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1巻
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しおりを挟むプロローグ アイリス・ウェルバートンの死
アイリス=ウェルバートンという令嬢はこの国の毒だ、と。そう言った無礼者は、いったい誰であったか。
『ウェルバートン公爵家の令嬢に逆らったら生きてはいけない』
『裏社会を牛耳り、悪逆を尽くした悪魔』
『女神の怒りを買い、国に災厄をもたらした』
アイリスを悪辣に例えた言葉は、両手の指の数では数えきれないほどあった。
その数々の呼び名を思い出しながら、アイリスは目を細める。手の中にある小さな硝子の瓶の中で、毒がとぷりと揺れた。
――自分の手でこんなものを飲まされるなんて。
アイリスはうっそりと笑って、檻の外に目を向ける。
たったそれだけで、頑丈な鉄格子で隔たれているにもかかわらず、そこにいる貴族たちはどよめき立った。
――毒で汚染された貴族社会を、わたくしの猛毒をもって制してきたというのに。その猛毒は、本物の毒をもって制される。
繊細な装飾が施された美しい小瓶の中身は、これからアイリスを殺すための毒だった。
ここは、森の中にひっそりと立つ『処刑の塔』の最上階にある小部屋の中だ。とびっきり悪い貴族たちが毒を飲んで死ぬ、最果ての塔。
殺人、国家転覆、他国のスパイ……等々、重い罪を犯した貴族たちが、毒を飲んで死んでいった。
頭上にある窓から太陽の光が淡く差し込み、多くの血が流れた小部屋を優しく照らす。
小さな埃の粒子が煌めく世界の真ん中には太陽の女神であるラトラ神の石像が立ち、その影を伸ばしていた。
そして影の先に佇んでいるのが、令嬢、アイリス=ウェルバートンだ。アイリスはウェルバートン公爵家の一人娘で、現王の姪という、国一番の高貴な令嬢だった。既に破棄されてしまったが、皇太子の婚約者にも選ばれた。
しかし、今の彼女に、かつての栄華はない。
令嬢の特権として美しく長く伸ばされていた髪も、煌びやかなドレスも宝石もない。波打っていた絹のような銀糸は切り落とされ、今のアイリスは粗末な白いワンピースだけを身に纏っていた。しかし大罪を犯した令嬢の死に様を一目見ようと訪れた者たちは、思わず言葉を失った。
落ちぶれてもなお、アイリスは美しかったのだ。
この重苦しい処刑場で、アイリスと女神の石像の周りにだけ清廉な空気が流れている。
太陽の光はまるで祝福のように、ラトラ像と、その石像と同じ顔をしたアイリスに降り注ぐ。どんなにみすぼらしい姿になっても輝く金色の瞳と、銀色の髪。
これは、女神のラトラが持つとされる、本来の色だ。
神話はこう語る。「太陽を司る神は、太陽の力を瞳に宿し、月の光を身に纏い、闇に覆われていた空を晴らした」と。
何百年、いや、何千年もの間、神話の中で輝くにすぎなかったその色を――陽の光を浴びて星のように煌めくこの色を持って、アイリスは生まれた。
唯一無二の色彩をしたアイリスは、この世の者とは思えないほど美しくて、特別で、そして――処刑されてしまうほど苛烈だった。
そんなアイリスは涙一つ流さずラトラ像と対峙している。大人の貴族でも、処刑の前には迫り来る死に泣き叫んだ。死にたくないと、助けてくれと、涙をこぼして生に縋った。
しかし、アイリスは毒の瓶をラトラに向けて掲げ、ただ美しく笑っている。
アイリスの処刑を見届ける者たちは、その堂々とした美貌に息を呑む。
誰もが一度は想像するだろう。
『もしも女神さまがこの世にいらっしゃったら』
現身の女神さまはどんな姿をしているのだろう、どんな風に笑うのだろう、どれほど美しいのだろう――その答えがアイリス=ウェルバートンという少女にあった。
