V配信者の悲鳴が俺の名前っぽい

あくるめく咲日

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隣のクラスの王子と俺は

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 甘辛スパイシー系バーチャル配信者、四七門ニツキとは。
 チャンネル登録者数、数十万人のどちらかと言えばアイドル系のストリーマー。
 しかし、小粋なトークと異様に下手か異様に上手いある意味ゲームセンスが光る。今年デビューしたとは思えないほど人気……らしい。
 それの何十万人か記念に必ず行われる記念配信が、本人が大の苦手らしいホラーゲーム。
 滅多にやってくれないけれど、ファンは彼のホラゲ実況が大好きだとか。あと、俺が今やっている古いゲームも実況しているとか。
 ――姉の言葉をざっとまとめるとこんな感じらしい。真偽も詳細も知らない。ただ、熱意のままに話したいところだけ話して、一応布教してきたらしい姉は、隣でクッションを抱きながら怖々とテレビに映した生配信を見ていた。
 何を隠そう、姉もホラーは大の苦手なのである。
 それでも、どうしても見たいそうで、わざわざ実家に帰って来て隣に俺を配置することで怖さを緩和させているようだ。成果があるのかはホラーの類が全く怖くない俺には分からない。
 配信なんてほとんど見ないし、ゲーム実況にも疎い俺は、Live2Dという技術で動くアニメーションのような姿を最初こそ物珍しく眺めていたけれど、四七門ニツキの実況がうまいのか、ゲーム自体がかなり面白いのか。気付けば夢中になって集中して見ていると、
「っぎゃーーーーー!! 助けてアイエダーーーー!!」
 ふいに名前を呼ばれて現実に引き戻された。
「…………え?」
 あいえだ。
 何を隠そう、藍枝杜和(あいえだとわ)というのは俺の名前で、姉も俺も同じく藍枝だ。
 正直、耳を疑う。
 それは現実で呼ばれたわけではなく、明らかに画面越し、困り眉毛で目を閉じて口を大きく開けて左右に揺れているアバターの向こうから呼ばれていたのだから。

 ……いや、気のせいだろう。
 姉から懇願されて見た配信で、自分らの苗字を叫ばれるなんてあるわけない。
 ドッキリの可能性を考えてしまったので、そんな訳ないだろうと配信を見る前のことを思い返す。
 不自然なことは何もない。普通の一日だったはずだ。

 高校二年のゴールデンウィーク。俺は部屋に籠ってゲームをしていた。
 リビングでゲームをしていたけれど、姉の御下がりで何年も前に生産終了したゲーム機で中古のゲームをしている姿が両親の目には可哀想、あるいは気の毒に見えるようで部屋に逃げたのだ。
 確かに、ゲーム機は古いから電池パックの膨張に一抹の不安はあるけれど、姉はあまりゲームをしなかったから使用感はないし、面白いゲームもたくさんあるから本当に楽しんでいるというのに。父親が家電量販店のチラシをこれ見よがしに眺め始めたものだから仕方ない。このままでは新しいゲーム機を買いに行こうと提案されかねなかった。
 部屋に逃げ込むと、今度はまた引き籠りが始まったのではないかという別の心配が始まったらしい。
 三十分に一回のペースで菓子やお茶が差し入れられていた。最初は飴やスナック菓子だったのに、家にある来客用のクッキーといただきものの紅茶が出て来てしまったので、このままではケーキを手作りされかねない。
 次のノックで差し入れを断ろうと心に決めていると、前回から三十分と経たずに扉が叩かれた。
「ありがとう、でもごめん。差し入れはもういらな……」
「は? 何の話?」
 しかし耳に届いたのは、俺という腫物を刺激しないように気を使った母親の声ではなかった。取り繕っていない女性の声と代り映えのない立ち姿に緊張がほぐれる。
「あれ、姉ちゃん。帰ってたんだ」
 遂には姉が差し入られたようだ。なんて冗談。
 過去にいろいろあって引き籠りかけた俺は両親にとても過保護に接されていて、藍枝家の腫物。
 そんな中でいつも通りに接してくれる姉の存在はかなり、ありがたい。
「あんた、そんな古いゲームしてんなら暇でしょ? 一緒に配信を見よ」



 そうして、一度は断ったがホラーが大の苦手の姉から「一緒に見てくれなかったら私の風呂の時は風呂の前で待っててもらうし、一緒に寝てもらう」と脅され仕方なく見たら、
「あいえだぁ……ボクはもう無理かもしれない……あいえだ助けてくれ……光の粒子を纏ってくれ、あいえだぁ!」
 これである。
 配信の始まりではキリリとした表情をしていたのに、ビブラートがかかっているかのように震えた声に似合った弱弱しい仔犬のような顔をしているように見える。そして、どうにも俺の名前というか苗字を呼んでいるように聞こえる。
 でも、人間は自分の名前に過敏に反応するから違うかもしれない。
 実際、呼ばれたと思ったら違うなんてよくある話だ。それに、限りなくイントネーションが『のり巻き』だった。
 藍枝をそんなイントネーションで呼ぶ人はいないとは言えないけれど、それも過去に多分一人とか二人とかだ。
 だから、アイエダではなく、最初は『のり巻き!』と叫んだ可能性の方が高い。
 次は『もういやだぁ』を『のり巻きだぁ』のイントネーションで発音していたから耳がアイエダと呼んだと認識してしまった可能性が高……
「あ、ああ、あいえだぁ……あい、あいあいあいあいえだ……あっ、あいえだーーーー!」
 うん、どう聞いても藍枝。
 違うとしたら漢字くらいだろうっていうくらい、明確にアイエダだった。
 ヨーロッパ辺りが舞台のこのゲームの登場人物に、そんな名前はなかったはずなので、どこかのアイエダを叫んでいることに間違いはなさそうだ。
「……ほんとに、ほんとに名前呼んでくれてる……ファンサがすごい……」
 何より、隣の姉さんが怖いのか喜んでいるのか泣いているから、間違いなく藍枝と呼んでいるようだった。
「あのさ……気のせいじゃなかったら、アイエダって言ってない?」
「そうだよ。だからホラーでも見たかったんだよ」
「そうだよ?」
「ニツキくんはね、恐怖で極限状態に陥るとアイエダという人の名前を呼んでイマジナリー霊媒師アイエダを召喚するんだ……」
 何を言ってるんだろう。
 けれど、確かにさっきアイエダさんに光の粒子を纏わせようとしていたから、アイエダさんはそういう人……いや、どういう人なのだろう。
「……この苗字でよかった。一生変えない」
 握手したからこの手を一生洗えない。のオフラインバージョンみたいなことを言っている姉。
 ティッシュで目頭を抑え、鼻をかみ、鼻を鳴らしながらクッションを抱えなおす姉。
 本当に四七門ニツキが好きなのだろう。そしていったいこれのどこが怖いのか分からないホラーがかなり怖いのだろう。
 これ以上配信を見る邪魔をするのは憚られた。
 アイエダなんて苗字、珍しくもないから知らない自分や姉でもない知らないどこかのアイエダさんなのだろうけど。
 ほんの少し、やはりのり巻きのようなイントネーションのアイエダ呼びがどうにも気になって。
「姉ちゃん、後でチャンネル登録とか教えて」
「……あんた、スマホは?」
「あ」
 今どきの男子高校生のくせに、俺はスマホを携帯していなかった。
 大したことでもないけれど、ネットに晒されて以来、ネットの繋がる端末を触りさえ出来なくなって。母親に預けていたのだ。
 このご時世、アナログ人間なんて不便でしかなくて。それでも多少不便でも構わないと思っていたのに、今は手元に無いのが苦痛なほど不便に思えてきた。
 たかが、配信者が苗字を読んでいるから他の配信が見てみたくなったから。なんて。
 こんなキッカケでスマホを触りたくなったのは申し訳ないような気がする。
 けれど遅かれ早かれ、仕方がないから最終手段のカウンセリングに通って、スマホを触れるようにしなければならなかったのだから。カウンセリングとか、そういうものを受けさせたくないであろう両親からすればキッカケが変でもイイコトなのだろう。
「一緒に母さんに頼もっか」
 それを分かっているのか、姉は多くを語らず優しい提案をしてくれた。
「ん、ありがと」

