溺愛アルファの完璧なる巣作り

夕凪

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1巻

1-3

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 十二年前にユーリ様が山で僕を見つけた時、僕のことを「幼児だと思った」らしい。
 僕は栄養状態がものすごく悪くて、身長も体重もすごく少なかったんだって。でも色々な検査をして、恐らくは七歳に達していたのではないか、という結論になったみたい。
 僕がオメガだったことも、年齢を裏付ける理由の一つに挙げられている。
 オメガというのは、男女以外にもう一つある性別で、とっても珍しい種類なのだという。
 ユーリ様はアルファで、アルファの数も少ないけれど、オメガの方がもっと少ないんだと言われた。
 このお屋敷で働いているのは大多数がベータで、でもアルファも少し交ざっているらしい。
 アルファはとにかく色んなことが人並み以上にできるのだと、教えてもらった。
 ベータよりも、オメガよりも、アルファは様々なことに長けている者が多い。

「ここは国の中枢だからね。サーリークこの国のアルファの大半は王城勤めだ」

 ユーリ様は僕に、そう教えてくれた。
 それから、僕の首に巻かれている革の首輪の意味も、教えてもらった。
 これは二年間眠りっぱなしだった僕がようやく目覚めて、この国の言葉にも慣れた頃にユーリ様からプレゼントされたものだ。
 僕の成長に合わせて毎年少しずつ作り替えられているから、当時のものとまったく同じではないけれど、喉元にはまっている黄金の宝石はその時に貰ったものをそのまま使っていた。
 この宝石の色は、ユーリ様の髪の色だ。
 そして、ユーリ様が言うには、僕の目の色とも似ているみたい。

「この首輪は決して外してはいけないよ」

 首輪を貰った時に僕は、ユーリ様からそう言い聞かされた。
 オメガという生き物は、アルファにうなじを噛まれると、強制的にそのアルファのものにならないといけないらしい。それを『つがい』と呼ぶみたい。
 つがいは、うなじを噛めばいつでも成立するわけではないらしい。つがいになれるタイミング、というのがあって、その時期を外すとたとえ噛まれたとしても、つがいは成立しない。
 その『時期』というのは、ヒートと呼ばれる発情期のことで、体が成熟したオメガはふた月に一度このヒートが訪れる。
 普通のオメガは十五歳~十七歳ぐらいで初めてのヒートを迎えるらしいけど、僕は十九歳にもなるのに一度も来たことがない。
 五感が弱いことが原因か、それとも幼い頃の栄養失調の影響で体が成熟するのに時間を要しているからか、理由ははっきりとはしていないけれど、僕にヒートはない。
 なので、本当はこの首輪も不要なのだろうけど、いざという時に僕が自分の身を守ることは難しいから、用心のためにと僕は毎日ユーリ様の髪色の宝石つきの首輪を巻いているのだった。
 仕事へ出かけるユーリ様を見送ってから、夕方まで、僕には簡単な仕事が待っていた。
 以前は日中は家庭教師について勉強をしていたけれど、ひと通りの基礎勉強が終了すると途端にすることがなくなってしまい、僕は部屋でぼんやりと過ごすことしかできなかった。
 屋敷内の他の人たちはそれぞれ仕事があって、たぶん僕だけが暇を持て余していて。それがなんだか居たたまれなくて、僕は、僕にも何かできる仕事はないかとユーリ様に尋ねてみた。
 ユーリ様から即答はなかったけど、それからひと月経った頃に、温室の花の世話をしてほしいと言われた。
 聞けば、このお屋敷に最近になって温室を作ったけれど管理をする人が居ない、花が咲いているか、水が流れているか、土が湿っているか、一つずつ確認してほしい、とのことだった。
 管理をする人が居ないなんてことはたぶん、ユーリ様の嘘だ。
 僕に与える仕事を色々探してくれた結果、温室なら、と許可を出してくれたのだろう。

