溺愛アルファの完璧なる巣作り

夕凪

文字の大きさ
60 / 118
リヒト⑪

しおりを挟む
 二度言われてもやっぱり意味がよくわからなくて、僕は首を横に振った。

「でも僕は、匂いも味もわかりません」

 嘘じゃない。
 食事のときユーリ様が、これは甘いよ、これは香ばしくてほんの少し辛いよ、これは岩塩と胡椒の味付けだよ、などと色々教えてくれるけれど、僕にはどれもぼんやりとしていてよくわからないし、匂いだってどれもぼやけて同じように感じる。
 だから味覚も聴覚も治ってなんかいないのに。

「リヒト様。あなたの感覚はどこも悪くありません」

 シモンさんはハッキリと、そう断言した。

 しわの寄った手が、僕のぎゅっと握った手の上に重なる。
 シモンさんが椅子から身を乗り出して、僕の顔を正面から見つめてきた。

「医師である私にはわかります。あなたはもう治っている」
「……」
「ではなぜ、匂いと味がわからないのか」
「……なぜですか?」

 恐る恐る小さな声で問いかけてみたら、片眼鏡モノクルのレンズが窓からの陽光を反射して、キラリと光った。

「ふぅむ……私が思うに、理由はあなた様にありますなぁ」
「僕に?」

 僕はコトンと首を傾げてシモンさんの説明を待った。
 シモンさんは診察をするときの手つきで僕の首筋から頬にかけてを指で確かめ、ふむ、と頷く。

「リヒト様。なにか、不安なことや気になることがありませんかな?」

 やさしく尋ねられて、僕はますます首を傾げてしまう。
 不安なことは、ありすぎるぐらいあって、そのうちのどれを伝えればいいのかわからないほどだ。

 返事に困って口をもごりと動かしたら、シモンさんが「たとえば」と続けた。

「たとえば、誰にも打ち明けられない秘密ごとなどは、どうですかな?」

 秘密ごと。
 その指摘に僕はこくりと唾液を飲み込んだ。

 真っ先に思いつくのは、ハーゼのことだ。
 僕は、僕が出来損ないのハーゼだったことを、ユーリ様にも誰にも打ち明けられないでいる。
 それは僕の罪だ。

 信者のひとを苦しめるだけ苦しめてきたハーゼ。僕のせいで信者のひとたちはお腹を空かせていて、けれど一生懸命働いていて……僕は彼らのために神様の声を聞かないといけなくて……。
 だけど神様の声をうまく聞くことができなくて、僕が話すたびに信者のひとたちは泣き叫んで、もっとちゃんと神様の声を聞いてください、と僕に取り縋ってきて……。

 ぶるり、と体が震えた。

 僕の秘密ごと。誰にも言えない秘密ごと。
 それがあるから、なんだというのだろうか。
 忙しないまばたきをしながらシモンさんを伺うと、シモンさんはやわらかな表情を変えずに口を開いた。

「ストレス、という言葉をご存知ですかな?」
「すとれす?」
然様さようにございます。ストレス、というのは物事がゆがんでいる状態のことです。たとえば、そうですなぁ」

 シモンさんは周囲を見渡し、窓際のソファからクッションをひとつ持ってきて、僕の前に掲げた。

「これが、リヒト様だとします」

 クッションが僕? と思いながら頷くと、シモンさんが自分のベルトをしゅるりと引き抜いて、四角いクッションにぐるりと巻き付けた。
 交差する部分をぐいと引くと、ベルトの部分だけクッションが中心にぎゅっと寄って、いびつな形になる。

「この、ゆがんだ状態がストレスです。元の形が変わってしまってるでしょう」

 おわかりですかな、と尋ねられて、僕はもう一度頷いた。

「外部からの刺激で、本来の形がゆがんでいることをストレスと言い、この刺激自体を……ここではこのベルトのことですなぁ。クッションをゆがめているこのベルトを、ストレッサーと呼びます」

 ストレスと、ストレッサー。
 わかったようなわからないような気持ちで、僕はクッションを見た。

「僕は、このゆがんだクッションのようになっているということですか?」
「はいな。ストレスを与えられると、正常なものもこうしてゆがんでしまう。あなたの感覚とて例外ではありますまい」
「僕が匂いと味がわからないのは、このすとれすのせいですか?」
「はいな。そしてあなたの抱える秘密ごとが、このストレッサー……ベルトです。リヒト様、ほら、こうしてベルトをほどくと……」

 シモンさんが手から力を抜き、クッションを締め付けていたベルトをほどいた。
 ゆがんでいたクッションはベルトの名残でおかしな形になっていたけれど、シモンさんがトントンと膝で跳ねさせているうちに、もとの四角へと戻っていた。

「どうです。ストレスのない状態では、治すのも容易い」

 魔法のようだった。
 僕は見開いた目にクッションとシモンさんを映して……シモンさんの手にぶら下がっているベルトに視線を向けた。

 僕の抱える秘密ごとが、あのベルトなのだとシモンさんは言っているのだ。
 ハーゼであったことを隠していることが、僕のストレスで。
 だから僕の味覚と嗅覚が治らないのだ、と。
 ストレスがなくなれば、治療できる、と。
 シモンさんは言ったのだ。

