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『イト』
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私は生きている。
疑う余地もない、それは紛れもない事実だった。
朝日を浴びて目覚め、木の実を食べ、風にそよぐ草の匂いを感じる。
魔法を放つたび、震える筋肉と満ちゆく魔力が、確かに「私」という存在を教えてくれた。
村を襲う魔物を追い払い、町に押し寄せる魔の軍勢を退けるうちに、
私はいつしか「英雄の魔術師」として語られるようになっていた……
生まれた頃から、私は周囲と何かが違うと感じていた。
けれど、その違和感の正体はずっと掴めなかった。何かが、漠然と心の奥底に沈んでいた。
ご飯を食べたとき──甘い、辛い、しょっぱい、苦い……
そのどれもが、私には同じように思えた。
だが私は、それに気づいていなかった。
皆が「おいしい」というなら、私にとってもそれは「おいしい」料理だった。
「苦い」「甘い」と言われれば、私もそう感じるものだと……ただ、そう思い込んでいた。
思い返せば、子どもの頃、走り回り、転び、立ち上がって遊んだあの日。
冒険者になってからは、敵と戦い、傷を負い、それでも戦闘を続けたあの日。
少年少女が魔物に襲われ、それをこの生身の体で全てを受け止めたあの日。
それほどまでに傷を負う機会があったのに、私の体からは、一滴の血すら流れたことがなかった。
けれど、それでも私は疑わなかった。
「私の体は生まれた時から強いのだから」と、そう信じていた。
やがて月日は流れた。
かつての仲間たちは老い、病に倒れ、ひとりまたひとりと旅立っていった。
しかし私は──少女と呼ばれる外見のまま、今も変わらず存在している。
病にかかったこともなければ、老いによって身体機能が衰えたと感じたこともない。
私が生まれてからもう、すでに百年が過ぎたというのに。
人間が生きるためには、絶対に必要な行為がいくつもある。
呼吸、食事、排泄、睡眠……
それらのどれかを、私は自らの意思で行ったことが、果たして一度でもあっただろうか?
少しずつ、私は理解していった。
自分は「何かが違う」。
しかもその違いは、決して小さなものではないことを。
ある日、私はいつものように魔法の訓練をしていた。
自分の正体が何であれ、この一生で積み上げてきた魔術を、鍛錬を怠ることで衰えさせるなどという無駄は、決して許せなかった。
私は、もう気づいていた。
自分が睡眠や食事、排泄行為などを必要としていないことを。
ならば、その時間を誰かの助けに使える。魔術を高めることもできる。
他者との違和感を抱えながらも、それでも私は人助けが好きだった。
それは、今も「英雄の魔術師」と語り継がれていることへの、密かな喜びだったのかもしれない。
私の魔術は、極限の領域にまで到達していたと自負している。
私に勝てる者は、ごくわずか。
「エリシア」と呼ばれる上位存在に魅入られた者たちくらいだろう。
残念ながらエリシアとやらは、私には興味がないらしい。
しかし、それらのごく一部の例外を除けば、私の隣に立てる者はいない。
むしろ、ここからエリシアすらも超えてみようかと……この異常な体なら、それも可能なのではないか、とさえ思う自分がいた。
きっと私は、その人助けや自己研磨を楽しんでいたのだのだろう。
しかし、なぜだろうか。
魔力を高めるにつれて、紫紺の糸が見えるようになった。
最初は、視界の隅にちらつく違和感程度だった。その細さと淡さは、風が運ぶ埃のように儚いものだったが、どこか異質な感覚が私の胸に突き刺さった。
その糸は、私の進路を導くように──いや、あたかも操るように──静かに動いていた。
気味が悪い。
私が進もうとする方向に、糸が動いている。
……いや、私は操られてなどいない。
私はこの頭で思考し、自らの意思で行動している。間違いない。
けれど、その糸は……
私の思考通りに動いていた。
いや、むしろ、思考そのものすらをも操っているのではないかと錯覚するほどに、
私の行動と寸分の狂いもなく一致していた。
徐々に、私の体はなんなのか、すべてが分からなくなっていく。
私は糸から逃れるために、どこまでも、どこまでも逃げた。
転移魔法を何千回も繰り返した。
炎と溶岩に囲まれた洞窟に、極寒の凍り付いた洞穴に、既に滅び朽ちた森の奥地に、機械の霊が蔓延る工場に、月の輝く神秘の空間に……その魔法の残滓を残しながら、何回も、何回も。
しかし糸からは、逃げられなかった。
人の気配も、魔物の気配もない、完全なる静寂。
だが、そんな場所でも、糸はなお私に絡みついていた。
私はただ、何もせずに、糸への恐怖にじっと耐えていた。
少しづつ、本当に少しづつだが、糸と髪の毛が混じりあい、同化していく。
自分の体内までもが、糸に侵食されるような錯覚に陥っていく……
ある時、銀髪の少女が目の前に現れた。
人と会うのは、少なくとも数か月ぶりだろう。人どころか、生命と会うことさえも久しぶりだった。
彼女はいったいどうやってこんなところまで来たのだろうか。私自身ですら分からない、この場所に。
私は、なにか狂っていたのかもしれない。
久しぶりの生命に興奮したのか、それとも"普通"の人間に嫉妬したのか。理由は分からない。
ただ、私はあろうことか、その人間と戦っていた。
彼女の狙いがおかしい。戦闘する前から、その目線で分かった。
彼女は私の体を狙っていない。狙っているのは……
私に絡みつく、紫紺の糸だった。
彼女の攻撃で、糸は切れていく。
恐怖が剥がれ落ちていくのが分かる。
それなのに、私はなぜ戦っている?
