日日晴朗 ―異性装娘お助け日記―

優木悠

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第七章 正雪は微笑む

七の七

「こちらへ来ないか?」
 正雪とおぼしき男が言った。静かな声音で、どこか人に安心感をあたえるような、甘やかな響きがあった。そして、小源太は有無を考える暇もなく、自然と正雪に近づいた。
 だが、はたしてその脇に座っていいものかどうかわからず、小源太は立ちつくした。

「座るといい」
 正雪は前を見たまま言った。
「そう突っ立っていられたのでは、話もできん。酒はどうだ」
「呑めません」
「そうか。じゃあ勝手にやらせてもらうよ」
 正雪は盃を傾けて、流すように酒を口に含んだ。

 小源太は、横目で彼を見つつ、用心深く座った。真意が見抜けない。不意を打って斬りかかってくるかもしれない。

「これは何の絵だと思う?」
 唐突な正雪の問いに、小源太は困惑した。
 ふたりの目の前にある床の間に掛けられた掛軸の絵は、池の畔に立つ鷺が向こう岸に咲く桜を眺めている、それだけの絵で、ほとんど墨だけの地味な色味で、桜だけ淡く薄紅色に色が付けてあった。鷺にはうっすらとぼかしたような墨が塗られているので青鷺だろうと思われる。
 正雪の問いは、そんな表層的なことを訊いているのではないだろう。深淵な意味が込められているのではあるまいか。例えるなら頓智とか禅の問答のような問いなのではないかと、小源太には思えたのだった。
 正雪は、横目でちらと小源太を見た。戸惑う小源太を面白がってでもいるのだろうか。

「これは凡庸な絵だ」正雪はまた絵に目を戻した。「知り合いに狩野探幽かのう たんゆうという男がいるが、これを見せたところ、即座に三文の値打ちもないと言い捨てた。描いた絵師は凡人よりはましだが、玄人には遠く及ばない、鍋敷きにでもしろと言う。だが、一流の絵師からみれば取るに足らない落書きでも、必要な人間にとっては三千両の価値のある絵だ。絵も人間も同じだな。無能と切り捨ててしまうのは簡単だが、才能を見抜いてやりさえすれば、その人間も活きてくる」
「さあ、私には絵の価値はなんとも判断しかねます」
「ふふふ、そうかな」と正雪は、また何か含みを持たせたような調子で言った。
 ひょっとすると、小源太が財宝を探すためにこの絵を見に来たことを、正雪は気づいているのではないだろうか。

 小源太は絵を眺めつつ、正雪を観察した。
 彼の横顔は、ちらちらと揺れる灯を受けて、暗闇に浮かんでいる。
 細面で総髪を背に垂らし、四十半ばとはとても思えぬつやのある白皙の表皮、切れ長の目は三白で、つんと尖った鼻をして薄い唇をわずかに歪めている。背丈は立ち上がれば六尺近くはありそうだ。線が細いように見えるが、しかし、筋肉が骨にみっしりと巻きついているだろう、引き締まった印象を受ける体つきである。着物を脱げばおそらく野生の鹿のような総身であろう。その目に宿る光は深く、体には重厚な空気をまとっていた。底の見えない湖のように深い思慮と、地平線まで広がる草原のように広大な心を持った人間に思えた。その辺にいる凡夫とはまるで人間の質が違うと見ているだけで思える。

「金井や丸橋は、貴公のことを、蝙蝠小町などと奇妙なあだ名で呼ぶ。今日も着ているが、いつも蝙蝠羽織を着ているからそう名付けたのだそうだな。それはおかしいと言ったのだ。なんとか小町というあだ名は、ふつう地名をつけるものだ。日本橋小町とか、神田小町とか。蝙蝠小町などという言い方は言葉の誤用だ、間違いだ。そう言ったのに、金井達はこう返してきた。あんたは学問のしすぎだ、知識が多すぎて頭が固くなってしまった、もっと頭を柔らかくして融通をきかせるようにしなくてはいけない、でないと肝心な時につまずくぞ。そんな反論をこねるばかりで、あの者共は反省しない。困ったものだ」
「は、はあ、私は、どう呼ばれようと気にもしていませんでしたが」
「ふふふ、鷹揚なものだ」
 正雪はまた酒をすすった。

 しばらく、沈黙だけがふたりの間にあった。

 そうして、掛軸の図柄を頭に入れた頃、小源太は滑ってさがり、正雪に深く頭をさげた。
「絵を拝見したく、夜分、勝手にお屋敷にあがり、大変申し訳ありませんでした。ご容赦のほど願います」
 小源太はこういうかしこまった物言いは苦手だったから、ついたどたどしい口調になった。
 正雪はわずかに首を動かして、横目でこちらを見て、
「かまわんよ」とほほ笑んで言った。「いつか来るだろうと思っていた。来なければ招くつもりでもいた。気にしなくていい」
 小源太は頭をさげたまま下がった。
「栗栖小源太、大義のため、我らと共に働いてくれるとうれしい」
 そう言った正雪に、答えを返さずに廊下に出ると、小源太はそっと戸を閉めた。正雪は答えを望んでいるふうではなかったし、即答できる言葉でもなかった。
 立ちあがると、脇や背中から、どっと汗が流れ落ちた。
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