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第3章 虚ろの淵より来たるもの
砂漠の色男
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あれから三日ほど旅を続けた少年は、ようやく首都近くのオアシス、スロニアまでたどり着いた。ここからもう一日ほどモファロンを走らせれば、首都リィンゼルヴである。
砂漠の向こうに見えてきたオアシスに安堵しつつ、少年は通行証を確かめた。
南方国は国や都市への出入りに関する規則が緩い国がほとんどだが、ここ黄の国は少し異なっている。各都市の門には関所が設置されており、基本的にはそこで通行証を見せなければ立ち入れない決まりになっているのだ。黄の国の街は、総じて四方が壁に囲まれた特殊な構造をしていて、それ故に緊急時の避難経路を確保することが難しい。そのため、入門の際に厳しく取り締まり、危険人物を街に入れないように留意する必要があるのである。
そこで活躍するのが、この通行証だ。金の王の署名が入った通行証の効果は絶大で、本来ならば国外からの通行者につきまとってくる面倒な手続きのすべてをパスすることができるのだ。しかもこの通行証は魔術機構が組み込まれた魔術道具でもあり、少年が触れることでしか王の署名が浮かび上がらない仕組みになっている。つまり、少年が万が一紛失しても悪用されることはないという優れ物なのだ。
「それにしても、何度見てもこの国の街はすごいね、ティアくん」
眼前に迫った都市の外観に、少年はトカゲへと語りかけた。
砂漠にそびえ立つ、巨大な石壁。内側から外側へと反り返るようにして建てられているそれは、オアシス都市を取り囲む防壁である。雨季になると雨水を吸った砂が雪崩のように襲ってくるこの国では、必須の防災建築だ。
周りを見れば、多くの馬車や騎獣がこの都市に立ち入ろうとしているようだった。さすがは首都近郊の街だな、と思いつつ都市の入り口である関所までやってきた少年は、自分の順番が来たところで一度馬車から降り、衛兵に通行証を提示した。それを確認した衛兵が、少しだけ驚いた表情を浮かべてから深々と頭を下げる。
何度か経験しているが、この瞬間が少年はとても苦手だった。要人のような扱いを受けるのは居心地が悪いのだ。
衛兵に頭を下げ返し、少年は早々にこの場を立ち去ろうとした。
(取り敢えずここでモファロンにご飯をあげて、ひと休みしよう。今晩は宿に泊まるとしたら、出発は明日の朝早くかな……)
そんなことを考えながら馬車に乗り込もうとした少年だったが、それを遮るように後方で大きな音と悲鳴が上がった。驚いた彼が振り返るのと同時に、関所の衛兵が叫ぶ。
「緊急事態発生! 南部関所付近にて砂蟲による襲撃! 砂蟲の数は、……十を超えます!」
衛兵の声を聞きながら背後を見た少年は、先程までなだらかだった砂丘から十数頭の砂蟲が顔を出し、後方に並ぶ馬車を襲わんとしているのを目にして小さな悲鳴を上げた。
「皆様焦らず落ち着いて門の中へ! 緊急事態につき、通行許可は不要です! とにかく確実な避難を!」
「衛兵は砂蟲の迎撃態勢に入れ! 仕留めなくても良い! 国民を守ることに専念せよ!」
その指令が出されるよりも早く、関所に待機していた一部の兵は既に砂蟲の群れへと向かっていた。まるで、こういった危機状況をあらかじめ想定していたかのような動きである。
(す、すごい……)
この街の衛兵は恐らく、国王直轄の兵とは別の部隊だ。だが、それでもこれだけ迅速かつ的確な行動が取れるということは、それだけ訓練を積んでいる証拠である。
「さあ、貴方もどうぞ門の中へ」
兵の一人に促され、少年は慌てて頷いた。
こんなところで呆けていては、邪魔になってしまう。そう思いながら、少年はモファロンの前まで行って引き綱を握った。馬車に乗り込まなかったのは、この状況で外が見えなくなることを避けたかったからだ。そっと綱を引けば、賢いモファロンは大人しく従ってくれた。そのことにほっとしつつ、少年はもう一度だけ後方を振り返る。
巨大な生物を前に、しかし衛兵たちは随分と戦い慣れているようで、確実に砂蟲を抑え込み始めていた。ややパニックになりかけてはいるが、外にいる人々や馬車も滞りなく街へ入ってきている。この様子なら、事態はすぐに鎮静化するだろう。
衛兵たちの鮮やかな対処に感心しつつ歩を進めていると、不意に地面が大きく揺れた。その衝撃で転びそうになった少年が、寸でのところでモファロンにしがみつく。
「地震……?」
少年がそう呟くのと、先程よりもずっと悲愴な悲鳴が辺りに響き渡るのと、どちらが早かっただろうか。
新たに上がった悲鳴に再度振り返った少年が門の外に捉えたのは、砂蟲の群れを蹴散らすようにして現れた巨大な甲殻生物であった。それを見た人々は勿論、衛兵たちまでもが顔色を変えて息を飲む。
ザナブルム。前肢に巨大な鋏、尻に三本の巨大な尾を持つ、砂漠生態系における上位種である。
途端、先程まで暴れていた砂蟲たちが一斉に砂中へと潜り始めた。砂蟲にとって、捕食者であるザナブルムは脅威なのだ。だがそんな中、その内の一頭をザナブルムの鋏が捉えた。巨大な刃が砂蟲の硬く分厚い皮膚を裂き、その身体を切断する。嫌な音を立てて千切られた身体は、何度かびくびくと震えた後で、動かなくなった。そしてそんな砂蟲の死体に、ザナブルムが喰らいついた。ぱかりと四つに割れた大きな口が、柔らかな肉が覗く切断面を貪る。
見ているだけで気分が悪くなるような光景だったが、幸運なことに今のところザナブルムは砂蟲にしか興味がないようで、周囲にいた衛兵や馬車に危害が及ぶ様子はないように見受けられた。
ほっとして自分も避難を続けようとした少年はしかし、食事中のザナブルムのすぐ後ろに馬車が横転しているのを見つけてしまった。はっとして目を凝らせば、倒れた馬車の中で何かがもぞりと動いたのが見えた気がして、彼は小さく息を呑んだ。
(中に、まだ人がいるんだ……)
