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夢に咲く花
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しおりを挟む不気味にこだまする化け物の鳴き声に、人々の悲鳴が混じる。ぶつかり合い、踏まれ踏みつけ、まさに蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
太く短い八本の脚。鳴き声に合わせて、丸く大きな腹が上下に揺れる。腹に比べて半分もない小さな頭に赤い半球体の目が無数に並び、全身を影に塗りたくった背中に、尻から頭にかけ、赤い筋が背中を走る。
それは紛れもなく蜘蛛だったが、その身丈は孝宏よりも大きく、足は孝宏を抱えるその腕より太い。
「大丈夫か?」
ナキイはそう言いながらも、一瞬孝宏を見ただけで、視線は巨大蜘蛛一点に注がれていた。
勢いよく地面を転がったが、衝撃の殆んどをナキイが引き受けたため、孝宏は膝を擦りむいただけで済んだ。驚きはしたものの、痛みはない。
「大丈……ルイ!?」
返事をしながら体を起こした孝宏の視界に、蹲るルイが映った。
両手で顔を覆い、巨大蜘蛛に背を向けたまま動かない。
孝宏の呼びかけに応じない彼と、巨大蜘蛛の距離は五歩も開いておらず、孝宏はよく考えもせず飛び出した。
ルイを連れて離れないといけない、ただそればかりを考えていた。
「待て!」
ナキイの腕をするりと解き、引き留める声も、孝宏の耳にまるで聞こえていない。ナキイの指先が服をかするだけで、手は孝宏には届かない。
――kikikikikiiiiiiiii――
ルイの元へ駆け寄る孝宏の背中を、目で追いながら聞こえてきた巨大蜘蛛の鳴き声が、ナキイには笑っているように聞こえた。
巨大蜘蛛がグイッと首を捻り、口を大きく開くと、体毛に覆われ隠れていた、湾曲する細く鋭い牙が姿を現した。
――kiiiikikikikiii――
ナキイに躊躇している余裕などなかった。
すぐさま立ち上がりながら、腰ベルトの左側に下がるストラップを引きちぎり、ギュッと握り込んだ。
体を前に倒し駆け出す拳の中でそれは膨れ上がるが、二秒ほども掛かりようやく大きな盾へと変化する代物だった。
巨大蜘蛛の伸ばした足が孝宏に届く寸前、今だ固まらない盾を、腕を、間に差し込み、最後に自身を滑り込ませた。
──ガン!!!──
間一髪のところで透明だが大きな盾は完成し、巨大蜘蛛を弾き阻んだ。
巨大蜘蛛が悲鳴を上げる。
――kiiiikikiiii!!!!――
孝宏は割り込んできたナキイに押し出され、ナキイの足元で蹲るルイの横に転がった。
頭は打たなかったが体勢を崩し、尻と手を付く。ナキイを見上げると、目に飛び込んできたのは、頭を盾に押し付け、はみ出した足を伸ばし、必死に獲物を捕らえようしている巨大蜘蛛の姿だった。
――gyaakiikiki――
巨大蜘蛛がおぞましい声を上げ、盾越しに牙をむく。
――kiiiigigigikiki――
「ひっ!」
孝宏は悲鳴を飲み込み恐怖を腹にため込むと、浅く早い呼吸を整えようと大きく息を吸った。しかし、ただの深呼吸のはずが震えて上手く吸えない。
巨大蜘蛛の無数の赤い目に映る、歪んだ自身の姿から目が離せないでいると、ナキイが声をかけてきた。
「大丈夫か?」
頭上がから降ってきた声に、孝宏は顔を上げた。そこにいたのは懸命に盾を支え、巨大蜘蛛と自身の間に立ちはだかるナキイだ。
「あ……」
ナキイが庇ってくれなければ、今頃自分は餌食になっていたのだと気づき、孝宏は身を震わせた。隠した恐怖が涙とともに溢れそうになるのを、懸命に堪え、≪大丈夫です≫と小さく答えた。
「早く、逃げ……ぐっ」
ナキイの言葉が詰まった。
盾を支える両手は震え、肘は徐々に折れ曲がっていく。
このままでは押し切られるのは時間の問題だろう。孝宏は弾けるように立ち上がった。
「ルイ、立てるか?」
今は一刻も早くここを離れなければならない。それだというのにルイの腕を軽く引っ張り立つよう促しても、唸るばかりで返事はなく、それどころかこちらの声が聞こえているのかすら怪しい。
――kikikikikikikiki――
巨大蜘蛛が笑い、焦りが募る。
「とにかく逃げないと!」
孝宏はルイの片腕を強引に引っ張り、自身の肩に回し立たせようとした。だが、ルイは膝が伸びた瞬間、体を捩って孝宏を拒絶した。