大罪人だというのに、死の間際だというのに、凛と美しく立っている。
全てを焼き尽くす苛烈な太陽をその身に宿し、立っている。
毒を掲げて笑っている姿さえも、神々しい。
悪の令嬢の最期を嗤うつもりだった貴族たちでさえも、その姿を前にして黙って立ち尽くすことしかできなかった。
「王命により、アイリス=ウェルバートンの処刑を実行する。罪状は……」
やがて時が経ち、宰相が手元にある紙に記されたアイリスの罪状を読み上げる。
裁判すらまともに行われず即死刑が決まっただけあって、罪状は羊皮紙数枚分に渡っていた。その内容を端的に纏めると、アイリスは女神として振舞い、多くの命を犠牲にし、国に仇なしたということ。そして国王の命によって死んでいくのだと、そういうことらしい。
しかし、とうのアイリスはそれを聞くことなく、じっと毒の小瓶を見つめていた。
――こんなものでわたくしは死ぬのね。
美しい繊細な加工が施された硝子瓶が、光に煌めく。
中は毒で満たされているというのに姿だけは美しいそれは、女神と同じ見た目を持つアイリスのようだ。
――女神ラトラ。どうしておまえの色を持って、わたくしは生まれたのかしら。
この色が忌々しかった、ずっと。誰もが崇める偉大な女神のことを、アイリスだけが疎んでいた。だから女神に抗うように、闇に染まった。狂乱状態に陥った女神君臨の儀式だって、人を生贄にした悪魔召喚だって、なんだってした。
そんなアイリスを嘲笑うかのように、ラトラの石像が目に入る。
光を浴びるこの像を見て、死ぬ時まで女神ラトラがついて回るのかとアイリスは心底不快感を抱いた。
アイリスの周りで流れた多くの血を思えば、処刑されてもいたし方ないと一度は納得したつもりだったのに。
しかし、光を浴びた神々しい石像の下で死を迎えるなんて、ラトラに見下されながら死ぬなんて、そんな人生は死んでも御免だ。生まれ変わりでもしないと、許せない。
――ラトラ。この毒の味、おまえも味わってくれないかしら? わたくし一人で飲んでも味気ないわ。アイリス=ウェルバートンの最期の晩餐がこんな粗末な毒だなんて、おまえも許し難いでしょう? ねえ、ラトラ。わたくしにこの色をくれたお返しに、おまえにも毒を飲ませてやるわ。
アイリスはそう心に誓うと、顔を上げ、まだ罪状を読み続けている宰相を制止した。
「それ以上は結構。数えきれないほどあるもの。時間の無駄よ」
その言葉に宰相が目を瞠る。
「……では、何か、言い残すことは」
アイリスの目前には女神、ラトラの像がある。ラトラに向かって祈りの言葉を唱える神官の声も響いている。しかし、アイリスは救いなど祈らない、求めない。
「わたくしの死体は全て燃やして海に流してちょうだい。髪の毛一本たりとも残さず、血の一滴たりとも残さず。燃え残った骨は砕いて灰にして、海に流しなさい。この地にわたくしをくれてやるつもりはないわ」
ただ、願うとすれば、あの美しい青い海に。太陽の恵みを浴びて肥える土の中ではなく、太陽の光すら届かない深い青の中に行きたい。
「本当に、それでいいのか」
勿論、と薄い唇に微笑みを乗せ、アイリスは冷たい石畳の上に恭しく跪いた。
「さあ閣下、お返事を」
わずかに視線を上げてそう言うと、宰相はぐっと目を瞑ってから頷いた。
「……約束しよう。公爵も、きっと納得してくださる」
顔に疲労を濃く刻んだ宰相は、女神とも毒とも呼ばれたアイリスを見つめる。
銀色の髪、金色に輝く瞳。その色彩は、この世に輝く唯一無二の色。
この色は、アイリスの死をもって、この世界から消える。
アイリスはゆっくりと瞬きをして、女神のような美貌を緩めた。
「ええ、閣下。わたくし、来世があるならば、悪魔になりたいのです。女神をも喰らう毒に」
