婚約者が「君より素晴らしい女性に出会った」と言ったので、翌日その女性の命を救った。一度だけのつもりが

やんやんつけバー

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第1話 翌朝の路地

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婚約破棄を告げられたのは、夕食の後だった。

「君より素晴らしい女性に出会った」

 ヴィクターはそう言った。窓の外で鳥が鳴いていた。私は手の中のカップを置いて、一度だけ息を吐いた。

「分かりました」

 それだけ答えた。

 ヴィクターは何かを待っているようだった。泣くか、怒るか、縋るか。でも私にはどれもする気が起きなかった。婚約は家同士の取り決めで、感情はその後からついてきたものだった。ついてきたものは、剥がれていく。それだけだ。

「……怒らないのか」

「怒る理由がありますか」

「普通、怒るだろう」

「私には医療の仕事があります。明日も朝から患者が来ます。感情に時間を使う余裕がない」

 ヴィクターは何も言わなかった。私は立ち上がった。指輪を外してテーブルに置いた。

「お幸せに」

---

 翌朝、王都の路地で倒れている女性を見つけた。

 早朝の医療院への道。いつもの裏通り。倒れているのは若い女性で、白いドレスが地面に広がっていた。出血が多い。腹部を押さえている。

 私は立ち止まった。

 荷物を下ろして、女性の傍に跪いた。

「意識はありますか」

 女性が目を開けた。青い目だった。肌が白い。唇が震えている。

「い……ます」

「今から治療します。痛みがありますが、動かないでください」

 手を傷口に当てた。魔力を流す。傷の状態を確認する。刃物による切傷、深い、でも臓器には届いていない。出血量は多いが、間に合う。

 治療を始めた。

 手を動かしながら、私は女性の顔を見た。

 見覚えが、あった。

 昨夜ヴィクターが言った。「君より素晴らしい女性に出会った」と。社交界の夜会で、金髪で青い目の——

 私は手を止めなかった。

 止める理由を考えた。倫理的には、治癒師は誰でも治す。でも、そうでなければ。この女性はヴィクターの——つまり、私から婚約者を奪った——

 手が動き続けた。

 考えながら、手だけが仕事をしていた。

 魔力を傷口に流し込む。組織が修復される感覚が指先に伝わってくる。止血が完了する。内部の損傷を確認して、丁寧に塞いでいく。周囲の筋肉を固定する。

 十年、この感覚だけはぶれたことがない。

「……あ」

 女性が小さく声を上げた。

「痛みが引きましたか」

「……はい」

「もう少し、動かないでください。内部の修復が終わっていません」

 さらに五分ほど続けた。治療を終えて、私は立ち上がった。額に汗が出ていた。出血量が多かったぶん、魔力を使った。

「終わりました。今日は安静にしてください。三日間は走らないように」

 荷物を取り上げた。医療院には少し遅刻する。午前の患者に謝らなければ。

「待って」

 女性が手を伸ばしてきた。

 振り返ると、女性が上体を起こそうとしていた。私は軽く手を出して制止した。

「まだ動かないでください」

「あなたは……どなたですか」

「医療院の治癒師です」

「名前は」

「必要ですか」

 女性は私を見た。青い目が、私の顔を探っていた。

「……アイリス、様、ではありませんか」

 私は少し間を置いた。

「そうです」

「やはり。昨日、ヴィクターから……話を聞きました。婚約を解消したと。その……申し訳なかった、と、彼は言っていました。私のせいだと」

「彼が謝ることではありません。私は納得して別れました」

「でも——なぜ助けたのですか。私が、その……相手だと分かっていたはずでしょう」

 私は少し考えた。

「手が動いたので」

 女性が目を瞬いた。

「……それだけですか」

「それだけです。倒れている人を見たら、手が動く。十年、そうやってきました。条件反射です」

 荷物を持ち直した。

「安静にしてください。三日間は無理をしないよう」

「待ってください」

「なんですか」

「もう一度だけ、お会いできますか」

 私は振り返った。

 女性は地面に座ったまま、私をまっすぐ見ていた。青い目が、揺れていた。手が膝の上で握られていた。

「何の用ですか」

「ヴィクターのことではありません。……あなた自身に、話したいことがあります」

「私に」

「はい」

 私はその目を、少し見た。

 治癒師として十年生きてきた。感情より手を動かすことを選んできた。婚約者を失っても、それより患者のことを考えた。そういう人間だと自分で思っていた。

 なのに今、足が止まっている。

「……医療院は、王都の南通りにあります」

 それだけ言って、歩き出した。

 後ろで女性が何かを言った。聞こえなかったことにした。

 でも足は、いつもより少しゆっくり動いていた。

 一度だけのつもりだった。

 翌日の朝、医療院の扉が開く音がした。
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