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第七章 正雪は微笑む
七の八
屋敷に入った縁側まで戻って、草履を履いて歩き出した小源太は、ぎょっとして立ちどまった。
屋敷のかどのところに、黒い影が彫像のように、何の精気も感じさせず立っていた。
小源太は、その不気味な何かに、数歩、思わず後ずさりした。
影が足音もさせず、動いた。軒下から出た影を月が照らし、そこでやっと影の正体が人間であるとわかった。
――貝守八惣次……。
であった。
貝守は表情のない能面のような顔をして、無言で腰の刀を引き抜いた。刃がきらりと月明かりをはじいた。背筋が寒くなるような冷たい光であった。
小源太は鞘に手を当てて、いつでも刀を抜ける構えで言った。
「待ってくれ」
そうは言ってみたものの、貝守が納得してくれる言いわけがとっさに思いつかなかった。すでに由井正雪に謝ったものの、夜中に屋敷に侵入した後ろめたさは、小源太のなかで消えたわけではなかった。
片手に刀をさげた貝守は、するすると滑るように間合いを詰めてくる。
もう一寸ばかりで刀の間合いに入る。
と、
「やめんか、貝守」
貝守の後ろのほうから声が聞こえた。声の主は足早に近づいてくる。
「栗栖小源太は先生の客人だ。はやまるな」
顔を見るまでもなく、小源太には声でわかった。金井半兵衛であった。都合よく現れてくれた。いや、ひょっとするとずっと小源太を見張っていたのではなかろうか、という疑念が小源太の脳裏をかすめた。
貝守は、小源太に対する警戒をゆるめず、そっと振り向いて金井であることを確かめた。そうしてちょっと頭をさげると、刀を納めつつ、後ろさがりに庭の端に寄った。
金井が小源太にうなずいて合図を送ったのを機に、小源太は金井に頭をさげ、その場を去った。
通りすぎる時、貝守の視線が針のように小源太に刺さった。
翌日の夕方、狛蔵の家に行くと、声をかけても返事がなく、戸を開けて勝手に入っていくと、狛蔵は筵のうえに仰向けに寝転がっていた。
小源太はまさかと思った。息をしている様子がなかった。側までいくと彼に顔を近づけた。ほっと小源太は吐息をついた。浅く小さかったが、息をしていた。五日ばかり会わなかっただけだが、急速に生命が抜けているように見える。狛蔵は何日か寝ていれば回復するようなことを言っていたが、予想どおりにはいかなかったようだ。人の最期の時というのはこうしたものなのだろうか。
小源太の気配をさっしたのか、狛蔵が目を開き、うつろで、瞳の色が抜けたような目で小源太をみつめた。そうして何度かまばたきをし、何かをもごもごと言うのだが、まったく不明瞭であった。小源太は狛蔵の口に耳を近づけた。何日も口をすすいでいない病人の、鼻の奥に刺さるような息の匂いがする。
「なんだって、棚の、箱を取ってくればいいのか?」
小源太の問いに、狛蔵はわずかに首を縦に動かしたようだ。
竃の横の壁にしつらえられた棚には、茶碗や湯呑みが並んでいて、その端に、両手の手のひらをひらいて並べたほどの大きさの木箱が置いてあった。蓋がなく、横長の枡のような感じだ。
狛蔵の側までもどって座ると、小源太は、
「これがなんだと言うんだい?」
なかから、折りたたまれた紙を取り出した。箱には数枚の紙が入っていて、これが一番大きいものだった。
開いてみると、二尺四方ほどの大きさで、城を中心に江戸の地形、海岸線、川、そして、細かい点が無数に記されている。
次にひらいた紙は、短冊状の細長い紙で、狛蔵が書いたのだろうか、あまりうまくない字で、短歌のようなものが書かれてあった。
鷺まぼる 池の彼方の花霞 紺珠の啼声 船底で鳴る
詩歌の知識のない小源太が読んでも、たいした歌ではないと思える。
狛蔵がまだなにか言っている。
「もうひとつ?」
さらに箱のなかに、底にへばりつくように小さな紙があった。これも折りたたまれていて、ひらいてみると、縫針が一本だけ包まれいていた。
地図と、短歌と、針。
「このみっつをどうすればいいんだ?」
「梅の打掛、鷺の掛軸、歌、地図と針、すべてを合わせろ」
狛蔵は残りすべての生命力を振り絞るようにして言った。言い終わった狛蔵は目を閉じ、落とし穴に落ちるように眠りについた。
小源太は、ずれた綿入れを掛け直してやった。
そうしてもう一度つぶやいた。
「いったいこれらをどう合わせろと言うんだ」
集められた品品には狛蔵の執念が宿ってでもいるかのように感じられる。
狛蔵はもう答えはしなかった。このまま目を覚ますことはないだろうと思えるような眠りかたであった。三途の川はまだ遥か先にあると思っていたのに、狛蔵はいつの間にか土手を滑り落ち河原を駆けていた。
日が暮れてゆくとともに、影がさびしく部屋を支配していく。まるで狛蔵の命の行方を暗示しているようであった。
