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第九章 宝よ、いずこ
九の二
昼の間はちょっと動くだけで汗が浮くほどの蒸し暑さだったのに、夜になると肌から染み込んでくるような寒さが体をさいなみ、栗栖小源太はずれた掛け夜具を肩まで引き上げた。
奇妙に静かな夜だった。
梅雨に入ったかと思われる細雨が屋根を叩いているのだが、雨の一粒一粒が音とも言えない音をたて、かすかな音が重なり合って、他の雑音を消しているようであった。
雨が降っているせいか虫の声も聞こえず風が戸を揺らすこともなく、どこかで、おそらく三軒奥の熊蔵だろう、謡を唄う声がわずかに流れてくるばかりだったが、その音程の狂っただみ声の唄が、静けさをいっそうきわだたせるようだった。
入り口の戸が、密やかに鳴った。
風が出て来たのだろう。小源太は一瞬睡気を引き抜かれたような感じだったが、すぐに舞い戻った睡気に誘われるまま、夢の中へ落ちようとしていた。
また、ことりと音がし、ちょっとの間をおいて、またことりと音がした。
はっとして小源太は身じろぎした。
風の音ではないという気がする。
起き上がり、刀をつかむと、足音をたてずに戸口に近づいた。
「誰だ?」
小雨のような声で、小源太は問うた。
「私だ」
小雨のような男の声が、返って来た。
闇の中、小源太は目を見開いた。
そんなことがあるのか、と思った。この数年さがしもとめてきた人が、今、障子一枚の向こう側にいる。
しんばり棒をはずして、戸を引き開けた。
唖然とする小源太のわきをすりぬけて、暗い影がすべるようにして土間に入ってきて、すぐに戸を閉めた。
兄上、と小源太は声をかけようとするのだが、喉がつまってまるで声にならない。餌をねだる金魚のようにただ口をぱくぱくしていただけである。再び会えたなら、どういう顔で兄と会うのか、どういう話しをするのか、これまで散散思い巡らしてきたのに、いざ兄が目の前に現れると、言葉がまるで出てこない。
「何をしている、灯ぐらいつけぬか」
言われて手さぐりで行灯のところまで行って、小源太は火をいれようとしたが、手が震えて、火打石と火打金がすべってうまく当たらない。肩が痛くなるほど打って、やっと火口に火をつけて、行灯をともした。
行灯の明かりに浮かび上がったのは、兄冬至郎の姿だった。
冬至郎は雨よけのためだろう、かぶっていた笠を取って、雨にしっとりと濡れた羽織と袴をするすると脱いで、上にあがってくると小源太の目の前に座った。
「紅穂、壮健でなによりだ」
そう言って、じっと小源太を見ている。だが、その言葉には久しぶりに会った小源太に対する労りとか思いやりというものは感じられず、ただのあいさつ程度の調子であった。
兄は五年前とさほど変わらなかった。
二重まぶたの丸くて大きな目も昔のままだったし、丸かった顔はちょとこけて大人びたふうではあったが、まぎれもない冬至郎であった。
ただ、いつも優し気に笑っていた目が、今は心なしか吊りあがっているようだ。子供の頃の小源太が悪さをした時に、怒る寸前の目であった。
久しぶりに会えたのに、なぜ兄が怒っているのかはわからない。
「あ、兄上」
小源太はやっと声にだして、兄を呼んだ。ひきつって半分ひっくりかえった声である。飛びついて抱きしめたい衝動を抑え、座った膝の上に手をつっぱって、わいてくる涙をこらえた。こらえてもこぼれ落ちる涙がいくつか、手の甲を濡らした。
「まったく、お前という妹は、あきれるな」
怒気を抑えた調子で冬至郎は言った。その兄の声音で、小源太の涙は、すっと引いていった。冬至郎は続けた。
「手紙でお前に、私を捜すなと忠告したはずだ。読まなかったのか?」
「いえ、読みました」
「ならばなぜ忠告にしたがって、捜すのをあきらめて、京に帰らなかった」
「あの、あの手紙くらいでは、なんとも……」
「それに私は、お前に張孔堂とかかわってもらいたくなかった。だから、浅草の辰平の店に向かうようにしむけて、江戸にいることに嫌気をささせるつもりだった。丸橋をけしかけて仲を悪くさせようと思ったのに、お前は反対に丸橋達と懇意になった。私をいらだたせるもの、たいがいにしろ」
「丸橋さんも金井さんも、本当にいい人です」
「真実、ふたりがいい人かどうかは問題ではない。張孔堂という集まりがどれほど危険な集まりかわかっていないというのだ。あのような集団は、丸橋や金井が善人だったとしても、善人すら悪事に巻き込んでしまうほど、制御の利かなくなるものなのだ」
「そうは言われましても」
「張孔堂が危険なことは、ずっと以前から、松平伊豆守様は気づいておられた。そこで、張孔堂に潜り込んで内通する者を集めた。伊豆守様は賢明なかただ。江戸では顔が知られていない人間を地方で探した。そこで私が起用されたのだ。私は横手誠一郎と名乗り、張孔堂に潜り込み、柴田三郎兵衛という男に取り入って地位を固めた。長年かけて、やっと周囲の信頼も得られ、さあこれから内部から分裂させようと計画していたと言うのに、お前が現れてすべてを台無しにしかけた。いや、台無しにしてしまった。お前が、勾坂甚内の隠し金などに関わってしまって、計画がすべてが頓挫した」
