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第八章 秘剣弓弦断ち
八の四
日本橋通はずいぶんな人の波であった。
まだ日暮れまでには間があったが、それでも日が落ちる前に家に帰り着きたいと急ぎ足に通りを歩く者達が、通りを埋め尽くしていた。
小源太はその人いきれでむせるような通りを南へ向かって歩いていた。
直接北の番所(北町奉行所)に行って香流を呼び出すのははばかられたから、小源太は香流が町に出てきた頃合いを見計らって、彼を捕まえることにした。今の時間は番所に詰めている可能性が高いから、暮れ六つ(午後六時)くらいに城をさがる香流を、城門の前で待ち伏せようと考えていた。
それまでには一刻ばかり余裕があったから、ともかく町を歩いて、貝守を見つけられるならば見つけたかった。
由井正雪はああ言ったが、小源太には貝守八惣次を助けたい気持ちが胸中にあった。それも、相当な割合をしめるほど大きなものだった。八惣次には数回会っただけだが、不気味に思えた最初の印象をぬぐって、曇りのない目で見れば、そんな悪い人間には思えないし、以前由井正雪の屋敷に潜入した小源太を斬ろうとしたのも、悪意からではなく、警備役としての責任感からだろう。だいいち小源太は彼が悪事を働いているとか、人を苛んでいるとかいう場面を見たことがないのだ。けっして悪人と決めつけられるものではなかった。
京橋が見えるころだった、人波の流れる通りを、人足が引く(中身はなんだろう)樽を山積みに乗せた大八車が人を押しのけるようにして南からこちらのほうに向けて走ってきた。
人波が割れ、割れた人人が通りの脇に向かっていっせいに押し寄せるものだから、人ごみを避けて店の軒下を歩いていた町人の老婆が、押されてころんだ。
通りの反対側から、人ごみの向こうに木の間隠れのようにそれを見た小源太であったが、人が多すぎるものだから、とっさには助けに向かうこともできない。
と、その老婆を助け起こす牢人風の侍がいた。
貝守八惣次であった。
貝守は老婆を助け起こすと、すぐに太物店のかどを曲がって消えていった。
小源太は彼の消えた道を注意深く見つめながら、人の川を渡った。人を押しのけ、肩をぶつけて舌打ちをされながら、通りの反対側まで来たが、ずいぶん時間がかかってしまった。
貝守が姿を消した道に踏み入ったが、すでに貝守は影すらみえない。
道は東にのびていた。
小走りに走って行くと、すぐに舟入堀の端に突き当たった。
舟入堀は、楓川から垂直に掘られた入堀で、それが日本橋から京橋までの区域に、長短合わせて九本もずらりと引かれている。小源太がいるのはその舟入堀の一番南の堀のどん詰まりであった。
入堀の周辺は大通りほどの人影はなく、見渡すと半町(五十メートル)ほど向こうの堀沿いの道を貝守は歩いていた。
小源太は走った。
三間(五メートル)ばかりに貝守の背が迫ったところで、小源太はその影がまとわりついたような陰気な背中に向けて呼びかけた。
「貝守さん」
小源太の声を聞いて、貝守はすぐに足をとめて振り返った。
足を止め、小源太は言った。
「貝守さん、張孔堂に戻りましょう」
貝守は小源太を無表情に見つめた。影の膜が張ったような暗い瞳で、意思を感じさせないじっとりとした目つきであった。
「由井先生も、香流同心を斬ることなど望んでいません。彼を斬ることなどあきらめて、いっしょに帰りましょう」
貝守の手がそっと動いて、刀の鞘をつかんだ。小源太は背筋が寒くなるような思いで、一歩後ずさった。
道を往来する町人達が何事かという顔をして通り過ぎて行く。
人通りのある道で、斬り合いをするつもりはないのだろう。貝守は身をひるがえして、さっと走り出した。
小源太はすぐに後を追ったが、貝守は入堀にかかる橋を南へと渡り、町並みのなかに姿を消した。
町並みは迷路のように入りくんでいて、貝守の姿はまるでみつからず、捜しているうちに道に迷いかけてしまった。
諦めるしかなさそうだと、小源太はまた大通りへと出、当初の予定どおり、香流の護衛をすべく、北の番所のある常盤橋へと向かった。
「やはり、貝守さんと闘わなくてはいけないのか」
貝守を斬る気持ちは、彼が老婆を助けたのを見て、水に溶けていくようにさらに薄まっていた。