宰相はもう頷くことしかできなかった。反対に、神官が浮かべた驚愕の表情にアイリスはわらう。
これから死んでしまうというのに、アイリスは笑ってばかりだ。
何も楽しくないのに。しかし、笑わずにはいられない。――呪わずにもいられない。
女神ラトラの方を向いて、小瓶を握りしめる。
――嗚呼。女神ラトラ。おまえ、来世ぐらいは寄こしなさい。わたくしは、これから死んでやるのだから。
だから、人間のわたくしに、おまえの姿を与えた責任を取りなさい。
聞いているかしら、愚図女神。いいこと? これで終わりではないの。
わたくしは執念深いのよ。また、この世界に必ず舞い戻る。アイリスが女神の色を持って生まれた奇跡と同じように、またアイリスが生まれ変わるという奇跡が起こると、信じている。
だから、この結末は間違ってなんかいない。
アイリスは最期に一度だけ笑って、毒を一気に仰いだ。
第一章 アイリス・ウェルバートンの二度目の生
アイリスを女神だと囁く者は、数えきれないほどいた。
アイリスが産声を上げ、その瞼を開いたときから。女神ラトラの愛し子として生を受けたと、その銀色の髪と金色の瞳の誕生に国が沸いたと聞く。
そして――もう一度与えられた生でも、それは変わらなかった。
生まれたばかりの自分を抱いた母が零れ落ちんばかりに目を見開いたのを、アイリスは感じた。
「……女神ラトラ?」
生まれてきたばかりの我が子を見た母親の声は、驚愕に染まっていた。
忌々しい銀と金の色。アイリスは前世と同様に、女神の色を持って生まれた。
来世があるならば。アイリスは悪魔にでもなりたかったというのに。遺灰もきっと海に流してもらえただろうに。
あれだけ呪ったくせに、愚図の女神は、また同じ生をアイリスに与えたらしい。
高らかに産声を上げる。もう一度やり直せる。もう、あんな死に様は御免だ。
並外れた権力を持っていたアイリスが処刑なんてみっともない結末を遂げたことには、理由があった。
アイリスは、特別美しく、特別麗しく、そして女神をもこき下ろす特別苛烈な女だった。
前世のアイリスは完璧な悪女だった。
そして完璧な悪女として死ななければならなかった。毒を飲まされたのではなく、自ら望んで毒を飲んだのだ。この尊い命を代償にしてでも守りたいものがあった。
周囲の人間が凝視している金色の瞳を閉じ、アイリスは前世のことを思い出す。
◇
生まれてから十八歳になるまでに、前世のアイリスは揺るぎない立場や美しい容姿を持って、誰もが羨む人生を送っていた。女神の色を持っていても、一人の令嬢として、人間として、女神のことなんて考えもせず人生を謳歌していた。
女神として振舞う愚かな真似なんて、しなかったというのに。
そんな日々は、ある日突然に終わりを迎えた。十八歳のアイリスが鏡に映る自分を見つめると、星が散りばめられたように瞳が金色に輝いていたのだ。
ストレートの銀色の髪に、巻いてもいないのに緩いウェーブがかかった。輝く瞳も、揺蕩う髪も、神話が伝える女神の象徴だ。
体に次々と起こる変化はアイリスを美しく、女神らしくする。
そして、背に白い翼が生え――
『アイリス。私の声が聞こえるかしら、アイリス。――私は女神ラトラよ。ずっとあなたの中にいたの』
女神ラトラが、アイリスに語りかけた。
妄想でもなく、口から出まかせでもなく、アイリスの身体の中には本当に女神が宿っていた。だから、アイリスが女神の色を持って生まれ、姿が変わり始めたのだ。アイリスが処刑された罪状は幾つもあったが、全てただのフェイクだ。
真の理由は、ただひとつ。アイリスの中にいる女神ラトラを消すことだった。
『アイリス。あなたを女神にしてあげる』
どうしてアイリスを女神にしたいのか?
