【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子

デート?2

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 陽が落ち始めたというのに、男が少年を放す様子はなかった。確かに自分だけでは行けないような場所で、素敵なものを沢山見せて貰えはしたが、それでも少年にとって、他人と一緒にいることはとても気疲れしてしまうものなのだ。
 またもや高そうな店で夕食を済ませた後、男に連れられて乗り込んだ馬車の中で、少年は少し居心地が悪そうに窓の外や足元へと視線を彷徨わせてから、そろりと男の顔を窺う。
「あの、まだ何処かへ行くんですか?」
「うん? ああ。今夜な、少しだけ特別な催し物があるのだ。あのような事件があった後ゆえ、開催されるかどうか心配だったが、さすがはギルヴィス王陛下。強行してきたな」
「催し物、ですか? ……聞いたことがありませんが」
 ほんの少し訝しげに尋ねた少年に、男は頷いた。
「それはそうだろう。基本的に国内の貴族向けの催しだ。一般市民では、聞いたことのある者の方が少ないのではないか?」
「貴族向け……。それなら、僕は参加できませんね。ここら辺で失礼した方が良いでしょうか」
「何故だ? 折角なのだから、付き合ってくれ。今日はお前の一日を私にくれる約束だっただろう?」
 そうであってくれという願いを込めて言った言葉であったが、やはりその期待はあっさりと裏切られてしまった。まあ、ここで馬車から追い出されても困ってしまうと言えば困ってしまうのだが。
「……そうですね。お約束ですので」
 そう言って返せば、男は満足したように微笑んだ。
「幻燈籠流し、と言ってな。ギルガルド謹製の魔術燈籠を空に浮かべ、それを愛でながら酒を酌み交わす祭なのだ。私は一度しか見たことがないが、魔術燈籠が映し出す幻影たちはそれはそれは美しく見事なものだぞ。お前もきっと気に入るだろう」
 貴族向けの催しに参加したことがあるということは、やはりこの男は貴族お抱えの兵士か何かなのだろう。しかし、いくら貴族お抱えだからといって、兵士が単独で参加できるというのもおかしな話だ。もしかするとこの男、自分が想像しているよりもずっと上流階級に位置する貴族に仕えているのかもしれない。
「ロストさん、て、やっぱり凄い人なんですか?」
 問いかけに、男は少し笑って肩をすくめて見せる。
「いいや。たまたま周囲の人に恵まれていただけだ。……さあ、見えて来たぞ」
 そう言って窓の外を見た男につられて外を見れば、目に飛び込んで来たのは大きな城だった。これは、世に疎いさすがの少年も知っている。ギルガルド王国の王都にそびえる城など、たったひとつしかないのだから。
「ギルディスティアフォンガルド王城……」
 馬車が向っているのは、紛れもなく金の王国の国王が住まう城であった。
「あ、あの、ロストさん、どうして王城に、」
「どうしても何も、会場が王城の庭園なのだ。何も不思議はないだろう」
「そ、そうじゃなくて、あの、」
 王城に踏み入れることに何の抵抗もないのかこの男は、と思うも、それを口に出す余裕もなく、少年はただ口をぱくぱくさせた。
「ああ、何も心配などしなくて良い。そのために身なりを整えたのだから」
 とても似合っているぞ、と男は微笑んだが、少年の方はそれどころではない。
 自分のような薄汚い子供が王城に立ち入るなど、どう考えても不敬だ。見つかったら追い出されるだけでは済まないかもしれない。厳しい仕打ちが待っていたらどうしよう。痛いのは嫌だし、辛いのも嫌だ。
 ただでさえ余り良くはない顔色を一層悪くさせてしまった少年に、男は少しだけ首を傾げた後、そっとその頭を撫でた。びくりと怯えたような反応を見せた少年だったが、それでも男は撫でる手を止めなかった。
「私がいるのだ。お前に危害など、加えさせるわけがない」
 それとも私が信用できないか、と問われ、少年は何も言えなかった。そんなもの、信用できるわけがない。つい数週間前に出会ったばかりの相手を、どうしてそうも信用できるだろうか。だが、何故だろう。どこかでこの声を聞いたことがある気がするのだ。何もかもがどうでもよくなってしまうような心地の中で、この声を。
