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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の二
小源太は走った。
谷中から上野、湯島、本郷、小石川、神楽坂、牛込と、寸時も休まず、ひた走りに走った。
張孔堂に着くと、門は開け放たれていたが、肥えた男と小柄な男の(もう顔なじみの)門番が立っていた。
ふたりはぎょっとして小源太を見た。そして門番どうし顔を見合わせた。現れるはずのない人間がひょっこり現れたのに面食らったという様子である。
小源太はふたりがどういう態度に出てくるかわからず、身構えて様子をうかがったが、男達は素知らぬ顔になって手に持った六角棒を地に突いたまま、正面を向いて直立している。
小源太は、ふたりの態度をいぶかしむように、左右交互にみながら、用心してゆっくりと門をくぐった。
くぐったとたん、
――何かがおかしい。
と小源太は感じた。
どこがどうおかしいのかは判然としないのだが、張孔堂に漂う空気がいつもと違うような気がする。その違和感のもとを探るように、周囲をつぶさに観察しながら由井正雪の屋敷を目指した。
そうして由井の屋敷の前に来たころ、違和感の正体に気づいた。人の気配があまりに感じられぬ。
「やあ、やっと来た」
不意に後ろから呼びかける声がした。
振り向いた小源太の視界いっぱいに金井半兵衛のにこやかに笑う相貌があった。張孔堂の違和感に気を取られていたせいだろう、いつの間にこれほど接近していたのか、まるでわからない。
「来てくれなかったら、こっちから会いに行こうかどうしようか、迷っていたところさ」
そう言った金井は、相変わらず無精髭をはやした顔をしていたが、手っ甲脚絆をつけた旅装束をしていた。
「そのお姿は?」小源太は首をかしげた。
「見ての通りさ。ちょっと旅に出る」その辺に買い物に行くような調子の金井であった。
「どちらへ」
「まあ、西のほう、とだけ言っておこう」
「長くなるのですか」
「そうだなあ。お前さんとは今生もう会えなくなるかもな」
それでは旅ではなくて移住するということなのだろうか。ただ、常から、冗談とも本気ともつかぬことを言う金井のことだ、真実とは一概にうけとれない。もう会えないなどというくらいの冗談は平気な顔で言う男だ。
「そう寂しそうな顔しなさんな、小源太」金井はさわやかな笑みを浮かべた。「いや紅穂というそうだな。いい名前じゃないか」
「その名前をどこで。いえ、ご存じということは兄から聞いたのですか。兄はどこにいますか。無事でいますか」
「そう矢継ぎ早にぽんぽん聞かれたって、困るんだよなあ。俺には何も答えられはしないんだから」
「教えてください」
「無理なんだって」
「なぜです」
「なぜと問われても。知りたかったら大将に直接訊くんだな」
「そのつもりで来たのです。由井先生はご在宅でしょうか」
「庭に回ってみるといい」
そう言えば、先ほどから何かが焼けるような、焦げ臭い匂いが風に乗って流れてきている。庭で焚き火でもしているのだろうか。
小源太はそっちへ行こうと足を踏み出してとまり、金井に振り向いた。
「では、ご壮健で。今生の別れなどとおっしゃらず、またいつかお会いしましょう」
「ああ、そうだな。お前さんこそ、達者でいろよ」
「では」
とうなずくと、気ぜわしげに小源太は屋敷の庭へと向かっていった。
見送る金井は苦笑するしかなかった。
小源太とは、最後に心置きなく話をしておきたかった。竹刀でもいいから、もう一度手合わせもしておきたかった。
出会ってこのかた、彼は小源太を娘をいつくしむような、歳の離れた妹を見守るような目で見てきた。
肉親との触れ合いが少なかった人生を送ってきた彼にとって、小源太は見ているだけで楽しい、お転婆な娘か妹のような存在であった。
「ま、ひと目会えただけでも良しとするかね」
もう二度と彼女と会えはしないだろう。この江戸に戻ってくることもないだろう。うら寂しいような気持ちを抱えて、金井は歩き出した。
歩き出して数歩、未練に引っ張られるようにして、後ろを振り返った。
