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リヒト⑪
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二度言われてもやっぱり意味がよくわからなくて、僕は首を横に振った。
「でも僕は、匂いも味もわかりません」
嘘じゃない。
食事のときユーリ様が、これは甘いよ、これは香ばしくてほんの少し辛いよ、これは岩塩と胡椒の味付けだよ、などと色々教えてくれるけれど、僕にはどれもぼんやりとしていてよくわからないし、匂いだってどれもぼやけて同じように感じる。
だから味覚も聴覚も治ってなんかいないのに。
「リヒト様。あなたの感覚はどこも悪くありません」
シモンさんはハッキリと、そう断言した。
しわの寄った手が、僕のぎゅっと握った手の上に重なる。
シモンさんが椅子から身を乗り出して、僕の顔を正面から見つめてきた。
「医師である私にはわかります。あなたはもう治っている」
「……」
「ではなぜ、匂いと味がわからないのか」
「……なぜですか?」
恐る恐る小さな声で問いかけてみたら、片眼鏡のレンズが窓からの陽光を反射して、キラリと光った。
「ふぅむ……私が思うに、理由はあなた様にありますなぁ」
「僕に?」
僕はコトンと首を傾げてシモンさんの説明を待った。
シモンさんは診察をするときの手つきで僕の首筋から頬にかけてを指で確かめ、ふむ、と頷く。
「リヒト様。なにか、不安なことや気になることがありませんかな?」
やさしく尋ねられて、僕はますます首を傾げてしまう。
不安なことは、ありすぎるぐらいあって、そのうちのどれを伝えればいいのかわからないほどだ。
返事に困って口をもごりと動かしたら、シモンさんが「たとえば」と続けた。
「たとえば、誰にも打ち明けられない秘密ごとなどは、どうですかな?」
秘密ごと。
その指摘に僕はこくりと唾液を飲み込んだ。
真っ先に思いつくのは、ハーゼのことだ。
僕は、僕が出来損ないのハーゼだったことを、ユーリ様にも誰にも打ち明けられないでいる。
それは僕の罪だ。
信者のひとを苦しめるだけ苦しめてきたハーゼ。僕のせいで信者のひとたちはお腹を空かせていて、けれど一生懸命働いていて……僕は彼らのために神様の声を聞かないといけなくて……。
だけど神様の声をうまく聞くことができなくて、僕が話すたびに信者のひとたちは泣き叫んで、もっとちゃんと神様の声を聞いてください、と僕に取り縋ってきて……。
ぶるり、と体が震えた。
僕の秘密ごと。誰にも言えない秘密ごと。
それがあるから、なんだというのだろうか。
忙しないまばたきをしながらシモンさんを伺うと、シモンさんはやわらかな表情を変えずに口を開いた。
「ストレス、という言葉をご存知ですかな?」
「すとれす?」
「然様にございます。ストレス、というのは物事がゆがんでいる状態のことです。たとえば、そうですなぁ」
シモンさんは周囲を見渡し、窓際のソファからクッションをひとつ持ってきて、僕の前に掲げた。
「これが、リヒト様だとします」
クッションが僕? と思いながら頷くと、シモンさんが自分のベルトをしゅるりと引き抜いて、四角いクッションにぐるりと巻き付けた。
交差する部分をぐいと引くと、ベルトの部分だけクッションが中心にぎゅっと寄って、いびつな形になる。
「この、ゆがんだ状態がストレスです。元の形が変わってしまってるでしょう」
おわかりですかな、と尋ねられて、僕はもう一度頷いた。
「外部からの刺激で、本来の形がゆがんでいることをストレスと言い、この刺激自体を……ここではこのベルトのことですなぁ。クッションをゆがめているこのベルトを、ストレッサーと呼びます」
ストレスと、ストレッサー。
わかったようなわからないような気持ちで、僕はクッションを見た。
「僕は、このゆがんだクッションのようになっているということですか?」
「はいな。ストレスを与えられると、正常なものもこうしてゆがんでしまう。あなたの感覚とて例外ではありますまい」
「僕が匂いと味がわからないのは、このすとれすのせいですか?」
「はいな。そしてあなたの抱える秘密ごとが、このストレッサー……ベルトです。リヒト様、ほら、こうしてベルトをほどくと……」
シモンさんが手から力を抜き、クッションを締め付けていたベルトをほどいた。