 母親に話すと、早速携帯ショップに連れていかれそうになったが「ゴールデンウィークを舐めるな」という姉の言葉で踏み留まってもらえた。
 結局、ショップ店員に促されるままに契約したスペックの高いスマホは、四七門ニツキの配信を見るだけのものになった。これぞ宝の持ち腐れ。
 ついでに、買って貰えた高音質ワイヤレスイヤホンで四七門ニツキのホラゲ実況アイエダ集なるものを聴いてみることにした。
 四七門ニツキのホラゲ実況アイエダ集とは、四七門ニツキがホラゲ実況でアイエダの名を叫んだ部分だけを切り取りまとめてカウンターを付けた動画だ。
 甘辛ボイスを割いたような絶叫の言葉は、やはりアイエダの形をしていた。
 俺じゃないんだろうけど、気が狂うくらい名前を呼ばれるのは……なんだか、不思議な気持ち。
 普段の配信だろう、偶然俺がやっているゲームの配信のアーカイブも見てみたけれど普通に面白く、怖い要素がないお陰でアイエダとも呼んでいなかった。正直、安心した。
 泣き叫ぶくらいならホラゲの実況やめなよ。と思ったけれど。
 ほのぼの経営趣味レーションゲームで突然雷が鳴ったくらいで叫んでいるのを見てしまったら、ある程度ホラー耐性というのは必要だろうから訓練としてホラゲをやっているような気がしてならない。それくらい、四七門ニツキは怖がり。でも頑張っているから、俺も少し頑張りたいと、単純ながらも感化された。
 とりあえず、四七門ニツキによって簡単に過ぎ去ろうとしているゴールデンウィークの最終日としては、明日学校に行くところから。


ーーー

 アイエダというのは、四七門ニツキ初めてのホラゲ実況中に余りの恐怖によってパニックになり、支離滅裂なマシンガントークを繰り広げている間に叫んだ単語の一つで、最初は造語として、ニツキ語録のネタのひとつになっていた。
 しかし、後日の配信のコメント欄にて挨拶のようにアイエダという言葉が流れ、四七門ニツキは大変困惑していた。
 なんと無意識に叫んでいた、中学時代に肝試しでペアになったのイケメン同級生の苗字(なお、一度も同じクラスになったことがない)らしい。
 事務所から厳重注意を受けたが、四七門ニツキにとっては恐怖に直面した際、どうしても咄嗟に口から出てきてしまうので仕方がないものになった。
 そして、四七門ニツキがアイエダさんとほとんど関りがなかったことから、四七門ニツキとリスナーによってイマジナリーアイエダが形成されたのだった……。
 今となっては、肩幅が5メートルあって、全身が発光し、顔面の良さが力となって幽霊などを弾き飛ばす。それがアイエダだ。
(四七門ニツキの非公式サイトより)
 
 それが、アイエダだと言われても……。
 困惑のまま文章を三回読んだけれど文章が変化するはずもなく、チャイムが鳴った。

 ゴールデンウィーク明けの登校日。
 地味に目立たずに人の記憶に残らずに学園生活を送りたい俺は、早めに学校に着くようにしているため、いつものように朝のショートホームルームまでの暇な時間は、短いようで長い。そこで気になっていた四七門ニツキとそのアイエダについて検索してみたところ、出て来た説明がこれだった。
 高校二年に進級するタイミングで転校してきた俺は、教室の喧騒とは無縁。
 いつもなら暇つぶしに本でも読むか、最近だとゲームをしていたけれど今日は新しいスマホ――というよりは、新しく知った四七門ニツキが気になって仕方がなかったから調べてみて後悔した。朝の働いていない脳へのこういった変な刺激はなかなか重い。じわじわ面白くなってしまう。
 おとなしく動画を見ればよかったかもしれない。
 いや、動画を見ているとどうしても面白くて笑ってしまう。空気よりも薄くなりたい身としては、教室でそんな迂闊な行動をしたくはない。
 善良なクラスメイトたちは、知人の一人も居ない転校生を未だに気にかけてくれて、隙あらば声をかけてくださる。タイミングを見図られているような気がしてならない。だから教室でそんな迂闊にコミュニケーション待ちみたいな状態になるのはよくない。ここぞとばかりに声をかけてくださる。それに応えるのが難しいのであれば、餌を与えないようにしなければならない。
 クラスの喧騒も人との関わりも嫌いというわけではなく、ただただ人と交流というものが難しいだけだから、心が苦しくなる。
 人との交流を極力避けて、目も合わせずに黒いマスクの下で唇を噛んでいるのが俺だ。
 いまどきスマホを持っていないからと連絡先交換やグループチャット加入を断るような、限りなく不審人物の俺なんか放っておいて構わないのに。クラス人たちはいい人なのだろう。みんな一日に良いことが百回くらい起きてほしい。
 対人恐怖症という訳でもない、ただ人と関わるのが酷く億劫になってしまっただけだ。どうにも心臓がざわついて、固まってしまうだけ。
 克服するべきで、頑張ることも必要ってことは分かっているけど、現状はそうできてない。この腫物として触らないようにしてもらっている現状に甘えてしまっているのは確かだ。
 俺は、なんてひどく甘ったれた奴だろうか。
 
