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第2章 梓弓
第30話 山藤
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直義が完成した師畿の城への移動を表明したのは、翌年の春だった。吾桑の影響下にあった武将達の仕置きも済み、尾上攻めの後、都近辺の小領主達も悉く直義に降った。
北と南にはまだいくばくかの勢力は残っていたが、斎主の倫旨を得て天下への姿勢を明確にした直義は、まず都とその周辺の整備に乗り出した。師畿の城はその拠点だった。
『お前の屋敷もちゃんとあるぞ。』
と言われた時は、頼隆は小躍りして喜んだ。
が移動が近づくにつれ、その表情は暗くなっていった。
ーどうかしたのか?ー
ーどうもせぬ。---ー
と床の中で、直義に問われても頭を振って直義の胸元に顔を埋めるばかりだった。
日中、机に向かっていても、ぼぅ---とあらぬ方を見ていることが多くなった。近習の少年達も、さすがに心配になったのだろう。柾木にそっと伝えてはみたが、柾木は、
ーそっとしておけ。要らぬ事を言うでない。ー
と窘めるばかりだった。
瞬く間に日々が過ぎ、あと三日で城を離れる---という日だった。
朝餉を済ませた後、頼隆が柾木を呼んだ。
「如何がなさいましたか、御前様。」
柾木はいつもの調子で淡々と目の前に座った。
頼隆の思い詰めた表情に、ぴくりとも眉も動かさなかった。が、しかし---
「ここから、出してくれ---。」
とすがるように、途切れがちの声で頼隆が懇願すると、その白髪混じりの頭が、しばしの後、ゆっくり頷いた。
「馬は用意してございます。お供は着けますが、よろしいですな?」
頼隆は、一瞬耳を疑った---が、次の瞬間には、目に涙が滲んだ。
「良いのか?」
「夕刻までには、戻られませよ。」
頼隆は大きく頷いた。柾木の傍らには、袴と頭巾とが用意されていた。頼隆は早々に着替え、控えていた治平-弥助と共に廐へ急いだ。一分でも惜しい----そのさまに、怪訝そうに治平が訊いた。
「何処へ参られますのか?」
「北だ。」
とだけ頼隆は答え、手綱を取った。
馬を駈ること二刻、頼隆はそこに辿り着いた。佐喜と那賀を隔てる山々の北の尾根---。
そこからは、遥か彼方に佐喜の国と安能の城とが幽かに見えた。
頼隆は無言で傍らの木に馬を繋ぎ、一番見晴らしの良い場所の山藤の下に立った。一言も、何も言わず、ただ立ち尽くしていた。弥助と治平も、黙ったまま、控えていた。
那賀に囚われてから十年近くになる。その間、一度も忘れることの無かった故郷だった。まろやかな里山の狭間をゆったりと川が横切り、田畑が広がる。その一段と奥の小高い山の上に安能城の天守閣が霞んで見えた。右手の里山の向こうには、海がある。
今日のような穏やかな日には波も凪いで、漁師達の舟が沖合いで行き交い、浜には女達の笑い声が響いているだろう---。
こんな日は、兄や弟と釣りにも出かけた。仕掛けは難しかったが、兄の仕掛けはよく釣れた。いつも弟が一番で大はしゃぎだった---。
頼隆の頬を一筋、涙が伝った。風の音だけがしていた。
「二度と帰って来れぬわけではない。」
如何ほどの時が経ったのか---じっと故郷を見つめて立ち尽くす頼隆の背を馴染んだ香りが包んだ。頼隆は急いで袖口で眼を擦った。
「そのままで良い--。」
あやすような、優しい口調だった。
「師畿は那賀よりも遠いが、いずれ北にも攻める。佐喜が拠点になることもある。」
「連れて来てくれるのか---。」
「お前次第だ。お前が『良い子』にしていれば、連れてきてやる。」
「我れは子供ではない---。」
頼隆は言って、回された腕に頬を寄せた。また、涙が出そうだった。
「直義---。」
「ん?」
男の指が、頼隆の顎にかかった。くい---と上向いた頼隆の目に直義の瞳が映った。深い、優しい眼差しだった。静かに唇を重ね、その熱を伝える---。
長い、柔らかな口づけの後、直義は軽く頼隆の肩を叩いて言った。
「帰るぞ。日が落ちる。」
「まだ---」と口を尖らせる頼隆の頭を軽く叩いて、直義が笑った。
「腹が減った。途中の茶屋で団子でも食おう。」
直義に連られて、頼隆が小さく笑った。
頼隆が城を出た後、しばらくして柾木が直義の居室に現れた。
『頼隆さま、外出なされました。』
『なんだと?』
『夕刻までには、お戻りの予定です。』
瞬間、直義は目を剥き、柾木に詰め寄った。が、何やら思い至ったらしく、直ぐに近習に向き直った。
『馬を引け。』
『何処れに参られますのか?』
と問う柾木に、直義がうっすらと笑った。
『迎えに行ってやるのじゃ。今頃は、寂しゅうて泣いておろうゆえの。』
やれやれ---といった表情で、それでもにこやかに柾木は主を見送った。
頼隆が向かう先は、北---佐喜との国境ーそうであることを直義も柾木も知っていた。いや、そうであって欲しい---と念じていた。
そして、頼隆はそのとおり、あの尾根の、山藤の薄紫の花房の下に佇んでいた。懐かしい、恋しい故郷を前に、『帰りたい』という言葉を口に出すことも出来ず、ただただ見詰めていた。
その後ろ姿に直義も一瞬、胸が詰まった。しばらくは黙って後ろ姿を見つめていた。が、背中が微かに震えているように思えて---抱きしめた。
