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第一章
1話 水緒
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冬である。
凛と空気の澄みきった一月も半ばの冬、である。
身も凍えんばかりの寒空のなか、岩肌に沿って流れ下った大水が、轟々と音を立てて滝壺にふり落ちる。
はじける水けむり。泡立つ水面。
あまりの激しさに、じゅうぶんな距離をとっても水の振動が胸にひびいてくる。あんな水に人間が打たれたなら、たちまち身体の骨を折ってしまいかねない──。
おまけにいまは冬なのだ、けれど。
その流身のなかにぽつんとひとつ影がある。
平坦な岩の上に立って、降りしきる水をものともせずに全身で受け止めるは今日から齢十五のおんなのこ。
名を、天沢水緒という。
これはここだけの話だが、じつは彼女──龍神さまの娘なのである。
「水緒さまァ、水緒さまァ」
滝場にくるまでの杉木立の道中から声がする。
まもなくガサガサと草々をかき分けて現れたのは、一匹の白ウサギだった。ぴょこぴょこと足を運んで一歩、また一歩と滝壺に近づいてゆく。水しぶきがぎりぎりかからぬ場所で足を止め、ウサギはまたいった。
「水緒さまァ」
滝のなかで瞑想にふける少女、水緒がぱちっと目をあける。
アッ、と口をあけてなにかを言っているようだが、その声は滝の水音にかき消されてウサギにはとどかない。おまけにウサギは耳が良いので、このけたたましい音から逃れるべく耳を前足で抑え込んでいる。
「ふわァ」
と。
水緒は、あの水圧をものともせずに岩を伝って戻ってきた。身体を唯一覆う白襦袢は濡れに濡れて、もはやその役目を果たしてはいない。
戻ってくるなり、
「さ、さむぅい」
と身をふるわせて己が身を抱く。
「当然じゃ」ウサギは迷惑そうに、大きなタオルをズリズリと引きずって持ってきた。「冬ですからの」
「ありがと──」
「それより水緒さま、主役がおらんでどうすんですか。はよせんと銀月丸のヤツが怒髪天ですぞ」
「はーっそうかそうか。そうだった」
誕生日だったね、と手のひらにバチンと拳を打つ。
「たった十五回の誕生日も忘れとるんか、まったくこの龍女さまは。そんなことでこんどの高校受験とやらは大丈夫ですかな」
「朝は覚えてたもん! この滝行だって、そのために精神統一を」
「はいはい。はよ行かんと」
「もーっ」
岩場にはタオルのほかに着替えも置いてある。
それをすっぽりとかぶって、水緒はあわただしく杉木立のなかを駆け戻った。
────。
「遅い」
杉木立のなか、石灯籠の並ぶ道。
二本の杉を柱としてしめられた太い注連縄の前に、銀色のオオカミが座っている。
縄のこちら側は俗世──いわゆる人間の住む世界。対して、縄の先は聖域──神さまの世界。ゆえにここから先の立ち入りは神社の宮司といえど禁止されている。
この先に立ち入ることができるのは、この動物たち眷属、そして聖域の主『大龍さま』と契りを交わした者と血縁者のみ、らしい。
「銀月丸ーッ、お待たせ」
「水緒さまやっぱりあの豪瀑に打たれとったわ」
息を切らして駆けてくる水緒の前を、悠々と跳ねるウサギが、呆れたようにいった。
オオカミは、キリリとした瞳をしぼる。
「自覚が足りませぬぞ、水緒さま」
「ごめんって」
「すでに大龍さまと御前さまの第二ラウンドがはじまるころですゆえ、お早く仲裁を」
「エッ。なんでお母さんとお父さん喧嘩してるの」
「行けば分かります」
というや、オオカミはするりと注連縄の先にゆく。
水緒とウサギもそれにつづく。
──彼らの姿は、もはや俗世の目には映らない。
※