 ガララ、と思考を中断させるには十分な音を立てて教室のドアが開いたものだから、思考が引っ張り出され、視線を前に向けた。
 いつものように挨拶と着席を促しながら、担任教師がクラスに入ってくる。
 休みも体調不良も居ない。時間割に変更は無く、特に何かあるわけでもないただの平日。
 強いて言えば、夏休み前に行われる体育祭がじんわりと近付いているだけ。
 そういうのが得意な人が多いクラスなのか、それとも小数人がたくさん競技をやりたがってくれたのか。俺は運動能力を特に聞かれることもなかったので初めてリレーの選手にならずに済んだ。
 ただ、その代わりに出席番号一番が時折被る不幸の一つ、役職を任されるという現象により、体育祭の実行委員にはなってしまったのだけれど。転校生にしては大役すぎると思ったけれど、クラス替えのタイミングでもあったから転校生だけど大丈夫だろうという良く分からない理由でごり押しされた。
 体育祭実行委員特権として、参加厳守の種目にしか出場しなくても良いというのは有難いけど。
 あと、同じ体育祭実行委員の女子が目立つことが苦ではないようで、俺はおとなしく裏方をしてさえいれば良さそうなのはかなり幸運だろう。
 そもそも極力やりたくはないという感情が心の隅に顔を出してきたのを消し去っていると、ふいに目の前が陰った。見上げると、実行委員に強制指名されてから若干苦手な担任が居た。
「藍枝、浅川。体育祭実行委員からのプリントだ。目を通しておくように」
 いつの間にかショートホームルームが終わっていたらしい。担任は、僕と隣の席の女子にホチキスで右上が止められた何枚綴りかのプリントを渡してクラスから去って行った。
 机の中から一限目の授業セット(教科書、ノート、資料集)とペンケースを取り出し、机の四隅に置く。話の短い担任のおかげで一限が始まるまで時間が結構あるので、プリントを眺めようとして。
 最後尾の一枚が、ホチキスで右上を止められたプリントとは異なって、束ねられているプリントたちとは別であることに気が付いた。
「……あ」
 思わず出た声にマスク越しに口を抑えて周囲に目線を配るが、担任が居なくなったと単に騒がしくなった元気なクラスのお陰で声は掻き消えてくれたらしい。誰の耳にも届かなかったようだ。
 過剰である自分が恥ずかしくなり、咳ばらいを二つ。改めて一番後ろのプリントを見ると小テストの解答用紙らしく、記名があった。
『C組1番 明楠月路』
 ……どう、読むのだろうか。
 まあ良いか。C組というと、隣のクラス。
 うちの担任の担当科目が今日の一限目にあるとかだろうか。それなら、これもまた出席番号一番が時折被る不幸の一つで、出席番号が一番だから、一番先頭にあった解答用紙がつい別のプリントについて行ってしまったといった類のものだと思う。
 ……仕方がない。
 まだ、一限が始まるには時間があるのだ。
 席を立つ。向かう先は隣のクラス。
 職員室か喫煙所か準備室かどこに行ったのか見当もつかない担任を探してプリントを渡すより、確実に席あるいはクラスのどこかに居る本人に直接返した方が早い。
 まだショートホームルームを行っているのを廊下で邪魔にならないように待ち、C組担任と入れ替わる形で教室を覗こうとして、踏みとどまった。
 ここで顔を出そうものなら、確実に注目されてしまう。
 注目というか、確実に見られる。ほんの少しの視界に入れておくくらいのスタンスなのだろうけど、見られることに違いはない。そう思うと、たじろいでしまって。
 スライド式のドアにかけようとした手を引っ込めたのに、ガラガラと目の前からドアが消えた。
 一瞬、自動ドアかと思ったけれどそうではない。
「……えっ、珍しい。どうしたの? うちのクラスに何か用事?」
 ドアという隔たりが横に消えていった代わりに、俺より目線が上にある同じ制服を少し着崩した男が立っていた。
 ヘーゼル色の不思議な瞳に、蛍光灯の下でレッドが艶めくブラウンの頭。どちらも甘いマスクと優し気な声に似合っているのに、七分丈に捲くっているスラックスから除く靴下が蛍光色のイエローで、見ているだけで眉間に皺が寄る。
 普通に考えて、ドアを開けたのは彼らしい。知り合いのように話しかけられているが、見かけたことはあれど知り合いではないはずだ。
 そういうタイプはあまり……いや。彼の身長と細身のわりにしっかりした肩幅のお陰でクラスの中はあまり見えないし、クラスの方からも俺の姿はあまり見えないだろうからありがたいのは確かだ。
「……あー……出席番号一番の人、いる?」
「僕に用事?」
「あ、よかった。じゃあこれ」
 まさかの御本人。こんなに上手くいくなんて。
 プリントを渡すと、出席番号一番さんはびっくりしながらも受け取って、
「え? なにな……48点⁉」
 解答用紙の赤い字を読み上げ、重ねてびっくりしていた。
「配点一問二十点なのに⁉ なにこの煮え切らない気持ち悪い点数」
 煮え切らないというか、二十で割り切れないというか。
「うちの担任が、混入したみたいで。……一応、点数は極力見ないようにしたけど」
 そこそこの声量で点数を口に出している相手に必要な配慮かは分からないけれど、念のため言っておくと何故か謝られた。謝罪する必要もなんかないだろうに。良い人なんだろうな。
「ありがとう、藍枝さん」
「えっ?」
 なんだ、そのイントネーションは。
「え?」
「ああ、いや名前。なんで知ってる?」
 慌てて首を振る。つい、声が出てしまった。イントネーションについて声を挙げられるほど関係値はないのに、つい最近よく聞いたのと同じ耳障りだったものだから、つい。
 唇を少し噛んで、咄嗟に別の疑問にすり替えると、目の前の男は不思議そうな顔から大げさなくらいに目を瞬いて困惑しているように表情を変え、首を傾げた。
「え? 藍枝さん。え、僕のこと知らない? あー、そっか、そうだよね。僕が一方的に……うん、確かに接点はあんまりない……か」
 濁すような言葉に背筋が冷えていく。
 まさか、知られている? そんなまさか。そんなはずはない、でもそれならどうして……
「一方的に、転校生なのに体育祭の実行委員なんか大変だろうなと思ってたんだ。同じ体育祭実行委員だから、気になって」
 ああ、なるほど。よかった。
 だからお互いに面識があるようでなかったのか。
 安心したけれど、気にかけられるのも申し訳ない。気になられるのも困る。
「ありがとう。でも大丈夫。気にしないで」
「そっか、何かあったら是が非でも頼ってね」
「是が非でも?」
「是が非でも」
 なんだろう、覚えたての言葉とかなんだろうか。
 恐らく相談することは何もないだろうけど、わざわざ口に出す必要もないので軽く流す。
 俺のことなんて出来ればなにも覚えておいて欲しくない。
「じゃあ……もう授業始まるから」
 親切そうな人の名前の読み方が分からないままでいるのは失礼なような気がするけれど、これ以上会話をして彼の記憶容量に俺が存在する時間を増やしたくはない。それに、片方の出入り口を塞いでいるからには、これ以上立ち話をする気はなかった。
「うん、ありがとう藍枝さん」
「いえ」
 もうすぐ授業だなんて、分かりやすい口実で逃げる俺を攻めることなくニコリと微笑んで軽く手を振ってくれたので、ご厚意に甘えて教室に戻る。
 ほんの少し、家族以外と会話しただけでも成長だと思ってほしい。そう思いたいのは、甘えか。

 それにしても、藍枝のイントネーションは何が正しいのだろうか?
 俺としては絶対のり巻きと同じイントネーションではないと思うのだけど。
 もしも、四七門ニツキがあののり巻きイントネーションを広げてしまっているのだとしたら、今後もさっきみたく呼ばれる気がする。
 四七門ニツキのことを、あの顔のいい蛍光イエロー靴下さんが知っているようには思えな……いや、ネットなら簡単に広まるから。きっと何かしらのルートで知っているのだろう。元ネタなんか知らずに独り歩きするものが流行というものだし。アイエダが流行しているかは知らないけど。

 ……ふと、思った。
 友達も、知人と呼べる人もいない俺の名前を一番多く呼んでいるのはこのままでは四七門ニツキになってしまうのではないだろうか?
 コンテンツであるアイエダとただの自分の藍枝を同じ土俵に置くのは間違っているのは分かっているけれど、四七門ニツキから嗚咽とともに呼ばれるだけなのは、誰からも名前を呼ばれなくなるより嫌かもしれない。
 かなり、嫌かもしれない。
 
ーーー
 四七門ニツキの新しい歌っている動画が配信されたので、サブスクリプションなるものを契約してみた。
 いつも以上に早く来た教室には誰も居ない。校舎が眠っているような静寂に耐えられず、四七門ニツキの歌を聴いてみることにしたのだ。
 甘い歌声だけではなく少し掠れた声が混じって、なるほど甘辛スパイシーな歌声は、朝の気怠い脳みそに沁みる。作業用にピッタリで、ホラゲで叫んでいる人と同一人物だと思えない。喉のためにも二度とホラゲ実況しないでほしい。
 そんなことを思いながらも作業に集中していたからだろうか、声を掛けられるまで人の気配に気づけなかった。
「おはよう、藍枝さん」
「え? ……おはようございます?」
 イヤホンを外すして、思わず声の方に顔を上げると、隣のクラスの体育祭の実行委員の彼が眠そうながらもにこやかに微笑んでいた。
 慌てて目線を下げると、その手にはおはながみとホチキスがあった。
 こんな早朝から、何を? というのは、無粋な質問だろう。どうやらお互い様なようだ。
「せっかくだし、一緒に作業しない? ひとりだと絶対寝ちゃうし」
「……それ以上近寄らないなら、いいけど」
 隣の席に座って、ガタガタと椅子と机を動かそうとした彼にそう言うと、大げさに両手を挙げて頷かれた。
「そうだよね、うん。パーソナルスペースは大事。確かにそうだね」
 そういうわけでもないけど、そういうことにした。
 ツーショットを隠し撮りされて売り捌かれないような距離を開けて欲しいなんて言われて困るだろうし。

 体育祭の実行委員はそこそこやることが多い。
 種目決めや、スローガン作成のような会議はあったけれど気合の入った三年がほとんど決めてくれていた。ほとんど往年通りだそうで、その議事録をまとめたプリントを配布。クラスへのフィードバックをしたり、追加ルールの周知など。体育祭に向けての練習場所の割り振りなど。
 目立ったことは全部もう一人の実行委員である浅川さんがやってくれたので、本番前日の準備に備えてプリントの作業や本部の飾り付け作成を俺がメインでやっていく形になっていた。とはいえ、丸投げでもよかったのに浅川さんはしっかり仕事をするタイプらしく、ここ数日の放課後一緒に作業していた。
 しかし、女子特有のネットワークなのか、一人また一人と別のクラスの女子たちが作業場としてうちのクラスに来るようになったので、放課後の作業をやめることにした。輪に混ざって作業しているわけではなかったけれど、なんなく。気まずい。
 だから、教室を移動するのではなく、朝活という形で朝の時間に作業をすることにした。