「ユーリ様、ありがとうございますっ! 大好きですっ!」

 僕はユーリ様に力いっぱい抱きついて、お礼を言った。
 それ以降、ユーリ様がお休みの日以外は毎日、温室で仕事をしている。
 今日も温室へ出かけるべく、僕は部屋を出た。
 このお屋敷は広いけれど、段差が少ない。廊下には手すりがついているので、ふかふかの絨毯を踏みしめながら手すりを伝って歩く。
 昨年まで僕は、お城のユーリ様のお部屋に住まわせてもらっていた。お城は階段が多いし、廊下もたくさんあって、こんなふうに一人で出歩くなんてとてもじゃないけどできなかった。
 でも昨年に、当時の王様(ユーリ様のお父さんだ)がユーリ様と十七歳年の離れたお兄さんを次期王様に指名して、退位されるという出来事があった。
 新しい王様はマリウス様という名前で、戴冠式の時はお城が人で溢れかえっていたらしい。
 らしい、というのは、僕は式には参加せず、部屋でお留守番をしていたからだ。
 人がたくさん居る場所は僕にとっては危険だから、というユーリ様の心遣いだ。 
 マリウス様の戴冠式を区切りに、自分も王城を出るとユーリ様が言ったのは、その翌日のことだった。

「出ると言っても敷地内だけどね。使ってない別宮を手入れさせたんだ。リヒトもきっと気に入るよ」

 当然のように僕も一緒に連れていくと言ってもらえて、ものすごく嬉しかった。

「二番目の兄もとっくに城を出てるし、僕もずっとタイミングを計ってたんだよね。父上だって健康上の理由を口実に退位されたけど、本音は面倒事は兄上にぜんぶ押し付けて母上と二人の隠居生活を満喫したいだけなんだよね。兄上には頑張っていただいて、僕も僕の好きにさせてもらうことにしたよ」

 ユーリ様はそう言って、僕をひょいと抱っこしたその足でこのお屋敷に移ったのだった。
 敷地内と言っても徒歩ですぐ、というわけではなくて、馬車で少し走らなければならない。でも、ユーリ様のお仕事先(詳しくは知らないけど、外国との窓口係だとユーリ様は言っていた)にはこの別宮からの方が行きやすいようだ。好きにさせてもらうと言いつつもマリウス様を支えるお役目のことをちゃんと考えているところが、ユーリ様らしかった。
 このお屋敷内にいくつ部屋があるだとか、外側から見たらどういう造りになっているとか、そういうことは僕にはよくわからない。遠くにあっても近づいてみても僕の視界はぼやけたままだから、大まかな輪郭しか判別できないんだ。
 それでも手すりがあれば安心で、僕は淀みなく足を進めた。
 しばらく歩くと手すりが途切れる。その角を左に折れたら、今度は左側にロープが張られていて、そこを伝って歩けるようになっている。
 足元がふかふかの絨毯から、石造りに変わる。触覚も鈍い僕なので、明確には気づけない。でも最初に温室まで連れてきてもらった時に、ユーリ様がそう説明してくれた。

「ここから足元の感触が変わるから、転ばないように気をつけるんだよ」

 その言いつけを僕はちゃんと覚えている。
 転ばないように、転ばないように。
 自分に言い聞かせながらロープを辿って歩いていると、突然、声が聞こえた。

「おいっ」

 それと同時に背後に腕を引かれて、ぐらりと体が傾く。

「……っ! くそっ! …………か? …………ってないな?」

 誰かが倒れかけた僕の背を支えて、何かを言っている。
 後ろからなので聞こえにくい。何を言われたかわからない。
 首をひねって背後を見上げると、茶色い髪が見える。
 ユーリ様の側近のロンバードさんだろうか? でもこの時間は彼もユーリ様と一緒にお仕事に行っているはずだ。

「ど、どなたでしょうか」

 ロンバードさん以外で茶色い髪の人……何人かの名前は頭に浮かんだけれど、あてずっぽうに呼ぶことはしない。前に一度それで失敗したからだ。
 温室で花の手入れをしていた時のことだった。
 葉っぱの重なり合う緑色の向こうに、金色の頭が見えた。
 てっきりユーリ様かと思って、「ユーリ様っ」と抱きついたら、まったく別の人で、悲鳴を上げたその人に僕は突き飛ばされて、ころんと地面に転がってしまった。
 土まみれになった僕を置いてその人はどこかへ行ってしまい、しばらくすると本物のユーリ様が息を切らせて走ってきて、立ち上がれない僕を抱っこして部屋へ連れ帰ってくれたのだった。
 ユーリ様と同じ金髪だというだけで人違いをしてしまった僕は、自分が情けなくて恥ずかしくて、なんどもユーリ様に謝った。
 ユーリ様は「気にしなくていいよ」とやさしく慰めてくれたけれど、僕はこれを教訓にして、二度と間違わないように誰かと会ったら必ず名前を尋ねるようにしている。