ゆがんでいたクッションはベルトの名残でおかしな形になっていたけれど、シモンさんがトントンと膝で跳ねさせているうちに、もとの四角へと戻っていた。
「どうです。ストレスのない状態では、治すのも容易い」
魔法のようだった。
僕は見開いた目にクッションとシモンさんを映して……シモンさんの手にぶら下がっているベルトに視線を向けた。
僕の抱える秘密ごとが、あのベルトなのだとシモンさんは言っているのだ。
ハーゼであったことを隠していることが、僕のストレスで。
だから僕の味覚と嗅覚が治らないのだ、と。
ストレスがなくなれば、治療できる、と。
シモンさんは言ったのだ。
「……ぼく、僕は、治りますか?」
「はいな。もう治っております。なのにそれをストレスが邪魔しておるのですなぁ」
やわらかな笑い声とともに、シモンさんが頷いた。
僕は……僕は、ユーリ様の匂いがわかるようになりたい。
ふつうのオメガのように。ユーリ様の匂いを嗅いでみたい。
匂いがわかれば、僕も、僕だって、まともな……エミール様のようなオメガに近づけるかもしれないから。
僕は嗅覚を治したい。
そのために必要なのは……。
急に、ぶるぶると全身が震えだした。
どうしよう。怖い。
僕がハーゼだと、出来損ないのハーゼだったと、ユーリ様に話すのが怖い。
信者のひとたちは僕を嫌っていた。神様の声をうまく聞くことができなくて、信者のひとたちにとって嫌なことしか告げることができなかったから、みんな僕を嫌っていた。
ユーリ様も嫌いになってしまうかしら。
僕が、ハーゼだとわかったら。
ユーリ様も、不出来な僕ではなくて、もっとちゃんとしたハーゼの方がいいと、思うだろうか。
僕に、早く死んでほしいと思うだろうか。
早く僕が死んで、次のハーゼを迎えたいと思うだろうか。
次こそは、次こそは、次こそは。
耳の奥で昔に聞いた信者のひとたちの声がわんわんと鳴っている。
ああ、どうしよう。
震えながら僕は自分の体を抱きしめた。
怖い。話すのが怖い。怖いのに……。
ユーリ様の匂いを、諦めきれなくて。
どうしても、まともなオメガになりたくて。
僕は泣きながら、シモンさんを見上げた。
「……ゆぅりさまと、おはなししたいです」
口がうまく動かなくて不明瞭な音になったけれど、シモンさんはちゃんと聞き取ってくれて、
「はいな。それでは殿下をお呼びいたしましょうなぁ」
と、おっとりと微笑んだ。
「でも僕は、匂いも味もわかりません」
嘘じゃない。
食事のときユーリ様が、これは甘いよ、これは香ばしくてほんの少し辛いよ、これは岩塩と胡椒の味付けだよ、などと色々教えてくれるけれど、僕にはどれもぼんやりとしていてよくわからないし、匂いだってどれもぼやけて同じように感じる。
だから味覚も聴覚も治ってなんかいないのに。
「リヒト様。あなたの感覚はどこも悪くありません」
シモンさんはハッキリと、そう断言した。
しわの寄った手が、僕のぎゅっと握った手の上に重なる。
シモンさんが椅子から身を乗り出して、僕の顔を正面から見つめてきた。
「医師である私にはわかります。あなたはもう治っている」
「……」
「ではなぜ、匂いと味がわからないのか」
「……なぜですか?」
恐る恐る小さな声で問いかけてみたら、片眼鏡のレンズが窓からの陽光を反射して、キラリと光った。
「ふぅむ……私が思うに、理由はあなた様にありますなぁ」
「僕に?」
僕はコトンと首を傾げてシモンさんの説明を待った。
シモンさんは診察をするときの手つきで僕の首筋から頬にかけてを指で確かめ、ふむ、と頷く。
「リヒト様。なにか、不安なことや気になることがありませんかな?」
やさしく尋ねられて、僕はますます首を傾げてしまう。
不安なことは、ありすぎるぐらいあって、そのうちのどれを伝えればいいのかわからないほどだ。
返事に困って口をもごりと動かしたら、シモンさんが「たとえば」と続けた。
「たとえば、誰にも打ち明けられない秘密ごとなどは、どうですかな?」
秘密ごと。
その指摘に僕はこくりと唾液を飲み込んだ。
真っ先に思いつくのは、ハーゼのことだ。
僕は、僕が出来損ないのハーゼだったことを、ユーリ様にも誰にも打ち明けられないでいる。
それは僕の罪だ。
信者のひとを苦しめるだけ苦しめてきたハーゼ。僕のせいで信者のひとたちはお腹を空かせていて、けれど一生懸命働いていて……僕は彼らのために神様の声を聞かないといけなくて……。
だけど神様の声をうまく聞くことができなくて、僕が話すたびに信者のひとたちは泣き叫んで、もっとちゃんと神様の声を聞いてください、と僕に取り縋ってきて……。