恐らく、ザナブルムが地上に出たときに馬車が倒され、そのまま出ることができないでいるのだろう。
衛兵に伝えなければと視線を巡らせた少年だったが、よく見れば砂蟲と対峙していた衛兵たちは誰一人としてその場を離れておらず、場に留まってザナブルムへの警戒を続けてる。
これは少年の憶測だが、衛兵もまた、馬車に取り残されている人がいることに気づいているのだろう。今ならば何事もなく逃げられるだろうに戻ってこないということは、そういうことだ。だが、衛兵たちは警戒をするようにザナブルムを睨むのみで、それ以上動く様子はない。
(……きっと、迂闊に手を出せないんだ)
ザナブルムは砂漠に住む魔獣の中でもかなり危険な生物である。それこそ、砂蟲の群れなどとは比べ物にならないほど厄介な相手だ。いくら食事に夢中とはいえ、ザナブルムの警戒範囲で動きを見せれば、尾の先端についている毒針で貫かれるかもしれない。そしてひとたびそうなれば、獰猛なザナブルムはその場にいる生き物を皆殺しにするまで怒りを収めないだろう。
まさに一触即発の雰囲気の中、少年は葛藤していた。今までの少年ならば、こんな場面に出くわせばすぐに逃げていただろう。彼は力のないただの人間だ。誰かを助けるなんて、できる筈がない。
だが、今は違う。いや、今も昔も少年自身は変わらないが、たったひとつ変わったことがあった。
少年の手が、控えめに首元のストールを撫でた。そうすれば、ストールの中からトカゲが這い出てきて、少年の肩に乗る。
逡巡するように視線を彷徨わせた少年は、しかし、思い切ってトカゲを見た。その視線を受け、聡明な炎獄蜥蜴が小さな炎をぼっと吐き出す。
任せろと言わんばかりのその動作に、少年は一度ぎゅっと唇を結んだ後、頷いて走り出した。怖くないと言ったら嘘になるが、ここで自分が逃げ出すのはいけないことのような気がするのだ。
(だって、あの人だったら、絶対に逃げたりしない)
力がある者が力のない者の助けになるのは当然のことだ、と。きっと、あの王ならば、自分が王であろうとなかろうとそう言うだろう。だから、その王から力を貸して貰っている自分がそれをしないのは、間違いだと思ったのだ。
(ティアくんは飽くまでも僕の護衛だから、僕から離れられない。だから、僕がちゃんとあそこまで行かないと……!)
そう思って門の外へ向かった少年だったが、不意に誰かがその肩を掴んだ。びくりと大袈裟に肩を跳ねさせた少年が振り返る前に、彼はぐいっと後ろへと身体を引かれた。そしてその耳元に、小さな声が落ちてくる。
「こんなとこで炎獄蜥蜴なんか暴れさすなよ。大注目だぞ。そんなのお前も避けたいだろ?」
どこか呆れたような、しかし怒っている訳ではない声だ。そこでようやく少年が振り返ると、そこには、上半身の衣服をはだけさせ、褐色の肌を惜しげもなく晒している色男が立っていた。
「で、でも、早く行かないと、」
訳が判らないまま、それでも男にそう言えば、彼は少年の頭をわしゃわしゃと撫でたあと、ぱちりとウィンクをして寄越した。
「ま、俺に任せとけって」
そう言って笑った男は、少年が言葉を返す前に駆け出した。
「風霊、火霊、ちょびっと加速よろしく!」
言うや否や、男の脚を雷の衣が覆う。その力を利用して速度を上げた彼は、そのまま凄まじい速度で横転している馬車へと向かった。かろうじて少年の目でも姿を追うことはできたが、一般的な人間の身体能力で出せる速度ではない。
あっという間に馬車にたどり着いた男は、馬車の中を覗き込んだ。
「よし、生きてるな」
「あ、お、お願いします! 助けて! 助けてください!」
そこそこの大きさがあるその馬車には、数人の男女が取り残されていた。その全員の無事を確認してから、男は口の前で人差し指を立てる。
「助けてやるから、ひとまず静かにしとけ。今みたいに騒ぐと、」
そこで言葉を切った男が、振り返ることなく後方へと掌を向ける。
「――“雷盾”」
男がそう唱えた瞬間、雷の膜が盾のように馬車を覆った。そしてその盾に、ザナブルムの尾が突き刺さる。後方からの悲鳴を聞きつけたザナブルムが、その毒針を突き立てようとしたのだ。
見もせずにそれを防いでみせた男は、恐怖に震える人々に対し、おどけたように肩を竦めて笑った。
「とまあ、こんな風にあいつを怒らせちゃうから、静かにな?」
皆が口を押さえて頷くのを確認してから、男はザナブルムに向き直り、ぐるりと肩を回した。
「よっしゃ、そんじゃいっちょやりますか」
そう言い、男が戦場へと躍り出る。雷魔法による加速の力を借りてザナブルムの側方に回り込んだ男は、すぅっと息を吸い込んだ。
「お食事中悪いんですけど、そういうのはお家に帰ってからやってくれませんかねぇ! 今帰るんだったら許してあげるからさぁ!」
警戒範囲内で騒音を出せば、ザナブルムの攻撃対象になる。それを知っていて男が敢えてその行動に出たのは、馬車から気を逸らさせるためだ。
突然叫んだ男に、周囲にいた衛兵たちがぎょっとしたような顔をして彼を見る。だが、誰一人として言葉を発するものはいなかった。ここで音を出せば、男の邪魔になる可能性があるからである。
果たして、男の目論見通りにザナブルムの尾は彼目がけて的確に振るい落とされた。だが、男は巨大なそれをひらりと躱す。そして彼は、腰に下げている双剣の内の片方を引き抜いた。赤の王の剣よりも小ぶりな、大きく湾曲した剣だ。
「“雷魔法憑依”」
呪文に応えた風霊と火霊が、男の握る剣に雷を纏わせる。そこまでの動作を流れるようにこなした彼は、握った剣を尾に向かって振り上げ、見事一撃でその尾を斬り落としてみせた。
ザナブルムの甲殻は非常に硬く、物理的に破壊するのにかなりの労を要するのだが、それを容易にこなしたこの男は、相当の使い手であることが窺えた。
尾の一本を落とされたザナブルムは、事態が急変したことを察して食事を止め、機敏な動きで男へと向かった。さしもの捕食者も、尾だけで相手をするには獲物が強すぎると考えたのだろう。
一方の男は、容赦なく襲い来る鋏と尾を掻い潜りながら、じわじわと後退していった。一見すると押されているように見えるが、そうではない。ザナブルムをなるべく馬車から遠ざけようとしているのだ。
