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第九章 宝よ、いずこ
九の十一
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池畔に舟がたどり着くと、小源太は船べりを蹴って、飛び降りた。
自分の思慮の浅さが悔やまれた。
不忍池で流される舟から、池に飛び込んで泳いで岸までたどり着こうと脳裡に浮かんだものの、泳ぎが得意でないのと、(丸橋忠弥に三分が一を斬られた)短い竿でもどうにか舟を操れるのではないかという気もあり、膝をついた姿勢で竿を使い、どうにかこうにか岸にたどり着いた。
が、すでに兄を連れ去った者達の形跡などもはやなく、行方をたどる方法などまるで見いだせなかった。池の底に足がつく程度の深さなのだから、着ている着物をすべて脱ぎ捨ててでも池に飛び込めば良かったのだ。
――こうとなったら、もはや張孔堂に乗り込むしかない。
思いを決めて、小源太は走り出した。
雨ももうほとんど降ってはおらず、蒸し暑いだけの笠も蓑も脱ぎ捨てて走った。
不忍池から離れ、町に入ると、人の生活が動き出していた。
小源太の焦燥など知るよしもない人人が、あくびをしながら横丁から出てき、朝の挨拶をかわしあっている。
侍がみだりに道を早駆するものではない、とはいうものの、兄の命がかかっていると思えば、のんびり歩いていられるものではなかった。侍姿の女が、恥もなく外聞もなく、全速力で走りすぎるのを、仕入れに行く棒手振りや朝立ちの旅人がいぶかしげな目で見送るのだった。
そして湯島にさしかかったかという頃であった。
横合いの、武家屋敷の塀のかどから飛び出してきた黒い影が、小源太の衿首を掴んで、力いっぱい引き倒した。
瞬時、小源太には何が起きたかわからない。
ただ尻餅ついた姿勢で見上げてみれば、そこに香流隼人が息を荒げて立っている。
香流は小源太の着物をつかんで立ち上がらせ、衿を絞め上げるようにして、塀に押しつけた。
「落ち着け、栗栖小源太」
小源太は彼の手を振り払おうともがいた。だが小源太は衿を掴みつつ肘で肩を押さえられ、もう一方の手で腕を掴まれ、万力で絞めつけられたように体を動かすことができない。
「何をする気だ」顔を寄せて耳元で香流は言った。
「兄が連れ去られました。兄の命がかかっているんです」叫びそうになるのをこらえて小源太は言った。
「張孔堂に斬り込みに行く気だな」
「そうです」
「余計なことをするんじゃあねえ」
「余計なこと?何が余計だというのですか」
「何かひと騒動起きそうだと、張孔堂に潜入している密偵の報せで、上野の不忍池に行ってみれば、ちょうどお前が走り去っていくところだった。その走り方に不穏を感じて追ってみれば、そういうことか」
「わかったのなら、放してください」
「いいか、捕らえられたお前の兄が張孔堂にいるという確信があるのか。ないだろう。だったら、今は町奉行所の密偵が監禁場所を探り出すのを待て。お前が下手に動けば帰って兄の命があぶない」
「待ってなどおれません。いますぐ張孔堂に乗り込んで捜し出します」
「馬鹿を言え。張孔堂に手練がどれほどいると思っている。ちょっと腕が立つからって、うぬぼれるんじゃあない」
「もとより死は覚悟の上」
「てめえに暴れられたら、こっちの計画も潰れちまうんだよ。今は張孔堂の動きを探っているきわどい時期なんだ」
「町奉行所の計略などしったことではありません」
「ぐだぐだと言ってると、牢屋にぶち込むぞ」
「ならどうしろと」
「こらえて待てと言っている」
小源太は顔をそむけてうめいた。そして急速に疲労が全身に湧いてくるのを感じた。
「だったら助けてください。兄を、兄の命を」
「あたりまえだ。町奉行所同心ってえのは、人の命を助けるのが本分だ」
小源太はあふれてくる涙をこらえきれなかった。頰をつたい、とめどなく涙は流れた。ただ、香流にすがりつきたい衝動だけはこらえた。すがりついてしまえば、もう自分の力では兄を救う事ができないと、あきらめてしまうような気がした。
雨がまた降ってきた。
朝の冷たい雨が、小源太達を容赦なく濡らしていった。
小源太は震えた。
