を見つめていた。見つめる目つきは、刃物のように冷たく、おそらく若い頃は無頼の道を歩いていたに違いないと想像させた。
「栗栖様でございますな」
言葉づかいは丁寧だが、どこか、人を威圧するように老人が訊いた。意識して威圧しているわけではなさそうで、長年の癖がしみついたような抑揚であった。
小源太はうなずいた。
「そうだが、そなたは?」
「あっしは、浅草田原町の狛蔵というものでございます。栗栖様は人助けを生業にされていなさるそうで」
「おお、そうか、仕事の依頼かの。ささ、ここでは寒い、中に入ってくれ」
小源太は家に狛蔵を招き入れると、火鉢の灰の中から埋火を火箸で掘り起こして、
「さ、冷えたろう、当たってくれ」
と狛蔵の前に火鉢を押しやった。
「みたところ、体の具合がよくなさそうだが、浅草からだと、ずいぶん疲れたんじゃないのかな」小源太は、話の糸口をほぐすように訊いたが、
「いえそれほどでも」狛蔵はぽつりと答えただけだった。
どうも、あまり話し好きなほうではなさそうだ。
「して、依頼とはどのようなものかの」
話を振ってみたが、狛蔵は何から話そうか迷う様子で、小さく吐息をついた。
そうしてしばらくしてから、
「見ておさっしのとおり、あっしはもう先が長くありません」
どう返していいのかわからず、小源太はただうなずいた。
狛蔵はまた話すことを頭でまとめているのか、ふたたび口をつぐんだ。数回息をしてから、
「あっしも昔はずいぶんやさぐれた生き方をしてきたものでごぜえます。女房にも娘にも、ずいぶんつらく当たってめえりました。それで、死ぬ前に、詫びのかわりに娘に、ちっとは財産でも残しておきたいと思いつきました。しかしその財産というのを手に入れるのが、いささか面倒でしてな」
と狛蔵は、小源太が首からはずしてかたわらに無造作に置いた、梅柄の衿巻に目を落とした。
「その衿巻が必要なんです」
狛蔵の真意がつかめずに、小源太は小首をかしげた。狛蔵は続けた。
「その衿巻は、もとは打掛だったものでございましょう。富沢町の古手屋の持ち物だったはずです」
「さようだが……」
「それはですな」
と狛蔵はもったいぶるように、気持ちを落ち着けるように、また黙った。そうして、ひとつゆっくりと息をしてから、
「宝のありかを記した地図でございます」
小源太は狛蔵をいぶかしむように見つめた。何を言っているのだ、この老人は。ひょっとするとぺてんか何かで、私を嵌めようとしているのではないのか。
「とつぜんこんな話を聞かされて、なるほどそうですか、というわけにもいきませんわな」
狛蔵はちょっと自嘲ぎみに口をゆがめたようである。
「ですが、それひとつでは、なんの意味もございません。その衿巻に加えていくつかそろえなくてはいけない品があります。それを集めていただきたいので」
無意識に、小源太は手で衿巻をぎゅっと握った。この老人が嘘をついているとは思わなかった。なんの変哲もない打掛を、かつて盗賊が狙っていたことを考えれば、もと打掛だったこの衿巻が宝の地図だという話もまんざら嘘ではないかもしれないと思える。
「必要な物は、この本来打掛だった梅の衿巻、一幅の掛軸、そしてふたつをつなぐ短歌でございます。衿巻はすでにここにございます。まずは、掛軸を手に入れていただきたい」
必死に人にすがりつくような、熱を帯びた目で、狛蔵は小源太を見つめた。
「人が一生かかっても使いきれないほどの財宝でございます。その半分を娘にやり、半分をあなた様にさしあげましょう」
「ごめんくだせえ」
どこかから、しゃがれた声が風に流されてきた。声は気のせいかと思えるほど小さく、小源太は自分を呼んだものとも思わなかったから、気にもとめずに立てつけの悪い戸を開けようと力を入れたが、もう一度、
「ごめんくだせえ」
と確かに聞こえた。