その問いかけに、ラトラは楽しそうに笑って、『退屈なの』と言った。
――退屈だからと言って女神にされるなんて、死んでも御免である。
女神の翼は何度切り落としても、執念深く生え続けた。
それだけではない。太陽を司る女神ラトラがアイリスの中でその力をアイリスに与えるせいで、天地に異変が起こった。全く雨が降らない日々が続き、太陽ばかりが燦々と輝く。日照りが続き、川の水が減り、土地が枯れていく。
作物は枯れ、飲み水も枯渇し、国民が飢えた。
ラトラのせいで、アイリスのせいで、いずれ国が滅ぶかもしれない。
ラトラに何を言っても、ラトラはアイリスを女神に仕立て上げようとした。どんな文献を漁っても、裏社会にまで顔を出して情報を集めても、女神に効く毒はどこにもなかった。藁にも縋る思いで、女神君臨の儀式だって、悪魔召喚だって、なんだってしたのに全てが無意味だった。
国を救うために残された方法は、一つだけ――アイリスがラトラごと消えるしかない。
それゆえにアイリスは死んだのだった。
そして、もう一度生まれ変わることができた。
――わたくしを生まれ変わらせたのね、女神ラトラ。
ラトラに語りかけても、返事は聞こえない。それでもアイリスがこの色を持って生まれたから、ラトラは今もアイリスの中にいると確信できる。再び力を蓄えれば、前世と同じようにアイリスを女神にしようとするだろう。
アイリスは、死んでも女神になんてならないというのに。
だからアイリスは、今度こそラトラを地の底に突き落とさなければならない。
◆
生まれてから四年も経てば、アイリスはこの世界の状況を正しく理解できるようになった。
――アイリスが前世の記憶を持っていること以外、まったく前世と変わらない。
つまり、アイリスだけが時を巻き戻っているようだ。
一刻も早く女神に対抗する手段を見つけなければならないが、まだ幼児の体では行動範囲も限られているし、女神をどうにかするどころか、歩くことに苦戦している。
今日も、勝手に転んで、生理的な涙を流してしまった。そんな自分をもどかしいと思うだけで、さらに涙が零れ落ちてしまうのだから、小さな体は儘ならない。泣きたくもないのに零れた涙を見た侍女たちがすぐにアイリスを支え、怪我の有無を確認してくれる。
「アイリス様、泣かないでくださいませ」
「おめめを擦ってはいけませんよ」
――腹が立つわ、本当に! このアイリス=ウェルバートンを子ども扱いなど、百年早いというのに。
むっとして、侍女たちを見上げる。しかし、前世ではそれだけで周囲を慄かせた金の瞳も、幼児であれば可愛いだけだ。
侍女たちはさらにあやすように、アイリスの小さな手を握った。
「ほおらアイリス様、立派なレディになれば、お城でリュート殿下とお会いできますからね。この国の皇太子でアイリスさまのお従兄様でもいらっしゃいます。だから泣いてばかりではいけませんわ」
「……りゅーとでんか」
年かさの侍女の言葉を聞くと、不意にアイリスの涙は止まった。
侍女は微笑んで、アイリスの乱れた銀色の髪を梳く。
「ええ。リュート殿下は麗しい王子様だと国中で話題ですのよ。アイリスさまのお母上のミラウェル様は、王様の妹君であらせられます。アイリスさまは尊いお方なのですから、御髪も美しくして、微笑んでいてくださいまし」
リュート=ウェールズ――前世のアイリスの婚約者。
物心ついた頃には三つ年上のいとことして傍にいて、そしてアイリスが十四歳になるとリュートと婚約が結ばれた。そして、その四年後にラトラのせいで婚約破棄された。
大好きだったのに。傲慢なアイリスの振る舞いを窘めてくれるリュートのことが、好きだったのに。
稀代の悪女として名をはせたアイリスは、リュートに嫌われ見捨てられた。その傷は心に深く刻まれている。だから本当はリュートと会うことが怖い。
もうあんな胸が引き裂かれるような思いはしたくない。今度こそアイリスはラトラに負けず、全てを手に入れて幸せになるの。
アイリスのまんまるな金色の目に光が宿る。
「……がんばるわ、あたくし」
「ええ、全てはアイリス様の御心のままに」