まだ日暮れまでには間があったが、それでも日が落ちる前に家に帰り着きたいと急ぎ足に通りを歩く者達が、通りを埋め尽くしていた。
小源太はその人いきれでむせるような通りを南へ向かって歩いていた。
直接北の番所(北町奉行所)に行って香流を呼び出すのははばかられたから、小源太は香流が町に出てきた頃合いを見計らって、彼を捕まえることにした。今の時間は番所に詰めている可能性が高いから、暮れ六つ(午後六時)くらいに城をさがる香流を、城門の前で待ち伏せようと考えていた。
それまでには一刻ばかり余裕があったから、ともかく町を歩いて、貝守を見つけられるならば見つけたかった。
由井正雪はああ言ったが、小源太には貝守八惣次を助けたい気持ちが胸中にあった。それも、相当な割合をしめるほど大きなものだった。八惣次には数回会っただけだが、不気味に思えた最初の印象をぬぐって、曇りのない目で見れば、そんな悪い人間には思えないし、以前由井正雪の屋敷に潜入した小源太を斬ろうとしたのも、悪意からではなく、警備役としての責任感からだろう。だいいち小源太は彼が悪事を働いているとか、人を苛んでいるとかいう場面を見たことがないのだ。けっして悪人と決めつけられるものではなかった。
京橋が見えるころだった、人波の流れる通りを、人足が引く(中身はなんだろう)樽を山積みに乗せた大八車が人を押しのけるようにして南からこちらのほうに向けて走ってきた。
人波が割れ、割れた人人が通りの脇に向かっていっせいに押し寄せるものだから、人ごみを避けて店の軒下を歩いていた町人の老婆が、押されてころんだ。
通りの反対側から、人ごみの向こうに木の間隠れのようにそれを見た小源太であったが、人が多すぎるものだから、とっさには助けに向かうこともできない。
と、その老婆を助け起こす牢人風の侍がいた。
貝守八惣次であった。
貝守は老婆を助け起こすと、すぐに太物店のかどを曲がって消えていった。
小源太は彼の消えた道を注意深く見つめながら、人の川を渡った。人を押しのけ、肩をぶつけて舌打ちをされながら、通りの反対側まで来たが、ずいぶん時間がかかってしまった。
貝守が姿を消した道に踏み入ったが、すでに貝守は影すらみえない。
道は東にのびていた。
小走りに走って行くと、すぐに舟入堀の端に突き当たった。
舟入堀は、楓川から垂直に掘られた入堀で、それが日本橋から京橋までの区域に、長短合わせて九本もずらりと引かれている。小源太がいるのはその舟入堀の一番南の堀のどん詰まりであった。
入堀の周辺は大通りほどの人影はなく、見渡すと半町(五十メートル)ほど向こうの堀沿いの道を貝守は歩いていた。
小源太は走った。
三間(五メートル)ばかりに貝守の背が迫ったところで、小源太はその影がまとわりついたような陰気な背中に向けて呼びかけた。
「貝守さん」
小源太の声を聞いて、貝守はすぐに足をとめて振り返った。
足を止め、小源太は言った。
「貝守さん、張孔堂に戻りましょう」
貝守は小源太を無表情に見つめた。影の膜が張ったような暗い瞳で、意思を感じさせないじっとりとした目つきであった。
「由井先生も、香流同心を斬ることなど望んでいません。彼を斬ることなどあきらめて、いっしょに帰りましょう」
貝守の手がそっと動いて、刀の鞘をつかんだ。小源太は背筋が寒くなるような思いで、一歩後ずさった。
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人通りのある道で、斬り合いをするつもりはないのだろう。貝守は身をひるがえして、さっと走り出した。
小源太はすぐに後を追ったが、貝守は入堀にかかる橋を南へと渡り、町並みのなかに姿を消した。
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諦めるしかなさそうだと、小源太はまた大通りへと出、当初の予定どおり、香流の護衛をすべく、北の番所のある常盤橋へと向かった。
「やはり、貝守さんと闘わなくてはいけないのか」
貝守を斬る気持ちは、彼が老婆を助けたのを見て、水に溶けていくようにさらに薄まっていた。
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