「わからず屋ッ」
座敷の上に漆器が飛んだ。
それは目前にならべられた膳の器だった。あわててそれを拾い上げるは、サルである。
「あわわわわ」
「御前さまぁ」
と、漆器を投げた壮齢の女のもとへ、タヌキが駆け寄った。
しかし彼女はツンと横を向いたまま動かない。
対して漆器を投げつけられた相手は、御簾の奥で微動だにうごかない。
「御前さま」タヌキはなだめるようにすり寄った。「大龍さまに物を投げつけるのはあんまり良くないですよ」
「だって、ふざけたことぬかすんだもの。あの子は私の娘でもあるんですから! これ以上好き勝手なこと言われてたまるもんですか」
「しかし、十五年前に御前さまと大龍さまでお約束を──」
「なあに、それならアナタたちは私がひとりぼっちになってもいいと言うのね。あの子が住み慣れたここを離れて、龍なんかになっちゃって孤独にむせび泣いても構わないと言うのねッ」
「…………」
御簾のなかの影が心なしか小さくしぼんでいく。
これが各地の龍神を統べる龍王『大龍』なのだから困ってしまう。
サルは漆器を胸に抱いてタヌキにささやいた。
「朱月丸……水緒さまはまだかのう」
「白月丸が呼びに行った。もうまもなくの辛抱じゃ」
「こんな犬も食わん喧嘩、わしらじゃもう無理じゃけん……」
といってサルは頭を抱えた。
御簾のなかの影──大龍はすっかり閉口している。第二ラウンドの勝敗は決まったも同然だ。
もっとも、龍神である彼が人間の妻である彼女に勝ったことは一度もないのだけれど。
「主役のご到着ゥ~」
それからまもなくのこと。
ウサギがぴょんこと跳ねて座敷に入ってきた。そのうしろからオオカミと水緒ものっそりとあらわれる。
「水緒さまァ」
「水緒さまじゃァ」
タヌキとサルはわっとよろこんだ。
そう、きょうは彼女の齢十五の誕生日。
が、娘のすがたを見た瞬間に母──天沢美波は、キッと御簾の奥を睨みつけて「だったら」と声をはりあげる。
「水緒に聞いてごらんなさいよ。さっきアナタが言ったことこの子が聞いたら、まちがいなくアナタのこと嫌いになりますからね!」
「…………」
「え。なに」水緒は動物たちを見下ろした。「なんの話?」
「それがね水緒。この人ったらこんどの高校受験、受けさせないって言うのよ!」
「えっ。……」
座敷に膝をついた水緒の視線がゆっくりと御簾の奥に注がれた。
じっとりとした空気が、座を囲む。
御簾の奥に坐する水緒の父──大龍が、ちいさな声で反抗した。
「水緒、おまえには龍の血が混じっておる。十五となったいまより、いつおまえの龍化がはじまるともかぎらん」
龍化?
と、水緒がオオカミに目を向けた。
「その御身が龍になる、ということです」
「龍になる、あたしが?」
「そうですよ」ウサギが割り込む。
「それだけの力を、水緒さまは本来お持ちだということなのです」
「…………」
座敷の者たちを一瞥し、水緒はふたたび「あたしが?」といった。
一同はこっくりとうなずく。
水緒は、絶句した。
凛と空気の澄みきった一月も半ばの冬、である。
身も凍えんばかりの寒空のなか、岩肌に沿って流れ下った大水が、轟々と音を立てて滝壺にふり落ちる。
はじける水けむり。泡立つ水面。
あまりの激しさに、じゅうぶんな距離をとっても水の振動が胸にひびいてくる。あんな水に人間が打たれたなら、たちまち身体の骨を折ってしまいかねない──。
おまけにいまは冬なのだ、けれど。
その流身のなかにぽつんとひとつ影がある。
平坦な岩の上に立って、降りしきる水をものともせずに全身で受け止めるは今日から齢十五のおんなのこ。
名を、天沢水緒という。
これはここだけの話だが、じつは彼女──龍神さまの娘なのである。
「水緒さまァ、水緒さまァ」
