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第八章 秘剣弓弦断ち
八の六
常盤橋は千代田の城(江戸城)の堀にかかって、橋の先には壮大な櫓と門があって、見上げる人を頭上から押さえつけるような威容をしめしていた。
小源太は、高札場で高札を読んでいるふうをよそおって、香流を待った。高札場は堀沿いの、橋からは北のちょっと離れた場所にあったが、橋を渡ってくる人の顔は充分見定めることができる。番所は門のすぐ向こうだから、ここで待っていれば香流がこの橋を渡ってくるのを見つけられるだろう。
日もしだいに暮れていき、そろそろ下城の時刻に思えた。
日中はずいぶん暖かくなったのに、日が城の向こうに隠れるのと歩を合わせるように冷気が襲ってきて、小源太は、もう上着なしではいられないくらいだった。
脱いでいた蝙蝠羽織を着て衿をかきあわせ、梅柄の衿巻を巻きなおす小源太を、男姿の女が珍しいのだろう、何か珍妙な物でもみるように、下城していく侍達が不躾にじろじろと見て通り過ぎていく。感じの悪いものだった。
暮れ六つになって、門が閉まっても、目当ての香流はいっこうに現れない。これはとうに帰ってしまったのか、それともまだ町の見回りでもしているのか、もしかしたら今晩は番所に詰め切りなのではなかろうか。日もすっかり沈んで人の顔も判別しにくいほどの暗さで、しだいにそこはかとない不安が小源太の胸におしよせてきた頃、潜り戸が開き、香流が出てきた。別段急ぐふうでもなく、下僕ひとりを従えて、景色を楽しむようなゆったりとした足どりで歩いて、命を狙われているのに悠長なものである。
小源太が走り寄ると、気づいた香流は橋のたもとで立ち止まり、あからさまに不機嫌な顔をした。いかにも会いたくない人間に会ってしまったという顔である。
「香流さん、あなた狙われていますよ」
小源太が真剣な面持ちで言った。にもかかわらず、香流は人を小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「知ってるよ、張孔堂の刺客だろう。お前に教えてもらうまでもない、張孔堂には間者が何人も入り込んでいるから、そんな情報はすぐに俺の耳に届く。今日も巡回の途中でおかしな町人の男が警告しにきたが、あれは張孔堂の手の者だろう。お前も張孔堂から言われて来たんじゃあるまいな。あれほど強く忠告したにもかかわらず、まだ奴らとつるんでいやがるのか」
「誰からとは言えません。あなたの身を案じている人からあなたを守るように依頼された、とだけ言っておきます」
「ふん、刺客を差し向けておいて護衛をつける、張孔堂もおかしな連中だな」香流は町方同心という人の嘘を見抜く玄人だけあって、小源太がいくら包み隠しても見抜いてしまう。
「張孔堂が刺客を放ったわけではないのですよ。あなたの命を狙う者は、張孔堂の意に反して動いているのです」
「過激派か異端者か知らんが、そいつを捕まえて石を抱かせてでも張孔堂の名を出させてしまえば、張孔堂を手入れする口実ができる。来るなら早く来てもらいたいくらいだ」
「甘く見ないでください」小源太はついきつい調子で言った。「刺客は相当の手練れです。十手などで闘える相手ではありません」
「なめるんじゃねえ。俺だって一刀流を使えるんだ。ちょっと腕が立つからって、図に乗るなよ、男女」
ふんと鼻を鳴らして香流は歩き出した。
小源太は後を追ったが、香流はついてくるな、とは言わなかった。無言の言質を取ったようなものだ。小源太は香流が八町堀の屋敷に帰り着くまで、ついていくつもりであった。
「昼間、あなたを狙う男を京橋近くで見つけました。今頃はここから八町堀までの道筋で隠れているに違いありません。せめて遠回りして帰ってください」
「ふん、町奉行所同心が刺客ひとりを恐れていつもの帰り道を変えてみろ、とんだ世間の笑いものだ。同心の威厳も誇りもなくなっちまう」
「威厳より命が大切です」