底冷えのする寒さと、何も成せない自分の不甲斐なさに、ただ震えたのだった。
(第九章 おしまい)
自分の思慮の浅さが悔やまれた。
不忍池で流される舟から、池に飛び込んで泳いで岸までたどり着こうと脳裡に浮かんだものの、泳ぎが得意でないのと、(丸橋忠弥に三分が一を斬られた)短い竿でもどうにか舟を操れるのではないかという気もあり、膝をついた姿勢で竿を使い、どうにかこうにか岸にたどり着いた。
が、すでに兄を連れ去った者達の形跡などもはやなく、行方をたどる方法などまるで見いだせなかった。池の底に足がつく程度の深さなのだから、着ている着物をすべて脱ぎ捨ててでも池に飛び込めば良かったのだ。
――こうとなったら、もはや張孔堂に乗り込むしかない。
思いを決めて、小源太は走り出した。
雨ももうほとんど降ってはおらず、蒸し暑いだけの笠も蓑も脱ぎ捨てて走った。
不忍池から離れ、町に入ると、人の生活が動き出していた。
小源太の焦燥など知るよしもない人人が、あくびをしながら横丁から出てき、朝の挨拶をかわしあっている。
侍がみだりに道を早駆するものではない、とはいうものの、兄の命がかかっていると思えば、のんびり歩いていられるものではなかった。侍姿の女が、恥もなく外聞もなく、全速力で走りすぎるのを、仕入れに行く棒手振りや朝立ちの旅人がいぶかしげな目で見送るのだった。
そして湯島にさしかかったかという頃であった。
横合いの、武家屋敷の塀のかどから飛び出してきた黒い影が、小源太の衿首を掴んで、力いっぱい引き倒した。
瞬時、小源太には何が起きたかわからない。
ただ尻餅ついた姿勢で見上げてみれば、そこに香流隼人が息を荒げて立っている。
香流は小源太の着物をつかんで立ち上がらせ、衿を絞め上げるようにして、塀に押しつけた。
「落ち着け、栗栖小源太」
小源太は彼の手を振り払おうともがいた。だが小源太は衿を掴みつつ肘で肩を押さえられ、もう一方の手で腕を掴まれ、万力で絞めつけられたように体を動かすことができない。
「何をする気だ」顔を寄せて耳元で香流は言った。
「兄が連れ去られました。兄の命がかかっているんです」叫びそうになるのをこらえて小源太は言った。
「張孔堂に斬り込みに行く気だな」
「そうです」
「余計なことをするんじゃあねえ」
「余計なこと?何が余計だというのですか」
「何かひと騒動起きそうだと、張孔堂に潜入している密偵の報せで、上野の不忍池に行ってみれば、ちょうどお前が走り去っていくところだった。その走り方に不穏を感じて追ってみれば、そういうことか」
「わかったのなら、放してください」
「いいか、捕らえられたお前の兄が張孔堂にいるという確信があるのか。ないだろう。だったら、今は町奉行所の密偵が監禁場所を探り出すのを待て。お前が下手に動けば帰って兄の命があぶない」
「待ってなどおれません。いますぐ張孔堂に乗り込んで捜し出します」
「馬鹿を言え。張孔堂に手練がどれほどいると思っている。ちょっと腕が立つからって、うぬぼれるんじゃあない」
「もとより死は覚悟の上」
「てめえに暴れられたら、こっちの計画も潰れちまうんだよ。今は張孔堂の動きを探っているきわどい時期なんだ」
「町奉行所の計略などしったことではありません」
「ぐだぐだと言ってると、牢屋にぶち込むぞ」
「ならどうしろと」
「こらえて待てと言っている」
小源太は顔をそむけてうめいた。そして急速に疲労が全身に湧いてくるのを感じた。
「だったら助けてください。兄を、兄の命を」
「あたりまえだ。町奉行所同心ってえのは、人の命を助けるのが本分だ」
小源太はあふれてくる涙をこらえきれなかった。頰をつたい、とめどなく涙は流れた。ただ、香流にすがりつきたい衝動だけはこらえた。すがりついてしまえば、もう自分の力では兄を救う事ができないと、あきらめてしまうような気がした。
雨がまた降ってきた。
朝の冷たい雨が、小源太達を容赦なく濡らしていった。
小源太は震えた。
底冷えのする寒さと、何も成せない自分の不甲斐なさに、ただ震えたのだった。
(第九章 おしまい)
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