「前にも教えていただいてたらすみません。僕は目が良くないので、お顔が見えません。どなたが、僕を支えてくれてるのですか」

 謝りながらも問いかけた僕に返ってきたのは、聞き取れないほどの早口の声で。
 何事かを言ったその人は、僕の手にロープを握らせるとそのままどこかへと行ってしまった。
 いつもこうだ、とかなしくなる。
 僕が顔を判別できないからだろうか。それとも耳が遠くて会話が面倒だからだろうか。
 このお屋敷の人は誰も、ユーリ様のようには僕に話しかけてくれない。
 誰かに会っても、今のようにすぐ逃げてしまう。
 まるで僕とは、接触したくないとでもいうように。
 僕はとぼとぼとロープを伝って歩き、温室に入った。
 太陽を燦々さんさんと浴びているガラス張りのこの場所は、夏場はとても暑くなるのだという。今は冬だから問題ないけれど、夏になったらあまり長い時間居てはいけないよ、とユーリ様に言われている。
 でも僕は暑いのも寒いのもあまりわからない。
 ユーリ様と同じものを食べても、ユーリ様のように「おいしいね」と笑うこともできない。
 人の見分けもつかないから、ご飯をありがとう、掃除をありがとうとお礼を言うこともできない。せめて僕の目の前で色々なことが行われたならば、その場で頭を下げることができるのに、使用人は基本的に主人の目に入るところで仕事はしないらしく、ユーリ様と一緒に居る僕にその機会が巡ってくることはほとんどなかった。
 僕ってほんとに役立たずだ。だから捨てられてしまったのだろうか。
 普通の目がほしかった、と僕は思った。
 普通の目と、耳と、舌と、鼻がほしかった。
 暑さも寒さもわかる、普通の皮膚感覚がほしかった。
 そうすれば。
 ユーリ様と他の人を見間違えたりしないし。
 ユーリ様の声を聞き漏らすこともないだろうし。
 ユーリ様と同じように、おいしいですね、いい匂いですね、と笑えるだろうし。
 ユーリ様に抱きしめられた時に、もっと近くにユーリ様を感じることができるし。
 それに何より、ユーリ様のお手をわずらわせることもなく、他の人と同じようにユーリ様のお役に立つことができただろうに。
 僕はいつまでユーリ様のお傍に居られるだろうか。
 今は一つのベッドで眠り、「おはよう、僕のオメガ」と言ってもらえているけれど。
 なぜユーリ様がこんなにも僕に親切にしてくださるのか、僕にはよくわからない。
 きっと、死にかけの子どもを拾った、義務感のようなものがユーリ様にはあるのだと思う。
 とても尊い身分で、国のため、兄である王のためにと熱心に務めるお方だから、僕のような役立たずの面倒も嫌がることなく見てくださっているのだ。 

「捨てられたくないなぁ」

 僕はぽつりと呟いた。
 せめて五感のうち、どれか一つでもまともであったなら、僕にできることも少しはあったかもしれないのに。
 先のことを考えるとそこには不安しかなくて、僕は温室で一人、少しだけ泣いた。




    第五章 甘美なるアルファの苦悩


 文官がユリウスの執務室の前で列をなしている。ロンバードの呼びかけに応じて一人ずつ入室し、決済が必要な書類を提出したり指示を仰いだりとこま鼠のように動き回る。
 ユリウスは忙しなく手と口を動かしてそれに対応し、午前中の激務を終えた。
 現在のユリウスの身分は、外交長官である。
 ユーリ様はどんなお仕事をされてるのですか、と可愛い口調でリヒトに質問をされたことがあるが、その時は諸外国との窓口係だと答えた。わりと的確な表現だと自分では思っている。
 ここは王城と渡り廊下で繋がっている外殻塔の一つで、主に外交に関する仕事を取り仕切っている場所だ。リヒトと暮らす別宮は王城の裏手側にあり、この外殻塔の位置関係を考えると、城内の居館から通うよりもアクセスはいいのだった。