 その結果、俺は名前も知らない男と並んで紅白のおはながみで花を作っている。
 黒板の上の時計が秒針を刻む音が教室に響く。時折、パチンパチンとホチキスが鳴って、手元の紙がかさりかさりを音を立てて花になる。
 眠いから人と話しながらやりたいのだろうけど、何を話せばいいのか分からない俺から口を開くことはない。
 一緒に作業をする意味は恐らく無いような気がした頃、隣の男は本当に眠いのだろう。少しふにゃふにゃした声を上げた。
「あのさ、藍枝さんって、どういう音楽聴くの?」
「音楽事態あんまり聴かない」
 スマホ事態、数か月ぶりに触ったものだから触っていない期間に自分の趣味趣向をすべて忘れてしまっているような感覚だ。
 好きなバンドとかアーティストとか、居たはずだったけれど。それらは全部人から勧められたもので、俺の好みではないのかもしれない。きっと、忘れてしまったというよりは、そもそも好きではないかった可能性に気づいてしまった。
 それにしたって、会話を広げる気のない回答は我ながら酷いと思う。申し訳なくて、好きな音楽の系統くらいなら応えられるんじゃないかと考えていると、死んだと思っていた会話は生きていたらしい。
 特に気にした様子もなく、内容よりも口と手を動かして眠気を飛ばすことの方が大事なのだろう隣の彼はふわっと会話を続けた。
「えー? じゃあ、さっき何聴いてたのか聞いてもいい?」
 それなら答えるのは簡単だ。
「四七門ニツキ」
「ん⁉ ……え? え? ええ? 今なんて?」
「四七門ニツキの、歌ってる奴。疎いから、カバーなのかオリジナルなのか知らないけど」
「……え? え、えー……? え?」
 え?
 何か変なこと言っただろうか。え? しか言わなくなってしまった。
 さっきより会話できているというか、質問に答えられたと思ったのだけれど、この様子だと何か違うらしい。
 でも四七門ニツキは四七門ニツキだし。いや、四七門ニツキを知らないだろうから系統で言った方が良かったかもしれない。
 四七門ニツキの説明というか、そういうジャンルの説明も必要か……どう、説明すればいいんだろうか。
 そもそも俺はすごく詳しいわけでもなく、四七門ニツキの界隈で四七門ニツキしか知らないような浅い人間だから、ちゃんと説明できそうにもない。チャンネル登録と気に入ったら高評価をするだけのライト層。チャット欄は閉じているし、四七門ニツキが人とコラボしている配信は、コラボ相手と四七門ニツキのやり取りを眺めるだけの楽しみ方がいまいち分からず見ていなかったりする。
 そんな俺が、四七門ニツキの説明ができるわけがない。
 ああ、でも別に四七門ニツキの説明はしなくてもいいか。歌は歌だ。歌に説明は必要ない。
「聴けばわかる」
「えと、えーっと、うん」
 手を動かすのをすっかりやめてしまった隣の男に、少し考える。
 今からやろうとしていることは、過剰な関わり合いか。どうか。
 はたから見たらどう思われるか、隣の男からどう思われるか。周囲はまだ登校してきている人は居ない。なら、隣の男次第なわけで……どういう人なのかいまだに良く分からない。
 でも、結局人を見る目がないから、そんなことする訳がないと思っていた人に、そんなことをされると思っても居ないことをされたわけで……。
 花を作りに来た彼は、スマホを持ってきていなかったし距離を詰めることを拒んだ俺に何も聞かずに了承してくれた。なら、少し信じてもいいかもしれない。
「……抵抗なければだけど……はい」
 ワイヤレスイヤホンの片方を隣の机に置く。
 スピーカーでも良いけれど、四七門ニツキはきっとスピーカーよりイヤホンで聴くことを想定しているから、イヤホン。両耳の方がいいんだろうけど、まあそれは自分で気になったら聴いてもらえばいい。
「え、あ。うん。抵抗はないけど……ええっと、ごめん。あのさ、その人って……有名じゃないよね?」
「そうだけど」
 恐る恐るイヤホンを片耳につけるのを見て、自分の耳にも付けた。
 音量を少し上げて、一番いいと思った曲を流す。
 四七門ニツキのことをひょんなことから知って、面白いと思ったけれど、恐らくこの歌を聴いたときに明確に好きだと思った、そんな歌。
 バチりと目が合う。
 どうしても言いたいことがあって。目線を逃がすより先に、口が開いた。
「聴いたから、分かったでしょ? これが俺が一番好きな歌だって」
 眠れない夜に、眠れなくてもいいんじゃないかって肯定してくれるような気がする。でも、寝ないと明日辛いから少し横になって寝てみるのも悪くないんじゃない? って感じに甘くてからい歌。
 ちなみに歌詞は全然そんなこと言ってるわけじゃないから、ただ俺がそう感じたってだけ。
 あと、個人的に二番の歌詞が好きだけれど……片割れのイヤホンが一番サビのあとに外されたので、停止ボタンを押した。あとで聴こう。
 
「……ありがとう、僕も好きだよ、これ……。うん、頑張るね」
「何を?」
 噛みしめるような表情で、袖口で拭いたイヤホンをお返しとして机に置いてくれた彼は顔を赤くして頭を抱えていた。
 え? 泣いてる?
「いろいろ、もうほんと、うあー……この世の万物を、頑張りたいと思って。頑張るね」
「独特な感想」
 造った花を潰さないように机に肘をついて、小刻みに震える様子は少し、笑える。
「藍枝さんって笑うんだね……」
 項垂れているから大丈夫かと思ったら、迂闊にもしっかり見られてしまっていたようで。表情を手でぺたぺたと作り直して咳払いをする。
「まあ、人前ではやめてるから」
「やめられるもんなんだ。笑いって」
 やり過ぎると表情が壊れるからあまりやらない方がいい。
「……花造りは?」
「はい。忘れてた。やりますやります」
 慌てて破かないように一枚ずつ花びらを咲かせる彼に、さっきまでの警戒心や恐怖心が薄れていることに気付いた。
 よく分からないけれど、取り繕わない彼を見た。変なリアクションだったけど、俺が好きなものを、全く否定しなかった。
 それだけで、ちょっと好印象になるのは……俺はちょろ過ぎると言うもので。
 ……結局、このあと彼が俺の事を人にどう伝えるのかによるのだから。まだ、早い。
 お互いに作業に没頭する。そんな気まずくない沈黙で暫く集中していると、もうすぐ誰かが登校してきそうな時間になってきた。
 そういえば誰か来る前に、俺からそろそろ解消しなければならないことをどうにかするべきだ。
「……名前、なんて読むの?」
「僕?」
「そう。キミ」
「明楠月路(あくすつきじ)だけど……まさか知らな……そういえば、藍枝さんから呼びかけられたことなかったね。知らないんならそりゃ、それはそうだよ。知らないか」
 顔を赤くしたり青くしたり、朝から忙しない明楠は、存外リアクションが大きい。
「なんか、ごめん。知らなくて」
「いや、僕も自己紹介してなかったから、僕のせいだよ」
 そう言いながらも、少なからずショックを受けたと顔に書いてある明楠に
 隣のクラスの王子の話は、こんな俺の耳にも届いてくるから噂だけでは知っていた。噂通りでは無いのだろうと分かっていたけれど、それも明楠を知る前までは本当の意味では分かっていなかったのだろう。
「……よろしく。明楠」
 蛍光色の靴下を眺めながら口の中で小さく呟いた声は、再び花に真剣に向き合った彼には届かなかったらしいけれど。自己は満足した。

 けれど、登校者が増え始めて自分のクラスに帰っていく明楠の背中を眺めていると……コミュニケーションが間違っていなかったのか。明楠が誰かに俺の事を何か言うんじゃないかと。
 途端に不安になって、そんなことを思ってしまうことへの自己嫌悪と恐怖が混ざって気持ち悪くなった。