 だからだろうか。普段ならば頑として首を縦に振らないような状況だったというのに、結局少年は流されるままに王城へと足を踏み入れることになってしまった。
 王城内部へと続く大きな門で、門番に招待状らしき書状を見せる男の様子をちらりと窺い見ると、男の堂々とした素振りに対し、門番の方は何故だか酷く慌てた様子だった。ちらりと聞こえた、ロンター公爵閣下、という言葉から察するに、午前中のあの店で見せた書面に署名されているらしい人のことだろうか。聞いたことがない名前だが、王城の門番がここまで焦るということは、思っているよりもずっと有名な貴族なのかもしれない。
 現実逃避にそんなことをぼんやりと考えているうちに、いつの間にか馬車が停まり、少年は男に促されてのろのろと馬車を降りた。そのまま、どうやら歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれているらしい大きな背を見失わないようにとついていく。男は時折振り返って様子を見てくれるから、はぐれることなど有り得ないのだろうが、それでも不安なものは不安だ。周囲には綺麗な服装の貴族らしき人物がちらほと見えていて、恐れ多いやら何やらで内心泣きたい気持ちでいっぱいになる。男を信用している訳ではないが、今は男以外に頼れるものが何もなかった。
 だが、少年のその心境は、会場らしき王城庭園に辿り着くと全て吹っ飛んでしまった。
 広大な庭園の空に浮かぶ、幾多もの魔術燈籠。男曰く、魔術と錬金術を緻密に織り交ぜて作られたというそれらは、それぞれ異なった幻を宙に投影して舞っていた。見事な角を持った純白の一角獣や、大きな羽のような耳を羽ばたかせて飛ぶ姿が愛らしい不思議な獣、それぞれ赤と青と緑と橙色を纏った人型は、恐らくは四大精霊の姿を模した幻影なのだろう。それらよりも大きな燈籠からは、この次元には存在しないと言われているドラゴンの姿まで投影されている。
 今挙げた燈籠から映し出される幻影たちは、どれも少年が息を飲むほどには美しく素晴らしいものばかりであったが、中でも目を引いたのは、庭園中央の高みに浮かぶ一際大きな燈籠だった。遠目からでも察するに余りある精巧な細工は、浮かぶ燈籠のどれよりも作りこまれているように見えた。だが、あの大きな燈籠は一体何を映しているのだろうか。この場における一番大きな幻影はドラゴンだが、あれを投影しているのは、左の方にある大きな燈籠だ。そして、中央の燈籠はそれよりも遥かに大きかった。
 少年が内心で首を傾げていると、いつの間にか寄り添うように隣にいた男が、少年の視線の先を見て、ああ、と口を開いた。
「あれは星空を投影しているのだ」
「星空、ですか……?」
「見上げてみると良い。実際は、このような都会でこれほど見事な星は見えんよ」
 言われ、空を仰いだ少年は、思わず感動の声を漏らしていた。
「わぁ……綺麗……」
 それは、少年が今まで見たどの星空よりも美しい、輝く星で満たされた夜空だった。確かに都会であるギルガルドではこれほどの星は見えないだろうが、かつて少年が歩いた旅路の中でだって、ここまで見事な星空は拝めた試しはない。あまりの美しさに少年が、ほう、と溜息を吐き出せば、隣にいた男もまた、星空を見上げて目を細めた。
「輝きが弱くて実際の夜空ではどんなに目を凝らそうとも見えぬ星も、投影されているのだ。事実のそれよりも光度を上げているのだろう。故に、ここまで完成された夜空を作ることができる。言うなれば、これは星座盤をそのまま夜空に映し出しているようなものだな」
 星空に見惚れていた少年の耳に男の説明はあまり入って来なかったが、それでもこの夜空がとても美しくて、そして同時に本物ではないということだけは理解できた。それでも、こうも美しくあることができるのならば、偽物か本物かなんてこの際関係ないのではないだろうか。
 そんなことを考えながら幻の星空や優雅に滑る幻影たちを眺めていると、ふと、少年の視界を遮るように、大きな背中が正面に立ちはだかった。一瞬理解が遅れたが、どうやらこの背中は自分をここに連れてきた男のものらしい。