奇妙に静かな夜だった。
梅雨に入ったかと思われる細雨が屋根を叩いているのだが、雨の一粒一粒が音とも言えない音をたて、かすかな音が重なり合って、他の雑音を消しているようであった。
雨が降っているせいか虫の声も聞こえず風が戸を揺らすこともなく、どこかで、おそらく三軒奥の熊蔵だろう、謡を唄う声がわずかに流れてくるばかりだったが、その音程の狂っただみ声の唄が、静けさをいっそうきわだたせるようだった。
入り口の戸が、密やかに鳴った。
風が出て来たのだろう。小源太は一瞬睡気を引き抜かれたような感じだったが、すぐに舞い戻った睡気に誘われるまま、夢の中へ落ちようとしていた。
また、ことりと音がし、ちょっとの間をおいて、またことりと音がした。
はっとして小源太は身じろぎした。
風の音ではないという気がする。
起き上がり、刀をつかむと、足音をたてずに戸口に近づいた。
「誰だ?」
小雨のような声で、小源太は問うた。
「私だ」
小雨のような男の声が、返って来た。
闇の中、小源太は目を見開いた。
そんなことがあるのか、と思った。この数年さがしもとめてきた人が、今、障子一枚の向こう側にいる。
しんばり棒をはずして、戸を引き開けた。
唖然とする小源太のわきをすりぬけて、暗い影がすべるようにして土間に入ってきて、すぐに戸を閉めた。
兄上、と小源太は声をかけようとするのだが、喉がつまってまるで声にならない。餌をねだる金魚のようにただ口をぱくぱくしていただけである。再び会えたなら、どういう顔で兄と会うのか、どういう話しをするのか、これまで散散思い巡らしてきたのに、いざ兄が目の前に現れると、言葉がまるで出てこない。
「何をしている、灯ぐらいつけぬか」
言われて手さぐりで行灯のところまで行って、小源太は火をいれようとしたが、手が震えて、火打石と火打金がすべってうまく当たらない。肩が痛くなるほど打って、やっと火口に火をつけて、行灯をともした。
行灯の明かりに浮かび上がったのは、兄冬至郎の姿だった。
冬至郎は雨よけのためだろう、かぶっていた笠を取って、雨にしっとりと濡れた羽織と袴をするすると脱いで、上にあがってくると小源太の目の前に座った。
「紅穂、壮健でなによりだ」
そう言って、じっと小源太を見ている。だが、その言葉には久しぶりに会った小源太に対する労りとか思いやりというものは感じられず、ただのあいさつ程度の調子であった。
兄は五年前とさほど変わらなかった。
二重まぶたの丸くて大きな目も昔のままだったし、丸かった顔はちょとこけて大人びたふうではあったが、まぎれもない冬至郎であった。
ただ、いつも優し気に笑っていた目が、今は心なしか吊りあがっているようだ。子供の頃の小源太が悪さをした時に、怒る寸前の目であった。
久しぶりに会えたのに、なぜ兄が怒っているのかはわからない。
「あ、兄上」
小源太はやっと声にだして、兄を呼んだ。ひきつって半分ひっくりかえった声である。飛びついて抱きしめたい衝動を抑え、座った膝の上に手をつっぱって、わいてくる涙をこらえた。こらえてもこぼれ落ちる涙がいくつか、手の甲を濡らした。
「まったく、お前という妹は、あきれるな」
怒気を抑えた調子で冬至郎は言った。その兄の声音で、小源太の涙は、すっと引いていった。冬至郎は続けた。
「手紙でお前に、私を捜すなと忠告したはずだ。読まなかったのか?」
「いえ、読みました」
「ならばなぜ忠告にしたがって、捜すのをあきらめて、京に帰らなかった」
「あの、あの手紙くらいでは、なんとも……」
「それに私は、お前に張孔堂とかかわってもらいたくなかった。だから、浅草の辰平の店に向かうようにしむけて、江戸にいることに嫌気をささせるつもりだった。丸橋をけしかけて仲を悪くさせようと思ったのに、お前は反対に丸橋達と懇意になった。私をいらだたせるもの、たいがいにしろ」
「丸橋さんも金井さんも、本当にいい人です」
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「そうは言われましても」
「張孔堂が危険なことは、ずっと以前から、松平伊豆守様は気づいておられた。そこで、張孔堂に潜り込んで内通する者を集めた。伊豆守様は賢明なかただ。江戸では顔が知られていない人間を地方で探した。そこで私が起用されたのだ。私は横手誠一郎と名乗り、張孔堂に潜り込み、柴田三郎兵衛という男に取り入って地位を固めた。長年かけて、やっと周囲の信頼も得られ、さあこれから内部から分裂させようと計画していたと言うのに、お前が現れてすべてを台無しにしかけた。いや、台無しにしてしまった。お前が、勾坂甚内の隠し金などに関わってしまって、計画がすべてが頓挫した」
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