「仕事量えぐいっすけど、ユリウス様、あんた、最近ちゃんと寝てますか?」

 短い昼食の時間にロンバードに鋭く指摘され、ユリウスはサンドイッチを頬張りながら肩をすくめた。

「ちゃんと寝てるよ。ただ、そうだなぁ。僕のオメガが可愛すぎて寝顔に見とれて寝不足になることはある」
「その言葉、どこまで冗談かわかりませんが」
「リヒトの可愛さについて論議したいって?」
「言ってません」
「おっと、こんな時間だ。片づけを頼む。僕はクラウス兄上に呼ばれてるんだ」

 ひらり、と手を振ってユリウスは話を切り上げ、執務室を出た。
 向かう先は居館の、次兄であるクラウスがもともと使っていた部屋だ。彼がつがいのエミールとともに城を出た後もそのまま残されているため、城に泊まる際にはいつでも使えるようになっている。
 ちなみに昨年別宮へ移ったユリウスの部屋も、ちゃんと残されていた。
 王城は広く、まともに歩くと時間がかかるため、王族や一部の人間のみが知る隠し通路を使ってショートカットする。足早に訪れた次兄の部屋の前でリズミカルなノックをすると、扉はすぐに内側へ開いた。

「ユーリ、よく来た」
「ユーリ様、こんにちは」

 穏やかなトーンで次兄夫夫ふうふがユリウスを迎えてくれる。
 これが現国王夫妻であったなら、一歩部屋に入った時点でもみくちゃにされるが、この二人はユリウスに対して過度なスキンシップを仕掛けてこないので安心だった。
 しかし、エミールが親愛の情を込めたハグと音だけのキスを頬にくれた時、次兄の奥歯がごりっと音を立てた。ユリウスはあえてそれには気づかないふりをする。
 クラウスはとにかくエミールのことが好きで好きで大好きで、けれどユリウスのことも大好きだからどちらに焼きもちを焼けばいいかわからずに、挨拶のたびにこうして奥歯を噛み締めているのだ。
 アルファの独占欲というのは、本当にどうしようもないな、とユリウスはしみじみ思う。
 両親しかり、マリウスとアマーリエしかり、クラウスとエミールしかり。
 アルファとオメガはかくも互いに惹かれ合い、一度つがったら離れられないものなのか。
 自分もそうだ。リヒトが大事で大事で可愛すぎて、この腕の中から出すことなんて考えられない。叶うことならこのまま他のアルファに会わせずに閉じ込めておきたいぐらいだ。
 リヒトのためなら、ユリウスはなんでもできる。それこそ十年前、おのれのオメガのために騎士団を辞し、外交長官の職位ポストに就くことを決めたように。
 おまえのオメガはデァモントの教団中枢の関係者かもしれない、と長兄から聞かされたあの時から、ユリウスはデァモントについての情報を得るために奔走してきた。
 そうして動いている内に、このまま騎士団に所属しているよりもおのれで直接外務に就いた方が情報を集めることができるのではないかと考え、父に相談したところ、あっさりと人事が通った。
 長男マリウスが、国王。
 次男クラウスが、騎士団長。
 そして三男ユリウスが、外交長官。
 三人がそれぞれ、国の重要な役割に割り振られた形となった。
 さてはリヒトがデァモントの関係者だとする兄の言葉は、ユリウスをこのまま騎士団で遊ばせておくよりも重役を与えたいと願っていた父が裏で糸を引いていたのではないか。
 後からユリウスはその可能性に思い至ったが、ともかく結果として外交長官となったことでデァモントに関する証言や資料は入手しやすくなった。
 しかし十年の時をかけても目ぼしい進展はない。
 デァモントからの亡命者自体が、激減しているからである。
 それが良い兆しなのかどうかも、情報が少なすぎて判断がつかないのが現状だ。
 だが、今日はクラウスが、そのデァモント教団について新たな証言を得られるかもしれない、とユリウスを呼んだのだった。
 クラウスが団長を務める騎士団には専属の医療施設があり、のこぎりゼーゲ山脈を越えて難民が幾人も流れてきたあの十二年前の騒動の際に保護をした、ヤンスという男がそこで働いている。
 デァモントからの亡命者は基本的に客人扱いを受けるが、希望者は職能訓練を受け、就業することが認められていた。
 昔に比べると今は周辺諸国との小競り合いも減り、騎士団の仕事も国内の治安や災害時の救助などが主となっているため、騎士団専属の医療施設も一部を民間へ開放している。
 ヤンスはそこで病人や怪我人の看護をしていく中で、とある女性と出会い、数年の交際を経て今年に結婚をしたのだという。