なぜ抵抗している?
私は気づかないうちに、本気の抵抗をしていた。
戦闘中の私は、本来の姿をしていたのだろう。
私は、血液の循環を止めた。肌はみるみるうちに白くなり、生気が引いていく。
私は、眼球の機能を停止させた。目の色は濁り、焦点は合わなくなる。
私は、呼吸をやめた。体内に無駄な空気が送り込まれることはなかった。
無意識に行っていた「生きている者のふるまい」
食事や睡眠などとは違う、根本的なすべてのふるまい。
それら全てをこの瞬間、意図的にやめた。
それなのに、私は動く。体は動き続ける。まるで操られているかのように。
糸は切れていく、少しづつ、少しづつ……
体内に残る魔力をすべて放出して、全力で対抗した。なぜ抵抗しているのか、自分でも分からない。
ただ、体内の魔力はこれまで以上に増幅していく。宿主が死なないように操る、寄生虫のように。
しかし、私は戦闘に敗れた。
最後の糸が切れたとき、私は思った。
ようやく、自由になれるのだと。疑うことさえなかった。
──だがその瞬間。
私は、ただの「死体」に戻っていた。
『ここは、エリシアの領域。人の子からの契約は、必要ありませんでしたね。』
目を開ける。
驚くほどの温もりが、全身を包み込んでいた。
目の前には、一人の人間──いや、エリシア。その名前が自然と心に浮かんだ。
そっと、彼女の腕に抱かれている。
その温かさは、これまで感じたことのないもので、心の奥深くまで染み渡っていく。
胸が締め付けられるような感覚。それは、懐かしさと安堵、そして涙にも似たものだった。
周囲を見回しても、あの紫紺の糸はもうどこにもない。
ただ、静かな空間と彼女の腕の中で、私は初めて「自由」という感覚を知った。
疑う余地もない、それは紛れもない事実だった。
朝日を浴びて目覚め、木の実を食べ、風にそよぐ草の匂いを感じる。
魔法を放つたび、震える筋肉と満ちゆく魔力が、確かに「私」という存在を教えてくれた。
村を襲う魔物を追い払い、町に押し寄せる魔の軍勢を退けるうちに、
私はいつしか「英雄の魔術師」として語られるようになっていた……
生まれた頃から、私は周囲と何かが違うと感じていた。
けれど、その違和感の正体はずっと掴めなかった。何かが、漠然と心の奥底に沈んでいた。
ご飯を食べたとき──甘い、辛い、しょっぱい、苦い……
そのどれもが、私には同じように思えた。
だが私は、それに気づいていなかった。
皆が「おいしい」というなら、私にとってもそれは「おいしい」料理だった。
「苦い」「甘い」と言われれば、私もそう感じるものだと……ただ、そう思い込んでいた。
思い返せば、子どもの頃、走り回り、転び、立ち上がって遊んだあの日。
冒険者になってからは、敵と戦い、傷を負い、それでも戦闘を続けたあの日。
少年少女が魔物に襲われ、それをこの生身の体で全てを受け止めたあの日。
それほどまでに傷を負う機会があったのに、私の体からは、一滴の血すら流れたことがなかった。
けれど、それでも私は疑わなかった。
「私の体は生まれた時から強いのだから」と、そう信じていた。
やがて月日は流れた。
かつての仲間たちは老い、病に倒れ、ひとりまたひとりと旅立っていった。
しかし私は──少女と呼ばれる外見のまま、今も変わらず存在している。
病にかかったこともなければ、老いによって身体機能が衰えたと感じたこともない。
私が生まれてからもう、すでに百年が過ぎたというのに。
人間が生きるためには、絶対に必要な行為がいくつもある。
呼吸、食事、排泄、睡眠……
それらのどれかを、私は自らの意思で行ったことが、果たして一度でもあっただろうか?
