56 / 93
第七章 正雪は微笑む
七の四
おみきという狛蔵の娘は馬喰町の裏店に住んでいた。
いらぬお節介だとは重重承知のうえで小源太はおみきに会いに来た。狛蔵から頼まれたわけではなかった。二十数年も離れ離れだったというが、たとえ険悪な仲だったとしても、父親が明日をも知れぬ命と知れば、娘としては会いたくなるのが肉親の情というものであろう。
小間物屋と八百屋の隙間を入っていくと、両側の長屋の軒が重なるほど狭い路地で、奥では何人かの子供がきゃっきゃ言いながら遊んでいて、中ほどの家から十五、六の娘がひとり出てきた。なにか中でけたたましく言い合っていたから、親と口論でもしていたのだろう。小源太はおみきの家を訊こうとしたが、娘はこちらを見てくすりと笑った。人を小馬鹿にしたような嫌な笑いかたであった。すれ違ってすぐに、
「女じゃないの、気持ち悪い」
聞こえよがしのつぶやきが聞こえてきた。男の侍ではないとわかり、完全にこちらを嘗めているのだ。
すぐに小源太は振り返ったが、娘はさっさと表通りへと出て行った。
その物言いに心が傷ついたというわけではなかった。ただ犬の糞でも踏んでしまったような、体が汚れたような不快さだけが尾を引くようであった。
折よく鬼ごっこをしている子供達がこちらに駆けてきたので、おみきの家を訊くと指をさして教えてくれた。今さっき嫌な娘が出てきた家である。
開けっ放しの入り口の前に立つと、
「なんだい、忘れ物かい」
すぐ脇の台所で昼餉の支度でもし始めたところだろう、娘が戻って来たと思ったようで、へっついの前でかがんでいた女が言った。
「ごめん、おみきさんの家はこちらかな」
小源太が問うと、驚いたようすで女が立ちあがった。
「なんだい、どなた様?」
作業を邪魔されてむっとしたというより、見知らぬ人間を端から悪人だと決めつけている口調だった。
「栗栖小源太という。おみきさんかね?」
「そうですけど、なにか御用?」
おみきは四十くらいで、いかにも生活に疲れた様子で髪もところどころ跳ねていたし、着ている着物もよれよれで、ところどころ継ぎがあたっていた。
「私は父御の狛蔵さんの知り合いでね」
狛蔵の名を聞いたとたん、おみきの眉間に皺が寄った。
「へっ、あのろくでなしとは、二十五年も会っちゃいないよ。今さら何の用だい」
「実はの、狛蔵さんはもう先が長くない。一度会ってやってはくれまいか」
おみきはちょっと驚いたような顔をした。次は当然悲しむものと思っていたが、おみきは笑い出した。
「は、ざまあないね。死にかけてるんだ。病気かい、事故かい?」
「なんでも胃に出来物があるそうだ」
「そう、胃の病気なの。せいぜい苦しんで、血へど吐いて地獄に落ちればいいわ」
「そうは申すがの、狛蔵さんも昔の狛蔵さんじゃあない。以前は放埓だったらしいが、今はただの病を得た老人だ」
「放埓?そんな生やさしい言葉じゃすまないね。あたしとおっかさんが、汗水流して稼いだ金を平気で持ち出して、博打と酒に使っちまう。酔っておっかさんを殴る、娘をひっぱたく、長屋のご近所さんと喧嘩はしょっちゅうだし、あいつがこさえた借金をおわされて、どれだけ苦労してきたか。やっとのことで、おっかさんとふたり、あいつのもとから逃げ出して、ああ、これでやっと楽に暮らせると思った矢先に、おっかさんは長年の苦労がいっぺんに出て、病気になってぽっくり逝っちまった。なにかあたしに詫びの一言でも言付かってきたんですか」
「いや、そういうわけではないが、しかし、血のつながった親子じゃないか」
「わかったこと言わないでもらいたいね、お侍さん。とっとと帰って、あのろくでなしに、死んでも私達にかかわるな、って伝えてくださいな」
おみきは、小源太の肩を押して、路地に追い出すと、ぴしゃりと戸をしめてしまった。
けんもほろろであった。取り付く島もないとはこういうことを言うのだろうか。
立ち尽くして、茫然と閉められた戸を見つめる小源太の後ろを、子供たちがきゃあきゃあ奇声を発しながら走りすぎていった。
余計なことをした、という気持ちになっていた。
こうなることがわかっていたから、狛蔵はおみきに連絡をとってくれとは言わなかったのかもしれない。
しかし、どういう種類の物かはわからないが、財宝が手に入ったら、それをおみきに渡してくれと依頼を受けているのだ。おみきは狛蔵を厭悪しているようだが、狛蔵のほうは前非を悔いているに違いない。
小源太は、病気に苛まれている狛蔵が、なにか憐れに思えてきたのだった。
