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リヒト⑪
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魔法。
そうなのだろうか。僕の視覚や聴覚や触覚が良くなったことが、シモンさんの言う通り魔法のようなのだとしたら。
「……魔法使いは、ユーリ様です」
僕は泣いたせいで苦しくなった喉から、声を絞り出してそう答えた。
僕の目が見えるようになったのも、耳が聞こえるようになったのも、皮膚感覚がまともになったのも、ぜんぶぜんぶ、薬を見つけてきてくれたユーリ様のお陰だから。
だから、ユーリ様は僕にとっての魔法使いだ。
僕の返事に、シモンさんがほっほと笑った。
「確かに、殿下はあなたに魔法をかけたのかもしれませんなぁ。ただし、だいじなものを忘れてませんかな?」
目じりにしわを寄せたやわらかな顔を見て、僕は「あっ」と慌てて言葉を付け足した。
「魔法使いは、ユーリ様とシモンさんです。ユーリ様が見つけてくれたお薬で、シモンさんが僕を治してくれました」
「この老いぼれにやさしいお言葉をありがとうございます。ただ、私が言いたいことはちと違いましてなぁ。リヒト様。魔法のような奇跡は、殿下おひとりでは成しえなかったでしょう。あなたの頑張りが、奪われた感覚を取り戻すという偉業を成し遂げたのです。あなたが途中で治療を放棄していたなら、目も耳も触覚も、治りはしませんでしたでしょうなぁ」
シモンさんの声が僕の耳にじわりと溶けた。
前は……耳があまり聞こえていなかったときは、声の区別なんてつかなかった。ユーリ様のお声も、シモンさんの声も、テオさんやエミール様の声も、どれもぼわんと不明瞭で、それでも僕にちゃんとわかるようにとみんなこころを砕いてくれていた。
いまも、シモンさんの話し方はゆっくりだ。耳はもう聞こえるのに、僕が聞きこぼすことのないようにと、やさしくやわらかく、シモンさんが話してくれる。
それはシモンさんだけでなく、ユーリ様も同じで……いつも、僕に対してだけはゆっくりと、はっきりと発音してくれて……。
僕の目から涙がまたぼとぼとと溢れた。
「僕……僕は、なにも、してないのに……もらうばっかりで、なにも返せてないのに……」
なぜみんなこんなにもやさしいのだろう。
こんな、オメガとしてもハーゼとしても出来損ないの僕なんかに。
「リヒト様、あなたは頑張っておられる。ベルンハルトも言っておりましたなぁ。あなたがまだお小さかったとき、全身で生きようと頑張ってるあなたを見て、自分の方が勇気づけられた、と」
「ベンさんが……」
「はいな。ユリウス殿下も同じでしょう。あなたは殿下を魔法使いと言いますが、その殿下はあなたから勇気や元気をもらっているのでしょうなぁ」
僕がユーリ様に与えているものなど、本当にあるのだろうか。
にわかには信じられなくて、僕はまばたきで涙を払いながらシモンさんを見つめた。
シモンさんが僕の手からハンカチを取り上げ、涙で濡れた僕の頬を拭いてくれる。
「リヒト様。医師の私が思うに、あなたの嗅覚と味覚は、もう治っております」
「えっ?」
おっとりとした話し方でびっくりすることを言われて、僕は思わず立ち上がった。
ガタン、と揺れた椅子が弾みで後ろに倒れる。
ふかふかの絨毯が衝撃を吸収してくれたようで、大きな音は鳴らなかったのに、直後にドンドンドンっと部屋のドアが叩かれたから僕はまたびっくりして、その場で直立の姿勢になった。
「リヒトっ! リヒト? いまの音はなに?」
扉の向こうからユーリ様の声が聞こえてくる。
僕は倒れた椅子と、扉を見比べて、最後にシモンさんを見た。
シモンさんの片眼鏡の奥の瞳がおかしそうに細められて、
「殿下、立ち聞きははしたないですぞ」
と言った。
「無礼者。この僕が立ち聞きなんてするものか。大きな音がしたから気になっただけだ。リヒト、大丈夫?」
ユーリ様に問われて、僕はこくりと頷き……これではユーリ様に伝わらないと思って慌てて声に出した。
「だ、大丈夫です。あの、僕が椅子を倒してしまって……」
答えながら、ユーリ様ってものすごくお耳がいいんだなぁと感心してしまう。べつの部屋にいらっしゃったのに、こんな少しの音が聞こえるなんて!