 明日は無いかもしれないと毎日思っていたけれど、毎日思えるほど意外にもなんだかんだで明楠との朝活は続いた。
 俺は装飾品、明楠は装飾品を作ることもあれば、本番は放送原稿を作っていたりしていた。
 俺は去年は別の高校だったから、放送部の花形幽霊部員としてやったことがあったけれど、明楠は部活も委員にも入っていないのに体育祭のメイン放送担当らしい。この学校にはそういう活動がないため実行委員が体育祭の放送をするから、放送だけでそれ以外放課後に作業とか一切やらなくていいから実行委員になってくれと打診されたらしい。結局、根がまじめなのか放課後ではなくとも仕事をしているようだけれど。文化祭の実行委員よりはマシだから、そっちは絶対にやりたくないとかなんとか。
 とまあ、暫く明楠と関わって知ったことといえば、明楠がよく喋ること。
 朝が弱いのだろう、眠そうにふわふわして、五秒後には会話を忘れていそうな勢いのトークは聞いているだけで面白い。あと、喋っているのに作業はちゃんと進められているようで、よく分からない話をしながらも丁寧で素早い作業のギャップも少し面白い。
 そして、明楠は俺と話したことを誰にも言っていないであろうということだ。
 凄く自意識過剰みたいな話だけど、これが一番嬉しかった。
 俺にとっては大きいけれど、実際は一時間も満たない簡単で小さなコミュニケーション。
 明楠がゲームが好きという話から、奇しくも同じゲームをしていたことが判明したこともあったけれど。古いゲームだ。検索すれば簡単にネタバレがあるのに、お互いにネタバレを警戒しながら深刻度を探るような会話は少し面白かった。でも、一緒にやるようなゲームでもないし、本体を持ち込んですれ違いということすら特にやるわけでもなかった。
 そうして、片手で数えられる程度の日々は簡単に終わった。
 個々の作業は終わり、体育祭の準備は滞りなく全体的な作業フェーズに移行したからだ。これと言って可笑しなことはなく普通のこと。だから普通に明楠との関わりももうなくなっただろう。話すことももうないだろう。
 
 そう思っていたのに。
 体育祭前日の放課後。外は薄暗くなり始め、まばらに点いている蛍光灯の下を足早に廊下を歩いていると、すれ違いざまに話しかけられた。
「藍枝さんだ。あれ、ひとり?」
「……」
「……んん? 関係値リセットされてるのかな?」
 誰かに話しかけられるとは思っていなかったから、しばらく顔を見てから視線を下げると、体操着だとしても組み合わせとしては悪い蛍光色グリーンの靴下が視界に入った。つい眉間に皺が寄ったけれど不思議と心が落ち着く。
 明楠だ。顔を見たから知っていたけど、靴下で確信した。これは明楠だ。
「どういう表情……あ、そうだ。ごめんね」
 何故か謝った明楠の蛍光グリーンが一歩ほど後ろに歩いてビタと止まった。
 気になるほど近かったわけじゃないけど、手を伸ばしても届かないくらいの距離になった明楠が不思議で。そういえば自分が最初に一定の距離を保ってほしいということをお願いしたことを思い出した。
 けれど、それに何と言ったらいいのか分からない。気にしてくれるのは嬉しいけれど、気にしなくてもいいと思っている自分が確かにいる。お礼を言いうのも、謝るのもなんだか違うような気がして。違う話を振ることにした。
「放課後、居るなんて珍しい」
「ああ、うん。今日くらいはね……普段仕事してない分、前日くらいは居ないと」
「ん? してただろ、仕事」
「いや、放課後すぐ帰ってたし、休日も来てなかったからね。まあ、放送事務局の設置は終わったし。あとは本番仕事するだけ」
 疲れたような声に顔を上げると、明楠は力なく笑っていた。そうか、それだけで仕事をしていないことになるのか。朝一緒に作業をしなくなってからも、隣のクラスで人の気配がしていたから、明楠は何か仕事をしていたことをなんとなく知っていた。俺も、クラスの方の仕事をしていたから同じだろうと思っていた。
 でも、別に明楠はそれを主張することはなかったのだろう。俺がそうだからわかる。
「じゃあ、俺も仕事をしてないことになるな。放課後は残らなかったし、休日だって一度も登校しなかった。俺も、明日放送しようかな」
「……藍枝さんって、冗談言えるんだ」
 キョトンとしてから感嘆するようにしみじみ呟いた明楠に、唇を噛んだ。そう口に出して言われると、恥ずかしい。冗談なんて、アレから姉にしか通じなくなって、とんと言わなくなっていたのに。
「唇噛んじゃ駄目だよ。っていうかマスクしてないの珍しい」
「ひとりで校舎とグラウンドと体育館の往復してるから、マスクだと階段が流石につらくて」
 すれ違う人もほとんどいないし、一人だし良いかなと思って。
 マスクをつけてないのに自然と話せていることに気が付いた。
 よほど、俺は明楠はそういうやつじゃないと信じたいらしい。つけた方がいいのかも知れないけれど、今更でもある。ポケットから取り出そうとマスクにかけた指を離すと、明楠は困惑を顔に浮かべていた。
「な、なんで、ひとりでそんな重労働を?」
 何でと言われても、誰か取って来てという言葉をよく聞くけど誰も行きそうにもなかったのでシレっと聞いて人知れず取ってくることをしていたら意外と多く、勝手に専属になっただけだ。椅子とかケーブルだとかが足りなくて運んでいるうちに、意外と必要なものが多くなっていたというか。装飾が今日のリハーサル中の突風で壊れたからガムテープを探して持っていくとかもあった。
「運搬作業は意外と楽しいよ」
「う、う~ん」
 瞬きをして、唸り始める明楠を眺めてしばらく待つ。
 明楠は甘いマスクの澄まし顔だけど、意外と結構感受性豊かで表情に出るし、リアクション芸もできる。タイプで言ったら四七門ニツキタイプだ。アレも相当良いビジュの立ち絵から想像できないくらい表情豊かで、技術が凄いのか中の人と魂つながってるのかと思う。まあ、それ以外をあまり知らないからタイプもなにもないのだけど。
「手伝うよ。僕もやる」
「いや、大丈夫」
 意を決して掛けてくれた言葉をハッキリと断ると、明楠は相当面を食らったようだった。
 確かに、有難いかもしれない。でもこれは申し訳ないから遠慮するとか、強がりとかそういうことではない。
「風邪か、喋りすぎてるんじゃないか? 声がいつもと違う。本格的に喉をやる前に早く帰った方がいい」
 いつもというほど話してはないけれど、違和感というか若干掠れているような気がしたのは、きっと気のせいじゃない。
「…………藍枝さん、人たらしって言われない?」
「ある」
「あるんだ……」
 しまった。あるから、色々あって反省したのに。
 変わらなければまた同じことがあるだろうと思って、自分を変えた。人と関わらないようになったし、マスクをつけるようにもなった。でも、明楠にはそれがどうしても崩れる。明楠はある意味取り繕わない人間だから、自然とそっちに流れてしまうのだろうか。それがいいことなのか、わるいことなのか。
「ありがとう、お言葉に甘えて帰るね。藍枝さんも早く帰るんだよ。みんな、なんだかんだで雰囲気に呑まれて長居してるだけなんだから」
 雰囲気に呑まれるのは、わるいこと。でも、明楠とは今度こそ二度と話さないかもしれないから、少し雰囲気に呑まれるのも悪くはないかもしれない。
「……あのさ、呼び捨てで良いよ」
 明楠は、嬉しそうに顔を赤らめて笑って。
 ハッキリと断った。
「藍枝さんは、ボクにとってのヒーローなんだ。だから、藍枝さんは藍枝さんだよ」
 少し照れ臭そうに、頬を掻いて、目を伏せて話す明楠。
「藍枝さんは覚えていないだろうけど――」
 そこから続いた言葉に、目が覚めた。
 あーあ……。言われてしまった。言われてしまったからには、意図を汲むしかない。
「俺は……お前にヒーローって呼ばれるような奴じゃない」
 どちらかというと、今となってはお前に救われてる。どうか、何も知らずに救われる側にだけ立たせて欲しかった。けれど、それは許されないらしい。
「いまさらだけど。俺が知ってる中で”アイエダ”をそのイントネーションで話す奴は二人しかいないよ」
「え。藍枝さんじゃないの? 藍枝さん? 藍枝さん、藍枝さん? 藍枝さん」
「別になんでもいいけど」
 だってきっともう話すことはない。ただ跳ねのけられたわけじゃない。
 俺は物理的距離を取ったのに、精神的に近付こうとしたから、明楠は精神的距離を取っただけ。
「あと、これだけは誓って言うけど。御本人に御本人の歌を聴かせたのは故意じゃない。本当に気付いてなかった」
「うん、わかってる。でもあれは本当に心臓止まるかと思ったよ……よりにもよってオリ曲だったし」
 明楠は後ろを向いて「それじゃあ、また明日」なんて社交辞令を述べて歩き出した。声もかけず、小さくなる背中を眺めて、ポケットの中のマスクをつけた。
 俺もだいぶ恥ずかしいから、もうあの曲聞けない気がする。
 ……あの曲を聴いて寝るのが好きだったんだけどな。