「馬鹿、威厳や誇りってのは命をかけて守るもんだ」
これは言っても駄目だ、と小源太は頬をふくらました。
小源太は、高札場で高札を読んでいるふうをよそおって、香流を待った。高札場は堀沿いの、橋からは北のちょっと離れた場所にあったが、橋を渡ってくる人の顔は充分見定めることができる。番所は門のすぐ向こうだから、ここで待っていれば香流がこの橋を渡ってくるのを見つけられるだろう。
日もしだいに暮れていき、そろそろ下城の時刻に思えた。
日中はずいぶん暖かくなったのに、日が城の向こうに隠れるのと歩を合わせるように冷気が襲ってきて、小源太は、もう上着なしではいられないくらいだった。
脱いでいた蝙蝠羽織を着て衿をかきあわせ、梅柄の衿巻を巻きなおす小源太を、男姿の女が珍しいのだろう、何か珍妙な物でもみるように、下城していく侍達が不躾にじろじろと見て通り過ぎていく。感じの悪いものだった。
暮れ六つになって、門が閉まっても、目当ての香流はいっこうに現れない。これはとうに帰ってしまったのか、それともまだ町の見回りでもしているのか、もしかしたら今晩は番所に詰め切りなのではなかろうか。日もすっかり沈んで人の顔も判別しにくいほどの暗さで、しだいにそこはかとない不安が小源太の胸におしよせてきた頃、潜り戸が開き、香流が出てきた。別段急ぐふうでもなく、下僕ひとりを従えて、景色を楽しむようなゆったりとした足どりで歩いて、命を狙われているのに悠長なものである。
小源太が走り寄ると、気づいた香流は橋のたもとで立ち止まり、あからさまに不機嫌な顔をした。いかにも会いたくない人間に会ってしまったという顔である。
「香流さん、あなた狙われていますよ」
小源太が真剣な面持ちで言った。にもかかわらず、香流は人を小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「知ってるよ、張孔堂の刺客だろう。お前に教えてもらうまでもない、張孔堂には間者が何人も入り込んでいるから、そんな情報はすぐに俺の耳に届く。今日も巡回の途中でおかしな町人の男が警告しにきたが、あれは張孔堂の手の者だろう。お前も張孔堂から言われて来たんじゃあるまいな。あれほど強く忠告したにもかかわらず、まだ奴らとつるんでいやがるのか」
「誰からとは言えません。あなたの身を案じている人からあなたを守るように依頼された、とだけ言っておきます」
「ふん、刺客を差し向けておいて護衛をつける、張孔堂もおかしな連中だな」香流は町方同心という人の嘘を見抜く玄人だけあって、小源太がいくら包み隠しても見抜いてしまう。
「張孔堂が刺客を放ったわけではないのですよ。あなたの命を狙う者は、張孔堂の意に反して動いているのです」
「過激派か異端者か知らんが、そいつを捕まえて石を抱かせてでも張孔堂の名を出させてしまえば、張孔堂を手入れする口実ができる。来るなら早く来てもらいたいくらいだ」
「甘く見ないでください」小源太はついきつい調子で言った。「刺客は相当の手練れです。十手などで闘える相手ではありません」
「なめるんじゃねえ。俺だって一刀流を使えるんだ。ちょっと腕が立つからって、図に乗るなよ、男女」
ふんと鼻を鳴らして香流は歩き出した。
小源太は後を追ったが、香流はついてくるな、とは言わなかった。無言の言質を取ったようなものだ。小源太は香流が八町堀の屋敷に帰り着くまで、ついていくつもりであった。
「昼間、あなたを狙う男を京橋近くで見つけました。今頃はここから八町堀までの道筋で隠れているに違いありません。せめて遠回りして帰ってください」
「ふん、町奉行所同心が刺客ひとりを恐れていつもの帰り道を変えてみろ、とんだ世間の笑いものだ。同心の威厳も誇りもなくなっちまう」
「威厳より命が大切です」
「馬鹿、威厳や誇りってのは命をかけて守るもんだ」
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