いらぬお節介だとは重重承知のうえで小源太はおみきに会いに来た。狛蔵から頼まれたわけではなかった。二十数年も離れ離れだったというが、たとえ険悪な仲だったとしても、父親が明日をも知れぬ命と知れば、娘としては会いたくなるのが肉親の情というものであろう。
小間物屋と八百屋の隙間を入っていくと、両側の長屋の軒が重なるほど狭い路地で、奥では何人かの子供がきゃっきゃ言いながら遊んでいて、中ほどの家から十五、六の娘がひとり出てきた。なにか中でけたたましく言い合っていたから、親と口論でもしていたのだろう。小源太はおみきの家を訊こうとしたが、娘はこちらを見てくすりと笑った。人を小馬鹿にしたような嫌な笑いかたであった。すれ違ってすぐに、
「女じゃないの、気持ち悪い」
聞こえよがしのつぶやきが聞こえてきた。男の侍ではないとわかり、完全にこちらを嘗めているのだ。
すぐに小源太は振り返ったが、娘はさっさと表通りへと出て行った。
その物言いに心が傷ついたというわけではなかった。ただ犬の糞でも踏んでしまったような、体が汚れたような不快さだけが尾を引くようであった。
折よく鬼ごっこをしている子供達がこちらに駆けてきたので、おみきの家を訊くと指をさして教えてくれた。今さっき嫌な娘が出てきた家である。
開けっ放しの入り口の前に立つと、
「なんだい、忘れ物かい」
すぐ脇の台所で昼餉の支度でもし始めたところだろう、娘が戻って来たと思ったようで、へっついの前でかがんでいた女が言った。
「ごめん、おみきさんの家はこちらかな」
小源太が問うと、驚いたようすで女が立ちあがった。
「なんだい、どなた様?」
作業を邪魔されてむっとしたというより、見知らぬ人間を端から悪人だと決めつけている口調だった。
「栗栖小源太という。おみきさんかね?」
「そうですけど、なにか御用?」
おみきは四十くらいで、いかにも生活に疲れた様子で髪もところどころ跳ねていたし、着ている着物もよれよれで、ところどころ継ぎがあたっていた。
「私は父御の狛蔵さんの知り合いでね」
狛蔵の名を聞いたとたん、おみきの眉間に皺が寄った。
「へっ、あのろくでなしとは、二十五年も会っちゃいないよ。今さら何の用だい」
「実はの、狛蔵さんはもう先が長くない。一度会ってやってはくれまいか」
おみきはちょっと驚いたような顔をした。次は当然悲しむものと思っていたが、おみきは笑い出した。
「は、ざまあないね。死にかけてるんだ。病気かい、事故かい?」
「なんでも胃に出来物があるそうだ」
「そう、胃の病気なの。せいぜい苦しんで、血へど吐いて地獄に落ちればいいわ」
「そうは申すがの、狛蔵さんも昔の狛蔵さんじゃあない。以前は放埓だったらしいが、今はただの病を得た老人だ」
「放埓?そんな生やさしい言葉じゃすまないね。あたしとおっかさんが、汗水流して稼いだ金を平気で持ち出して、博打と酒に使っちまう。酔っておっかさんを殴る、娘をひっぱたく、長屋のご近所さんと喧嘩はしょっちゅうだし、あいつがこさえた借金をおわされて、どれだけ苦労してきたか。やっとのことで、おっかさんとふたり、あいつのもとから逃げ出して、ああ、これでやっと楽に暮らせると思った矢先に、おっかさんは長年の苦労がいっぺんに出て、病気になってぽっくり逝っちまった。なにかあたしに詫びの一言でも言付かってきたんですか」
「いや、そういうわけではないが、しかし、血のつながった親子じゃないか」
「わかったこと言わないでもらいたいね、お侍さん。とっとと帰って、あのろくでなしに、死んでも私達にかかわるな、って伝えてくださいな」
おみきは、小源太の肩を押して、路地に追い出すと、ぴしゃりと戸をしめてしまった。
けんもほろろであった。取り付く島もないとはこういうことを言うのだろうか。
立ち尽くして、茫然と閉められた戸を見つめる小源太の後ろを、子供たちがきゃあきゃあ奇声を発しながら走りすぎていった。
余計なことをした、という気持ちになっていた。
こうなることがわかっていたから、狛蔵はおみきに連絡をとってくれとは言わなかったのかもしれない。
しかし、どういう種類の物かはわからないが、財宝が手に入ったら、それをおみきに渡してくれと依頼を受けているのだ。おみきは狛蔵を厭悪しているようだが、狛蔵のほうは前非を悔いているに違いない。
小源太は、病気に苛まれている狛蔵が、なにか憐れに思えてきたのだった。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。