 気分よく幻を眺めていた少年が何事かと声を掛ける前に、男はちらりと少年を振り返って、そのままでいろ、と小声で告げてきた。それとほとんど同時に、男の背の向こう側から知らない声が聞こえる。
「これはこれは、ロストさんではありませんか! こんな場所でお会いするとは、奇遇ですね」
 今日一日聞いていた低い声とは違い、やや軽めの、しかし何故か耳に馴染みやすい声だ。
「おお、デイガー殿。貴殿もいらっしゃっていたとは」
 少年は知らないが、親しげに声を掛けてきたのは、例のカジノのオーナーであるデイガー・エインツ・リーヒェンであった。初めてカジノに行ったあの日以降、男が出向くと必ずオーナーが直々に挨拶をしに来るため、顔見知り程度の関係にはなっていたのだ。尤も男は、デイガーがわざわざ声を掛けてくるのは友好関係を築くためではなく、男を目立たせることで目くらましの効果を少しでも低下させるためだろうと考えていたが。
「大変有難いことに、バーを通じて様々なお客様と仲良くさせて頂いておりますので。今回はたまたま、この幻燈籠流しに例年参加されている貴族の方からのご紹介ということで、参加させて頂くことができたのです。いや、初めて参加致しましたが、思っていた以上に素晴らしい催しですね。さすがは錬金術大国ギルガルドです。私などでは到底手が届かないお品だと判っていても、是非譲って頂きたいと思ってしまう」
「ははは、デイガー殿ほどのお方が何を仰る。貴殿ならば、手が届かないということはありますまい」
 にこやかに言葉を交わしているが、男は少年を背で隠すようにしたままで、それをやめる様子はない。ほんの少しだけそれを不思議に思った少年だったが、話を聞く限りデイガーと呼ばれる人物は高貴な人のようだったし、そんな相手にみすぼらしい自分を見られるのは嫌なのだろう、と納得してしまった。結局この男の地位も高そうな様子だったし、薄汚い自分を知り合いだとは思われたくないという気持ちはとても良く判る。自分がどうしようもなく汚くて価値がない存在であることくらい、少年自身が一番良く知っているのだ。
 気づけば、先程まで抱いていた高揚感は今や見る影もなく、少年はとても沈んだ気持ちになった。と言っても、己の価値については嘘偽りなく常日頃から認識していたので、今のこれは、折角良い気分で美しいものを眺めていたのに一気に現実に引き戻されてしまったことに対する憂いだろう。
「しかし、驚いたと言えば、貴方がここにいらっしゃることこそ驚きです。幻燈籠流しと言えば、ギルガルド国内の貴族でも参加できる者は僅からしいではないですか。そんな祭に他国の人間であるロストさんがご参加されているとなると、やはり貴方の正体が気になるところですね」
 にこりと親しげな笑みを浮かべたデイガーに、男も微笑みを返す。
「私は本当に大した人間ではありませんよ。今の雇い主がたまたまそれなりの地位にいらっしゃる方だというだけです」
「それなりの地位、くらいでは、傭兵である貴方がこの場に立つことは難しいのではないでしょうか? ああいえ、貴方を貶める意図はないのです。ご気分を悪くさせてしまったら申し訳ない」
「いやいや、仰りたいことは判りますとも。しかしながら、これ以上雇い主についての情報を喋るわけにはいきませんので、このあたりでご勘弁願いたい」
 男がやんわりとそう言えば、デイガーは、これは失礼を致しました、と詫びるように軽く頭を下げてよこした。しかし、すぐに顔を上げて、今度は男の身体を透かすように、見えない筈のその後ろへと視線を投げる。
「ところで、ロストさんの後ろにいらっしゃるそちらのお方は?」
 男の背に隠されたままぼんやりとしていた少年は、急に自分が話題に上がったことに驚いて、びくりと肩を揺らした。と、後ろ手に男の手が伸びてきて、少年は腕を掴まれた。急なことに、他者との接触が極端に苦手な少年は先程よりも大きく肩をびくつかせたが、男が掴んだ腕を離す様子はなく、寧ろしっかりとした力で引き寄せられてしまう。体格差も相まってか逆らうこともできず、男の背にぶつかるようにして押し付けられると、癖毛が頬を擽る感触と同時に、触れたところから男の高い体温が伝わってきた。慣れない他人の温度に酷く居心地が悪い気分になった少年は思わず顔を上げたが、当然ながら見えるのはくすんだ炎のような髪の毛ばかりで、何を察することもできない。と、そこでふと少年は疑問に思う。