(さっき落とした尾は、たぶん睡眠効果のある毒針がついてる尾だ。となると、残りの二本のどっちかが麻痺毒で、どっちかが即死毒だな)
どちらにせよ、僅かに掠っただけで命はないだろう。ザナブルムが即死毒の針を使うことは滅多にないが、男相手に残りの尾を二本とも使っているところを見ると、先程の一撃で男の腕をそれなりに見極めたようである。
(尾は一番旨いから、できれば判別したいところだけど、そうも言ってらんねーか)
これ以上長引かせるのは、人々の不安を煽るだけだ。そう判断した後の彼は素早かった。
回避に徹するのを止め、ザナブルムの猛攻を最小限の動きで躱しながら、振り下ろされた鋏に跳び乗る。そしてそこからあっという間に背中に駆け上がった彼は、真っ直ぐに向かってきた強靭な尾を横薙ぎに斬り落とした。続いて、ザナブルムの後方から飛び降りつつ、残った一本を根元から落とす。そこまでやり終えた彼は、剣の魔法憑依を解いて鞘に収めた。
「いやぁ、久々に良い運動したな。っつー訳で、あとはもう良いか」
そう言った男の指がザナブルムを指し示す。
「――“雷の包丁”!」
瞬間、無数の雷が奔り、ザナブルムを堅牢な鎧ごと切り裂いた。しかも、ただ細切れになった訳ではない。鋏、腕、内臓、といった風に、部位ごとに綺麗に分けられたのだ。
「あ、ごめん風霊ちゃん。悪いんだけど、地面につかないように、軽ーく浮かせといてくれる?」
彼のお願いに、吹いた風がザナブルムの肉を受け止める。
その瞬間、一部始終を見守っていた少年の周囲で、わっと歓声が上がった。驚いた少年が周囲を見れば、避難してきた人々を含めた大勢が歓喜に湧き、どっと門の外へと押し寄せた。それに飲み込まれた少年は、なす術なく門の外へと流されてしまった。人混みが大の苦手な少年にとっては大変苦痛な時間だったが、途中、肩に乗っているトカゲが少年を見上げて首を傾げてきたのには、慌てて首を横に振っておいた。
トカゲが何を言おうとしていたのかは判らないが、「こいつら邪魔? 全部焼く?」と問われたような気がしたのである。
そんな民衆の元に解体されたザナブルムを携えた男が戻ってくると、より一層人々が湧き上がった。
「きゃー! クラリオ様かっこいいー!」
「クラリオ様ー! こっち向いてくださーい!」
「ありがとうございます! 流石はクラリオ王陛下!」
「うおおおお! 一生ついていきます!」
周囲の人間たちの口から飛び出てきたその言葉に、少年は目を剥いた。
(……え? は……? 王陛下……?)
恐る恐る男の方へと視線を戻せば、蜂蜜色の髪の色男は、大きく挙げた手をひらひらと振っているところだった。
「はいはーい! 皆大好きクラリオ様だよぉ! 麗しき女性の皆さんは嬉しい歓声をありがとう! もっと讃えても良いのよー!」
「きゃあああああ! クラリオ様ー!」
「むさ苦しい男共は黙っててねー! お前らからの歓声浴びてもなーんも嬉しくないからねー!」
「うおおおおおお! クラリオ王陛下ー!」
「嬉しくないから黙れっつってんだろーがぁ!」
男性陣は酷い言われようだが、何故だかそれはそれで盛り上がっている。しかし、それにしても、
(お、王様、なの……? この人が……?)
そう。女性に向かってひらひらと手を振りながらウィンクを撒き散らしているこの男こそ、黄の国を治める国王、クラリオ・アラン・リィンセンであった。
「あー、この中に料理人いる? いたらこのザナブルムの肉はあげるから、格安で皆に振舞ったげて。あ、外にほっぽってきた尾には手ぇ出すなよ。今頃肉に毒が回って食えるもんじゃなくなってるから」
ザナブルムの肉は非常に美味だが、仕留める前に尾の先端を斬り落とさないと、それと繋がっている部分の肉に毒が回ってしまうのだ。ちなみに、即死毒がある尾だけは、肉全体が毒袋のような役割を果たしているので、どのような調理法でも食べることができない。
「あと、商人の皆は甲羅を山分けしちゃってー。加工がちょっと大変だろうけど、良い品作れるからさ」
大盤振る舞いの王に、またもや歓声が上がり、人々がわっと肉や甲羅に群がる。その群れにまたもや揉みくちゃにされそうになった少年は、慌てて群衆から離れることにした。
「す、すごいね……ティアくん……」
赤の王も民からの人気者だったが、黄の王も負けず劣らず人気を博しているらしい。
「取り敢えず、モファロンのところに戻ろうか……」
このままここに居たら、またお祭り騒ぎに巻き込まれてしまうかもしれない。そう思ってさっさと民衆に背を向けた少年だったが、そんな彼を黄の王が引き留めた。
「おいおいちょっと待てって。お前、えーっと、アマガヤキョウヤ」
「……え」
なんで一国の王が自分の名前なんて知っているんだろう、と思いながら振り返った少年に、黄の王が笑みを向ける。
「いやぁ、さっきはうちの国民を助けようとしてくれてありがとうな」
「え、あ、いや、結局僕、何もしてませんし……」
「なーに言ってんだ。こういうのは気持ちの問題ってやつだろ。ま、何にせよここまで無事に来られたみたいで良かったわ。ロステアール王が炎獄蜥蜴をつけたって言ってたから大丈夫だとは思ってたけど、何かあったら事だからなぁ」
「あ、あはは、そうですね」
いつもの白熱電球のような笑みを浮かべつつ、適当に相槌を打つ。何のことはない。黄の王が自分を知っていたのは、赤の王に聞いたからなのだろう。考えてみれば当然のことだ。少年は帝国に狙われている身なのだから、円卓の国王は皆、少年のことを把握している筈である。
仕方がないことではあるが、それはそれでとても居心地が悪いなぁと少年は思った。
「……あの、もしかして、国王陛下は僕の様子を見に……?」
どこぞの赤色の突拍子もない行動を何度も見ているからか、思わずそう尋ねてしまった少年だったが、それはあっさりと否定される。
「いや? なんで俺がわざわざ男の様子なんか見なきゃいけねーんだよ」
「あ、いえ、すみません。そうですよね」