「妻をめとったことで、我が国サーリークに骨を埋める決意をした、知っていることはすべて話す、とヤンスは言っている」

 ユリウスは顎に手を当て、目を閉じて次兄の話を聞いていたが、クラウスの言葉が切れた段でまぶたを持ち上げた。

「十年以上かたくなに口を閉ざしていたのに、結婚をしたというだけでそうもあっさりと気持ちが変わりますか?」

 ヤンスという男の為人ひととなりをユリウスは知らない。だから自然と懐疑的になる。
 クラウスはユリウスの疑問に微かな笑みを返した。

「奥方のお腹に、子どもがいるそうだ。生まれてくる子どもをデァモント自国で育てたいか、と考えた時に、目が覚めた気がしたのだと」
「では、洗脳は解けている、と」

 デァモント教団は、民を洗脳し信仰心を操っている、とは長兄の言葉だ。

「それはおまえが判断しなさい、ユーリ。近日中にヤンスを連れてくるから」
「いえ。僕の方から出向きます。僕のオメガに関係することですからね」

 ユリウスが笑ってそう言うと、クラウスの隣に座っていたエミールが小さく肩を揺らした。

「あなたがたはどうして、オメガのためにそうも頑張ろうとなさるんでしょうね」

 控えめで物しずかな話し方をするエミールへと、次兄がやわらかな眼差しを向ける。

「オメガのために動けないアルファなど」
「サーリークのアルファではありませんよ」

 クラウスの言葉の後半をユリウスが引き取り、断言した。
 エミールはなおも笑いながら、小首を傾げて問いかけてくる。

「それで、ユーリ様。いつになったらあなたのオメガに会わせてくれるんですか?」

 両親も長兄も次兄もその伴侶たちも、ことあるごとにリヒトに会わせろと口にする。今日もその話題が出るだろうと予想していたユリウスは、素っ気なく首を横に振った。

「僕以外のアルファには会わせません」
「オレはオメガですが」
「エミール殿。あなたが来るとなれば必ず兄上も同行されます。却下です」
「ユーリ。少し狭量が過ぎないか」

 クラウスが眉尻を下げて呆れたようにこちらを見た。
 エミールが挨拶のキスをユリウスにするたびに音が鳴るほど奥歯を噛み締めている次兄に、狭量についてとがめられたくはない。

「とにかくダメです。せめて僕のオメガが、僕を僕として認識できるようになるまでは、絶対にダメです」

 ユリウスが首を横に振りながら断固として拒絶すると、次兄夫夫ふうふが揃って目を丸くした。

「え……? ユーリ様、今のはどういう意味でしょう」

 エミールが恐る恐る尋ねてくる。
 しまった口が滑った、と思いつつもユリウスは、仕方なく数か月前の『人物誤認事件』について語った。

「僕のオメガは五感が弱い、というのはご存じでしょう。リヒトは目が見えにくい。それで先日、金髪の使用人を僕と間違えて抱きついてしまう、という事件が起こったのです」

 あの時――温室に行ったリヒトが、ちょうどそこで作業をしていた使用人を見つけ、「ユーリ様っ」と言って背中から抱きついたらしい。
 使用人は温室内の水やり装置が故障して水たまりができてしまっていたため、リヒトが来る前にそこに土をかぶせてリヒトが歩いても大丈夫なように整えようとしていたらしい。仕事熱心で気の利く使用人である。
 しかし、許しがたい。
 リヒトに抱きついてもらったというだけでも許しがたいのに、なんと、リヒトの行動に驚いた彼は咄嗟にリヒトを突き飛ばしてしまったと、泡を食って執務中のユリウスへ報告に来たのだった。
 ユリウスが温室に駆けつけた時、リヒトは呆然と泥の中に座り込んだままだった。
 服の袖にも、ズボンにもべっとりと泥は付着して、びしょびしょに濡れていた。
 泥まみれのその姿に、彼を拾った時の情景が重なって、ユリウスは慌てておのれのオメガを抱き上げた。
 十九歳(推定)という年齢からは想像もつかないほど華奢で小柄な体だ。子どもの頃の栄養不足や二年間の寝たきり生活が残した影響は、やはり大きかった。