小源太の姿は、もう屋敷の向こうに消えていた。
谷中から上野、湯島、本郷、小石川、神楽坂、牛込と、寸時も休まず、ひた走りに走った。
張孔堂に着くと、門は開け放たれていたが、肥えた男と小柄な男の(もう顔なじみの)門番が立っていた。
ふたりはぎょっとして小源太を見た。そして門番どうし顔を見合わせた。現れるはずのない人間がひょっこり現れたのに面食らったという様子である。
小源太はふたりがどういう態度に出てくるかわからず、身構えて様子をうかがったが、男達は素知らぬ顔になって手に持った六角棒を地に突いたまま、正面を向いて直立している。
小源太は、ふたりの態度をいぶかしむように、左右交互にみながら、用心してゆっくりと門をくぐった。
くぐったとたん、
――何かがおかしい。
と小源太は感じた。
どこがどうおかしいのかは判然としないのだが、張孔堂に漂う空気がいつもと違うような気がする。その違和感のもとを探るように、周囲をつぶさに観察しながら由井正雪の屋敷を目指した。
そうして由井の屋敷の前に来たころ、違和感の正体に気づいた。人の気配があまりに感じられぬ。
「やあ、やっと来た」
不意に後ろから呼びかける声がした。
振り向いた小源太の視界いっぱいに金井半兵衛のにこやかに笑う相貌があった。張孔堂の違和感に気を取られていたせいだろう、いつの間にこれほど接近していたのか、まるでわからない。
「来てくれなかったら、こっちから会いに行こうかどうしようか、迷っていたところさ」
そう言った金井は、相変わらず無精髭をはやした顔をしていたが、手っ甲脚絆をつけた旅装束をしていた。
「そのお姿は?」小源太は首をかしげた。
「見ての通りさ。ちょっと旅に出る」その辺に買い物に行くような調子の金井であった。
「どちらへ」
「まあ、西のほう、とだけ言っておこう」
「長くなるのですか」
「そうだなあ。お前さんとは今生もう会えなくなるかもな」
それでは旅ではなくて移住するということなのだろうか。ただ、常から、冗談とも本気ともつかぬことを言う金井のことだ、真実とは一概にうけとれない。もう会えないなどというくらいの冗談は平気な顔で言う男だ。
「そう寂しそうな顔しなさんな、小源太」金井はさわやかな笑みを浮かべた。「いや紅穂というそうだな。いい名前じゃないか」
「その名前をどこで。いえ、ご存じということは兄から聞いたのですか。兄はどこにいますか。無事でいますか」
「そう矢継ぎ早にぽんぽん聞かれたって、困るんだよなあ。俺には何も答えられはしないんだから」
「教えてください」
「無理なんだって」
「なぜです」
「なぜと問われても。知りたかったら大将に直接訊くんだな」
「そのつもりで来たのです。由井先生はご在宅でしょうか」
「庭に回ってみるといい」
そう言えば、先ほどから何かが焼けるような、焦げ臭い匂いが風に乗って流れてきている。庭で焚き火でもしているのだろうか。
小源太はそっちへ行こうと足を踏み出してとまり、金井に振り向いた。
「では、ご壮健で。今生の別れなどとおっしゃらず、またいつかお会いしましょう」
「ああ、そうだな。お前さんこそ、達者でいろよ」
「では」
とうなずくと、気ぜわしげに小源太は屋敷の庭へと向かっていった。
見送る金井は苦笑するしかなかった。
小源太とは、最後に心置きなく話をしておきたかった。竹刀でもいいから、もう一度手合わせもしておきたかった。
出会ってこのかた、彼は小源太を娘をいつくしむような、歳の離れた妹を見守るような目で見てきた。
肉親との触れ合いが少なかった人生を送ってきた彼にとって、小源太は見ているだけで楽しい、お転婆な娘か妹のような存在であった。
「ま、ひと目会えただけでも良しとするかね」
もう二度と彼女と会えはしないだろう。この江戸に戻ってくることもないだろう。うら寂しいような気持ちを抱えて、金井は歩き出した。
歩き出して数歩、未練に引っ張られるようにして、後ろを振り返った。
小源太の姿は、もう屋敷の向こうに消えていた。
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