それはそうだ、と少年は内心で安心した。この王も赤の王のような変人だったらどうしようと思ったのだが、どうやらまともそうである。張り付けた笑みの裏でそんなことを考えていた少年に対し、黄の王が頷いた。
「そうそう。俺はただ、この街には最近顔出してなかったから、久々に女の子たちの様子を見ようと思って遊びに来ただけなんだよ。そしたら砂蟲やらザナブルムやらが湧いたって大騒ぎになって、もークラリオ大変。仕方がないから泣く泣く女の子と別れて颯爽と登場したってわけ」
「は、はあ……」
前言撤回。やはりこの王も普通ではなさそうだ。赤の王、金の王、黒の王と来て、四人目の国王との邂逅だが、どの王も一般とはズレている気がする。
(あ、いや、金の王様はまともだったような。……でも、あの人のことが絡むとちょっと盲目的だから、やっぱりおかしいかもしれない……)
少年がそんな風に失礼なことを考えていると、黄の王がちらりと周囲を見てから、それじゃあと言って、そっと少年から離れた。そして、自然な動作で少年から距離を取ったところで、その辺りにいた女性たちに声を掛ける。
「今日は俺、超気分が良いし、ザナブルム料理ができるまでここにいよっかなー! 女の子たち、皆で一緒にご飯食べない?」
「きゃー! クラリオ様と一緒にお食事できるなんて!」
「ぜひぜひ!」
「ずるいわ! 私もご一緒させてくださいクラリオ様ー!」
わっと群がった女性陣一人一人に、黄の王が丁寧に対応する。そしてそれを見た男性陣も、わらわらと人の群れの一部になっていった。
「俺も一緒にお願いします! クラリオ王陛下!」
「あ、じゃあ俺はお酌させてください! クラリオ様!」
「クラリオ王陛下と同じ皿をつつけるなんて、感激です!」
わーわーと騒ぎ出した男たちに、黄の王がげんなりした顔をする。
「いや、男と一緒に飯食う趣味はないし、男の酌もいらねぇし、最後の奴に至っては言葉選びが気持ち悪ぃから、男は全員隅っこで食ってろ」
「辛辣なことを言いながらも、全部話を聞いてくれてるクラリオ王陛下! 最高です!」
「気持ち悪いって言うのに、一緒に食事をすること自体は断ったりしないんですよね! 陛下ってばお優しい!」
少年には全く理解できないが、女性だけでなく男性までもが盛り上がっている。なんというか、赤の王が民にとっての崇拝対象ならば、黄の王は人気役者みたいな感じなのかな、と少年は思った。
何はともあれ、これは好機である。黄の王に声を掛けられたことで一時的に注目を浴びてしまった少年だったが、今はもう誰も彼に興味を示していない。皆、クラリオとザナブルムの肉や殻に夢中な様子だ。
(……もしかして、僕がこの場から離れやすいようにしてくれたのかな……?)
だとしたら、大変有難いことだ。内心で黄の王にお礼を言いつつ、少年はそそくさとその場を立ち去ろうとした。だがそんなとき、群衆の誰かが叫んだ。
「おい! 空を見ろ! 王獣様だ!」
「おお! リァン様!」
王獣と聞き、少年の脚が思わず止まる。赤の国の王獣であるグレンが美しい獣だったので、気になってしまったのだ。
興味のままに振り返った先、空を翔けるその獣を目にし、少年は思わずほぅと息を吐いた。
雷を纏った、大きな四つ脚の獣。黄の王の髪色に似た、色の濃い金毛のその獣は、赤の国の宰相の騎獣によく似ていたが、それよりもふた回りほど大きく、遥かに美しい。荘厳な雰囲気を漂わせる獣は、まさに王獣の名に相応しい風格をしていた。
偉大なる王獣を前に、しかしその対である国王は悪戯が見つかった子供のような表情を浮かべた。
「げっ、リァン!?」
なんでいるんだ、と言いたげな国王を一瞥した獣が、真っ直ぐに降下してくる。王の周囲にいた人々が王獣のためにと場所を空ける中、王獣は王目掛けて宙を駆け降り、そして、
「ぶへっ!」
太い前脚で王の顔面を踏んづけた。
勢いよく顔を踏まれた王が、ひっくり返って地面に転がる。一方の王獣は、一度すっと上へ駆け上がってから華麗に着地し、転がっている王の腹に前脚を乗せた。
「ぐぇ、お、重い! お前な! お前が思ってる以上に重いからどけ!」
喚く王を睨んでから前脚をどかした王獣は、そのままその前脚で王の身体を蹴って転がした。
「いって!」
呻いた王の背中に再び前脚を乗せた王獣が、王の後ろ襟を咥える。そこまでされた王は、次に起こることを察してぎょっとした表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっと待て待て! 俺今すっげぇ適当に服着てるから、それやったら脱げる!」
だが、王獣は王の抗議になど耳を貸さない。前脚をどかし、ぐいっと顔を上げた王獣は、そのまま地面を蹴って空へと飛び出した。
「脱げて落ちるっつってんだろーがぁ! 風霊ちゃん良い感じに服着せてぇ!」
クラリオの悲鳴を受け、風霊がせっせと衣服を整えていく。それは、これまでの王では見たことがないほどに間の抜けた光景だった。あの赤の王だって、もう少し王としての尊厳を保っていたように思う。
「ええー! リァン様、国王様を連れて行ってしまわれるんですかー!?」
「お食事一緒にしましょうってお話してたのにー! クラリオ様ー!」
女性陣からも男性陣からも残念そうな声が上がったが、王獣はそれにも耳を貸すつもりがないようで、そのまま滑るように駆け出してしまった。
「ごめんね女の子たちー! 今度絶対ご飯一緒に食べようねー!」
叫ぶ黄の王の声が、どんどん遠ざかって行く。かろうじて言葉の最後が聞き取れたあたりで、雷鳴のような轟音と共に王の悲鳴のようなものが聞こえて、少年は思わず肩を震わせてしまった。
何事かと思った少年だったが、未だざわついている人々の会話から察するに、先程の王獣は王宮を抜け出してフラフラしていた国王を連れ戻しに来て、反省の様子が見えない彼に怒って軽く雷を落としたのだろうと、そういうことらしい。
なんだかどこかで聞き覚えがあるような話だ。そっちの場合、落とされる雷は物理的なものではなく、落とすのも王獣ではなかったが。