「藍枝さんは覚えていないだろうけど――同じ中学だったんだよ」
 そこから続くエピソードは、きっと覚えていなくても読んだことがある。
 心当たりがないと思い込んでいた。気付きたくなくて脳内でヴェールに包んで隠していたのだろう。それが夢現になったいま、鮮明に思い出せる。
 本当に大したことはない。ただの肝試しで、俺は全く怖くなかった。ペアになった他のクラスの奴が、滅茶苦茶怖がっていたから、怖がりの姉にするように介抱しただけ。当時は怖いものなんて何もなかったから、なにがあろうと俺が守るとか言っていた記憶もある。
 その怖がっていたのが、四七門ニツキで明楠月路だったというだけ。
 アイエダが、藍枝杜和だったというだけ。

 これ以上、お互いに関わらず、お互いの幻想を抱いて生きましょう。ということなのだろう。
 夢を壊す前に、いや夢を壊される前に。
 だって、俺はもうあの頃とは随分と違って、酷く弱くなってしまったから。


ーーー

 体育祭当日、快晴。
 最高気温は今週で一番高く、雲一つない青空が高く高く澄み渡っている。
 今日は、実行委員としての仕事は種目ごとに小道具の設置と撤収作業くらいなもので、あとは全員種目に参加するだけ。
 長かった体育祭実行委員の期間、失ったものはあれど得たものはない。失ったといえるほど、何かを得ているわけではないはずだけど、感覚としては失ったみたいなものだ。ガッカリしている、という表現が合っているかもしれない。でも何にガッカリしているのかも分からない。
 青い鉢巻をつけて、マスクを外す。
 居心地の悪さは、マスクを外したから。――というだけではなさそうだった。

 前の高校とこの高校は毛色が違うと思っていたのだけれど、こういう行事とかの雰囲気はあまり変わらないらしい。
 そういうのは、嫌いじゃない。輪に混ざらないように決めているからその中には入れないけれど。雰囲気が楽しそうで何よりだと思う。
 ただ、本部の放送が聴こえる度に心臓に悪いのはどうしたものか。
 仕方ない。だって、明楠月路があまりに四七門ニツキの声でしかないのだ。
 恐らく、四七門ニツキは配信用の声で、明楠月路は地声に近いけれど作っている声なのだろう。それが、本部実況というマイクに向き合ったから四七門ニツキの声の出し方に寄ったのか、それとも……多少、喉をやったのか。
 まあ配信者はプロなのだからそういう喉の管理なんて、心配しなくても良いんだろうけど。
 この場合は喉の心配というより、バレないか勝手にひやひやしているだけだ。アレでよくバレないよな、とかバレないか不安じゃないのかな、とかそういう関心もある。
 でもきっとそういうのも考えない方がいいのだろう。
 顔など完全に晒されていた俺が、バレてないのかバレているけれど触れないでいてくれているのか。この学校で噂が出回ったりしていないし、好奇の目を向けられることもない。
 じゃあ、このまま四七門ニツキの配信を体育祭で体験しているみたいな感じでいいか。