「うう……ぐぁぁああ……ぐぐぐ」
ルイが膝を付き、無様にお尻を突き出し頭を石畳に激しく打ち付ける。首を、顔を掻き毟り、頭に巻いたターバンを力任せに鷲掴んだ。
「お…………」
苦しげに唸るルイに、孝宏は言葉を失った。それでも止めようと孝宏が手伸ばせば、ルイは乱暴に払い、または掴んで投げ捨てる。
ルイは完全に理性を失っているようだった。
あまりにも体格差のある二人。今の状態では孝宏がルイを運ぶのは難しいだろう。
背後のどうしようもない気配に、ナキイは大きく息を吐きだした。
彼の変化が巨大蜘蛛の足にぶつかった故のものならば、蜘蛛の体毛を浴びてしまった自分たちにも、遅かれ早かれ何かしらの影響が出るかもしれない。
さらに悪いことに蜘蛛と同じ姿形をしていても、この化け物は見た目以上に重量があり、単純な力比べなら完全に負けている。
ともすれば時間はそうそうない。
ナキイは盾の下先を、石畳の隙間に差し込み固定した。
盾を支える両腕が小刻みに震えている。腰を低く落とし、じりじりと靴底を擦って足を広げた。
焦ってはいけない。ナキイは努めて深く、ゆっくりと呼吸した。
――kiikikikikikikikiki――
巨大蜘蛛が前足を盾にかけてきた。体を盾にすり寄せ、左右の足計四本が盾を抱え、その巨体が盾にのしかかる。
「ぐっうぅ」
次第に増していく重圧に、ナキイは身を屈めながらも必死に耐えていた。
後ろに下げた左足の膝は折れ、腹筋と背筋が悲鳴を上げる。上半身は次第にのぞり、盾と自身の距離はもはやないに等しい。
地面に対して垂直に構えていた盾が、今はナキイを挟んで地面に迫りつつある。
巨大蜘蛛に押しつぶされるのも時間の問題かと思われた時、ナキイの歯を固く食いしばった口の口角が僅かに上がった。
「三番四番解放」
ナキイの足元は一般的な布製の紐靴だ。それがナキイの言葉を合図に、ふくらはぎまである半長靴へと変化した。
それと同時に布を裂く音がする。ナキイの体躯にぴったりとした服の下で、胸から肩、腕にかけて何かが這うように広がっているようだ。裂けた服の隙間から、暗い緑が覗く。
―kiiiikikikikiiiiiikiki―
巨大蜘蛛は一番前の足を、盾の上部に引っ掛けた。ナキイの頭上を蜘蛛の足先がかすめる。
巨大蜘蛛の地面に付いている足は、今や後ろ足の二本だけとなり、巨体を盾にのしかけ、体重の殆どをナキイはその身一つで受けていた。
「………ふん!」
ナキイはこれを待っていたと言わんばかりに、一気に盾を持ち上げた。全身の筋肉がぎゅっと縮まり盛り上がる。
巨大蜘蛛が盾から足を離す前に押し倒すと、蜘蛛は盾と共に腹を仰向けて倒れ込んだ。
―giigigigiiiikikiiiii―
巨大蜘蛛は足をばたつかせ、身を捩り反動を付け何とか起き上がろうと躍起になっているが、自身の最大の武器であろう巨体が邪魔をして起き上がれないでいる。
巨大蜘蛛の腹に乗る盾が放り出されると、ナキイはそれを拾った。盾にはヒビが入っている。もう少し遅ければ砕けていたかもしれない。
「これはもう使えないな」
ナキイは盾を元の小さなストラップに戻し、腰のベルトに止めなおした。首の汗を掌で拭いながら、空を仰ぎゆっくりと息を吐く。
「今のうちに逃げるぞ」
「でもルイが……」
屋台の下で尻餅をついて呆けている孝宏と、ナキイは二人の間で苦しみもがくルイに視線を落とした。
口元の包帯も頭のターバンも解け、赤毛に覆われた耳が片方露わになっているし、歯をむき出しにしてターバンの端を食いしばる口元は唾液に塗れている。額には汗が滲み、きつく閉じられた目を掻きむしっては手で覆い隠す。
それでも先程よりも息が弱々しく、ぐったりとして見えるのは気のせいではないだろう。
「ルイを治療できませんか!?」
先程男とぶつかって転んだ時、ナキイは医療魔術が使えると言っていた。ならばとも思ったが、ナキイは表情は厳しい。
「俺にできるのは傷口を塞いだりとか、早く治るよう本来の治癒力を高めたりするだけで、解毒の類は無理だ」
「毒?」
(確かに……)
顔を傷つけられて痛がっているにしては、孝宏はソコトラでの活躍を直に見ている分、違和感が大きいのは確かだ。
蜘蛛ならば毒を持っていてもおかしくはない。
しかし毒とはっきり言われると、知識の乏しい孝宏にとっては、死を予感させるものでしかなく、恐怖で息を詰まらせた。
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