(…………王様って、やっぱり変な人しかいないんだな……)
青の王あたりが聞いたら般若の形相を浮かべそうなことを考えながら、少年はようやくモファロンの元へと向かったのであった。
砂漠の向こうに見えてきたオアシスに安堵しつつ、少年は通行証を確かめた。
南方国は国や都市への出入りに関する規則が緩い国がほとんどだが、ここ黄の国は少し異なっている。各都市の門には関所が設置されており、基本的にはそこで通行証を見せなければ立ち入れない決まりになっているのだ。黄の国の街は、総じて四方が壁に囲まれた特殊な構造をしていて、それ故に緊急時の避難経路を確保することが難しい。そのため、入門の際に厳しく取り締まり、危険人物を街に入れないように留意する必要があるのである。
そこで活躍するのが、この通行証だ。金の王の署名が入った通行証の効果は絶大で、本来ならば国外からの通行者につきまとってくる面倒な手続きのすべてをパスすることができるのだ。しかもこの通行証は魔術機構が組み込まれた魔術道具でもあり、少年が触れることでしか王の署名が浮かび上がらない仕組みになっている。つまり、少年が万が一紛失しても悪用されることはないという優れ物なのだ。
「それにしても、何度見てもこの国の街はすごいね、ティアくん」
眼前に迫った都市の外観に、少年はトカゲへと語りかけた。
砂漠にそびえ立つ、巨大な石壁。内側から外側へと反り返るようにして建てられているそれは、オアシス都市を取り囲む防壁である。雨季になると雨水を吸った砂が雪崩のように襲ってくるこの国では、必須の防災建築だ。
周りを見れば、多くの馬車や騎獣がこの都市に立ち入ろうとしているようだった。さすがは首都近郊の街だな、と思いつつ都市の入り口である関所までやってきた少年は、自分の順番が来たところで一度馬車から降り、衛兵に通行証を提示した。それを確認した衛兵が、少しだけ驚いた表情を浮かべてから深々と頭を下げる。
何度か経験しているが、この瞬間が少年はとても苦手だった。要人のような扱いを受けるのは居心地が悪いのだ。
衛兵に頭を下げ返し、少年は早々にこの場を立ち去ろうとした。
(取り敢えずここでモファロンにご飯をあげて、ひと休みしよう。今晩は宿に泊まるとしたら、出発は明日の朝早くかな……)
そんなことを考えながら馬車に乗り込もうとした少年だったが、それを遮るように後方で大きな音と悲鳴が上がった。驚いた彼が振り返るのと同時に、関所の衛兵が叫ぶ。
「緊急事態発生! 南部関所付近にて砂蟲による襲撃! 砂蟲の数は、……十を超えます!」
衛兵の声を聞きながら背後を見た少年は、先程までなだらかだった砂丘から十数頭の砂蟲が顔を出し、後方に並ぶ馬車を襲わんとしているのを目にして小さな悲鳴を上げた。
「皆様焦らず落ち着いて門の中へ! 緊急事態につき、通行許可は不要です! とにかく確実な避難を!」
「衛兵は砂蟲の迎撃態勢に入れ! 仕留めなくても良い! 国民を守ることに専念せよ!」
その指令が出されるよりも早く、関所に待機していた一部の兵は既に砂蟲の群れへと向かっていた。まるで、こういった危機状況をあらかじめ想定していたかのような動きである。
(す、すごい……)
この街の衛兵は恐らく、国王直轄の兵とは別の部隊だ。だが、それでもこれだけ迅速かつ的確な行動が取れるということは、それだけ訓練を積んでいる証拠である。
「さあ、貴方もどうぞ門の中へ」
兵の一人に促され、少年は慌てて頷いた。
こんなところで呆けていては、邪魔になってしまう。そう思いながら、少年はモファロンの前まで行って引き綱を握った。馬車に乗り込まなかったのは、この状況で外が見えなくなることを避けたかったからだ。そっと綱を引けば、賢いモファロンは大人しく従ってくれた。そのことにほっとしつつ、少年はもう一度だけ後方を振り返る。
巨大な生物を前に、しかし衛兵たちは随分と戦い慣れているようで、確実に砂蟲を抑え込み始めていた。ややパニックになりかけてはいるが、外にいる人々や馬車も滞りなく街へ入ってきている。この様子なら、事態はすぐに鎮静化するだろう。
衛兵たちの鮮やかな対処に感心しつつ歩を進めていると、不意に地面が大きく揺れた。その衝撃で転びそうになった少年が、寸でのところでモファロンにしがみつく。
「地震……?」
少年がそう呟くのと、先程よりもずっと悲愴な悲鳴が辺りに響き渡るのと、どちらが早かっただろうか。
新たに上がった悲鳴に再度振り返った少年が門の外に捉えたのは、砂蟲の群れを蹴散らすようにして現れた巨大な甲殻生物であった。それを見た人々は勿論、衛兵たちまでもが顔色を変えて息を飲む。
ザナブルム。前肢に巨大な鋏、尻に三本の巨大な尾を持つ、砂漠生態系における上位種である。
途端、先程まで暴れていた砂蟲たちが一斉に砂中へと潜り始めた。砂蟲にとって、捕食者であるザナブルムは脅威なのだ。だがそんな中、その内の一頭をザナブルムの鋏が捉えた。巨大な刃が砂蟲の硬く分厚い皮膚を裂き、その身体を切断する。嫌な音を立てて千切られた身体は、何度かびくびくと震えた後で、動かなくなった。そしてそんな砂蟲の死体に、ザナブルムが喰らいついた。ぱかりと四つに割れた大きな口が、柔らかな肉が覗く切断面を貪る。
見ているだけで気分が悪くなるような光景だったが、幸運なことに今のところザナブルムは砂蟲にしか興味がないようで、周囲にいた衛兵や馬車に危害が及ぶ様子はないように見受けられた。
ほっとして自分も避難を続けようとした少年はしかし、食事中のザナブルムのすぐ後ろに馬車が横転しているのを見つけてしまった。はっとして目を凝らせば、倒れた馬車の中で何かがもぞりと動いたのが見えた気がして、彼は小さく息を呑んだ。
(中に、まだ人がいるんだ……)
恐らく、ザナブルムが地上に出たときに馬車が倒され、そのまま出ることができないでいるのだろう。
衛兵に伝えなければと視線を巡らせた少年だったが、よく見れば砂蟲と対峙していた衛兵たちは誰一人としてその場を離れておらず、場に留まってザナブルムへの警戒を続けてる。
