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第八章 秘剣弓弦断ち
八の五
京橋へ向かって大通りを歩いていると、不意に貝守八惣次の目の前で老婆が人に押されて転んだ。通りを大八車が駈けて行ったせいだろう。目の前で転んだものだから、八惣次は体が無意識に動いて、老婆を助け起こした。
「おお、痛い痛い」
そんな苦痛の声をあげながら老婆は立ちあがったが、骨が折れたとか肌を擦りむいたとかいうこともなさそうだった。
老婆はずいぶん八惣次に感謝して、頭を下げ下げ去って行った。
良いことをしたという気持ちよさが八惣次に湧いた。意識的に良いことをしようと思ったわけでなく、体が勝手に動いただけだったが、それでも人を助けるということは気持ちが良いものだ。
これから、人を斬りに行くのが、なにかひどく馬鹿馬鹿しく思えてくるくらい、八惣次の心は温かいもので満たされていた。
八惣次は道を折れて、東へと向かうと急に人は少なくなり、歩を進めるごとに喧騒が遠ざかっていくようだった。
だが、人を助けた気持ちよさも、栗栖小源太が現れたことによって、たちまち霧散した。
その時、ここでこの女を斬ってやろうという気が八惣次の胸によぎった。
栗栖は斬るべきだ、と八惣次は以前から思っていた。こいつは張孔堂に仇なす女だ。以前、屋敷に侵入した栗栖を八惣次が斬ろうとして正雪がとめた時、命令を無視しても斬るべきだった。
だが、人の目があったせいもあって、今度も八惣次は斬らずに逃げた。
そうして栗栖の追跡を振り切ったものの、栗栖が建物のかどから出てくるのではないかと絶えず気を張りながらしばらく町をうろうろし、夕闇がだんだんと迫ってきたころ、楓川に沿って、櫛の歯のようにならんだ舟入堀をいくつも渡って、日本橋区域の北東までやってきた。入堀の周りでは、材木が詰まれたり立て並べられていて、人足達がまだ忙しそうに立ち働いていた。
香流という同心がこの道を帰ってくるとは限らないのだが、北町奉行所から八町堀までの道筋を考えれば、この道を通る可能性は高いように思えた。
相手が来るまで、さて、どこで待ち伏せようかと八惣次は周囲を見渡すと、ちょうど具合よく魚屋と海苔屋の間に路地があった。
八惣次は路地に身を滑り込ませた。人がふたりすれ違うのがやっとの道の幅である。
ここなら北の道にも南の道にも注意できるし、人目も避けられた。
だが、香流が帰ってくると思われる日暮れまでは、まだ時間があったから、このまま待つか、この辺りを逍遥して暇をつぶすか、どうしようかとちょっと迷った。迷っているところに、かどを曲がって町人の女が路地に入ってきた。歳は二十なかばくらいだろう、その女は、八惣次をじろりと見るとすぐに身を翻して、表の通りへと足を戻した。
女からすれば、人けのない道で、見知らぬ男とすれ違いたくなかっただけなのかもしれないが、八惣次はまるで自分が気味悪がられたように思えて、心のどこかをえぐられたような気分だった。
もちろん、八惣次にその女を襲うような気持ちはなかったが、女のほうは八惣次のことを、女を襲うような男にみえたのではないのか。それは八惣次の邪推だとは思うが、心にいったんついた傷が、すぐにふさがるわけでもなかった。
――俺が何をしたというのか。何もしていない、ただここにいただけだ。それなのに俺を忌み嫌うのか……。
昼間、人を助けて得られた心地よさを、栗栖と今の女に無惨に踏みにじられたようだった。
こんな場所で待つのではなかった、と後悔の念が襲ってきた。道を歩いていたほうが人に怪しまれることもないだろう。八惣次は路地を出て歩き始めた。
東の空はもう黒く色味を失っていて、西の空は群青色の空に赤く色づいた雲が浮かんでいた。
まるで今の自分の心が映し出されたような暗い空だった。
八惣次は陰鬱な心を引きずるように歩き始めた。
さっきの女の、八惣次を見た時の目が焼き付いたように脳裏から消えなかった。張孔堂の連中もあの女も同じ目をしていた。八惣次をあなどり、見下し、毛嫌いする目であった。
必ず同心を斬ってやるという気が湧いてきた。是が非でも斬らねばならぬ。
同心を斬れば、俺はひとまわり成長でき自信にもなるだろう。そうなれば、張孔堂の連中ばかりではない、さっきの女のように、嫌悪の眼差しを向ける者もいなくなるに違いない。
――斬ってやる、斬ってやる。
