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第一話:「夢の記憶」
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季節は春の終わり。けれど空には、ほんのすこし名残のような冷たさが残っていた。
この喫茶店のことを知る人は少ない。
たとえばふらりと迷い込む人、地図にも載っていない道を歩いた人、あるいは、何かを「落とした」人たち。
そんな人々が、ふと訪れる。
ハクはその喫茶店で、静かにコーヒーを淹れている。
本当は、違う世界の住人だった。
いずれまた還るべき場所がある。けれど今は、この人間たちの世界に降り立って、ただ静かに時を見守っている。
この店にやってくる「落としもの」は、物だけではない。
――記憶。後悔。誰かへの言葉。夢。愛しさ。
そういった目に見えないものたちが、まるで風に吹かれて迷い込むように、そっと扉のすき間から入り込んでくるのだった。
昼下がり。常連たちが帰って静かになった頃、扉の鈴がやわらかく鳴った。
入ってきたのは、長いコートを羽織った青年だった。
目元は涼やかで整っているが、どこか遠くを見るような視線をしている。まるで、この世界に少しだけ遅れて存在しているような雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
ハクが声をかけると、青年は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから微笑んだ。
そして、カウンターの端に静かに腰を下ろす。
「……コーヒーをひとつ。お願いします」
「かしこまりました」
ハクは豆を量りながら、ちらりと彼の横顔を盗み見た。
この青年も、きっと何かを落としに来たのだ。まだ自分でも気づいていないだけで。
「この店、不思議ですね」
「そうですか?」 ハクは不思議そうに答えた。
「ええ。色んな思いがこの空間に詰まっているみたいな」
「そうですね。私がここに店を開いたのも、古風な感じが気に入ったからなんですよ」
ハクは、楽しそうに答えた。
「いえ…そういう事じゃ無く、色んな思いたちが迷子のようにこの店に頼って来てるような」
青年の言葉に、ハクの手がわずかに止まった。
やはり、この青年には「見えて」いるのかもしれない。
「コーヒー、お待たせしました」
ハクは、動揺を隠すように平然を装う。
「ありがとうございます」
コーヒーをひとくち口に含み、青年は静かに目を閉じた。
その表情が、少し緩んだ。
「……おいしいですね。まるで昔、夢で飲んだような味がします」
「夢の中のコーヒーは、覚えていますか?」 ハクは尋ねた。
「不思議と、覚えてるんです。……コーヒーだけじゃなく、色んな事を」
そう言って青年は、少しだけ目を伏せた。
ハクはカウンター越しに、そっとその人を見つめる。
心のどこかで、わかっていた。彼が、ただの客ではないことを。
その瞳の奥に、いくつもの時代――いくつもの「記憶」が揺らいでいた。
そして、きっと彼自身も、それに気づきはじめていた。
「……僕、変なこと言っていいですか?」
「はい」
「最近、誰にも言えないんですけど。ときどき、自分が誰かだった記憶を見るんです。……それと、誰にも見えない人影が、傍に立っていることも」
「それは、怖いですか?」
「怖くは、ないです。ただ……ずっと、誰かを探している気がしているんです。名前も顔もわからない。なのに、確かに会ったことがあるような……そんな感覚」
言葉が途切れ、静寂がふたりの間に落ちた。
けれど、それは重苦しいものではなく、温かく、どこか懐かしささえ帯びていた。
「……お名前をうかがっても?」
ハクがやわらかく尋ねると、青年は一瞬だけ驚き、そしてふっと笑った。
「篠原湊(しのはら・みなと)です」
その名を聞いた瞬間、ハクの中に、風のような記憶が吹き抜けた。
――知っている。
まだ、出会っていないはずの誰か。それでも、名前だけが先に心の奥に響いたような、不思議な感覚。
「湊さん……いい名前ですね。私は、ハクといいます」
「……ハクさん。うん、なんだか懐かしい響きだ」
ふたりの間に、また静寂が戻った。
けれど、それはもう何も語らなくてもいいという優しさだった。
外では、少しだけ雲が薄れ、陽の光が差し込みはじめていた。
この出会いが、何をもたらすのかはまだ知らない。
けれどハクの中に、はっきりとした確信が芽生えていた。
