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王と父は、先程までリュートがいた隣の部屋に行った。隣にリュートが座り、ソファーが軋む。
おそるおそるリュートを見上げる。やはり、瞳は怒ったままだった。
「……なぜ、隣にいらしたの」
「俺に黙っておくつもりだったのか」
アイリスはこれまで口喧嘩で負けたことなどなかったのに。勝てる気がしなかった。
「どうしてきみは、」
けれどリュートも、真っ直ぐな言葉しか使えない、不器用な人だった。
言葉に詰まらせ、そして怒りと悲しみが渦巻く瞳を伏せる。黒い髪がさらりとこぼれ落ちた。
「……俺では、きみに相応しくなかった?」
アイリスは目を見開いた。靴先を見つめているリュートは、背も高く、手足も長い男なのに。やけに小さく見えて、アイリスは首を振る。
「そのようなことは」
「さぞかし俺は、頼りなかっただろう。公爵から話を聞いた時、まさかと思った。今の今まで疑っていた。きみはそんな素振り、なにも見せなかったから。ずっと笑っているだけだった」
ゆるり、美貌が顔を上げる。
「落ち込んださ。自分が情けないとも思った。でもアイリス、処刑を決めたきみに、俺は怒っている」
リュートは投げ出されていたアイリスの手を握る。見つめてくる青に金色が輝いている。
「……ごめんなさい」
初めて、アイリスは素直に謝った。
それから、前世のことは伏せて、幼少期からでっち上げ続けた話をリュートにした。
ラトラがアイリスの中にいるから、この瞳とこの髪を持って生まれたこと、ラトラの声が聞こえること、ラトラが信仰に比例してラトラの力が増していくこと。
そして、その暁の話を。
「女神ラトラは、酷い女神です。何をするか分からない。それでも女神である限り、人間にはどうしようもできない相手です」
ここまで言えば分かってくださるだろうと、アイリスは思ったのに。
リュートは、アイリスの想像を裏切り、とんでもない台詞を口にした。
「結婚しよう、アイリス」
「……っ、」
あんなに望んだ全てが目の前にあるというのに。は、と息を詰めて、否定した。
先ほどまでなくしていた言葉も、必死さのあまり饒舌になる。
「なりませんわ、殿下。お聞きしましたでしょう。わたくしがラトラになれば、処刑しか道はありません。わたくしは、道が決まっている女なのです」
ラトラさえいなければ、アイリスは笑って頷いたのに。すべての幸せを手にしたのに。
アイリスが手放そうとする未来を、リュートは握りしめたまま、アイリスの前に突き出してくる。甘いものは嫌いなのに、甘い未来がほしい。アイリスだって、ラトラさえどうにかなれば、アイリスだって。
全てを手に入れるのが、アイリス=ウェルバートンだったのに。
「いいや。きみは負けないだろう」
リュートは確信しているが、前世でアイリスは負けている。勝算もない。何度も人生を繰り返すことしか、できない。
「どうしようもないのです。教会がラトラを祭り上げたらどうします?ラトラの力で土地が干からびたらどうします?」
最悪のシナリオばかり思い浮かぶ。国の力が弱まれば、国民の怒りはどこに向くのか。それは女神ではなく、現王とリュートなのに。
「その前にきみが止めればいい。ラトラを」
手は尽くした。何でもした。そして、アイリスは毒まで飲んだ。
「ある日突然、のみ込まれてしまって、わたくしがわたくしでなくなったら!」
声を張り上げる。悲痛が滲んだ、今も昔も変わらない恐怖を叫んだ。夜眠るのが恐ろしかった。朝目覚める度に、アイリスは安堵した。それを繰り返していた。いつ途切れるかも分からない明日に泣きもせず、誰にも弱音を吐かず。
「俺はそうならないと信じてるよ」
「なぜ、そんなことが言えるのです」
「きみを知っているから。気高さも、強さも」
真っ直ぐな青。まだ炎は燃えている。熱く、轟々と。
「他の令嬢にも、年上の貴族にも、きみが負けているところを見たことがない」
「……当たり前ですわ。あんな者たち、簡単にどうにかなりますもの」
令嬢なんて女神に比べれば、蟻を潰すように容易い。姑息な貴族だって、なんだって。
「きみのその毒は、女神にも効く。だから、大丈夫」
もう一度、リュートは言った。
「結婚しよう、女神よりも尊い人」
青を見つめる。そんなことを言われて、否定はもうできなかった。甘い言葉が染み渡る。
愛しさと共に。
「……リュート様。わたくし、女神よりも強くあると決めていたことを、忘れていたようです」
悪魔になりたいと心の底から思った覚悟と、そして誇りを、思い出した。
負けたのではない。あれは戦略的撤退。
リュートがアイリスの勝ちを信じてくれるなら、アイリスはまだ負けていない。
負けていないなら、勝つしかない。
アイリス=ウェルバートンは全てを手に入れる。リュートがいれば、女神にも毒にもなれる。
「こんなわたくしでよければ、貴方のおそばに」
白く細い手を差し出すと、リュートはそこにそっと口付けた。こんなに、リュートの手は温かかっただろうか。