舌足らずだが、まっすぐと侍女を見て宣言したアイリスに、侍女は驚いた顔をしてから微笑んだ。
その日から、不思議とアイリスは泣かなくなった。
ウェルバートン家に生まれた人間に課される責務は、並の人間なら圧し潰されてしまいそうなほど重い。
アイリスは四歳にして、王都の屋敷と領地の屋敷を行ったり来たりしながら、前世では泣いてばかりいた厳しい教育、厳しい指導を受けていた。
けれど、それらは前世の記憶のおかげでいとも簡単なものに変わる。
「アイリス様は、ウェルバートン家誕生以来の天才です!」
学者の間でも議論が起こっている問題について、見事に自分の意見を述べたアイリスに教師は目を輝かせた。
まだこんなに小さな子が、これほどまでに思考できるとは! そう言った教師は自分が身に着けている女神のペンダント――ラトラの彫刻を見て、ずっと思っていた言葉をつい口に出してしまった。
「ラトラ様のご加護のおかげですね。アイリス様は、女神ラトラの現身だからこんなにも特別なんだ……」
そう言われてアイリスは目を見開いた。
――冗談じゃない。
「いいえ、ちがいますわ、せんせい。――わたくしのちからよ」
無垢な金色の瞳で、教師を見つめる。
――アイリスに対して女神という言葉を使うのは厳禁だ、と言い聞かされていたでしょうに。無礼者を放っておけば、アイリスの中にいるラトラの力が増して、また翼が生えてしまうわ。
女神と同じ色の瞳は、どこまでも透き通って澄んでいるというのに、底が知れない。肩まで伸びた銀色の髪が揺れる。
女神の色に、教師は釘付けになる。
信仰や崇拝の色を宿しているその教師の目には、アイリスの隠しもしない嫌悪感は映っていないのだろう。
「おまえ、おうとから出て行きなさい」
アイリスはクビではなく、追放を告げた。女神の力を抑えるためにアイリスは女神ではなく、一人の人間であるときちんと知らしめなければならない。前世と違って、徹底的に。
「この、ぶれいもの」
淡い色をした唇が、毒を吐いた。
「ら、とら、さま……」
いくら賢くても人間と女神の区別が分からないなんて。愚かな教師に対して、まだ幼い姿をして、アイリスは女神のように笑う。
前世の十七年と今世の四年間、耳が腐るほどアイリスは女神という言葉を浴びてきた。屋敷に引きこもっているというのに、この教師のような無礼者は後を絶たない。
誰も彼も、アイリスの聡明さを讃えているようで、女神だけを見ている。
もちろん、理解はしている。この色は女神の色なのだと。ただ、一線を引かない人間を許しはしない。
人々がアイリスを『女神』として扱えば、待ち受けているのはアイリス自身が『処刑されることを選ばなければいけない』結末だ。
アイリスがラトラの色を持つ限り、アイリスはラトラの『代わり』にしかなりえない。アイリスを一目見るだけで人々はラトラに信仰を捧げ、ラトラの力は増し、前世と同じ結末を辿るだろう。
だからこそ、アイリスを女神扱いする無礼な人間には制裁を。
そうして何度か出禁を言い渡せば、屋敷の中で女神という言葉を口に出す者はいなくなった。
その一方で、神学はもちろん、幅広い学問への学びは怠らない。
蓄えた知識と経験を毒に変えて女神に飲ませてやるまで。全て自分の糧にする。
そんな一心で、学び続け――四歳にしてアイリスは、子供とは思えないほど全てが完璧な令嬢になった。泣き言のひとつも吐かず、朝から晩まで勉強を続けるアイリスを見守る人間は、アイリス自身の努力を称えてくれる。
裏社会を探るしか時間も方法もなかった前世とは違って、アイリスはひたすらに学問に没頭した。
そしてその噂を聞きつけた国王夫妻が、ぜひとも次の建国祭にて姪に会いたいと両親に申し向けた。
幸いなことに、アイリスの両親はラトラの色を持った娘を女神として利用することは決してしなかった。無礼者を遠ざけ、ひたすらにアイリスに協力してくれた。
特に母であるミラウェルは、「あなたはお父様に似て賢いのね」と言って可愛がり、アイリスを女神としてあやかろうとする連中を疎んでいる。
両親は教会どころか城にもアイリスを連れて行かず、四歳になってもアイリスは限られた大人としか関わったことがない。
