90 / 93
第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の十一
窓ひとつなく真っ暗な部屋で、小源太はそわそわと落ちつかず、中で行ったり来たりしている。
捕物騒動に巻き込まれて、兄が怪我をしてしまうのではないか、見せしめのために命を奪われてしまうのではないか、そんな悲観した考えばかりが頭に浮かぶのだった。
「すみません、どなたかいませんか。ここから出してくださいっ」
戸を叩きながら必死な気持ちで叫ぶのだが、返ってくるのは、
「うるさい、静かにしろ」
千太郎という見張り役の同心の、冷酷な答えばかりであった。声が若く聞こえるし、香流の態度から見て、千太郎というのは同心の見習いかもしれない。
「ここから出してください、お願いします。兄を助けなくてはいけないのです」
「話は聞いている」部屋の前で千太郎が言った。「お前の兄なら、奉行所の者が助け出すから安心しろ」
小源太は闇の中でうなだれた。もうあきらめて、奉行所の人達にまかせるしかないのか。
それからどれくらい刻が経ったであろう。
もう夜中近いのではないだろうか。
捕物の支度でばたばたと喧騒がしていた番所の中が、ふと気がつけば静まりかえっていて、北町奉行所の者達がほとんど丸橋道場の捕物に出払っている様子である。
すると、くうくうと、いびきをかいているような声が聞こえる。見張り役がうたたねしているようだ。
――今しかない。
小源太は即断した。こうと決めたら迷いはいっさいない。
決意をかためるようにひとつうなずくと、戸を足でけとばした。が、襖は思っていたよりも頑丈に敷居にはまっていた。戸は想定でははずれて倒れると思っていたのに、小源太の足は唐紙を突き抜けた。
見張りが驚いて飛び起きたが、小源太も驚いた。
しかたがないから、手と体を使って唐紙をぶち破って、廊下にまろび出た。
「あ、待たんか」
見張りが叫ぶのを聞き流し、小源太は廊下を走った。
式台を飛びおりて、誰のものかわからない草履をひっかけて玄関を走り出て、一目散に門を飛び出した。
常盤橋御門に向かうと、奉行所が総出で捕物に向かっているからだろう、門は開け放たれて、篝火がたかれ、数人の門番が警護していた。
かまわず小源太は走り出た。
門番達は驚いて一斉に振り向いたが、とめられはしなかった。外からの侵入を警戒はしていても、中から出て行く者は別段気にもしていない様子であった。
小源太が常盤橋を渡った時、小源太の見張り役だった千太郎という同心が常盤橋御門に到着したようだ。あいつをとめてくれ、と叫んでいるが、もう時すでに遅しである。
堀に沿って北へ向かってひた走る。お茶の水御中間町にある丸橋道場を目指し、栗栖小源太は夜の江戸を駆け抜ける。
そのほんの少し前――。
ひそやかに北町奉行所と南町奉行所の与力同心、その配下の御用聞き達、合わせて数十人が丸橋道場を取り囲み、今まさに討ち入ろうと身構えていた。むろん、龕灯や提灯などは黒い布がかぶせられ、明かりといえば東の空に浮かぶ冴えた下弦の月ばかりである。嵐の前の静けさとでもいうのだろうか、道場の周辺は異常に静まり返って、隣で身構える者の蚊の羽音ほどの息すら、耳に聞こえるほどであった。
今作戦の総指揮官と言うべき、北町奉行石谷左近将監が、馬上軍配を振った。
そこここで、御用聞き達がいっせいに、
「火事だ、火事だぁっ!」
静寂を打ち砕くように叫び始めた。
本当の火事ではなく、家から慌てて飛び出した丸橋達を捕らえる算段である。
龕灯や提灯にかぶせられていた布がはずされ、辺りは瞬時に昼間のような明りに包まれた。
その数瞬後には、道場内にいた牢人達十数人が、おっとり刀で飛び出してくる。
飛び出した瞬間、罠にはまったと皆気がついた。
刀を持っている者は鞘から引き抜き、もっていない者は取りに戻る。
その中で、丸橋忠弥はひとり冷静であった。
寝巻き姿で十文字槍をかいこみ、母屋の寝室から雨戸をひっぱずして庭に飛び出し、驚いた様子も見せずに迫り来る一番手に向かって、大音声で呼びかける。
「宝蔵院流皆伝、丸橋忠弥に手向かうとはけなげなるかなっ!」
組み付いてきた同心を投げ飛ばし、次に飛びかかってきた同心を突き飛ばす。
「どうした、町奉行所の与力同心ともあろう者達が、この程度の度胸しかないかッ!」
丸橋は十文字槍を頭上で風車のように振り回す。
「御用だっ」
「神妙にしろっ」
「御用、御用っ」
口口に威嚇し、刺股、突棒を構えて近づこうとする御用聞き達が、槍風車に弾かれるようにいっせいに飛びのいた。
さらに丸橋は十文字槍を振り回す。
空気を斬る凄まじい音、その風圧に、気圧されたように、奉行所の者達十数人が、丸橋を半円状に取り巻いたまま、石と化したように動けずにいた。
