“用済み”捨てられ子持ち令嬢は、隣国でオルゴールカフェを始めました

古森きり

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 三十二歳の時に彼と出会い、三十四で彼と結婚して、三十八で不妊治療の末に妊娠、三十九で出産した。
 高齢出産は帝王切開で、でも、私の体は回復しないまま赤ちゃんを連れて退院をして育休を取らなかった彼を頼れぬまま育児に追われる。
 その末、私は赤ちゃんを抱えたまま意識を失う。
 どのくらい寝ていなくて、どのくらいご飯をまともに食べていないかとか、彼の声も顔もよく思い出せないぐらいすれ違って——。

 そうして目を覚ましたら私は赤ちゃんになっていた。

「?」

 混乱した。それはもう。
 周りの金髪の人々の言葉も聞き慣れなくて、泣き喚くことしかできなくて、毎日なにが起こったのか不安で、怖くて。
 誰か教えて?
 私の赤ちゃんはどこ?
 つらい不妊治療の末に、ようやく授かった子なの。
 どこ? 返して? お願い、神様!

「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」
「あらあら、アンジェリカ。どうしたのかしら?」
「奥様! す、すぐに泣き止ませます!」
「ええ、そうしてちょうだいね。わたくしが眠れないわ」

 メイドが私を抱いて部屋を出る。
 私を産んだ人——母はこれ以後、私は別な部屋に移されるし、成長したあともほとんど会うことはなくなった。
 母は私になんの興味もない人だったのだ。
 大きな屋敷の二階で育てられ、両親とは年に一度、兄の誕生日にのみ夕飯を共にするだけの関係。
 信じられなかったが、これがの常識らしい。
 少なくとも、私が生まれたコバルト王国、トイニェスティン侯爵家はそれが通例なのだそうだ。



「アンジェリカ、体調はどうだ?」
「お兄様……はい、だいぶ……」
「無理はするな。私はすぐに学園に戻らねばならないから、用件だけ告げるが——家でつらいことはないか? 誰かにいじめられていたりは……」
「大丈夫ですわ。そんなに心配なさらないで……」

 アンジェリカ・トイニェスティンとして生まれて、十五年の歳月が経った。
 兄、エイシン・トイニェスティンは十八歳。
 現在は貴族学園に通っている。
 本来であれば私も入学する歳なのだが、十四歳の時に妊娠が発覚して以降、表へ出ることを禁じられていた。
 そう、妊娠。
 驚くべきことに、私は誰にも触れられることなく妊娠したのだ。
 この国——コバルト王国ではそういう症例が時折あるらしい。信じられない。
 それは『異界の子』、『神の子』と呼ばれ、特別な『天性スキル』をもって生まれてくるという。
 だから、悪いことではない。
 ただ、処女受胎した私は貴族令嬢としての価値を完全に失い、子を産んだあとどうなるかわからなかった。
 兄はそんな私を案じて、学園の寮から頻繁に帰ってきてくれる。
 美しいプラチナブロンドの髪に、アメジストの瞳を持つ兄はとても綺麗な人で、侯爵家の跡取りということもありかなり令嬢に人気が高い。
 その上こんなに優しいのだから、モテるのも無理はないだろう。
 熱を出して寝込む私の額に手を当てて、家の中しか知らない私にこうしていつも「誰かになにかひどいことを言われたり、されたりしていないか」と聞いてくれる。
 でも本当に大丈夫なのだ。
 すでに亡き者のように扱われているだけで、ひどい扱いなど受けていない。
 家の者は皆、私の胎に宿る『天性スキル』を持つ子を案じてくれる。
 この子が生まれたあとの私は“お役御免”の絞りカス。
 でも構わないの。
 今はただ、お腹の中の赤ちゃんが無事に生まれてきてくれれば——それで。

「ならいいが……アンジェリカ、お前がこの子を産んだあと、城のメイド見習いとして働かないか? チェンバーか、ナースのどちらかを選べるとは思うが希望はあるか?」
「え?」

 お兄様の言葉に思わず上半身を起こしそうになる。
 けれど、兄はそんな私の肩を押さえて「寝たままでいいし、今決めなくてもいい」と言ってくれた。
 チェンバーとは、チェンバーメイドのこと。
 城のチェンバーメイドは後宮におられる王妃様のお部屋を整えるメイドのこと。
 ナースとは、ナースメイドのこと。
 城のナースメイドということは、同じく今はまだ後宮に隣接する離宮におられる王女殿下や王子殿下のお世話係である。
 そんな一般的なメイドの中では高い教養と地位を持つ城仕えのメイドだなんて……。

