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第八章 秘剣弓弦断ち
八の三
小源太が通された部屋は、庭に面した客間であった。
由井正雪の屋敷の庭は、以前来た時は夜中で暗かったから何もわからなかったが、ずいぶん質素なしつらえであった。別段の凝った意匠もなく、ただ綺麗にならした地面に大小の岩が数個置かれて端に松や梅の木が植えられているだけである。その向こうには塀などなく、講堂に通じる渡り廊下や、別の建物が見える。
午後の日の、暖かな色味に染まる静かな景色を眺めつつ小源太は待ったが、さほど待たされることもなく、由井正雪は現れた。
「急に呼び出してすまなかった」
そっと小源太の前に座るなり、正雪は言った。
「頼みがあって来てもらった。ことがことだけに急を要する。だが、まあ日が明るいうちは大丈夫だとは思うのだが」
喋ろうとすることをまとめるようにひと息おいてから、正雪は続けた。
「北町奉行所の香流という同心を存じておるな」
「はい」
「その者の命が狙われている。狙うのは、貝守八惣次だ」
小源太ははっとして正雪を見つめた。おそらく香流を貝守から守れ、という話なのだろう。
「なぜ、貝守殿は香流殿の命を狙うのですか」小源太は訊いた。
「うむ。最初は、香流殿が我ら張孔堂を内偵しはじめたことからはじまった。我らも痛くもない腹をさぐられては面白くはない。過激な何人かの者達が、香流殿を斬ろうなどと息巻いていたが、実際行動に移す者はなかった。だが、貝守が動いた」
「しかし、こう申しましてはなんですが、そちらから香流殿に人を遣わして警告なり護衛なりすればよろしかったのではないですか」
「もちろん人をやって、我ら張孔堂ということは伏せて香流殿に伝えたが、鼻で笑って真面目に受け取らなかったそうだ。護衛をつけると提案したとしても、知らぬ顔の人間に護衛されるなど、彼の自尊心が許さぬだろう」
確かにそうだ、と小源太は思った。高慢で自信家の香流の顔が目に浮かんだ。あの男が、見ず知らずの、ましてや今探索をしている組織の人間の庇護を受けるなど、けっしてないだろう。
「そこで、貴公に来てもらった。貴公なら、香流殿の顔も、貝守の顔も知っておる。腕も立つ。香流殿も貴公なら護衛を許してくれるかもしれない」
「貝守殿を捕らえればよろしいのですね」
「いや、無理だろう」
「は?」
「斬ってくれ」
小源太は唖然とした。正雪の口から、配下の命を奪えなどという言葉を聞こうとは思わなかった。
「貴公も、貝守の腕は知っておろう。下手に命を助けようなどと甘い考えで向かっては、貴公の命があやうい」
「は……」
「私もつらいのだ。貝守はけっして悪い人間ではない。いや、生来、真面目過ぎるほど真面目な男だ。真面目で優しい男だ。だが、あの者の風貌を知っていよう。貝守は何も悪くはないのに、世間はあの者をはなから不気味な人間と見て、やることなすこと悪く受け取る。例えれば、貝守は人が落とした財布を拾っただけなのに、見ていた者達は着服すると決めつける、という具合だ。貝守も人と交わり自分を変えようとはしていたが、周囲の者がそれを認めない。世間が貝守を疎外し、貝守自身も世間を嫌いはじめてしまった。そうなっては互いの溝が深まり、嫌悪や憎悪がどんどん増していく。悪循環だな」
小源太は身に染みるような気持ちだった。小源太も悪いことは何もしていないのに、男の身なりをしているというだけで毛嫌いしてくる人間に、何度も出会った。幸いなことに、小源太の周りには、小源太を受け入れてくれる世間があった。もし、誰も小源太を認めてくれなければ、ぐれた人生を歩んでいたかもしれない。
「周りから疎んじられる人間が、周りを見かえそうと発奮するのは、当然の心の動きだろう。だが、貝守は方途を間違えた。助けられるものなら助けてやりたいが、難しいだろう。手の空いている者には貝守を捜させている。我らの依頼であることは伏せ、貴公は、香流殿を護衛して欲しい」
「かしこまりました」
「張孔堂の者が公儀の者を斬っては、我ら全員が窮地に追い込まれかねない。香流殿だけでなく、我らに疑念を持つ者達は少なくないからな」
何の気なしについ口から漏れ出たような調子の声音だった。その正雪の物言いに、小源太はちょっと嫌な気分がきざした。それでは、組織を守るためなら、人ひとりを切り捨てることを躊躇しないと言っているようなものだ。
