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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の一
谷中の青山道場の、母屋の縁側の端にちょこんと腰かけて、栗栖小源太は溜め息ばかりついている。
膝の上に肘をのせて、手のひらに顎を乗せて、こんにちの秋の冷たさをはらんだ風のように、やんだと思えばしばらくしてまた息をはいた。
いつの間にか弱弱しくなっている蜩の声が、午後の黄ばんだ日の色とかすかに冷たい風と手を取りあって、小源太の胸ににじむ寂寥を太らせていくようであった。
そうしてもう一度溜め息をついた時であった。
「まったく、いつまでふうふうやってるのかしら。聞いてるこっちが辛気臭くなっちゃうわ」
いつにない尖った声音で、後ろから沙弥が声をかけてきた。
小源太は、振り返るのもなんだか気恥ずかしくなって、顔を手で覆った。
「お兄さんを取り返せない鬱憤を道場の稽古で晴らして、晴らした後は毎日毎日そこに座って溜め息三昧。いい加減、いやになるわ」
「兄上が連れ去られてもう、ふた月も経つのに、香流さんは何も言ってこないし、張孔堂の人達とも会えないし、いっそのこと、張孔堂の連中が襲ってきてくれたほうが、なにか解決の糸口がつかめそうだよ」
「なんで張孔堂があなたを襲うのよ」
「わかんないけど」
「まったく、あなたらしくないわ」
「私らしくない?」
「私はあなたを見誤っていたのかしら。小源太さんは、こうと決めたら、誰が妨害しようと、世間に後ろ指さされようと、自分自身の道を突き進むような人だと思っていたわ」
小源太は体をよじって、沙弥を見た。
声音は厳しさをはらんでいたが、沙弥の顔はにこやかに笑んでいた。彼女は居間の端に座って、手を膝にのせて、ちょっと前かがみに小源太を見つめている。
「ほんとうは、あなた自身の力で立ち直って欲しくて、二カ月も様子をみていたんだけれど、もう我慢も限界だわ」
と、沙弥はするりと滑って小源太の横に来た。
「しっかりしなさい、小源太さん」
小源太は、ずきりと、胸に矢が射込まれたような気持ちであった。
にっこり笑う沙弥を、思わず抱きしめてしまいそうになる衝動が全身を駆け巡った。
その衝動の方向を回転させ、自分に向けるようにして、小源太はすっくと立ち上がった。
「そうだ、その通りだ」小源太はうなずいた。「私は私を見失っていた。兄が連れ去られた傷心と、香流さんに行動をとめられた無念さに、気づかぬうちに気鬱になってしまっていた。何を迷っていたんだ。そうだ、動けばいいんだ。周りがどうなったって、かまいやしない」
実際、この二カ月というもの、頭の中はずっと霧につつまれたようで考えがまったく働かなかったし、目で見る風景さえいつもぼんやりとして、まるで起きているのに夢の中をさまよっているような毎日だった。
それが今、沙弥の言葉を聞いて、すっと晴れていくような気分であった。
へこたれてなどいられない。動き出さねば物事は止まったまま何も変わりはしない。歩くのだ、走るのだ。
「そうよ、その意気よ」
「よし、私はもう迷わない。途中で香流さんにとめられたって突き飛ばして、張孔堂に乗り込んでやる」
「え」
と沙弥は戸惑った。
小源太を元気づけようとはしたが、まさか小源太がそこまで過激な行動に出ようとは、思ってもいなかったのである。
だが、高揚した小源太に、そんな沙弥の困惑に気づく心のゆとりなどもうない。
「では、行ってくる」
小源太は、はおった蝙蝠羽織をひるがえして、颯爽と立ち去ってく。
沙弥がとめる間などまるでない。
あきれるやら、まごつくやら、なんだか気持ちが複雑に絡まってしまって、沙弥は頭をかいた。