 体育祭は滞りなく進んでいき、午前の種目はあと一つ。午後からは応援団の催しとなり、おふざけ種目を挟んで本気のメイン種目に移る。
 実行委員運営本部とクラスの集団の間くらいの片隅にひっそり居ると一人の生徒が近寄ってきた。
 俺に近寄って話しかけて来るのは、浅川さんか明楠くらいなものだけれど……浅川さんはグラウンドで順位の旗を渡しているのが見えるし、青の鉢巻ではなくピンクの鉢巻を巻いていた。ピンクとなると、いよいよ明楠な気がするけれど、まさか昨日堂々と境界線を引いた明楠が近寄って来るとは思えない。けれど、足元は蛍光ピンクの靴下が見えた。そんなところで色を合わせるセンスがあるなら蛍光色の靴下をやめた方がいい。
「……いつも僕が近寄ると目線を下げて嫌そうな顔するのはなんでなの?」
「蛍光色の靴下が気になってるだけ」
「かわいいでしょ」
 そう、言われると……なるほど可愛いのかもしれない。
 改めて、どこか得意げな明楠の全身を眺める。猛暑とまではいかないけれど、炎天下の中、汗一つかいていない明楠。
 頭はヘアアレンジをしておしゃれに鉢巻を巻いているのに、どうにも靴下が鼻につく。それをワンポイントの可愛さと言われればそんな気も……いや?
「で、何しにきたんだ? 俺に用があるわけでもないだろ」
「あるよ、勿論ある。借り物競争中なんだよ、藍枝さんのマスクが欲しくて」
 マスク? そんなのどこにでも……無いか。こんな体育祭でマスク持ってるのって俺くらいなもんか。
 それにしても、借り物競争でマスクなんて簡単でよかったな。明楠がそんな簡単、言ってしまえばつまらないカードを引いて周囲のテンションは下がっているだろうけど。
「……はい」
 必需品だけを入れているボディバックを手探りで漁り、個包装のマスクを取り出す。
 しかし、差し出したソレを明楠は受け取る素振りがない。
 借り物競争中って、一応その名の通り競争中なのだから急いだほうが良いと思うのだけれど。
「あー……その、藍枝さん」
 明楠は目をギュッと瞑って眉間に皺をよせて、恐る恐る俺の太ももの方を指さした。
「そっちのマスクが欲しい、かなって」
 そしてとても言い辛そうに言った。
 理解できず、首を傾げる。太ももの方、というかハーフパンツを指さしているのかもしれない。じゃあ、ポケットだとして、そこにあるものでマスクなんて一つしかない。
「……え、俺の使用済みマスク?」
 グギギ、と錆びて建付けが悪い扉のように首を縦に振った明楠に、心から同情した。
 そうだよな。だって、借り物競争だ。
 好きな人というカードと、他人の使用済みマスクを持ってくるというカード、どっちがマシだって言ったら好きな人の方だろう。だって、使用済みマスクを求めるなんて、ある種の変態っぽいことをしなければならないのだから。俺に頼んだのも、関係性も無く関係値なんて変動するものがないからだろう。なんというか気の毒だ。
 これ以上、聞くまい。
 指をさされている方のポケットから二つ折りにしていたマスクを取り出して明楠に渡す。人差し指と親指で摘まんで渡したのに、しっかり持たれてしまった。摘まんでいいのに。
「はい。朝ちょっとつけて奴だけど……匂いとか嗅ぐなよ」
「嗅がないよ‼」
 嗅がないだろうけど、一応。だって、ほら。人のものをとりあえず匂い嗅ぐ人っているじゃん。明楠はそのタイプじゃないかもしれないけど、一応。
 まあ臭くはないと思うけど、自分の体臭ってわからないし。普通に恥ずかしい。
「ありがとう、マスクは後で返すね」
「いや、人の手に渡った自分の使用済みマスクとかいらないだろ。捨てといてくれ」
 体育祭中にモノを捨てるなんて難しいかもしれないけど、借り物競争の次は昼休憩だからその間に捨てられるだろう。明楠だって、わざわざ俺に会いたくもないだろうし。
「おい、ポケットにしまうな」
「本当にありがとう、じゃあ行くね」
 背を向けて走り出す明楠に片手をあげて健闘を祈る。よく、人のマスクポケットにしまえるな。
 ……本当は、声を掛けたかったような気がする。
 どうせ放送局本部で、放送の仕事以外にもいろいろ人と話して水を飲む暇も無いなか競技に出ているのだろうから水を飲めだとか熱中症に気を付けろよとか。そういうことを言いたかった気がするけれど、結局言葉にはしなかった。
 友達だったら、言えたのだろうけど。俺らは友達ではないし、そもそも友達になりたいと思ってなかった。
 ……いや、結局は友達になりたかったのかもしれない。
 だから踏み込んで、拒絶されたのだ。拒絶してくれてよかった。明楠月路の何者かになりたいなんて思う方が間違っている。俺が四七門ニツキを知っていて、誕生日ボイスを買う程度にはファンである時点で俺らは決して対等にはなれなかったのだろう。
 だって、尊敬と言っても俺は、肩幅が5メートルあって、全身が発光し、顔面の良さが力となって幽霊などを弾き飛ばすようなアイエダではないのだから。
 そうやって、昨日から自分を納得させられるような言葉を連ねて同じようなことを考えている。様々な角度から見ようとして、結局大して変わらないことに嘆いて。悲観して、達観して。また思考の渦にとらわれるのだ。
 けれど、そんな思考の渦は途端に消え去った。
 思考の渦底に辿り着いたわけではない。
 呆然と眺めていた、背中が不自然に揺れた気がしたからだ。
「……明楠?」
 遠くからでもよく見える蛍光ピンクの足元がふらふらしているように見えて、咄嗟に足が動いた。
 俺は走っていた。
 ――あいつ、倒れそう。
 そう、ぼんやり考える脳より先に足が前に出ていた。
 それはきっとただの予感じゃない。
 目立ちたくないだとか、干渉のし過ぎで嫌われるとか。距離がどうだとか。そんなことは一切考えていなかった。
 重たい思考を残像に残して、徒競走より早く俺は走っていた。
 気持ちがせいて姿勢が崩れる。頭に乗せた程度の鉢巻が、外れて地面に落としていったけれど、そんなのはどうでもよくて。足を前に出し続けるていた。
 きっと、これは明楠が倒れるコンマ数秒。
 世界がスローモーションで、明楠はゆっくりと倒れていく。早く走れば間に合うのにこのスローモーションの世界で、都合よく俺の足だけ早くなるなんてことはない。
 足が重い。肺が痛い。ああもう、自分の足の遅さにイライラして声を上げた。
「明楠‼」
 叫ぶと、こちらを振り返ろうとした明楠の体がぐわんと大きく揺れて――
「ーー~~ッ‼」
 一か八か。
 地面を蹴って伸ばした手は間一髪。
 明楠が倒れる前に体操服を掴んだ。
 握り締めたそれを渾身の力で引き寄せると、流石にやや大きい男を片手で支えることはできず、バランスを崩して俺が下敷きになる形で地面に倒れる。
 心許ないので体操服から手を離して両手で明楠の頭を抱えて、顎を引いて。ドンッと、大きく音を立てて背中だけをグランドに打ち付けた。
「ぅぐっ……げほっ、ごほっ」
 嫌な咳が出て、舞った砂埃に目をギュッと瞑る。
「げほっ、あー、あっぶな……明楠、明楠。大丈夫か」
 呼吸を整えて、目を開く。
 俺の胸板に顎くらい打ち付けてそうな明楠を見て声を掛けると、眉がピクリと動いた。
 長い睫毛を震わせながら開いたヘーゼルの瞳がまたたき、ふわふわとそれが揺れた後に目が合った。
「……藍枝さん……? え、僕いま……?」
「倒れたんだよ」
「えっ」
 やっぱりあの一瞬気絶したらしい。状況が呑み込めずに目を瞬かせる明楠の顔色は見るからに悪い。
 体調事態はまだ悪いのだろうけど、なにはともあれ。
「無事でよかった」
「……あ、え……」
 熱中症だろうし、完全に無事とも言い難いけれど。無事でよかった。顔面から倒れるのを回避出来ただけでも本当に良かった。
「あ、ありがとう、藍枝さん……」
「別に気にしないで……明楠、顔赤いな? 吐きたいなら我慢せず」
「だいじょうぶ! 吐かないから、絶対吐かないから大丈夫大丈夫だから気にしないで」
「わかったから落ち着け」
 声を荒げられるほど回復してないだろう明楠の後頭部をゆっくり撫でると、宥めることに成功したらしく落ち着いたようだった。
 ああ良かった。
 目の前で人が倒れるなんて、初めてだったから。自分に出来ることが出来てよかった。
 安心して空気を排出された肺に鼻から息を入れると、砂埃のせいで鼻水が出た。なんだか格好つかないな、と思っていると、大声で呼ばれた。
「大丈夫かー!?」
「明楠くーん!!」
 大きな音と砂埃に、只事ではないと駆けつけてくれたらしい教師や生徒の声に明楠はハッとしたらしい。
 俺の上から飛び上がろうとしてよろめいたが「無闇に動くな!!」と養護教諭に一喝され、大人しく保健委員たちに囲まれて運ばれて行った。
 とりあえず保健室に運ぶらしい。場合によっては救急車を呼ぶとかなんとか。
「藍枝くん、貴方も倒れたでしょ?」
「俺は受け身取ったんで」
「良いから保健室」
「……はい」
 保健室に向かう前に、走る時に投げ捨てたらしい自分の荷物を回収して保健室に向かった。
 どうせこれから昼休み、すぐに解放されるだろうと思っていたら案の定背中に湿布だけ貼られて解放された。
 明楠の様子を少し見たかったけれど、冷房の付いた保健室には明楠以外の熱中症患者が複数人居たので邪魔にならないように退散した。


 それから、俺は昼ご飯を食べる前に放送席本部に向かった。
 殆どを明楠が放送する予定だったから、代打なんか考えてもいなかったらしい放送席は案の定やや混乱していて、明楠が競技中の埋め合わせの人達で押し付け合いをしている所だったので、これ幸いとばかりに頭を下げた。
「明楠の代わり、やらせてください。明楠より劣るけど、出来ると思うんで」
 
 明楠が元気になってから、話したいことがある。
 友達になりたい、なんて小学生でも言わないようなことを言わせてほしい。
 過去を後悔して反省して慎重になったなんて言い訳して正当化していたけれど、人と関わることに酷く臆病になってただけだったことに気づけて良かった。
 もしも高一の時に友人からやられたような裏切りを、もし明楠がしたならば、その時の感情を明楠に向ければいい。
 過去の他人に受けた傷で、全然関係ない明楠を怖がるのはきっと違うのだろう。
 あと、きっとあの時は俺がそうさせてしまった節もあるのだろうから、そうさせないようにしよう。

 俺の肩幅は5メートルもないし、全身は発光しないし、顔面の良さが力となって幽霊などを弾き飛ばすことはないけれど。
 ヒーローで友達でありたい。幻滅なんてさせてやるもんか。
 ヒーローなんて良いような表現をしている、献身的に尽くす都合のいい存在という意味ではなく、ただ日常生活で明楠が人に友人として俺を自信をもって紹介できるような存在を俺はヒーローと呼ぶ。
 明楠だって、俺にとってのヒーローだ。
 四七門ニツキは何もできずに生きていることを肯定してくれるようなみんなのための遠いヒーローの他人だけれど、明楠月路のお陰で朝起きることや人と触れ合うことが怖くはなくなったのだ。
 だから、きっと俺が、お前のヒーローになって。ようやく俺らは対等になれるのだ。