「リヒト、大丈夫? どこか痛いところは?」

 早口で問いかけてから、これでは聞きとれないと気づいて、今度はゆっくりと大きな声で尋ねる。
 リヒトの大きな金色の瞳が頼りなく動き、ユリウスの顔を映した。

「……ゆ、ゆぅりさま、ですか?」

 たどたどしい声が、小さな口から漏れた。
 わからないのだ。この子には。僕の顔が。
 そのことを、誰よりもリヒト自身がかなしんでいる。真っ青になって震えて、もう間違えたくないと怯えつつも、今自分を抱き上げているのは誰かを問うている。

「そう。ユーリだよ。僕のオメガ」
「……ユーリ様。ごめんなさい。僕、僕……」
「大丈夫大丈夫。何も謝ることなどないよ。リヒト、風邪をひくから着替えよう」
「ユーリ様、僕、ま、まちがえて」
「リヒト。大丈夫」

 ちゅ、と目元にキスを落とすと、リヒトのまぶたが閉じた。そこから大粒の涙が転がり落ちるのを見て、ユリウスの胸がぎゅっと苦しくなった。
 その時の情景を思い出しながら、

「その後から屋敷の金髪の者は必ず帽子やスカーフで頭を覆うように言いつけてますから、もうこんなことはないと思いますけどね。クラウス兄上もマリウス兄上も僕と同じ金髪ですし、エミール殿、あなたの髪も明るいのでダメです」

 つけつけとそう言ったユリウスに、エミールが戸惑うように口をもごもごと動かした。

「なんですか? 過保護だなんだという苦言はロンバードとグレタで充分間に合ってますよ」
「いえ、そうじゃなくて……あの」

 エミールが窺うようにチラと隣のクラウスを見上げた。クラウスがそれに頷くと、エミールはひどく言いにくそうに尋ねてきた。

「ユーリ様、あなたのオメガ……リヒト様が、ユーリ様と使用人を誤認した、ということですが、あの……彼は、ユーリ様の匂いもわからないのでしょうか?」

 匂い、と言われた瞬間、ユリウスの顔が歪んだ。
 話しすぎた、と思ったが、言った言葉はなかったことにできない。
 仕方なくユリウスはそれを認めた。

「……そうだね。リヒトは鼻も利かないから、アルファの匂いもわからない」

 リヒトと同じオメガであるエミールが言葉を失った。
 クラウスも愕然としたように目を見開いている。
 それはそうだろう。アルファの匂いを感知できないオメガなど、前代未聞だ。

発情期ヒートはどうなのです」

 エミールに問われ、ユリウスは首を横に振った。

「まだありません。用心のために首輪は欠かすことなくつけていますけどね」

 五感の弱いリヒトは、いざという時に自分で身を守るどころか危険を察知することすら難しい。
 だから決して外さないように言い聞かせて、毎日うなじをガードする首輪を装着させている。首輪は簡単には外せないようロックがかかっていて、その鍵はユリウスが持っている。
 ヒートがないのでつがうことはまだできないけれど、うなじにおのれの歯形がないというだけで、あの子がユリウスのオメガだという事実に変わりはなかった。

「匂いがわからない、ヒートがこない、ということは僕にとっては些事さじですよ」

 ユリウスは片頬で軽く笑って、この話題を終わらせようとした。
 しかし次兄が厳しい顔つきで口を挟んできた。

「ユーリ。おまえ、夜はどうしている」
「夜? もちろん寝てますよ」
「おまえのオメガと一緒にか」
「ええ」

 リヒトを拾った時から、ベッドは常に共にしている。
 小さな体を抱きしめて眠ることは、もはや息をすることと同じくらい自然なことだった。
 リヒトもそう思っているのだろう。成長してからも、一緒の寝台に入るのを拒まれたことはない。