声のしたほうに首を回すと、いつの間にそこに立っていたのだろう、老人が小源太の後ろに、杖によりかかるようにして立っていた。老人の肌の色は今日の空を写したようにくすんでいて、頬は削ぎ落としたようにげっそりとこけ、目はこぼれ落ちそうなほどぎょろりとむき出しで、骨に皮がかろうじてからみついている体をして、立っているのもやっとといったふうであった。小源太は体ごと振り向いた。じっくりと見るまでもなく、これはいけない、と感じた。あきらかに、死神にとりつかれている。
灰色の髪は元結がゆるんでみじめに垂れていたし、月代はいつ手入れしたのかもわからぬほどぼさぼさであった。その瞳は濁っていたものの、いくばくかの精気をにじませて小源太を見つめていた。見つめる目つきは、刃物のように冷たく、おそらく若い頃は無頼の道を歩いていたに違いないと想像させた。
「栗栖様でございますな」
言葉づかいは丁寧だが、どこか、人を威圧するように老人が訊いた。意識して威圧しているわけではなさそうで、長年の癖がしみついたような抑揚であった。
小源太はうなずいた。
「そうだが、そなたは?」
「あっしは、浅草田原町の狛蔵というものでございます。栗栖様は人助けを生業にされていなさるそうで」
「おお、そうか、仕事の依頼かの。ささ、ここでは寒い、中に入ってくれ」
小源太は家に狛蔵を招き入れると、火鉢の灰の中から埋火を火箸で掘り起こして、
「さ、冷えたろう、当たってくれ」
と狛蔵の前に火鉢を押しやった。
「みたところ、体の具合がよくなさそうだが、浅草からだと、ずいぶん疲れたんじゃないのかな」小源太は、話の糸口をほぐすように訊いたが、
「いえそれほどでも」狛蔵はぽつりと答えただけだった。
どうも、あまり話し好きなほうではなさそうだ。
「して、依頼とはどのようなものかの」
話を振ってみたが、狛蔵は何から話そうか迷う様子で、小さく吐息をついた。
そうしてしばらくしてから、
「見ておさっしのとおり、あっしはもう先が長くありません」
どう返していいのかわからず、小源太はただうなずいた。
狛蔵はまた話すことを頭でまとめているのか、ふたたび口をつぐんだ。数回息をしてから、
「あっしも昔はずいぶんやさぐれた生き方をしてきたものでごぜえます。女房にも娘にも、ずいぶんつらく当たってめえりました。それで、死ぬ前に、詫びのかわりに娘に、ちっとは財産でも残しておきたいと思いつきました。しかしその財産というのを手に入れるのが、いささか面倒でしてな」
と狛蔵は、小源太が首からはずしてかたわらに無造作に置いた、梅柄の衿巻に目を落とした。
「その衿巻が必要なんです」
狛蔵の真意がつかめずに、小源太は小首をかしげた。狛蔵は続けた。
「その衿巻は、もとは打掛だったものでございましょう。富沢町の古手屋の持ち物だったはずです」
「さようだが……」
「それはですな」
と狛蔵はもったいぶるように、気持ちを落ち着けるように、また黙った。そうして、ひとつゆっくりと息をしてから、
「宝のありかを記した地図でございます」
小源太は狛蔵をいぶかしむように見つめた。何を言っているのだ、この老人は。ひょっとするとぺてんか何かで、私を嵌めようとしているのではないのか。
「とつぜんこんな話を聞かされて、なるほどそうですか、というわけにもいきませんわな」
狛蔵はちょっと自嘲ぎみに口をゆがめたようである。
「ですが、それひとつでは、なんの意味もございません。その衿巻に加えていくつかそろえなくてはいけない品があります。それを集めていただきたいので」
無意識に、小源太は手で衿巻をぎゅっと握った。この老人が嘘をついているとは思わなかった。なんの変哲もない打掛を、かつて盗賊が狙っていたことを考えれば、もと打掛だったこの衿巻が宝の地図だという話もまんざら嘘ではないかもしれないと思える。
「必要な物は、この本来打掛だった梅の衿巻、一幅の掛軸、そしてふたつをつなぐ短歌でございます。衿巻はすでにここにございます。まずは、掛軸を手に入れていただきたい」
必死に人にすがりつくような、熱を帯びた目で、狛蔵は小源太を見つめた。
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