「お兄様、私には無理ですわ。学校に通ったこともないのに」
「お前ならできるさ。それに、お前はきっと腹の子——『天性スキル』を持つその子とは暮らせない」
「!」
「だがこの家で育てられたとしても、いつか城へと召し抱えられる。その時に会えるように、城で働けばいい。もしかしたら城で『お前でもいい』という男に巡り会えるかもしれん。よく考えなさい。答えは今でなくてもいいんだ」
「…………っ」

 はっきりと、腹の子を取り上げられると言われて涙が出た。
 私はこの子を自分の手で育てられないのだ。
 なんてひどいのだろう。
 でも、それを嘆いていたら本当に二度と会えなくなる。
『天性スキル』は神より与えられる神聖なスキル。
 魔物や邪霊獣から国を守るためには必要。
 それに、隣国である多種族国家ドルディアル共和国とは、まだ戦争が終わったわけではない。
 今はまだ、異世界から勇者や聖女が来ていないから停戦状態だが、近く召喚が行われるという噂もあると家のメイドたちが話しているのを聞いた。
 そうなれば、また戦争。
 王都にあるこの家も、安全ではないかもしれない。
 私のお腹に宿るこの子が成長したら、戦争に駆り出されるかも……。

「アンジェリカ、自分の幸せを考えなさい。考え方を変えればお前はとても自由だ。侯爵令嬢でありながら、仕事にも生きられる。経産婦であることを理由に、世継ぎを生むべくより良い家の女主人にだってなれる。まあ、我が家よりもいい家など王弟の公爵家くらいなものだが……」
「っ……」
「お前はまだ若い。私に力になれることがあれば、なんでも言いなさい。手紙をくれたらすぐに会いにくる。アンジェリカ、強く生きるんだぞ」
「……ありがとう、ございます……お兄様……」

 涙が止まらない。
 兄が退出すると、メイドたちは「お腹の子に障るので早く泣き止まれた方が」と言う。
 悲しむ私の心ではなく、私の腹に宿る『天性スキル』の子を案じているのだ。
 いや、彼女たちの冷えた目線は、私の男遊びを未だに疑っている。
 きっと両親に「探りを入れろ」と言いつけられているのだろう。
 妊娠初期は何度も疑われたもの……まだその疑いが晴れていないのね。

「……」

 無言で天井を見上げた。
 来月には生まれてくる、私と神様の子。
 神様——『アレンクウォーツアース』。
 世界が人間の科学で一度滅んだこの星に、生命を呼び込んだ『惑星の管理人』。
 前世の記憶のある私には、SF映画のような“設定”に聞こえていまいち現実味がないけれど……。
 そんな壮大なものがいるのなら、魔物や邪霊獣もなんとかしてくれたらいいのに、と思う。
 魔物はまだわかる。
 魔力を持つ獣。
 私たちが食べる肉はそういう生き物。
 でも邪霊獣は違う。
 一度死んだこの惑星に残る無念の残滓により生まれる、魔法でしか倒せない肉体を持たない怨念の獣。
 そんなものがいる、この世界。
 私はこの子を産んだあと、どうやって生きていくべきだろう。
 魔獣や邪霊獣に襲われる危険と隣り合わせの平民には、なりたくない。
 やはりお兄様の提案を真剣に考えるべき、よね。

「っ……」

 めそめそと泣いてばかりの私に、どこか苛立った様子のメイドたち。
 でも、だって仕方ないじゃない。
 異世界から転生して、なにもわからないまま侯爵令嬢として厳しい教育を受けさせられたのに突然妊娠して赤ちゃんを産んだら家から追い出される運命。
 前世で育てられなかった“あの子”——。
 今世でも、私は私の子を育てることができないなんて。
 なんとかこの子を私の手で育てたいと思っても、魔獣や邪霊獣、戦争……そんなものがある世界で、十六の小娘になにができるの?
 自分すら生き残れるかわからない。
 そんな世界で子育てなんて……。
 それに、『天性スキル』を持つであろうこの子は、私の手から離れても安全な場所で教育を受けながら育ててもらえると約束されている。
 私だけがいらないのだ。
 私に育てさせてほしいと頼んでも、なにができると言われると私にはなにもできない。
 この家にはメイドが二十人以上働いているし、ここで育った私自身が母に育てられた記憶を持たない。
 母親は子を産む以外、することはないのだ。
 愛情を注ぎたいと訴えても、貴族として価値のない私をこの家に置いておくつもりはないと言われた。
 それならメイドでもいいと言えば、メイドたちから嫌がられる。
 私はここを、出ていかなければならない。

「うっ……うっ……」

 涙を両手で拭っても、誰も“私”の心配などしてくれない。
 鬱陶しそうに見られるだけ。
 お兄様の言われた通りに城で働けば、一目会うことは叶うかもしれないじゃない。
 泣くのはやめて、お兄様に言われたことを考えよう。
 そう思おうとしても、私の心は悲しみと不安でいっぱいだった。


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