この熱があれば、アイリスはどこまでも行ける気がした。
おそるおそるリュートを見上げる。やはり、瞳は怒ったままだった。
「……なぜ、隣にいらしたの」
「俺に黙っておくつもりだったのか」
アイリスはこれまで口喧嘩で負けたことなどなかったのに。勝てる気がしなかった。
「どうしてきみは、」
けれどリュートも、真っ直ぐな言葉しか使えない、不器用な人だった。
言葉に詰まらせ、そして怒りと悲しみが渦巻く瞳を伏せる。黒い髪がさらりとこぼれ落ちた。
「……俺では、きみに相応しくなかった?」
アイリスは目を見開いた。靴先を見つめているリュートは、背も高く、手足も長い男なのに。やけに小さく見えて、アイリスは首を振る。
「そのようなことは」
「さぞかし俺は、頼りなかっただろう。公爵から話を聞いた時、まさかと思った。今の今まで疑っていた。きみはそんな素振り、なにも見せなかったから。ずっと笑っているだけだった」
ゆるり、美貌が顔を上げる。
「落ち込んださ。自分が情けないとも思った。でもアイリス、処刑を決めたきみに、俺は怒っている」
リュートは投げ出されていたアイリスの手を握る。見つめてくる青に金色が輝いている。
「……ごめんなさい」
初めて、アイリスは素直に謝った。
それから、前世のことは伏せて、幼少期からでっち上げ続けた話をリュートにした。
ラトラがアイリスの中にいるから、この瞳とこの髪を持って生まれたこと、ラトラの声が聞こえること、ラトラが信仰に比例してラトラの力が増していくこと。
そして、その暁の話を。
「女神ラトラは、酷い女神です。何をするか分からない。それでも女神である限り、人間にはどうしようもできない相手です」
ここまで言えば分かってくださるだろうと、アイリスは思ったのに。
リュートは、アイリスの想像を裏切り、とんでもない台詞を口にした。
「結婚しよう、アイリス」
「……っ、」
あんなに望んだ全てが目の前にあるというのに。は、と息を詰めて、否定した。
先ほどまでなくしていた言葉も、必死さのあまり饒舌になる。
「なりませんわ、殿下。お聞きしましたでしょう。わたくしがラトラになれば、処刑しか道はありません。わたくしは、道が決まっている女なのです」
ラトラさえいなければ、アイリスは笑って頷いたのに。すべての幸せを手にしたのに。
アイリスが手放そうとする未来を、リュートは握りしめたまま、アイリスの前に突き出してくる。甘いものは嫌いなのに、甘い未来がほしい。アイリスだって、ラトラさえどうにかなれば、アイリスだって。
全てを手に入れるのが、アイリス=ウェルバートンだったのに。
「いいや。きみは負けないだろう」
リュートは確信しているが、前世でアイリスは負けている。勝算もない。何度も人生を繰り返すことしか、できない。
「どうしようもないのです。教会がラトラを祭り上げたらどうします?ラトラの力で土地が干からびたらどうします?」
最悪のシナリオばかり思い浮かぶ。国の力が弱まれば、国民の怒りはどこに向くのか。それは女神ではなく、現王とリュートなのに。
「その前にきみが止めればいい。ラトラを」
手は尽くした。何でもした。そして、アイリスは毒まで飲んだ。
「ある日突然、のみ込まれてしまって、わたくしがわたくしでなくなったら!」
声を張り上げる。悲痛が滲んだ、今も昔も変わらない恐怖を叫んだ。夜眠るのが恐ろしかった。朝目覚める度に、アイリスは安堵した。それを繰り返していた。いつ途切れるかも分からない明日に泣きもせず、誰にも弱音を吐かず。
「俺はそうならないと信じてるよ」
「なぜ、そんなことが言えるのです」
「きみを知っているから。気高さも、強さも」
真っ直ぐな青。まだ炎は燃えている。熱く、轟々と。
「他の令嬢にも、年上の貴族にも、きみが負けているところを見たことがない」
「……当たり前ですわ。あんな者たち、簡単にどうにかなりますもの」
令嬢なんて女神に比べれば、蟻を潰すように容易い。姑息な貴族だって、なんだって。
「きみのその毒は、女神にも効く。だから、大丈夫」
もう一度、リュートは言った。
「結婚しよう、女神よりも尊い人」
青を見つめる。そんなことを言われて、否定はもうできなかった。甘い言葉が染み渡る。
愛しさと共に。
「……リュート様。わたくし、女神よりも強くあると決めていたことを、忘れていたようです」
悪魔になりたいと心の底から思った覚悟と、そして誇りを、思い出した。
負けたのではない。あれは戦略的撤退。
リュートがアイリスの勝ちを信じてくれるなら、アイリスはまだ負けていない。
負けていないなら、勝つしかない。
アイリス=ウェルバートンは全てを手に入れる。リュートがいれば、女神にも毒にもなれる。
「こんなわたくしでよければ、貴方のおそばに」
白く細い手を差し出すと、リュートはそこにそっと口付けた。こんなに、リュートの手は温かかっただろうか。
この熱があれば、アイリスはどこまでも行ける気がした。
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