(第七章 おしまい)
屋敷のかどのところに、黒い影が彫像のように、何の精気も感じさせず立っていた。
小源太は、その不気味な何かに、数歩、思わず後ずさりした。
影が足音もさせず、動いた。軒下から出た影を月が照らし、そこでやっと影の正体が人間であるとわかった。
――貝守八惣次……。
であった。
貝守は表情のない能面のような顔をして、無言で腰の刀を引き抜いた。刃がきらりと月明かりをはじいた。背筋が寒くなるような冷たい光であった。
小源太は鞘に手を当てて、いつでも刀を抜ける構えで言った。
「待ってくれ」
そうは言ってみたものの、貝守が納得してくれる言いわけがとっさに思いつかなかった。すでに由井正雪に謝ったものの、夜中に屋敷に侵入した後ろめたさは、小源太のなかで消えたわけではなかった。
片手に刀をさげた貝守は、するすると滑るように間合いを詰めてくる。
もう一寸ばかりで刀の間合いに入る。
と、
「やめんか、貝守」
貝守の後ろのほうから声が聞こえた。声の主は足早に近づいてくる。
「栗栖小源太は先生の客人だ。はやまるな」
顔を見るまでもなく、小源太には声でわかった。金井半兵衛であった。都合よく現れてくれた。いや、ひょっとするとずっと小源太を見張っていたのではなかろうか、という疑念が小源太の脳裏をかすめた。
貝守は、小源太に対する警戒をゆるめず、そっと振り向いて金井であることを確かめた。そうしてちょっと頭をさげると、刀を納めつつ、後ろさがりに庭の端に寄った。
金井が小源太にうなずいて合図を送ったのを機に、小源太は金井に頭をさげ、その場を去った。
通りすぎる時、貝守の視線が針のように小源太に刺さった。
翌日の夕方、狛蔵の家に行くと、声をかけても返事がなく、戸を開けて勝手に入っていくと、狛蔵は筵のうえに仰向けに寝転がっていた。
小源太はまさかと思った。息をしている様子がなかった。側までいくと彼に顔を近づけた。ほっと小源太は吐息をついた。浅く小さかったが、息をしていた。五日ばかり会わなかっただけだが、急速に生命が抜けているように見える。狛蔵は何日か寝ていれば回復するようなことを言っていたが、予想どおりにはいかなかったようだ。人の最期の時というのはこうしたものなのだろうか。
小源太の気配をさっしたのか、狛蔵が目を開き、うつろで、瞳の色が抜けたような目で小源太をみつめた。そうして何度かまばたきをし、何かをもごもごと言うのだが、まったく不明瞭であった。小源太は狛蔵の口に耳を近づけた。何日も口をすすいでいない病人の、鼻の奥に刺さるような息の匂いがする。
「なんだって、棚の、箱を取ってくればいいのか?」
小源太の問いに、狛蔵はわずかに首を縦に動かしたようだ。
竃の横の壁にしつらえられた棚には、茶碗や湯呑みが並んでいて、その端に、両手の手のひらをひらいて並べたほどの大きさの木箱が置いてあった。蓋がなく、横長の枡のような感じだ。
狛蔵の側までもどって座ると、小源太は、
「これがなんだと言うんだい?」
なかから、折りたたまれた紙を取り出した。箱には数枚の紙が入っていて、これが一番大きいものだった。
開いてみると、二尺四方ほどの大きさで、城を中心に江戸の地形、海岸線、川、そして、細かい点が無数に記されている。
次にひらいた紙は、短冊状の細長い紙で、狛蔵が書いたのだろうか、あまりうまくない字で、短歌のようなものが書かれてあった。
鷺まぼる 池の彼方の花霞 紺珠の啼声 船底で鳴る
詩歌の知識のない小源太が読んでも、たいした歌ではないと思える。
狛蔵がまだなにか言っている。
「もうひとつ?」
さらに箱のなかに、底にへばりつくように小さな紙があった。これも折りたたまれていて、ひらいてみると、縫針が一本だけ包まれいていた。
地図と、短歌と、針。
「このみっつをどうすればいいんだ?」
「梅の打掛、鷺の掛軸、歌、地図と針、すべてを合わせろ」
狛蔵は残りすべての生命力を振り絞るようにして言った。言い終わった狛蔵は目を閉じ、落とし穴に落ちるように眠りについた。
小源太は、ずれた綿入れを掛け直してやった。
そうしてもう一度つぶやいた。
「いったいこれらをどう合わせろと言うんだ」
集められた品品には狛蔵の執念が宿ってでもいるかのように感じられる。
狛蔵はもう答えはしなかった。このまま目を覚ますことはないだろうと思えるような眠りかたであった。三途の川はまだ遥か先にあると思っていたのに、狛蔵はいつの間にか土手を滑り落ち河原を駆けていた。
日が暮れてゆくとともに、影がさびしく部屋を支配していく。まるで狛蔵の命の行方を暗示しているようであった。
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