ただ、遠ざかる小源太の背中を見ながら、心の中で、無事に帰ってくることを祈るばかりであった。
膝の上に肘をのせて、手のひらに顎を乗せて、こんにちの秋の冷たさをはらんだ風のように、やんだと思えばしばらくしてまた息をはいた。
いつの間にか弱弱しくなっている蜩の声が、午後の黄ばんだ日の色とかすかに冷たい風と手を取りあって、小源太の胸ににじむ寂寥を太らせていくようであった。
そうしてもう一度溜め息をついた時であった。
「まったく、いつまでふうふうやってるのかしら。聞いてるこっちが辛気臭くなっちゃうわ」
いつにない尖った声音で、後ろから沙弥が声をかけてきた。
小源太は、振り返るのもなんだか気恥ずかしくなって、顔を手で覆った。
「お兄さんを取り返せない鬱憤を道場の稽古で晴らして、晴らした後は毎日毎日そこに座って溜め息三昧。いい加減、いやになるわ」
「兄上が連れ去られてもう、ふた月も経つのに、香流さんは何も言ってこないし、張孔堂の人達とも会えないし、いっそのこと、張孔堂の連中が襲ってきてくれたほうが、なにか解決の糸口がつかめそうだよ」
「なんで張孔堂があなたを襲うのよ」
「わかんないけど」
「まったく、あなたらしくないわ」
「私らしくない?」
「私はあなたを見誤っていたのかしら。小源太さんは、こうと決めたら、誰が妨害しようと、世間に後ろ指さされようと、自分自身の道を突き進むような人だと思っていたわ」
小源太は体をよじって、沙弥を見た。
声音は厳しさをはらんでいたが、沙弥の顔はにこやかに笑んでいた。彼女は居間の端に座って、手を膝にのせて、ちょっと前かがみに小源太を見つめている。
「ほんとうは、あなた自身の力で立ち直って欲しくて、二カ月も様子をみていたんだけれど、もう我慢も限界だわ」
と、沙弥はするりと滑って小源太の横に来た。
「しっかりしなさい、小源太さん」
小源太は、ずきりと、胸に矢が射込まれたような気持ちであった。
にっこり笑う沙弥を、思わず抱きしめてしまいそうになる衝動が全身を駆け巡った。
その衝動の方向を回転させ、自分に向けるようにして、小源太はすっくと立ち上がった。
「そうだ、その通りだ」小源太はうなずいた。「私は私を見失っていた。兄が連れ去られた傷心と、香流さんに行動をとめられた無念さに、気づかぬうちに気鬱になってしまっていた。何を迷っていたんだ。そうだ、動けばいいんだ。周りがどうなったって、かまいやしない」
実際、この二カ月というもの、頭の中はずっと霧につつまれたようで考えがまったく働かなかったし、目で見る風景さえいつもぼんやりとして、まるで起きているのに夢の中をさまよっているような毎日だった。
それが今、沙弥の言葉を聞いて、すっと晴れていくような気分であった。
へこたれてなどいられない。動き出さねば物事は止まったまま何も変わりはしない。歩くのだ、走るのだ。
「そうよ、その意気よ」
「よし、私はもう迷わない。途中で香流さんにとめられたって突き飛ばして、張孔堂に乗り込んでやる」
「え」
と沙弥は戸惑った。
小源太を元気づけようとはしたが、まさか小源太がそこまで過激な行動に出ようとは、思ってもいなかったのである。
だが、高揚した小源太に、そんな沙弥の困惑に気づく心のゆとりなどもうない。
「では、行ってくる」
小源太は、はおった蝙蝠羽織をひるがえして、颯爽と立ち去ってく。
沙弥がとめる間などまるでない。
あきれるやら、まごつくやら、なんだか気持ちが複雑に絡まってしまって、沙弥は頭をかいた。
ただ、遠ざかる小源太の背中を見ながら、心の中で、無事に帰ってくることを祈るばかりであった。
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