「侍医はなんと言っている」

 クラウスの質問に、ユリウスは笑って答えた。

「見違えるほど健康になった、と」
「違う。リヒトではなくおまえのことだ」

 はぐらかそうとしたユリウスを許さずに、クラウスは追及を重ねた。

を、侍医はなんと言っているんだ」
「…………」

 ユリウスは唇を引き結び、無言で兄の青い瞳を見つめた。

「ユーリ。答えなさい」

 十五歳年上の兄の命令に、ユリウスは天井を仰いで溜め息を漏らした。

「わかりました、言いますよ。抑制剤は毎日飲んでます。でも僕は健康です。これでいいですか」

 早口に答えながら両腕を広げておのれの頑健さを主張したが、クラウスの眼差しはゆるまない。エミールまでもが心配そうに眉をひそめ、「毎日!」と口を押さえた。
 そう、ユリウスはリヒトを手元に置いて以降、十二年もの間毎日アルファの本能を抑えつける抑制剤を飲み続けていた。
 サーリーク王国ではアルファ用の抑制剤というのは、特段珍しいものではない。
 特に、不特定多数の人間が集う場へ出る機会のあるユリウスら王族たちや、任務で見知らぬ土地に赴くことの多い騎士団員の内の多くのアルファは、抑制剤を服用していた。  
 不意にオメガと接触した際に、本能のままに行動してオメガを傷つけないためである。
 しかし抑制剤は、恒常的に服用するものではない。体内に抗体ができてしまい、薬の効きが悪くなるからである。薬効を求めて強い成分の物を口にすれば、今度は副作用に苦しむこととなる。
 だから多くのアルファは抑制剤を必要な場面でのみ使用している。
 そもそも特定の相手が居るアルファの場合は、抑制剤は必要ない。
 伴侶相手に本能を抑制する必要はないし、伴侶の匂いがおのれにとっては至上のものとなるから、ほかの匂いに対しては興味が薄れるのだ。つがい持ちのアルファが、つがい以外のオメガのヒートに遭遇しても理性を保つことができた、という例は過去にいくつもある。
 それほどにアルファにとって匂いというものは、大きな影響がある。
 そして、好意を抱く者の匂いはアルファの本能を強く刺激する。それはもう、暴力的なまでに。
 今すぐこのオメガを自分のものにしたい、という独占欲、体の中におのれを注いで、自分の匂いを植え付けてやりたい、という肉欲、そしてうなじを噛んでつがいにしたい、という衝動が、胸の深くでぜて全身に広がり、耐えきれないほど欲望を掻き立ててくるのだ。
 抑制剤はそのどうしようもない欲求を散らす役割を果たしてくれる。
 毎日毎晩ユリウスの隣で眠るリヒトの可愛らしい寝顔と、やわらかそうな唇と、なめらかな頬のラインと、華奢な首筋と、そこから香る甘くて瑞々しい匂い。
 リヒトにはユリウスの匂いがわからない。
 けれどユリウスにはわかる。鮮烈で鮮明で他の誰とも違う、おのれのオメガの匂いが。
 口づけて、服をはいで、首輪を取り去って、リヒトのすべてを奪いたい。
 そうしたい、とユリウスが言えば、きっとリヒトは拒まない。
 リヒトは全面的にユリウスを信用しているから。
 食事の時はこうするものだ、とユリウスが教えたから、十九歳にもなるのにいまだにユリウスの膝に座って、ユリウスがひと口ずつ与えるものを、なんの疑問も抱かずに雛鳥のように食べるほど、純真な子だから。
 ユリウスが望めば、リヒトは拒まないだろう。でも、あの子に喜びはない。
 皮膚感覚に乏しいリヒトに、ユリウスが触れたところで、快感などは生まれない。ヒートを起こさないということはつまり、リヒトの体が肉体の交わりを必要としていない、ということだ。
 ユリウスは欲望のままにリヒトを傷つけるなんてことは、絶対にしたくない。
 だから抑制剤を飲み続けている。

「オメガを守ろうとするおまえの気持ちは立派だ。けれど私には弟を心配する権利がある。ユーリ、毎日おのれのオメガと居て、飢えないアルファなど居ない。その飢えを薬で抑えるか、他で発散させるか。おまえはどっちだ」