きっと、前世でもこうやって両親はアイリスを守ってくれていたのだ。今更、その事実に気づく。
しかし、そんな柔らかな木綿に包まれたような生活も、終わりを迎える。
「アイリス、いいこと。お城で教会の人間に話しかけられても、答えてはなりませんからね」
「ええ、おかあさま」
美しく微笑むと、ミラウェルの澄んだ湖のような瞳がすぅ、と細められた。白い手が気づかわしげにアイリスの銀髪を撫でる。
建国祭に名指しで招聘されたため、アイリスは今世で初めて城へ行くことになった。城には王族だけではなく、そこで働く貴族や、教会の人間も大勢いる。
ラトラ教には気を付けるのよと、ミラウェルは何度も何度もアイリスに言い聞かせていた。
ミラウェルは王女であり、本来であれば王族の血が入ったアイリスを表に出さねばならない立場だが、これまで一切城に近づけさせなかった。
ついに人前に出ることが決まった今も、アイリスを心配そうに見つめている。
「わたくしは憂鬱よ、アイリス。まだあなたには早いと思うの」
「……なぜですか?」
「だって、あなたを一目見ると、人はおかしくなるわ」
ミラウェルは、見入ってしまうような愁いを帯びたため息をつく。
そんなミラウェルとは対照的に、アイリスはふふ、と柔らかな吐息を零した。
母の心配は嬉しい。大勢の人間がいる場に出向くことで、ラトラの力が復活するかもしれないという不安は残るが、両親が傍にいてくれるから大丈夫だと信じている。
それに、城には彼がいる。
リュート=ウェールズ。ウェールズ国の第一王子にして、アイリスのいとこであり――そして、前世のアイリスの婚約者だった人。
そんな特別な人と、アイリスはもう一度、巡り合う。
今までは馬車から遠目で見るだけだった、大きな城。
その中の一室で、水色のドレスを着てアイリスは最上級の礼を取っていた。
礼を取る相手は第一王子のリュートだ。
「リュート殿下ご機嫌よう。わたくしの娘のアイリスでございます。あなたさまのいとこですわ」
アイリスの母であるミラウェルが、美しい微笑みを携えて、アイリスの肩に手を乗せる。
それを合図に、アイリスはゆっくりと礼をほどき、意を決して頭を上げた。
黒い髪、真っ白な肌、まだ女の子と間違えてしまいそうなほど柔和な顔つき。
そこに立っていたのは、正装をした七歳のリュートだった。
互いの視線が絡み合う。アイリスを映して、わずかに青い目が見開かれた。夜の海ほど暗くはなく、朝焼けの海のような煌めきはない、静かな青い海の色の瞳。前世では何度も見惚れたその色に、過去の思い出が蘇った。
「……アイリス」
まだ子供の高い声が、前世と同じようにアイリスの名前を呼ぶ。
たったそれだけで、薄い胸に収まった小さな心臓が跳ねた。
――嗚呼、アイリス=ウェルバートン。彼は、前世でアイリスを見捨てた男だというのに。せっかくまっさらな心臓を持って生まれ変わることができたのに。どうしてまたときめいているというの。どうして泣き出してしまいそうなほど嬉しいの。この人生では、とうに涙なんて枯れたと思っていたのに。
内心で何を思おうとも、アイリスはリュートから目が離せなかった。
まっすぐ見つめずにはいられない。この胸の鼓動を鎮める方法なんて分からない。
簡単に紅潮したアイリスの頬を見て、ミラウェルがわずかに目を見開く。
しかし、いつもなら簡単に気づくはずの母の変化にも気がつけないまま、アイリスは上擦る声で挨拶をした。
「……リュートさま、はじめまして。アイリス=ウェルバートンでございます」
アイリスは再び綺麗な礼を取った。ゆっくりと頭を垂れると、銀色の髪が流れ落ちる。
緊張のあまり、ドレスを掴む指が小刻みに震えている。
目を瞑ると、瞼の裏には、前世のリュートの大人びた顔がくっきりと浮かんだ。
「アイリス」
もう一度名前を呼ばれる。重い頭を上げ、その姿を視界に収めた。
そこにいるのは、まだ子供のリュートだ。
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