「ユーリ様って、すごいですね」
椅子を起こしながらぽつりとつぶやくと、シモンさんが「ほっほ」と笑った。
「殿下。お聞きの通りリヒト様はご無事です。大丈夫ですから、すこし離れてくださらんか」
「ほら~、だから言ったでしょう! 邪魔になるから向こうに行きましょうって」
シモンさんの声に被って、テオさんがそう言っているのが聞こえてきた。
「この僕が邪魔だと?」
「ひえっ! いや、それは言葉の綾というか……ユリウス様、その目をやめてくださいよ……」
ユーリ様とテオさんの会話する声が遠ざかってゆく。
隣のお部屋で僕たちのお話が終わるのを待っていてくれたのかな。それにしても椅子の音に気付くのが早かった。そこからノックをするまでの動きも、たぶんとっても早かったと思う。
「殿下がああも取り乱すのは、相手があなただからでしょうなぁ、リヒト様」
「……僕がいつもご心配をおかけしてるから、ユーリ様は気にかけてくださってるんです」
「リヒト様、あれは心配ではなく過保護と言うんですよ」
「かほご……」
「独占欲と言い換えてもいいかもしれませんなぁ。……さて、リヒト様」
改まったように名前を呼ばれて、僕は座りなおした椅子の上で背筋を伸ばした。
「はい」
「このシモンめのことは、信頼してくださってますかな?」
「もちろんです」
シモンさんはユーリ様と一緒に僕を治療してくれてる御方だ。僕の即答に、シモンさんがにっこりと微笑んだ。
「私の見立てでは、あなたはもう治っております」
僕の目を見つめたまま、シモンさんが先ほどと同じ言葉を繰り返した。
そうなのだろうか。僕の視覚や聴覚や触覚が良くなったことが、シモンさんの言う通り魔法のようなのだとしたら。
「……魔法使いは、ユーリ様です」
僕は泣いたせいで苦しくなった喉から、声を絞り出してそう答えた。
僕の目が見えるようになったのも、耳が聞こえるようになったのも、皮膚感覚がまともになったのも、ぜんぶぜんぶ、薬を見つけてきてくれたユーリ様のお陰だから。
だから、ユーリ様は僕にとっての魔法使いだ。
僕の返事に、シモンさんがほっほと笑った。
「確かに、殿下はあなたに魔法をかけたのかもしれませんなぁ。ただし、だいじなものを忘れてませんかな?」
目じりにしわを寄せたやわらかな顔を見て、僕は「あっ」と慌てて言葉を付け足した。
「魔法使いは、ユーリ様とシモンさんです。ユーリ様が見つけてくれたお薬で、シモンさんが僕を治してくれました」
「この老いぼれにやさしいお言葉をありがとうございます。ただ、私が言いたいことはちと違いましてなぁ。リヒト様。魔法のような奇跡は、殿下おひとりでは成しえなかったでしょう。あなたの頑張りが、奪われた感覚を取り戻すという偉業を成し遂げたのです。あなたが途中で治療を放棄していたなら、目も耳も触覚も、治りはしませんでしたでしょうなぁ」
シモンさんの声が僕の耳にじわりと溶けた。
前は……耳があまり聞こえていなかったときは、声の区別なんてつかなかった。ユーリ様のお声も、シモンさんの声も、テオさんやエミール様の声も、どれもぼわんと不明瞭で、それでも僕にちゃんとわかるようにとみんなこころを砕いてくれていた。
いまも、シモンさんの話し方はゆっくりだ。耳はもう聞こえるのに、僕が聞きこぼすことのないようにと、やさしくやわらかく、シモンさんが話してくれる。
それはシモンさんだけでなく、ユーリ様も同じで……いつも、僕に対してだけはゆっくりと、はっきりと発音してくれて……。
僕の目から涙がまたぼとぼとと溢れた。
「僕……僕は、なにも、してないのに……もらうばっかりで、なにも返せてないのに……」
なぜみんなこんなにもやさしいのだろう。