 クラウスが言葉通り弟を心配する兄そのものの表情で問いかけてきた。
 ユリウスは右手を広げ、次兄の前にかざした。

「僕には右手これがありますよ」 

 冗談を言ったつもりだったが、どうやら不発だったようだ。クラウスの顔が痛ましげに曇ってしまった。

「兄上、エミール殿も。そう深刻にならないでください。僕にとってこれは、大した問題ではありませんから」
「ユーリ様、しかし、この先もあなたのオメガにヒートが来なければ……」
「たとえそうであったとしても、あの子が僕のオメガだということに変わりはありません。何度も言いますが、僕にとっては些事さじです」

 ユリウスはきっぱりと断言した。
 エミールが口をつぐんだ。しかし弟を溺愛しているクラウスは釘を刺すのを忘れなかった。

「抑制剤は控えなさい」
「兄上」
「オメガを想うおまえの気持ちはわかる。だからやめろとは言わないが、控えなさい。目の下に隈ができている。不眠は副作用によるものだろう。それと少し痩せたな。吐き気があるか。それも副作用だ」
「寝てますし、体重も落ちてません」
「虚勢を張れるうちに控えなさいと言ってるんだ。おまえが倒れたら、リヒトは誰が守る」

 痛いところを突かれて、ユリウスはぐっと押し黙り、白旗を上げた。

「わかりました。控えます」
「いい子だ、ユーリ」

 子どもの頃のようにクラウスに頭をなでられて、むず痒い気分になる。これが長兄のマリウスだったなら、もみくちゃにされていただろう。このことがバレたのが次兄でまだ良かった。
 エミールも口が軽い性質たちではないので、この件はこの場限りで収められる。
 ユリウスは気持ちを切り替え、エミールの方を向き直る。

「それで、エミール殿のお話というのは」

 今日はデァモントの件をクラウスから聞くことの他に、兄のつがいからも何やら相談したいことがあるとのことだった。
 エミールもパッと表情を改め、卓上にいくつかのカードを並べだした。

「来月、アマル様のお誕生日がありますよね」
「ええ。国王陛下が大張り切りでパーティーの段取りを仕切ってましたが」

 大好きな妻の誕生日を祝うことに長兄は毎年命を懸けている。自身が父の跡を継いで国王の座に就いてからも、それはなんら変わることはなかった。

「それでオレたちからもアマル様に贈り物をと思い、十日後に行商人を呼ぶ予定なんです。王都でも評判の良い、珍しい外国の品々を扱っている旅商をいくつか拾い上げ、絞り込んでいたら、雑貨や宝飾品だけでなく菓子や果物なども扱っている者もいるようで」
「へぇ。それは楽しそうだ。アマル殿はお買い物が好きですから、喜ばれるでしょうね」
「ユーリ様にそう言ってもらえると安心です」
「相談って、アマル殿が好きそうな行商を一緒に探してほしいってことですか?」

 テーブルの上のカードを眺めながら、ユリウスは問いかけた。色とりどりのそれは、行商人たちがそれぞれで作っている、おのれの店を宣伝するための名刺だ。
 この中からどの店がアマーリエのお気に召すか選んでほしいという相談ならば、自分よりもアマーリエの子どもたちの方が適任ではないか。

「いいえ、そうではなくて……大変差し出がましいとは思いますが、ユーリ様。あなたのオメガ……リヒト様は外へ出たことがないそうですね。ずっとお屋敷の中で暮らしていると聞いています」
「そうだけど」

 これはリヒトを別宮に閉じ込めていることを非難されているのか。
 警戒も顕わにユリウスが目を細め、冷えた声で応じると、クラウスがつがいを庇うかのように身を乗り出して、落ち着きなさいとてのひらを向けてきた。

「ユーリ。エミールはその旅商をおまえのところへやって、リヒトにも楽しんでもらったらどうだろうかと提案したいんだ」
「もちろん、リヒト様の目や耳についての配慮は必要かと思いますが、屋敷の中だけでは退屈でしょう。異国の食べ物や衣類、工芸品などに触れることで、リヒト様の気分転換になれば、と……」

 クラウスの肩越しに、エミールがこちらの機嫌を窺いながら言葉を繋いできた。
 ユリウスはその提案をしばし吟味する。
 別宮に行商人を呼ぶ……確かに悪くないかもしれない。
 リヒトが喜ぶならば、手配してもいい。ただし……

「もちろん出入りする者のバース性を調べた上で、ベータのみを手配します」

 エミールが先んじてユリウスの懸念を払拭した。 

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