(あれ? この人の髪の色なんて、初めて見えた気がするけど……)
 こんな赤茶けた色をしているんだな、と思いつつ何度か瞬きをすると、不思議なことに先程まで知覚できていた色彩はすっかり失せ、また薄曇りに覆われたように何も判らなくなってしまった。まるで、霞が一瞬だけ風で吹き飛ばされたようだ。多少は不思議に思った少年であったが、特別気になるということもなかったので、それ以上思考することはなかった。
「この国に来てから知り合った友人ですよ。少々人見知りらしく、未だに私にすら慣れてくれないのが残念ですが」
「なるほど。しかし、ロストさんはそちらの方を随分気に入られているご様子だ。そんなに警戒しなくとも、捕って喰べたりなど致しませんのに」
「いや、本当に人見知りな子でしてな。デイガー殿のような物腰柔らかなお方であれ、初対面の人間に対してはどうしても怯えてしまう」
 確かに少年は人見知りであるし、初対面どうこう関係なく他人と関わるのを好むタイプではなかったが、では他者に対してそうしょっちゅう怯えるかというとそんなこともなく、仮に怯えるようなことがあったとしても、それを悟らせない程度には表情を作るのに長けていた。故に、男の言葉が嘘であることは少年にも判った。勿論、何故ここで嘘をつく必要があったのかまでは判らなかったが。
 心底居心地の悪いこの状況をどうすべきかと考えていた少年だったが、いつの間にか背中に回っていた大きな掌に、宥めるようにぽんぽんと背を叩かれ、接触を好まない彼はますます気分の悪い思いをするのだった。
 だがまあ、一応ある程度の空気くらいは読める。恐らくこの場は黙っていた方が良いのだろう、と口を引き結んでいれば、それを察したのか、元々大して強くはなかった男の拘束は緩んだ。
「うーん、残念です。ロストさんが気に掛ける相手なのでしたら、ぜひご挨拶をと思ったのですが」
「大変申し訳ないが、またの機会ということで勘弁して頂けないか? この子とはまだまだ交流途中でしてな。互いにもう少し打ち解けてからで良ければ、今度は二人でバーに伺いますので」
「それなら仕方がないですね。でも、約束ですよ? お待ちしておりますからね」
「勿論。私もまたそちらで遊ばせて頂けるのを楽しみにしていますよ」
 何を勝手な約束を取り付けてくれてるんだこの男は、と思いはしたが、今さら口を出すわけにもいかないので大人しく黙っていることにする。
 その後、二言三言交わしてからデイガーが去っていき、その背中が人に紛れて見えなくなったあたりで、ようやく少年は男の拘束から解放された。すぐさまその背中から離れれば、振り返った男が申し訳なさそうな顔で少年を見下げてきた。
「すまない。苦しかったか?」
「いえ……」
 苦しくはなかったけれど気分は最悪でした、と言う訳にもいかず、いつもの微笑みを貼り付けておけば、それならば良かったと言って男は微笑み返してきた。
「ところで、あの、さっきの方は……?」
「例の、私が最近出入りしている先のオーナーで、デイガー・エインツ・リーヒェン殿だ。歳はまだ二十そこそこだろうが、それでオーナーの地位にあるのだから、中々のやり手だぞ」
「はあ」
 言葉をぼかしてはいるが、詰まるところ違法カジノのオーナーということか、と少年は察した。まあ察したところでどうということはないし、自分に関係のある話でもないのでどうでも良かったが。
 なんにせよようやく居心地の悪い状況から解放されたのだからと、さっさと幻を眺める作業に戻ることにする。魔術が魅せる美しい芸術品たちは沈みかけていた気持ちを浮上させるには十分で、結局彼は、今日の祭が終わりを迎える時まで飽きることなく空を見上げていたのだった。
 
 
 
 王宮庭園から馬車に揺られて自宅へと帰りついたのは、日付が変わる少し前であった。結局ほとんど丸一日を奇妙な赤い男と過ごしてしまった少年だったが、今日見たものはどれも美しいものばかりで、正直に言うと割と楽しかったし、そう思っている自分に少しだけ驚いた。勿論、隣にいたのがこの男でなければもっと楽しかったのだろうが。