こんな、オメガとしてもハーゼとしても出来損ないの僕なんかに。
「リヒト様、あなたは頑張っておられる。ベルンハルトも言っておりましたなぁ。あなたがまだお小さかったとき、全身で生きようと頑張ってるあなたを見て、自分の方が勇気づけられた、と」
「ベンさんが……」
「はいな。ユリウス殿下も同じでしょう。あなたは殿下を魔法使いと言いますが、その殿下はあなたから勇気や元気をもらっているのでしょうなぁ」
僕がユーリ様に与えているものなど、本当にあるのだろうか。
にわかには信じられなくて、僕はまばたきで涙を払いながらシモンさんを見つめた。
シモンさんが僕の手からハンカチを取り上げ、涙で濡れた僕の頬を拭いてくれる。
「リヒト様。医師の私が思うに、あなたの嗅覚と味覚は、もう治っております」
「えっ?」
おっとりとした話し方でびっくりすることを言われて、僕は思わず立ち上がった。
ガタン、と揺れた椅子が弾みで後ろに倒れる。
ふかふかの絨毯が衝撃を吸収してくれたようで、大きな音は鳴らなかったのに、直後にドンドンドンっと部屋のドアが叩かれたから僕はまたびっくりして、その場で直立の姿勢になった。
「リヒトっ! リヒト? いまの音はなに?」
扉の向こうからユーリ様の声が聞こえてくる。
僕は倒れた椅子と、扉を見比べて、最後にシモンさんを見た。
シモンさんの片眼鏡の奥の瞳がおかしそうに細められて、
「殿下、立ち聞きははしたないですぞ」
と言った。
「無礼者。この僕が立ち聞きなんてするものか。大きな音がしたから気になっただけだ。リヒト、大丈夫?」
ユーリ様に問われて、僕はこくりと頷き……これではユーリ様に伝わらないと思って慌てて声に出した。
「だ、大丈夫です。あの、僕が椅子を倒してしまって……」
答えながら、ユーリ様ってものすごくお耳がいいんだなぁと感心してしまう。べつの部屋にいらっしゃったのに、こんな少しの音が聞こえるなんて!
「ユーリ様って、すごいですね」
椅子を起こしながらぽつりとつぶやくと、シモンさんが「ほっほ」と笑った。
「殿下。お聞きの通りリヒト様はご無事です。大丈夫ですから、すこし離れてくださらんか」
「ほら~、だから言ったでしょう! 邪魔になるから向こうに行きましょうって」
シモンさんの声に被って、テオさんがそう言っているのが聞こえてきた。
「この僕が邪魔だと?」
「ひえっ! いや、それは言葉の綾というか……ユリウス様、その目をやめてくださいよ……」
ユーリ様とテオさんの会話する声が遠ざかってゆく。
隣のお部屋で僕たちのお話が終わるのを待っていてくれたのかな。それにしても椅子の音に気付くのが早かった。そこからノックをするまでの動きも、たぶんとっても早かったと思う。
「殿下がああも取り乱すのは、相手があなただからでしょうなぁ、リヒト様」
「……僕がいつもご心配をおかけしてるから、ユーリ様は気にかけてくださってるんです」
「リヒト様、あれは心配ではなく過保護と言うんですよ」
「かほご……」
「独占欲と言い換えてもいいかもしれませんなぁ。……さて、リヒト様」
改まったように名前を呼ばれて、僕は座りなおした椅子の上で背筋を伸ばした。
「はい」
「このシモンめのことは、信頼してくださってますかな?」
「もちろんです」
シモンさんはユーリ様と一緒に僕を治療してくれてる御方だ。僕の即答に、シモンさんがにっこりと微笑んだ。
「私の見立てでは、あなたはもう治っております」
僕の目を見つめたまま、シモンさんが先ほどと同じ言葉を繰り返した。
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