これは少年の憶測だが、衛兵もまた、馬車に取り残されている人がいることに気づいているのだろう。今ならば何事もなく逃げられるだろうに戻ってこないということは、そういうことだ。だが、衛兵たちは警戒をするようにザナブルムを睨むのみで、それ以上動く様子はない。
(……きっと、迂闊に手を出せないんだ)
ザナブルムは砂漠に住む魔獣の中でもかなり危険な生物である。それこそ、砂蟲の群れなどとは比べ物にならないほど厄介な相手だ。いくら食事に夢中とはいえ、ザナブルムの警戒範囲で動きを見せれば、尾の先端についている毒針で貫かれるかもしれない。そしてひとたびそうなれば、獰猛なザナブルムはその場にいる生き物を皆殺しにするまで怒りを収めないだろう。
まさに一触即発の雰囲気の中、少年は葛藤していた。今までの少年ならば、こんな場面に出くわせばすぐに逃げていただろう。彼は力のないただの人間だ。誰かを助けるなんて、できる筈がない。
だが、今は違う。いや、今も昔も少年自身は変わらないが、たったひとつ変わったことがあった。
少年の手が、控えめに首元のストールを撫でた。そうすれば、ストールの中からトカゲが這い出てきて、少年の肩に乗る。
逡巡するように視線を彷徨わせた少年は、しかし、思い切ってトカゲを見た。その視線を受け、聡明な炎獄蜥蜴が小さな炎をぼっと吐き出す。
任せろと言わんばかりのその動作に、少年は一度ぎゅっと唇を結んだ後、頷いて走り出した。怖くないと言ったら嘘になるが、ここで自分が逃げ出すのはいけないことのような気がするのだ。
(だって、あの人だったら、絶対に逃げたりしない)
力がある者が力のない者の助けになるのは当然のことだ、と。きっと、あの王ならば、自分が王であろうとなかろうとそう言うだろう。だから、その王から力を貸して貰っている自分がそれをしないのは、間違いだと思ったのだ。
(ティアくんは飽くまでも僕の護衛だから、僕から離れられない。だから、僕がちゃんとあそこまで行かないと……!)
そう思って門の外へ向かった少年だったが、不意に誰かがその肩を掴んだ。びくりと大袈裟に肩を跳ねさせた少年が振り返る前に、彼はぐいっと後ろへと身体を引かれた。そしてその耳元に、小さな声が落ちてくる。
「こんなとこで炎獄蜥蜴なんか暴れさすなよ。大注目だぞ。そんなのお前も避けたいだろ?」
どこか呆れたような、しかし怒っている訳ではない声だ。そこでようやく少年が振り返ると、そこには、上半身の衣服をはだけさせ、褐色の肌を惜しげもなく晒している色男が立っていた。
「で、でも、早く行かないと、」
訳が判らないまま、それでも男にそう言えば、彼は少年の頭をわしゃわしゃと撫でたあと、ぱちりとウィンクをして寄越した。
「ま、俺に任せとけって」
そう言って笑った男は、少年が言葉を返す前に駆け出した。
「風霊、火霊、ちょびっと加速よろしく!」
言うや否や、男の脚を雷の衣が覆う。その力を利用して速度を上げた彼は、そのまま凄まじい速度で横転している馬車へと向かった。かろうじて少年の目でも姿を追うことはできたが、一般的な人間の身体能力で出せる速度ではない。
あっという間に馬車にたどり着いた男は、馬車の中を覗き込んだ。
「よし、生きてるな」
「あ、お、お願いします! 助けて! 助けてください!」
そこそこの大きさがあるその馬車には、数人の男女が取り残されていた。その全員の無事を確認してから、男は口の前で人差し指を立てる。
「助けてやるから、ひとまず静かにしとけ。今みたいに騒ぐと、」
そこで言葉を切った男が、振り返ることなく後方へと掌を向ける。
「――“雷盾”」
男がそう唱えた瞬間、雷の膜が盾のように馬車を覆った。そしてその盾に、ザナブルムの尾が突き刺さる。後方からの悲鳴を聞きつけたザナブルムが、その毒針を突き立てようとしたのだ。
見もせずにそれを防いでみせた男は、恐怖に震える人々に対し、おどけたように肩を竦めて笑った。
「とまあ、こんな風にあいつを怒らせちゃうから、静かにな?」
皆が口を押さえて頷くのを確認してから、男はザナブルムに向き直り、ぐるりと肩を回した。
「よっしゃ、そんじゃいっちょやりますか」
そう言い、男が戦場へと躍り出る。雷魔法による加速の力を借りてザナブルムの側方に回り込んだ男は、すぅっと息を吸い込んだ。
「お食事中悪いんですけど、そういうのはお家に帰ってからやってくれませんかねぇ! 今帰るんだったら許してあげるからさぁ!」
警戒範囲内で騒音を出せば、ザナブルムの攻撃対象になる。それを知っていて男が敢えてその行動に出たのは、馬車から気を逸らさせるためだ。
突然叫んだ男に、周囲にいた衛兵たちがぎょっとしたような顔をして彼を見る。だが、誰一人として言葉を発するものはいなかった。ここで音を出せば、男の邪魔になる可能性があるからである。
果たして、男の目論見通りにザナブルムの尾は彼目がけて的確に振るい落とされた。だが、男は巨大なそれをひらりと躱す。そして彼は、腰に下げている双剣の内の片方を引き抜いた。赤の王の剣よりも小ぶりな、大きく湾曲した剣だ。
「“雷魔法憑依”」
呪文に応えた風霊と火霊が、男の握る剣に雷を纏わせる。そこまでの動作を流れるようにこなした彼は、握った剣を尾に向かって振り上げ、見事一撃でその尾を斬り落としてみせた。
ザナブルムの甲殻は非常に硬く、物理的に破壊するのにかなりの労を要するのだが、それを容易にこなしたこの男は、相当の使い手であることが窺えた。
尾の一本を落とされたザナブルムは、事態が急変したことを察して食事を止め、機敏な動きで男へと向かった。さしもの捕食者も、尾だけで相手をするには獲物が強すぎると考えたのだろう。
一方の男は、容赦なく襲い来る鋏と尾を掻い潜りながら、じわじわと後退していった。一見すると押されているように見えるが、そうではない。ザナブルムをなるべく馬車から遠ざけようとしているのだ。
(さっき落とした尾は、たぶん睡眠効果のある毒針がついてる尾だ。となると、残りの二本のどっちかが麻痺毒で、どっちかが即死毒だな)