 しかし、珍しく少しだけ気分が高揚している少年とは対極に、帰りの馬車に乗っている間の男は静かだった。行きの馬車の中ではやたらとあれこれ話しかけて来たというのに、帰りはひとことも発さず何かを考えこんでいるようで、それになんとなくの疑問は抱いたものの、やはりそこまで興味もないので、少年はあまり気にしていなかった。
 自宅の前で男と共に馬車を見送り、何も言わないまま別れるのもなんだか変なので、形式的に今日の礼と就寝の挨拶を済ませて家に入ろうとしたところで、男に腕を掴まれた。
「あの?」
「……キョウヤ」
「はい」
 どうでも良いから言いたいことがあるなら早く言って離してくれないかな、などと考えながら男の顔を見た少年は、ほんの少しだけ驚いてしまった。
 あの、いつもにこにこと愛想の良い笑みを振りまいている男の顔が、何故か困ったような表情を浮かべていたのだ。
「キョウヤ……」
「はい、なんでしょうか」
 返せば、ほんの少しだけ黙った男は、少年の手を離してから、いきなり深々と頭を下げた。
「すまない。お前には大変申し訳ないことをした」
「……はい?」
 少年には一体何に対する謝罪なのかが全く判らなかったが、男の方は顔を上げることなく言葉を続ける。
「元を正せば私が撒いた種だ。いや、寧ろそれを目的としていた。しかし、こんなことにお前を巻き込んでしまったこと、本当に申し訳ないと思っている。今更方針を変える訳にもいかぬ故、どうしてもお前を煩わせてしまうが、どうか許して欲しい。その代わりに、という言い訳にならないことは承知しているが、巻き込んでしまった以上、私の全力を以てお前を守ると誓おう」
「…………はあ」
 何を言っているんだこいつは。
 多分、この人はやはり頭がおかしいのだろう。そう結論付けた少年は、さっさと家に入ってしまうことにした。これ以上この男に付き合っていると、こちらまで頭がおかしくなりそうだ。
「あの、良く判りませんが僕は平気なので、ゆっくり休んでください。僕ももう寝ますので」
「おお、許して貰えるのか! やはりキョウヤは優しい子だな」
 顔を上げた男に微笑みを投げられたので、少年も適当に微笑みを返しておいた。どうでも良いので早く寝たい。
「では、これ以上お前を引き留めるのは悪いので私も帰るとするが、その前にひとつ」
「……なんでしょうか」
 まだ何かあるのか、と思った少年の前に、男が赤い石の嵌まった簡素な指輪を差し出した。
「これを受け取ってくれ。そして、肌身離さず持っておいて貰いたい」
 差し出された指輪を改めて見る。一見すると簡素なそれは、よく見ればリングの内径に複雑な紋様が描かれており、装飾として嵌まっている石は、その内で炎が揺れるような不思議な輝きをしていた。と同時に、これと似ている、しかしもっとずっと美しい炎をどこかで見たような錯覚に陥る。あれはどこでのことだったのだろうか。もしかすると、夢の中での出来事だったのかもしれないけれど。
「受け取って貰えるな?」
「え、あ、」
 ぼんやりと記憶を辿っているうちに手を取られて、少年はびくりと震えた。しかし、そんな彼に構うことなく、男は触れたその手に指輪を握らせ、満足そうに頷いてから手を離した。
「あ、あの、」
「良いから受け取ってくれ。まあ、お守りのようなものだ。きっと役に立つだろう」
「は、はあ」
 何がなんだか判らないといった風の少年を押し切るように、とにかく常に身に着けているように、と一方的に念押しをしてから、男は背を向けてさっさと帰路についてしまった。
 混乱していたせいかそれを引き留めることもできなかった少年は、握られている指輪に目を落として、瞬きを数回。
「……はぁ」
 今日一番かもしれない盛大な溜息を吐き出してから、のろのろと自宅へと帰っていくのであった。



 帰路についたと思われた男であったが、歩きながら時折上空を気にするように見やっては、また前に向き直る、という行動を繰り返しており、一向に宿へ帰る様子がない。一体何をしているのかだが、単純な話で、上空に待機しているであろう伝達役になんとか伝言を伝えたいと考えているのだ。