捕物騒動に巻き込まれて、兄が怪我をしてしまうのではないか、見せしめのために命を奪われてしまうのではないか、そんな悲観した考えばかりが頭に浮かぶのだった。
「すみません、どなたかいませんか。ここから出してくださいっ」
戸を叩きながら必死な気持ちで叫ぶのだが、返ってくるのは、
「うるさい、静かにしろ」
千太郎という見張り役の同心の、冷酷な答えばかりであった。声が若く聞こえるし、香流の態度から見て、千太郎というのは同心の見習いかもしれない。
「ここから出してください、お願いします。兄を助けなくてはいけないのです」
「話は聞いている」部屋の前で千太郎が言った。「お前の兄なら、奉行所の者が助け出すから安心しろ」
小源太は闇の中でうなだれた。もうあきらめて、奉行所の人達にまかせるしかないのか。
それからどれくらい刻が経ったであろう。
もう夜中近いのではないだろうか。
捕物の支度でばたばたと喧騒がしていた番所の中が、ふと気がつけば静まりかえっていて、北町奉行所の者達がほとんど丸橋道場の捕物に出払っている様子である。
すると、くうくうと、いびきをかいているような声が聞こえる。見張り役がうたたねしているようだ。
――今しかない。
小源太は即断した。こうと決めたら迷いはいっさいない。
決意をかためるようにひとつうなずくと、戸を足でけとばした。が、襖は思っていたよりも頑丈に敷居にはまっていた。戸は想定でははずれて倒れると思っていたのに、小源太の足は唐紙を突き抜けた。
見張りが驚いて飛び起きたが、小源太も驚いた。
しかたがないから、手と体を使って唐紙をぶち破って、廊下にまろび出た。
「あ、待たんか」
見張りが叫ぶのを聞き流し、小源太は廊下を走った。
式台を飛びおりて、誰のものかわからない草履をひっかけて玄関を走り出て、一目散に門を飛び出した。
常盤橋御門に向かうと、奉行所が総出で捕物に向かっているからだろう、門は開け放たれて、篝火がたかれ、数人の門番が警護していた。
かまわず小源太は走り出た。
門番達は驚いて一斉に振り向いたが、とめられはしなかった。外からの侵入を警戒はしていても、中から出て行く者は別段気にもしていない様子であった。
小源太が常盤橋を渡った時、小源太の見張り役だった千太郎という同心が常盤橋御門に到着したようだ。あいつをとめてくれ、と叫んでいるが、もう時すでに遅しである。
堀に沿って北へ向かってひた走る。お茶の水御中間町にある丸橋道場を目指し、栗栖小源太は夜の江戸を駆け抜ける。
そのほんの少し前――。
ひそやかに北町奉行所と南町奉行所の与力同心、その配下の御用聞き達、合わせて数十人が丸橋道場を取り囲み、今まさに討ち入ろうと身構えていた。むろん、龕灯や提灯などは黒い布がかぶせられ、明かりといえば東の空に浮かぶ冴えた下弦の月ばかりである。嵐の前の静けさとでもいうのだろうか、道場の周辺は異常に静まり返って、隣で身構える者の蚊の羽音ほどの息すら、耳に聞こえるほどであった。
今作戦の総指揮官と言うべき、北町奉行石谷左近将監が、馬上軍配を振った。
そこここで、御用聞き達がいっせいに、
「火事だ、火事だぁっ!」
静寂を打ち砕くように叫び始めた。
本当の火事ではなく、家から慌てて飛び出した丸橋達を捕らえる算段である。
龕灯や提灯にかぶせられていた布がはずされ、辺りは瞬時に昼間のような明りに包まれた。
その数瞬後には、道場内にいた牢人達十数人が、おっとり刀で飛び出してくる。
飛び出した瞬間、罠にはまったと皆気がついた。
刀を持っている者は鞘から引き抜き、もっていない者は取りに戻る。
その中で、丸橋忠弥はひとり冷静であった。
寝巻き姿で十文字槍をかいこみ、母屋の寝室から雨戸をひっぱずして庭に飛び出し、驚いた様子も見せずに迫り来る一番手に向かって、大音声で呼びかける。
「宝蔵院流皆伝、丸橋忠弥に手向かうとはけなげなるかなっ!」
組み付いてきた同心を投げ飛ばし、次に飛びかかってきた同心を突き飛ばす。
「どうした、町奉行所の与力同心ともあろう者達が、この程度の度胸しかないかッ!」
丸橋は十文字槍を頭上で風車のように振り回す。
「御用だっ」
「神妙にしろっ」
「御用、御用っ」
口口に威嚇し、刺股、突棒を構えて近づこうとする御用聞き達が、槍風車に弾かれるようにいっせいに飛びのいた。
さらに丸橋は十文字槍を振り回す。
空気を斬る凄まじい音、その風圧に、気圧されたように、奉行所の者達十数人が、丸橋を半円状に取り巻いたまま、石と化したように動けずにいた。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。