由井正雪の屋敷の庭は、以前来た時は夜中で暗かったから何もわからなかったが、ずいぶん質素なしつらえであった。別段の凝った意匠もなく、ただ綺麗にならした地面に大小の岩が数個置かれて端に松や梅の木が植えられているだけである。その向こうには塀などなく、講堂に通じる渡り廊下や、別の建物が見える。
午後の日の、暖かな色味に染まる静かな景色を眺めつつ小源太は待ったが、さほど待たされることもなく、由井正雪は現れた。
「急に呼び出してすまなかった」
そっと小源太の前に座るなり、正雪は言った。
「頼みがあって来てもらった。ことがことだけに急を要する。だが、まあ日が明るいうちは大丈夫だとは思うのだが」
喋ろうとすることをまとめるようにひと息おいてから、正雪は続けた。
「北町奉行所の香流という同心を存じておるな」
「はい」
「その者の命が狙われている。狙うのは、貝守八惣次だ」
小源太ははっとして正雪を見つめた。おそらく香流を貝守から守れ、という話なのだろう。
「なぜ、貝守殿は香流殿の命を狙うのですか」小源太は訊いた。
「うむ。最初は、香流殿が我ら張孔堂を内偵しはじめたことからはじまった。我らも痛くもない腹をさぐられては面白くはない。過激な何人かの者達が、香流殿を斬ろうなどと息巻いていたが、実際行動に移す者はなかった。だが、貝守が動いた」
「しかし、こう申しましてはなんですが、そちらから香流殿に人を遣わして警告なり護衛なりすればよろしかったのではないですか」
「もちろん人をやって、我ら張孔堂ということは伏せて香流殿に伝えたが、鼻で笑って真面目に受け取らなかったそうだ。護衛をつけると提案したとしても、知らぬ顔の人間に護衛されるなど、彼の自尊心が許さぬだろう」
確かにそうだ、と小源太は思った。高慢で自信家の香流の顔が目に浮かんだ。あの男が、見ず知らずの、ましてや今探索をしている組織の人間の庇護を受けるなど、けっしてないだろう。
「そこで、貴公に来てもらった。貴公なら、香流殿の顔も、貝守の顔も知っておる。腕も立つ。香流殿も貴公なら護衛を許してくれるかもしれない」
「貝守殿を捕らえればよろしいのですね」
「いや、無理だろう」
「は?」
「斬ってくれ」
小源太は唖然とした。正雪の口から、配下の命を奪えなどという言葉を聞こうとは思わなかった。
「貴公も、貝守の腕は知っておろう。下手に命を助けようなどと甘い考えで向かっては、貴公の命があやうい」
「は……」
「私もつらいのだ。貝守はけっして悪い人間ではない。いや、生来、真面目過ぎるほど真面目な男だ。真面目で優しい男だ。だが、あの者の風貌を知っていよう。貝守は何も悪くはないのに、世間はあの者をはなから不気味な人間と見て、やることなすこと悪く受け取る。例えれば、貝守は人が落とした財布を拾っただけなのに、見ていた者達は着服すると決めつける、という具合だ。貝守も人と交わり自分を変えようとはしていたが、周囲の者がそれを認めない。世間が貝守を疎外し、貝守自身も世間を嫌いはじめてしまった。そうなっては互いの溝が深まり、嫌悪や憎悪がどんどん増していく。悪循環だな」
小源太は身に染みるような気持ちだった。小源太も悪いことは何もしていないのに、男の身なりをしているというだけで毛嫌いしてくる人間に、何度も出会った。幸いなことに、小源太の周りには、小源太を受け入れてくれる世間があった。もし、誰も小源太を認めてくれなければ、ぐれた人生を歩んでいたかもしれない。
「周りから疎んじられる人間が、周りを見かえそうと発奮するのは、当然の心の動きだろう。だが、貝守は方途を間違えた。助けられるものなら助けてやりたいが、難しいだろう。手の空いている者には貝守を捜させている。我らの依頼であることは伏せ、貴公は、香流殿を護衛して欲しい」
「かしこまりました」
「張孔堂の者が公儀の者を斬っては、我ら全員が窮地に追い込まれかねない。香流殿だけでなく、我らに疑念を持つ者達は少なくないからな」
何の気なしについ口から漏れ出たような調子の声音だった。その正雪の物言いに、小源太はちょっと嫌な気分がきざした。それでは、組織を守るためなら、人ひとりを切り捨てることを躊躇しないと言っているようなものだ。
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