八惣次の目は異様にまなじりが吊り上がり、眉間には暗い影がまとわりつき、その目で見る景色は吐き気がするほど穢れているように思えた。
暗い闇に沈んでいく町を、八惣次は歩いた。
「おお、痛い痛い」
そんな苦痛の声をあげながら老婆は立ちあがったが、骨が折れたとか肌を擦りむいたとかいうこともなさそうだった。
老婆はずいぶん八惣次に感謝して、頭を下げ下げ去って行った。
良いことをしたという気持ちよさが八惣次に湧いた。意識的に良いことをしようと思ったわけでなく、体が勝手に動いただけだったが、それでも人を助けるということは気持ちが良いものだ。
これから、人を斬りに行くのが、なにかひどく馬鹿馬鹿しく思えてくるくらい、八惣次の心は温かいもので満たされていた。
八惣次は道を折れて、東へと向かうと急に人は少なくなり、歩を進めるごとに喧騒が遠ざかっていくようだった。
だが、人を助けた気持ちよさも、栗栖小源太が現れたことによって、たちまち霧散した。
その時、ここでこの女を斬ってやろうという気が八惣次の胸によぎった。
栗栖は斬るべきだ、と八惣次は以前から思っていた。こいつは張孔堂に仇なす女だ。以前、屋敷に侵入した栗栖を八惣次が斬ろうとして正雪がとめた時、命令を無視しても斬るべきだった。
だが、人の目があったせいもあって、今度も八惣次は斬らずに逃げた。
そうして栗栖の追跡を振り切ったものの、栗栖が建物のかどから出てくるのではないかと絶えず気を張りながらしばらく町をうろうろし、夕闇がだんだんと迫ってきたころ、楓川に沿って、櫛の歯のようにならんだ舟入堀をいくつも渡って、日本橋区域の北東までやってきた。入堀の周りでは、材木が詰まれたり立て並べられていて、人足達がまだ忙しそうに立ち働いていた。
香流という同心がこの道を帰ってくるとは限らないのだが、北町奉行所から八町堀までの道筋を考えれば、この道を通る可能性は高いように思えた。
相手が来るまで、さて、どこで待ち伏せようかと八惣次は周囲を見渡すと、ちょうど具合よく魚屋と海苔屋の間に路地があった。
八惣次は路地に身を滑り込ませた。人がふたりすれ違うのがやっとの道の幅である。
ここなら北の道にも南の道にも注意できるし、人目も避けられた。
だが、香流が帰ってくると思われる日暮れまでは、まだ時間があったから、このまま待つか、この辺りを逍遥して暇をつぶすか、どうしようかとちょっと迷った。迷っているところに、かどを曲がって町人の女が路地に入ってきた。歳は二十なかばくらいだろう、その女は、八惣次をじろりと見るとすぐに身を翻して、表の通りへと足を戻した。
女からすれば、人けのない道で、見知らぬ男とすれ違いたくなかっただけなのかもしれないが、八惣次はまるで自分が気味悪がられたように思えて、心のどこかをえぐられたような気分だった。
もちろん、八惣次にその女を襲うような気持ちはなかったが、女のほうは八惣次のことを、女を襲うような男にみえたのではないのか。それは八惣次の邪推だとは思うが、心にいったんついた傷が、すぐにふさがるわけでもなかった。
――俺が何をしたというのか。何もしていない、ただここにいただけだ。それなのに俺を忌み嫌うのか……。
昼間、人を助けて得られた心地よさを、栗栖と今の女に無惨に踏みにじられたようだった。
こんな場所で待つのではなかった、と後悔の念が襲ってきた。道を歩いていたほうが人に怪しまれることもないだろう。八惣次は路地を出て歩き始めた。
東の空はもう黒く色味を失っていて、西の空は群青色の空に赤く色づいた雲が浮かんでいた。
まるで今の自分の心が映し出されたような暗い空だった。
八惣次は陰鬱な心を引きずるように歩き始めた。
さっきの女の、八惣次を見た時の目が焼き付いたように脳裏から消えなかった。張孔堂の連中もあの女も同じ目をしていた。八惣次をあなどり、見下し、毛嫌いする目であった。
必ず同心を斬ってやるという気が湧いてきた。是が非でも斬らねばならぬ。
同心を斬れば、俺はひとまわり成長でき自信にもなるだろう。そうなれば、張孔堂の連中ばかりではない、さっきの女のように、嫌悪の眼差しを向ける者もいなくなるに違いない。
――斬ってやる、斬ってやる。
八惣次の目は異様にまなじりが吊り上がり、眉間には暗い影がまとわりつき、その目で見る景色は吐き気がするほど穢れているように思えた。
暗い闇に沈んでいく町を、八惣次は歩いた。
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