「……ぼく、僕は、治りますか?」
「はいな。もう治っております。なのにそれをストレスが邪魔しておるのですなぁ」

 やわらかな笑い声とともに、シモンさんが頷いた。

 僕は……僕は、ユーリ様の匂いがわかるようになりたい。
 ふつうのオメガのように。ユーリ様の匂いを嗅いでみたい。
 匂いがわかれば、僕も、僕だって、まともな……エミール様のようなオメガに近づけるかもしれないから。

 僕は嗅覚を治したい。
 そのために必要なのは……。

 急に、ぶるぶると全身が震えだした。

 どうしよう。怖い。
 僕がハーゼだと、出来損ないのハーゼだったと、ユーリ様に話すのが怖い。

 信者のひとたちは僕を嫌っていた。神様の声をうまく聞くことができなくて、信者のひとたちにとって嫌なことしか告げることができなかったから、みんな僕を嫌っていた。
 ユーリ様も嫌いになってしまうかしら。 
 僕が、ハーゼだとわかったら。
 ユーリ様も、不出来な僕ではなくて、もっとちゃんとしたハーゼの方がいいと、思うだろうか。
 僕に、早く死んでほしいと思うだろうか。
 早く僕が死んで、次のハーゼを迎えたいと思うだろうか。

 次こそは、次こそは、次こそは。

 耳の奥で昔に聞いた信者のひとたちの声がわんわんと鳴っている。

 ああ、どうしよう。
 震えながら僕は自分の体を抱きしめた。

 怖い。話すのが怖い。怖いのに……。

 ユーリ様の匂いを、諦めきれなくて。

 どうしても、まともなオメガになりたくて。

 僕は泣きながら、シモンさんを見上げた。


「……ゆぅりさまと、おはなししたいです」
 
 口がうまく動かなくて不明瞭な音になったけれど、シモンさんはちゃんと聞き取ってくれて、
「はいな。それでは殿下をお呼びいたしましょうなぁ」
 と、おっとりと微笑んだ。

しおりを挟む
感想 262

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

冷酷なアルファ(氷の将軍)に嫁いだオメガ、実はめちゃくちゃ愛されていた。

水凪しおん
BL
これは、愛を知らなかった二人が、本当の愛を見つけるまでの物語。 国のための「生贄」として、敵国の将軍に嫁いだオメガの王子、ユアン。 彼を待っていたのは、「氷の将軍」と恐れられるアルファ、クロヴィスとの心ない日々だった。 世継ぎを産むための「道具」として扱われ、絶望に暮れるユアン。 しかし、冷たい仮面の下に隠された、不器用な優しさと孤独な瞳。 孤独な夜にかけられた一枚の外套が、凍てついた心を少しずつ溶かし始める。 これは、政略結婚という偽りから始まった、運命の恋。 帝国に渦巻く陰謀に立ち向かう中で、二人は互いを守り、支え合う「共犯者」となる。 偽りの夫婦が、唯一無二の「番」になるまでの軌跡を、どうぞ見届けてください。

偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される

水凪しおん
BL
「お前の匂いがないと、私は息ができない」 宮廷薬師のルチアーノは、オメガであることを隠し、自作の抑制薬でベータと偽って生きてきた。 しかしある日、冷徹無比と恐れられる「氷の宰相」アレクセイにその秘密がバレてしまう。 処刑を覚悟したルチアーノだったが、アレクセイが求めたのは、ルチアーノの身体から香る「匂い」だった!? 強すぎる能力ゆえに感覚過敏に苦しむ宰相と、彼の唯一の安らぎとなった薬師。 秘密の共有から始まる、契約と執着のオメガバース・ロマンス!

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

捨てられた生贄オメガ、魔王城で極上の『巣作り』始めます!~不眠症の魔王様、私のクッションで爆睡して溺愛モードに突入~

水凪しおん
BL
「役立たずのオメガ」として冷遇され、血も涙もない魔王への生贄として捨てられたリノ。 死を覚悟して連れてこられた魔王城は、寒くて硬くて、居住性最悪のブラック環境だった!? 「こんなところで寝られるか!」 極限状態で発動したオメガ特有の『巣作り本能』と、神業レベルの裁縫スキルが火を噴く! ゴミ同然の布切れをフカフカのクッションに、冷たい石床を極上のラグマットにリフォーム。 すると、不眠症で常にイライラしていた魔王ザルドリスが、リノの作った「巣」のあまりの快適さに陥落してしまい……? 「……貴様、私を堕落させる気か」 (※いいえ、ただ快適に寝たいだけです) 殺されるどころか、魔王様に気に入られ、気付けば城中がリノの虜に。 捨てられた生贄オメガが、裁縫一つで魔王城を「世界一のマイホーム」に変える、ほのぼの逆転溺愛ファンタジー!

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

婚約破棄で追放された悪役令息の俺、実はオメガだと隠していたら辺境で出会った無骨な傭兵が隣国の皇太子で運命の番でした

水凪しおん
BL
「今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」 公爵令息レオンは、王子アルベルトとその寵愛する聖女リリアによって、身に覚えのない罪で断罪され、全てを奪われた。 婚約、地位、家族からの愛――そして、痩せ衰えた最果ての辺境地へと追放される。 しかし、それは新たな人生の始まりだった。 前世の知識というチート能力を秘めたレオンは、絶望の地を希望の楽園へと変えていく。 そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。 共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。 だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。 彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。 一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。 これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。 痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!

希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。