どちらにせよ、僅かに掠っただけで命はないだろう。ザナブルムが即死毒の針を使うことは滅多にないが、男相手に残りの尾を二本とも使っているところを見ると、先程の一撃で男の腕をそれなりに見極めたようである。
(尾は一番旨いから、できれば判別したいところだけど、そうも言ってらんねーか)
これ以上長引かせるのは、人々の不安を煽るだけだ。そう判断した後の彼は素早かった。
回避に徹するのを止め、ザナブルムの猛攻を最小限の動きで躱しながら、振り下ろされた鋏に跳び乗る。そしてそこからあっという間に背中に駆け上がった彼は、真っ直ぐに向かってきた強靭な尾を横薙ぎに斬り落とした。続いて、ザナブルムの後方から飛び降りつつ、残った一本を根元から落とす。そこまでやり終えた彼は、剣の魔法憑依を解いて鞘に収めた。
「いやぁ、久々に良い運動したな。っつー訳で、あとはもう良いか」
そう言った男の指がザナブルムを指し示す。
「――“雷の包丁”!」
瞬間、無数の雷が奔り、ザナブルムを堅牢な鎧ごと切り裂いた。しかも、ただ細切れになった訳ではない。鋏、腕、内臓、といった風に、部位ごとに綺麗に分けられたのだ。
「あ、ごめん風霊ちゃん。悪いんだけど、地面につかないように、軽ーく浮かせといてくれる?」
彼のお願いに、吹いた風がザナブルムの肉を受け止める。
その瞬間、一部始終を見守っていた少年の周囲で、わっと歓声が上がった。驚いた少年が周囲を見れば、避難してきた人々を含めた大勢が歓喜に湧き、どっと門の外へと押し寄せた。それに飲み込まれた少年は、なす術なく門の外へと流されてしまった。人混みが大の苦手な少年にとっては大変苦痛な時間だったが、途中、肩に乗っているトカゲが少年を見上げて首を傾げてきたのには、慌てて首を横に振っておいた。
トカゲが何を言おうとしていたのかは判らないが、「こいつら邪魔? 全部焼く?」と問われたような気がしたのである。
そんな民衆の元に解体されたザナブルムを携えた男が戻ってくると、より一層人々が湧き上がった。
「きゃー! クラリオ様かっこいいー!」
「クラリオ様ー! こっち向いてくださーい!」
「ありがとうございます! 流石はクラリオ王陛下!」
「うおおおお! 一生ついていきます!」
周囲の人間たちの口から飛び出てきたその言葉に、少年は目を剥いた。
(……え? は……? 王陛下……?)
恐る恐る男の方へと視線を戻せば、蜂蜜色の髪の色男は、大きく挙げた手をひらひらと振っているところだった。
「はいはーい! 皆大好きクラリオ様だよぉ! 麗しき女性の皆さんは嬉しい歓声をありがとう! もっと讃えても良いのよー!」
「きゃあああああ! クラリオ様ー!」
「むさ苦しい男共は黙っててねー! お前らからの歓声浴びてもなーんも嬉しくないからねー!」
「うおおおおおお! クラリオ王陛下ー!」
「嬉しくないから黙れっつってんだろーがぁ!」
男性陣は酷い言われようだが、何故だかそれはそれで盛り上がっている。しかし、それにしても、
(お、王様、なの……? この人が……?)
そう。女性に向かってひらひらと手を振りながらウィンクを撒き散らしているこの男こそ、黄の国を治める国王、クラリオ・アラン・リィンセンであった。
「あー、この中に料理人いる? いたらこのザナブルムの肉はあげるから、格安で皆に振舞ったげて。あ、外にほっぽってきた尾には手ぇ出すなよ。今頃肉に毒が回って食えるもんじゃなくなってるから」
ザナブルムの肉は非常に美味だが、仕留める前に尾の先端を斬り落とさないと、それと繋がっている部分の肉に毒が回ってしまうのだ。ちなみに、即死毒がある尾だけは、肉全体が毒袋のような役割を果たしているので、どのような調理法でも食べることができない。
「あと、商人の皆は甲羅を山分けしちゃってー。加工がちょっと大変だろうけど、良い品作れるからさ」
大盤振る舞いの王に、またもや歓声が上がり、人々がわっと肉や甲羅に群がる。その群れにまたもや揉みくちゃにされそうになった少年は、慌てて群衆から離れることにした。
「す、すごいね……ティアくん……」
赤の王も民からの人気者だったが、黄の王も負けず劣らず人気を博しているらしい。
「取り敢えず、モファロンのところに戻ろうか……」
このままここに居たら、またお祭り騒ぎに巻き込まれてしまうかもしれない。そう思ってさっさと民衆に背を向けた少年だったが、そんな彼を黄の王が引き留めた。
「おいおいちょっと待てって。お前、えーっと、アマガヤキョウヤ」
「……え」
なんで一国の王が自分の名前なんて知っているんだろう、と思いながら振り返った少年に、黄の王が笑みを向ける。
「いやぁ、さっきはうちの国民を助けようとしてくれてありがとうな」
「え、あ、いや、結局僕、何もしてませんし……」
「なーに言ってんだ。こういうのは気持ちの問題ってやつだろ。ま、何にせよここまで無事に来られたみたいで良かったわ。ロステアール王が炎獄蜥蜴をつけたって言ってたから大丈夫だとは思ってたけど、何かあったら事だからなぁ」
「あ、あはは、そうですね」
いつもの白熱電球のような笑みを浮かべつつ、適当に相槌を打つ。何のことはない。黄の王が自分を知っていたのは、赤の王に聞いたからなのだろう。考えてみれば当然のことだ。少年は帝国に狙われている身なのだから、円卓の国王は皆、少年のことを把握している筈である。
仕方がないことではあるが、それはそれでとても居心地が悪いなぁと少年は思った。
「……あの、もしかして、国王陛下は僕の様子を見に……?」
どこぞの赤色の突拍子もない行動を何度も見ているからか、思わずそう尋ねてしまった少年だったが、それはあっさりと否定される。
「いや? なんで俺がわざわざ男の様子なんか見なきゃいけねーんだよ」
「あ、いえ、すみません。そうですよね」
それはそうだ、と少年は内心で安心した。この王も赤の王のような変人だったらどうしようと思ったのだが、どうやらまともそうである。張り付けた笑みの裏でそんなことを考えていた少年に対し、黄の王が頷いた。