少しずつ、私は理解していった。
自分は「何かが違う」。
しかもその違いは、決して小さなものではないことを。
ある日、私はいつものように魔法の訓練をしていた。
自分の正体が何であれ、この一生で積み上げてきた魔術を、鍛錬を怠ることで衰えさせるなどという無駄は、決して許せなかった。
私は、もう気づいていた。
自分が睡眠や食事、排泄行為などを必要としていないことを。
ならば、その時間を誰かの助けに使える。魔術を高めることもできる。
他者との違和感を抱えながらも、それでも私は人助けが好きだった。
それは、今も「英雄の魔術師」と語り継がれていることへの、密かな喜びだったのかもしれない。
私の魔術は、極限の領域にまで到達していたと自負している。
私に勝てる者は、ごくわずか。
「エリシア」と呼ばれる上位存在に魅入られた者たちくらいだろう。
残念ながらエリシアとやらは、私には興味がないらしい。
しかし、それらのごく一部の例外を除けば、私の隣に立てる者はいない。
むしろ、ここからエリシアすらも超えてみようかと……この異常な体なら、それも可能なのではないか、とさえ思う自分がいた。
きっと私は、その人助けや自己研磨を楽しんでいたのだのだろう。
しかし、なぜだろうか。
魔力を高めるにつれて、紫紺の糸が見えるようになった。
最初は、視界の隅にちらつく違和感程度だった。その細さと淡さは、風が運ぶ埃のように儚いものだったが、どこか異質な感覚が私の胸に突き刺さった。
その糸は、私の進路を導くように──いや、あたかも操るように──静かに動いていた。
気味が悪い。
私が進もうとする方向に、糸が動いている。
……いや、私は操られてなどいない。
私はこの頭で思考し、自らの意思で行動している。間違いない。
けれど、その糸は……
私の思考通りに動いていた。
いや、むしろ、思考そのものすらをも操っているのではないかと錯覚するほどに、
私の行動と寸分の狂いもなく一致していた。
徐々に、私の体はなんなのか、すべてが分からなくなっていく。
私は糸から逃れるために、どこまでも、どこまでも逃げた。
転移魔法を何千回も繰り返した。
炎と溶岩に囲まれた洞窟に、極寒の凍り付いた洞穴に、既に滅び朽ちた森の奥地に、機械の霊が蔓延る工場に、月の輝く神秘の空間に……その魔法の残滓を残しながら、何回も、何回も。
しかし糸からは、逃げられなかった。
人の気配も、魔物の気配もない、完全なる静寂。
だが、そんな場所でも、糸はなお私に絡みついていた。
私はただ、何もせずに、糸への恐怖にじっと耐えていた。
少しづつ、本当に少しづつだが、糸と髪の毛が混じりあい、同化していく。
自分の体内までもが、糸に侵食されるような錯覚に陥っていく……
ある時、銀髪の少女が目の前に現れた。
人と会うのは、少なくとも数か月ぶりだろう。人どころか、生命と会うことさえも久しぶりだった。
彼女はいったいどうやってこんなところまで来たのだろうか。私自身ですら分からない、この場所に。
私は、なにか狂っていたのかもしれない。
久しぶりの生命に興奮したのか、それとも"普通"の人間に嫉妬したのか。理由は分からない。
ただ、私はあろうことか、その人間と戦っていた。
彼女の狙いがおかしい。戦闘する前から、その目線で分かった。
彼女は私の体を狙っていない。狙っているのは……
私に絡みつく、紫紺の糸だった。
彼女の攻撃で、糸は切れていく。
恐怖が剥がれ落ちていくのが分かる。
それなのに、私はなぜ戦っている?
なぜ抵抗している?
私は気づかないうちに、本気の抵抗をしていた。
戦闘中の私は、本来の姿をしていたのだろう。
私は、血液の循環を止めた。肌はみるみるうちに白くなり、生気が引いていく。
私は、眼球の機能を停止させた。目の色は濁り、焦点は合わなくなる。
私は、呼吸をやめた。体内に無駄な空気が送り込まれることはなかった。
無意識に行っていた「生きている者のふるまい」
食事や睡眠などとは違う、根本的なすべてのふるまい。
それら全てをこの瞬間、意図的にやめた。
それなのに、私は動く。体は動き続ける。まるで操られているかのように。
糸は切れていく、少しづつ、少しづつ……
体内に残る魔力をすべて放出して、全力で対抗した。なぜ抵抗しているのか、自分でも分からない。
ただ、体内の魔力はこれまで以上に増幅していく。宿主が死なないように操る、寄生虫のように。
しかし、私は戦闘に敗れた。
最後の糸が切れたとき、私は思った。
ようやく、自由になれるのだと。疑うことさえなかった。
──だがその瞬間。
私は、ただの「死体」に戻っていた。
『ここは、エリシアの領域。人の子からの契約は、必要ありませんでしたね。』
目を開ける。
驚くほどの温もりが、全身を包み込んでいた。
目の前には、一人の人間──いや、エリシア。その名前が自然と心に浮かんだ。
そっと、彼女の腕に抱かれている。
その温かさは、これまで感じたことのないもので、心の奥深くまで染み渡っていく。
胸が締め付けられるような感覚。それは、懐かしさと安堵、そして涙にも似たものだった。
周囲を見回しても、あの紫紺の糸はもうどこにもない。
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