 男が思っていた以上にとんとん拍子に話が運んだお陰で、今後のことについて、急ぎ本国と連絡を取る必要が出たのである。といっても、上空にいるのは例の火炎鳥ではない。二日前に本国へ送ったあの鳥の翼では、ここに戻って来るまでにはまだ時間を要するし、仮に火炎鳥が今手元にいたところで、今回の言伝は可能な限り速く届ける必要があるものであるため、使われることはなかっただろう。兎に角、風霊の言伝以上の速度が出せるものに伝達を任せなければならないのだ。それこそ、本国最速の獣を用意してでも。
 尤も、それに関しては既に算段を整えてある。そろそろこの国へ到着して、上空で待機している頃だろう。だからこそ、先程から男は上を気にしているのだ。ならばさっさと言伝を済ませてしまえば良い話ではあるが、今回とった手段はいつにも増して人目に触れてはならないものであるが故に、細心の注意を払わならけばならない。しかし、
(……ふむ。やはりつけられているな)
 感知能力の類はからっきしな男であったが、多くの戦場を駆け抜けてきた経験からか、自分を凝視する視線くらいは察知できる。確認のために風霊に視線を投げれば、風の衣を纏った人型は小さく頷いてみせた。大方デイガーの差し金だろう。だが、確かに向けられる視線があるというのに、まるで気配を感じない。
 このことから考えられる可能性は二つである。一つ目は、魔法か魔術か魔導による遠隔監視。二つ目が、姿を完全に隠した、ヒト以外の何かによる監視。
 男ではそのどちらなのかを判断することはできないが、恐らくはどちらかである。となると、視線から逃げようと走り回るだけの鬼ごっこが有効な手段とは思えなかった。だが、だからと言ってこのまま伝達役と接触する訳にもいかない。
(王宮庭園でのときも目くらましを剥ごうとしてきたようだったが、つくづく嫌がらせが得意なタイプだな。こんなことならば、薄紅まで出向いてランファ殿に幻惑魔法を掛けて貰うべきだったか)
 思ったところで今更だ。現状、己で対処する以外の方法はないのだから、細かい魔法は不得意だのなんだとの言っている訳にもいかない。そう判断した男は、歩みを止めぬまま口を開いた。
「砂の落ちるひと欠片 風の乙女の衣もて ありとあらゆる音を断ち 僅かな揺らぎも抑えたまえ ――“沈黙の風サイレント”」
 詠唱を終えた瞬間、砂時計の砂が欠片ほど落ちるくらいの間、瞬き三度あるかないかの時間。男の周囲の音が、止んだ。
 比喩ではない。男の周囲の空気が震動を止めたのだ。全くの無音の世界で、上空に向かい、男は大きく口を開けた。空気の振動を極限まで抑えた空間で内容を聴き取ることは不可能だったが、何ごとかを叫んだのだ。
 その音無き叫びが終わった直後、魔法の効力が切れる。同時に、無音だった男の周囲に衣擦れや吐息の音が蘇った。ふう、とひと息ついた彼は、目論見通りのことをやってのけた割には、浮いた表情ではなかった。
 つまり、男の考えはこうだ。元々伝達は、相手に会わず、風霊に声を運ばせてやるつもりだったため、別に見られていること自体は構わない。問題なのは、耳の方だ。風霊が運んだ声を監視役が聞けない保証がどこにもなかった。故に、いっそのこと今回の伝達役すら聴き取るのが難しいような状況に置いてしまえば安泰だろう、と。そういう発想に至った訳である。
 正直、上空に待機している伝達役がこの条件下で音を聴き取れるかどうか、不安が残るところだったのだが、どうやら作戦はうまくいったらしい。上空にあった気配が消えたということは、無事に伝言を受け取って本国へ向かったということだろう。だが、
(適応対象は自分のみのつもりだったんだがなぁ)
 自分が発する音だけを止めたつもりだったのに、勢い余って周囲の音を丸ごと止めてしまったのは、不器用さのなせる業だろう。そのせいで大分余計に魔力を消耗したというのに、その割に思っていた以上に効果時間は短かった。今回はきちんと正式な詠唱までしたというのに、これである。
 つまり、やはり男はこういった類の魔法はすこぶる苦手なのだ。詠唱した上でこの様では、とてもではないが使いものにならない。その事実を改めて実感し、彼はなんとも言えない気持ちで宿へと戻るのだった。勿論、未だ消えない視線を連れて。
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