直義とともに城に戻った頼隆を迎えた柾木は相変わらず淡々としていたが
「お帰りなさいませ。」
と頭を下げる声音は心なしか穏やかだった。
「ありがとう。」
と頼隆が小さく呟くと、頷いて、僅かに微笑んだように見えた。
「いずれは---」
と小声で言ったようにも、聞こえた。
北と南にはまだいくばくかの勢力は残っていたが、斎主の倫旨を得て天下への姿勢を明確にした直義は、まず都とその周辺の整備に乗り出した。師畿の城はその拠点だった。
『お前の屋敷もちゃんとあるぞ。』
と言われた時は、頼隆は小躍りして喜んだ。
が移動が近づくにつれ、その表情は暗くなっていった。
ーどうかしたのか?ー
ーどうもせぬ。---ー
と床の中で、直義に問われても頭を振って直義の胸元に顔を埋めるばかりだった。
日中、机に向かっていても、ぼぅ---とあらぬ方を見ていることが多くなった。近習の少年達も、さすがに心配になったのだろう。柾木にそっと伝えてはみたが、柾木は、
ーそっとしておけ。要らぬ事を言うでない。ー
と窘めるばかりだった。
瞬く間に日々が過ぎ、あと三日で城を離れる---という日だった。
朝餉を済ませた後、頼隆が柾木を呼んだ。
「如何がなさいましたか、御前様。」
柾木はいつもの調子で淡々と目の前に座った。
頼隆の思い詰めた表情に、ぴくりとも眉も動かさなかった。が、しかし---
「ここから、出してくれ---。」
とすがるように、途切れがちの声で頼隆が懇願すると、その白髪混じりの頭が、しばしの後、ゆっくり頷いた。
「馬は用意してございます。お供は着けますが、よろしいですな?」
頼隆は、一瞬耳を疑った---が、次の瞬間には、目に涙が滲んだ。
「良いのか?」
「夕刻までには、戻られませよ。」
頼隆は大きく頷いた。柾木の傍らには、袴と頭巾とが用意されていた。頼隆は早々に着替え、控えていた治平-弥助と共に廐へ急いだ。一分でも惜しい----そのさまに、怪訝そうに治平が訊いた。
「何処へ参られますのか?」
「北だ。」
とだけ頼隆は答え、手綱を取った。
馬を駈ること二刻、頼隆はそこに辿り着いた。佐喜と那賀を隔てる山々の北の尾根---。
そこからは、遥か彼方に佐喜の国と安能の城とが幽かに見えた。
頼隆は無言で傍らの木に馬を繋ぎ、一番見晴らしの良い場所の山藤の下に立った。一言も、何も言わず、ただ立ち尽くしていた。弥助と治平も、黙ったまま、控えていた。
那賀に囚われてから十年近くになる。その間、一度も忘れることの無かった故郷だった。まろやかな里山の狭間をゆったりと川が横切り、田畑が広がる。その一段と奥の小高い山の上に安能城の天守閣が霞んで見えた。右手の里山の向こうには、海がある。
今日のような穏やかな日には波も凪いで、漁師達の舟が沖合いで行き交い、浜には女達の笑い声が響いているだろう---。
こんな日は、兄や弟と釣りにも出かけた。仕掛けは難しかったが、兄の仕掛けはよく釣れた。いつも弟が一番で大はしゃぎだった---。
頼隆の頬を一筋、涙が伝った。風の音だけがしていた。
「二度と帰って来れぬわけではない。」
如何ほどの時が経ったのか---じっと故郷を見つめて立ち尽くす頼隆の背を馴染んだ香りが包んだ。頼隆は急いで袖口で眼を擦った。
「そのままで良い--。」
あやすような、優しい口調だった。
「師畿は那賀よりも遠いが、いずれ北にも攻める。佐喜が拠点になることもある。」
「連れて来てくれるのか---。」
「お前次第だ。お前が『良い子』にしていれば、連れてきてやる。」
「我れは子供ではない---。」
頼隆は言って、回された腕に頬を寄せた。また、涙が出そうだった。
「直義---。」
「ん?」
男の指が、頼隆の顎にかかった。くい---と上向いた頼隆の目に直義の瞳が映った。深い、優しい眼差しだった。静かに唇を重ね、その熱を伝える---。
長い、柔らかな口づけの後、直義は軽く頼隆の肩を叩いて言った。
「帰るぞ。日が落ちる。」
「まだ---」と口を尖らせる頼隆の頭を軽く叩いて、直義が笑った。
「腹が減った。途中の茶屋で団子でも食おう。」
直義に連られて、頼隆が小さく笑った。
頼隆が城を出た後、しばらくして柾木が直義の居室に現れた。
『頼隆さま、外出なされました。』
『なんだと?』
『夕刻までには、お戻りの予定です。』
瞬間、直義は目を剥き、柾木に詰め寄った。が、何やら思い至ったらしく、直ぐに近習に向き直った。
『馬を引け。』
『何処れに参られますのか?』
と問う柾木に、直義がうっすらと笑った。
『迎えに行ってやるのじゃ。今頃は、寂しゅうて泣いておろうゆえの。』
やれやれ---といった表情で、それでもにこやかに柾木は主を見送った。
頼隆が向かう先は、北---佐喜との国境ーそうであることを直義も柾木も知っていた。いや、そうであって欲しい---と念じていた。
そして、頼隆はそのとおり、あの尾根の、山藤の薄紫の花房の下に佇んでいた。懐かしい、恋しい故郷を前に、『帰りたい』という言葉を口に出すことも出来ず、ただただ見詰めていた。
その後ろ姿に直義も一瞬、胸が詰まった。しばらくは黙って後ろ姿を見つめていた。が、背中が微かに震えているように思えて---抱きしめた。
直義とともに城に戻った頼隆を迎えた柾木は相変わらず淡々としていたが
「お帰りなさいませ。」
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