――彼とは、いずれ何かの縁があるような。けれどそれは失うことではない。
むしろ、ここからはじまる記憶の扉なのだと。
この喫茶店のことを知る人は少ない。
たとえばふらりと迷い込む人、地図にも載っていない道を歩いた人、あるいは、何かを「落とした」人たち。
そんな人々が、ふと訪れる。
ハクはその喫茶店で、静かにコーヒーを淹れている。
本当は、違う世界の住人だった。
いずれまた還るべき場所がある。けれど今は、この人間たちの世界に降り立って、ただ静かに時を見守っている。
この店にやってくる「落としもの」は、物だけではない。
――記憶。後悔。誰かへの言葉。夢。愛しさ。
そういった目に見えないものたちが、まるで風に吹かれて迷い込むように、そっと扉のすき間から入り込んでくるのだった。
昼下がり。常連たちが帰って静かになった頃、扉の鈴がやわらかく鳴った。
入ってきたのは、長いコートを羽織った青年だった。
目元は涼やかで整っているが、どこか遠くを見るような視線をしている。まるで、この世界に少しだけ遅れて存在しているような雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
ハクが声をかけると、青年は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから微笑んだ。
そして、カウンターの端に静かに腰を下ろす。
「……コーヒーをひとつ。お願いします」
「かしこまりました」
ハクは豆を量りながら、ちらりと彼の横顔を盗み見た。
この青年も、きっと何かを落としに来たのだ。まだ自分でも気づいていないだけで。
「この店、不思議ですね」
「そうですか?」 ハクは不思議そうに答えた。
「ええ。色んな思いがこの空間に詰まっているみたいな」
「そうですね。私がここに店を開いたのも、古風な感じが気に入ったからなんですよ」
ハクは、楽しそうに答えた。
「いえ…そういう事じゃ無く、色んな思いたちが迷子のようにこの店に頼って来てるような」
青年の言葉に、ハクの手がわずかに止まった。
やはり、この青年には「見えて」いるのかもしれない。
「コーヒー、お待たせしました」
ハクは、動揺を隠すように平然を装う。
「ありがとうございます」
コーヒーをひとくち口に含み、青年は静かに目を閉じた。
その表情が、少し緩んだ。
「……おいしいですね。まるで昔、夢で飲んだような味がします」
「夢の中のコーヒーは、覚えていますか?」 ハクは尋ねた。
「不思議と、覚えてるんです。……コーヒーだけじゃなく、色んな事を」
そう言って青年は、少しだけ目を伏せた。
ハクはカウンター越しに、そっとその人を見つめる。
心のどこかで、わかっていた。彼が、ただの客ではないことを。
その瞳の奥に、いくつもの時代――いくつもの「記憶」が揺らいでいた。
そして、きっと彼自身も、それに気づきはじめていた。
「……僕、変なこと言っていいですか?」
「はい」
「最近、誰にも言えないんですけど。ときどき、自分が誰かだった記憶を見るんです。……それと、誰にも見えない人影が、傍に立っていることも」
「それは、怖いですか?」
「怖くは、ないです。ただ……ずっと、誰かを探している気がしているんです。名前も顔もわからない。なのに、確かに会ったことがあるような……そんな感覚」
言葉が途切れ、静寂がふたりの間に落ちた。
けれど、それは重苦しいものではなく、温かく、どこか懐かしささえ帯びていた。
「……お名前をうかがっても?」
ハクがやわらかく尋ねると、青年は一瞬だけ驚き、そしてふっと笑った。
「篠原湊(しのはら・みなと)です」
その名を聞いた瞬間、ハクの中に、風のような記憶が吹き抜けた。
――知っている。
まだ、出会っていないはずの誰か。それでも、名前だけが先に心の奥に響いたような、不思議な感覚。
「湊さん……いい名前ですね。私は、ハクといいます」
「……ハクさん。うん、なんだか懐かしい響きだ」
ふたりの間に、また静寂が戻った。
けれど、それはもう何も語らなくてもいいという優しさだった。
外では、少しだけ雲が薄れ、陽の光が差し込みはじめていた。
この出会いが、何をもたらすのかはまだ知らない。
けれどハクの中に、はっきりとした確信が芽生えていた。
――彼とは、いずれ何かの縁があるような。けれどそれは失うことではない。
むしろ、ここからはじまる記憶の扉なのだと。
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