「そうそう。俺はただ、この街には最近顔出してなかったから、久々に女の子たちの様子を見ようと思って遊びに来ただけなんだよ。そしたら砂蟲やらザナブルムやらが湧いたって大騒ぎになって、もークラリオ大変。仕方がないから泣く泣く女の子と別れて颯爽と登場したってわけ」
「は、はあ……」
前言撤回。やはりこの王も普通ではなさそうだ。赤の王、金の王、黒の王と来て、四人目の国王との邂逅だが、どの王も一般とはズレている気がする。
(あ、いや、金の王様はまともだったような。……でも、あの人のことが絡むとちょっと盲目的だから、やっぱりおかしいかもしれない……)
少年がそんな風に失礼なことを考えていると、黄の王がちらりと周囲を見てから、それじゃあと言って、そっと少年から離れた。そして、自然な動作で少年から距離を取ったところで、その辺りにいた女性たちに声を掛ける。
「今日は俺、超気分が良いし、ザナブルム料理ができるまでここにいよっかなー! 女の子たち、皆で一緒にご飯食べない?」
「きゃー! クラリオ様と一緒にお食事できるなんて!」
「ぜひぜひ!」
「ずるいわ! 私もご一緒させてくださいクラリオ様ー!」
わっと群がった女性陣一人一人に、黄の王が丁寧に対応する。そしてそれを見た男性陣も、わらわらと人の群れの一部になっていった。
「俺も一緒にお願いします! クラリオ王陛下!」
「あ、じゃあ俺はお酌させてください! クラリオ様!」
「クラリオ王陛下と同じ皿をつつけるなんて、感激です!」
わーわーと騒ぎ出した男たちに、黄の王がげんなりした顔をする。
「いや、男と一緒に飯食う趣味はないし、男の酌もいらねぇし、最後の奴に至っては言葉選びが気持ち悪ぃから、男は全員隅っこで食ってろ」
「辛辣なことを言いながらも、全部話を聞いてくれてるクラリオ王陛下! 最高です!」
「気持ち悪いって言うのに、一緒に食事をすること自体は断ったりしないんですよね! 陛下ってばお優しい!」
少年には全く理解できないが、女性だけでなく男性までもが盛り上がっている。なんというか、赤の王が民にとっての崇拝対象ならば、黄の王は人気役者みたいな感じなのかな、と少年は思った。
何はともあれ、これは好機である。黄の王に声を掛けられたことで一時的に注目を浴びてしまった少年だったが、今はもう誰も彼に興味を示していない。皆、クラリオとザナブルムの肉や殻に夢中な様子だ。
(……もしかして、僕がこの場から離れやすいようにしてくれたのかな……?)
だとしたら、大変有難いことだ。内心で黄の王にお礼を言いつつ、少年はそそくさとその場を立ち去ろうとした。だがそんなとき、群衆の誰かが叫んだ。
「おい! 空を見ろ! 王獣様だ!」
「おお! リァン様!」
王獣と聞き、少年の脚が思わず止まる。赤の国の王獣であるグレンが美しい獣だったので、気になってしまったのだ。
興味のままに振り返った先、空を翔けるその獣を目にし、少年は思わずほぅと息を吐いた。
雷を纏った、大きな四つ脚の獣。黄の王の髪色に似た、色の濃い金毛のその獣は、赤の国の宰相の騎獣によく似ていたが、それよりもふた回りほど大きく、遥かに美しい。荘厳な雰囲気を漂わせる獣は、まさに王獣の名に相応しい風格をしていた。
偉大なる王獣を前に、しかしその対である国王は悪戯が見つかった子供のような表情を浮かべた。
「げっ、リァン!?」
なんでいるんだ、と言いたげな国王を一瞥した獣が、真っ直ぐに降下してくる。王の周囲にいた人々が王獣のためにと場所を空ける中、王獣は王目掛けて宙を駆け降り、そして、
「ぶへっ!」
太い前脚で王の顔面を踏んづけた。
勢いよく顔を踏まれた王が、ひっくり返って地面に転がる。一方の王獣は、一度すっと上へ駆け上がってから華麗に着地し、転がっている王の腹に前脚を乗せた。
「ぐぇ、お、重い! お前な! お前が思ってる以上に重いからどけ!」
喚く王を睨んでから前脚をどかした王獣は、そのままその前脚で王の身体を蹴って転がした。
「いって!」
呻いた王の背中に再び前脚を乗せた王獣が、王の後ろ襟を咥える。そこまでされた王は、次に起こることを察してぎょっとした表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっと待て待て! 俺今すっげぇ適当に服着てるから、それやったら脱げる!」
だが、王獣は王の抗議になど耳を貸さない。前脚をどかし、ぐいっと顔を上げた王獣は、そのまま地面を蹴って空へと飛び出した。
「脱げて落ちるっつってんだろーがぁ! 風霊ちゃん良い感じに服着せてぇ!」
クラリオの悲鳴を受け、風霊がせっせと衣服を整えていく。それは、これまでの王では見たことがないほどに間の抜けた光景だった。あの赤の王だって、もう少し王としての尊厳を保っていたように思う。
「ええー! リァン様、国王様を連れて行ってしまわれるんですかー!?」
「お食事一緒にしましょうってお話してたのにー! クラリオ様ー!」
女性陣からも男性陣からも残念そうな声が上がったが、王獣はそれにも耳を貸すつもりがないようで、そのまま滑るように駆け出してしまった。
「ごめんね女の子たちー! 今度絶対ご飯一緒に食べようねー!」
叫ぶ黄の王の声が、どんどん遠ざかって行く。かろうじて言葉の最後が聞き取れたあたりで、雷鳴のような轟音と共に王の悲鳴のようなものが聞こえて、少年は思わず肩を震わせてしまった。
何事かと思った少年だったが、未だざわついている人々の会話から察するに、先程の王獣は王宮を抜け出してフラフラしていた国王を連れ戻しに来て、反省の様子が見えない彼に怒って軽く雷を落としたのだろうと、そういうことらしい。
なんだかどこかで聞き覚えがあるような話だ。そっちの場合、落とされる雷は物理的なものではなく、落とすのも王獣ではなかったが。
(…………王様って、やっぱり変な人しかいないんだな……)
青の王あたりが聞いたら般若の形相を浮かべそうなことを考えながら、少年はようやくモファロンの元へと向かったのであった。
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