ぶるり、と体が震えた。
僕の秘密ごと。誰にも言えない秘密ごと。
それがあるから、なんだというのだろうか。
忙しないまばたきをしながらシモンさんを伺うと、シモンさんはやわらかな表情を変えずに口を開いた。
「ストレス、という言葉をご存知ですかな?」
「すとれす?」
「然様にございます。ストレス、というのは物事がゆがんでいる状態のことです。たとえば、そうですなぁ」
シモンさんは周囲を見渡し、窓際のソファからクッションをひとつ持ってきて、僕の前に掲げた。
「これが、リヒト様だとします」
クッションが僕? と思いながら頷くと、シモンさんが自分のベルトをしゅるりと引き抜いて、四角いクッションにぐるりと巻き付けた。
交差する部分をぐいと引くと、ベルトの部分だけクッションが中心にぎゅっと寄って、いびつな形になる。
「この、ゆがんだ状態がストレスです。元の形が変わってしまってるでしょう」
おわかりですかな、と尋ねられて、僕はもう一度頷いた。
「外部からの刺激で、本来の形がゆがんでいることをストレスと言い、この刺激自体を……ここではこのベルトのことですなぁ。クッションをゆがめているこのベルトを、ストレッサーと呼びます」
ストレスと、ストレッサー。
わかったようなわからないような気持ちで、僕はクッションを見た。
「僕は、このゆがんだクッションのようになっているということですか?」
「はいな。ストレスを与えられると、正常なものもこうしてゆがんでしまう。あなたの感覚とて例外ではありますまい」
「僕が匂いと味がわからないのは、このすとれすのせいですか?」
「はいな。そしてあなたの抱える秘密ごとが、このストレッサー……ベルトです。リヒト様、ほら、こうしてベルトをほどくと……」
シモンさんが手から力を抜き、クッションを締め付けていたベルトをほどいた。
ゆがんでいたクッションはベルトの名残でおかしな形になっていたけれど、シモンさんがトントンと膝で跳ねさせているうちに、もとの四角へと戻っていた。
「どうです。ストレスのない状態では、治すのも容易い」
魔法のようだった。
僕は見開いた目にクッションとシモンさんを映して……シモンさんの手にぶら下がっているベルトに視線を向けた。
僕の抱える秘密ごとが、あのベルトなのだとシモンさんは言っているのだ。
ハーゼであったことを隠していることが、僕のストレスで。
だから僕の味覚と嗅覚が治らないのだ、と。
ストレスがなくなれば、治療できる、と。
シモンさんは言ったのだ。
「……ぼく、僕は、治りますか?」
「はいな。もう治っております。なのにそれをストレスが邪魔しておるのですなぁ」
やわらかな笑い声とともに、シモンさんが頷いた。
僕は……僕は、ユーリ様の匂いがわかるようになりたい。
ふつうのオメガのように。ユーリ様の匂いを嗅いでみたい。
匂いがわかれば、僕も、僕だって、まともな……エミール様のようなオメガに近づけるかもしれないから。
僕は嗅覚を治したい。
そのために必要なのは……。
急に、ぶるぶると全身が震えだした。
どうしよう。怖い。
僕がハーゼだと、出来損ないのハーゼだったと、ユーリ様に話すのが怖い。
信者のひとたちは僕を嫌っていた。神様の声をうまく聞くことができなくて、信者のひとたちにとって嫌なことしか告げることができなかったから、みんな僕を嫌っていた。
ユーリ様も嫌いになってしまうかしら。
僕が、ハーゼだとわかったら。
ユーリ様も、不出来な僕ではなくて、もっとちゃんとしたハーゼの方がいいと、思うだろうか。
僕に、早く死んでほしいと思うだろうか。
早く僕が死んで、次のハーゼを迎えたいと思うだろうか。
次こそは、次こそは、次こそは。
耳の奥で昔に聞いた信者のひとたちの声がわんわんと鳴っている。
ああ、どうしよう。
震えながら僕は自分の体を抱きしめた。
怖い。話すのが怖い。怖いのに……。
ユーリ様の匂いを、諦めきれなくて。
どうしても、まともなオメガになりたくて。
僕は泣きながら、シモンさんを見上げた。
「……ゆぅりさまと、おはなししたいです」
口がうまく動かなくて不明瞭な音になったけれど、シモンさんはちゃんと聞き取ってくれて、
「はいな。それでは殿下をお呼びいたしましょうなぁ」
と、おっとりと微笑んだ。
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