[newpage]
 体育祭から、マスクをつけるのをやめた。
 あとは教室に入るときに挨拶して入る風習にびびって朝一でクラスに居たけれど、それもやめた。
 標準時間に登校して教室に入ったところクラスメイトたちから熱烈歓迎されたのが先週のこと。重度の人見知りだと思われていたらしい。それか、メンヘラ恋人から束縛されて教室で一言も発せなくなった人だという噂もあったそうだ。
 恋人なんて居たことがないことを素直に言ったら「恋愛禁止……ってこと?」と言われた。時代錯誤なアイドルじゃあるまいし。
 でも、写真撮影と顔出しはNGだと意を決して言ってみたところ存外、受け入れてもらえたからとりあえず一安心。盗撮はされた時にどうにかしよう。
 そうして、クラスにやや馴染みつつあるけれど、俺が気になるのは専ら隣のクラスなわけで。
 あれから一週間。全然、明楠月路がつかまらない。
 四七門ニツキの配信がここ最近毎日あるので、元気なのは知っているけれど。いや、元気じゃなくても声が出るし目は開いてるし手は動くから配信しているという可能性はあるから実際元気なのかも知らない。
 姉に通販で買ってもらった四七門ニツキのCDにオンライン通話の応募券があったことに気付いて応募したけれど、俺が話したいのは四七門ニツキではなく明楠月路なのだ。
 いや、四七門ニツキとオンライン通話はしたい。茶化すつもりは一切なく、ファンとして、ファンとお話しする四七門ニツキは摂取したいという純粋な気持ちなので、もし当選した暁には声を変えて俺だと絶対に悟らせないようにして俺だけの思い出にしようと心に決めている。明楠月路と四七門ニツキは同じようで違うので。
 もうすぐ夏休みだから、早く会って話したい。
 そもそも、明楠は放課後すぐに帰るから朝か昼に出会わない限り難しい。そんなことを思いながら廊下を歩いていると、クセで足元を見ていたお陰でいち早く蛍光オレンジの信じられない靴下が目に入った。
「明楠? あ。明楠だ」
 目線を上げると、やはり明楠が居た。
「…………」
「……関係値、リセットされてる?」
 いつか明楠に言われた時に、何を言われているのか分からなかったけれど。こんなリアクションを取られると確かに関係値がリセットされているような気にもなる。使いどころが分かった。
「いや、違う。ごめん。えーっと、その、そうだよね。お礼を言わないととは思ってたんだよ。あの、ありがとう」
 使いどころは分かったけれど、明楠は焦ったように顔を赤くしたり青くしたりしているので、もう使わないほうが良いかもしれない。
 ごめんと言われるのも、ありがとうと言われるのも、身に覚えがないのだけれど。
「何が?」
「色々と。……助けてくれて」
 キョロキョロ動く視線を追いかける。明楠って、こんなに目が合わない人だっただろうか。
「それはまあ、お互い様」
「何処からどう見てもお互い様ではないと思うよ」
 そう言われると、確かにそうだけれど。説明が上手くできる気がしなくて、唸る。
 唸りながら、頃合いを見計らって立ち去ろうとしている明楠ににじり寄っていると廊下の隅にまで辿り着いた。多目的教室が連なっているおかげで誰も立ち寄らないようなところ。
「明楠と知り合ってなかったら、きっと足は動いてない」
 足が動かなかったら、確実に自分のことが嫌いになっていた。
 人助けがしたいとかじゃないし、感謝されたいわけでもなく、ただそういう時に動ける人間であることは長所というわけじゃない。動けてしまうことが短所として機能してしまったから、動くのをやめていた。
「それは知り合いじゃないんだから……ああ、そうだった、藍枝さんって知り合いじゃなくてもそういうことが出来ちゃう人だったね」
 けれど明楠のお陰で。というか、明楠月路と四七門ニツキのアイエダというヒーロー像のお陰で長所だと思えるようになった。
「だから、お互い様」
「うーん……?」
 煮え切らない、と顔に書いてありそうな明楠の表情は冴えない。このまま言ったら、逃げられるかもしれないので先に一応言っておきたいことを言っておこう。
「話は変わるが、一応。乙女ゲームをプレイしている男の配信を見るのがうちのクラスの流行だから気を付けたほうが良い」
「どうしてそんなことになっちゃったのかな」
 何をどう気を付ければいいのか分からない忠告に、明楠は唸った。
 なんせ四七門ニツキは先週から唐突に乙女ゲーム実況プレイ配信を始めたのだ。とてもタイミングが悪い。
 ことの発端は何を隠そう、俺だ。
 恋人なんていたことがない話をした時に、恋愛欲求は姉の少女漫画を読めば満たされることを話した。
 そこから、クラスで少女漫画ブームが起きて、クラスで少女漫画が闇市のように取引されるようになり、少女漫画に触れたことがない人々が少女漫画に触れたことで少女漫画の当て馬選手権になった。そこで見事、もはや当て馬に関係がなくひたすら乙女ゲームを布教していた子が優勝したのだ。そこから乙女ゲームブームが一部で到来したけれど、男子高校生たちは乙女ゲームを借りるにしても所持することのハードルは高いらしくゲーム実況に行きついた。
 四七門ニツキに行くかどうかは分からないけど、四七門ニツキは男子高校生設定なので行きつく可能性はある。
「男性リスナーが増えるって良いことなんだけどね……」
「身バレだけ、いつも以上に気を付けてくれ」
 うんうんと頷く明楠。確かに身バレを気を付けているだろうし、声で身バレはそれほど多くないだろうけど。
 そうだ。大事な話をする前に言っておかないと。
「明楠、大事な話をする前に白状しておく」
「大事な話をこれからされるの?」
 頷くと、明楠は目をギュッと閉じて開いた。話を続けよう。
「俺の顔はネットに晒されてる。削除請求が通ったけど、顔の良さのせいか定期的に無断転載が流れていることを踏まえて慎重に答えて欲しい」
「……ごめん。待って? ちなみにどうして晒されているのかとか聞いてもいいのかな?」
「掻い摘んで話すと、高一のとき、友達含め色んな人が俺を恋人として写真を上げてたらしく俺が炎上した」
 明楠が首を傾げた。
 眉間のシワを解して、腕を組んでから人差し指を立てた。
「ごめん、何が何? 藍枝さんが晒したの?」
「いや。家が厳しくてSNSの存在自体よく知らなくて。暴露系配信者の人が家に来てくれたお陰で炎上してることを知った」
「暴露系配信者が家に来てくれたお陰でって文脈あんまり聞いたことないよ」
 確かに。案外良い人だったけど、ちゃんとクズな人だった。二度と関わりたくはない。
「……辛いことを話させてごめんね」
「いや、人間不信のキッカケだけどもう違うから笑い話にして行こうと思ってる」
「配信ウケはしそうだけど現実では笑い話にするのは難しいと思うよ……」
 そうかな……確かにそうか。
 ちなみに全容としては、少し長い話になる。
 高校の友達が動画配信者になるということでスタッフとしてお手伝いしていたら男子高校生カップルチャンネルになっており、画像系のSNSでも誰かしらの彼氏として俺との写真だとかを載せていて、BL派かNL派かで学級崩壊が起きてた。
 そしてネットでは俺が何股クズ野郎として炎上していた。
 一方その頃、俺は家が厳しいことでSNSの類いや動画配信も見ることが許されなかったので何も知らずに風邪で学校を休んでいたら自宅に暴露系さんが来て全容を知ったのだ。
 ちなみに姉はSNSをやっていたが、オタク過ぎてリアルから乖離していたので何も知らなかった。
 顔が良すぎて、スキンシップに抵抗が無くて、パーソナルスペースが狭かったからこそ起きた不運な出来事だった。
 未だに四七門ニツキの配信を見るために配信サービスを開くとショート動画で、画質が悪い俺が「天ぷら? 好きだよ」と言ってる動画がオススメに出てきたりする。俺が好きなのは天ぷらじゃなくてかき揚げだと言うことに最近気づいたから大してダメージはないけど。
 ともあれ。明楠に俺が身バレしているリスクを話さなければならないという思っていたから、話せてよかった。
 本題は今からだ。
 んん、と喉を鳴らして息を吸って吐く。緊張を紛らわすために目線を落として蛍光オレンジを見てから目を閉じて、開けた。
 ……良し。
「明楠、明楠月路。今すぐに返事が欲しい訳じゃないから考えて貰っても全然構わない。でも、断られても、俺の気持ちはなかなか変わらないと思う。迷惑かもしれないけど、俺の気持ちを聞いて欲しい」
「ごめん待って。本当に待って」
「言ってからならいくらでも待つ。だから、言わせて欲しい」
 明楠のヘーゼルの瞳がゆらめいて、それのなんと綺麗なことか。
 落ち着いて、ゆっくり言葉を発した。
  
「俺と、友達になってください」
「……藍枝さん……あのさぁ、散々惚れさせといてそれは無いよ……」
 明楠は分かりやすいほどに言葉を詰まらせ、ぎこちなく俺の耳元に唇を寄せて。
 言葉を選ぶように口を開いた。

「その場合、僕は友達以上しか望まないけど?」
 友達以上。
 それが、心の友だとか親友だとかそういうことを言っているのでは無いというのは明楠の顔を見れば明らかで――
「……はっ?」
「…………藍枝さんって赤面するんだ……かわいいね」
 キスでもされそうな雰囲気の中、顔を赤らめた俺らは……。

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かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました

あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」 完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け 可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…? 攻め:ヴィクター・ローレンツ 受け:リアム・グレイソン 弟:リチャード・グレイソン  pixivにも投稿しています。 ひよったら消します。
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希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

同居人の距離感がなんかおかしい

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ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

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