滝場にくるまでの杉木立の道中から声がする。
まもなくガサガサと草々をかき分けて現れたのは、一匹の白ウサギだった。ぴょこぴょこと足を運んで一歩、また一歩と滝壺に近づいてゆく。水しぶきがぎりぎりかからぬ場所で足を止め、ウサギはまたいった。
「水緒さまァ」
滝のなかで瞑想にふける少女、水緒がぱちっと目をあける。
アッ、と口をあけてなにかを言っているようだが、その声は滝の水音にかき消されてウサギにはとどかない。おまけにウサギは耳が良いので、このけたたましい音から逃れるべく耳を前足で抑え込んでいる。
「ふわァ」
と。
水緒は、あの水圧をものともせずに岩を伝って戻ってきた。身体を唯一覆う白襦袢は濡れに濡れて、もはやその役目を果たしてはいない。
戻ってくるなり、
「さ、さむぅい」
と身をふるわせて己が身を抱く。
「当然じゃ」ウサギは迷惑そうに、大きなタオルをズリズリと引きずって持ってきた。「冬ですからの」
「ありがと──」
「それより水緒さま、主役がおらんでどうすんですか。はよせんと銀月丸のヤツが怒髪天ですぞ」
「はーっそうかそうか。そうだった」
誕生日だったね、と手のひらにバチンと拳を打つ。
「たった十五回の誕生日も忘れとるんか、まったくこの龍女さまは。そんなことでこんどの高校受験とやらは大丈夫ですかな」
「朝は覚えてたもん! この滝行だって、そのために精神統一を」
「はいはい。はよ行かんと」
「もーっ」
岩場にはタオルのほかに着替えも置いてある。
それをすっぽりとかぶって、水緒はあわただしく杉木立のなかを駆け戻った。
────。
「遅い」
杉木立のなか、石灯籠の並ぶ道。
二本の杉を柱としてしめられた太い注連縄の前に、銀色のオオカミが座っている。
縄のこちら側は俗世──いわゆる人間の住む世界。対して、縄の先は聖域──神さまの世界。ゆえにここから先の立ち入りは神社の宮司といえど禁止されている。
この先に立ち入ることができるのは、この動物たち眷属、そして聖域の主『大龍さま』と契りを交わした者と血縁者のみ、らしい。
「銀月丸ーッ、お待たせ」
「水緒さまやっぱりあの豪瀑に打たれとったわ」
息を切らして駆けてくる水緒の前を、悠々と跳ねるウサギが、呆れたようにいった。
オオカミは、キリリとした瞳をしぼる。
「自覚が足りませぬぞ、水緒さま」
「ごめんって」
「すでに大龍さまと御前さまの第二ラウンドがはじまるころですゆえ、お早く仲裁を」
「エッ。なんでお母さんとお父さん喧嘩してるの」
「行けば分かります」
というや、オオカミはするりと注連縄の先にゆく。
水緒とウサギもそれにつづく。
──彼らの姿は、もはや俗世の目には映らない。
※
「わからず屋ッ」
座敷の上に漆器が飛んだ。
それは目前にならべられた膳の器だった。あわててそれを拾い上げるは、サルである。
「あわわわわ」
「御前さまぁ」
と、漆器を投げた壮齢の女のもとへ、タヌキが駆け寄った。
しかし彼女はツンと横を向いたまま動かない。
対して漆器を投げつけられた相手は、御簾の奥で微動だにうごかない。
「御前さま」タヌキはなだめるようにすり寄った。「大龍さまに物を投げつけるのはあんまり良くないですよ」
「だって、ふざけたことぬかすんだもの。あの子は私の娘でもあるんですから! これ以上好き勝手なこと言われてたまるもんですか」
「しかし、十五年前に御前さまと大龍さまでお約束を──」
「なあに、それならアナタたちは私がひとりぼっちになってもいいと言うのね。あの子が住み慣れたここを離れて、龍なんかになっちゃって孤独にむせび泣いても構わないと言うのねッ」
「…………」
御簾のなかの影が心なしか小さくしぼんでいく。
これが各地の龍神を統べる龍王『大龍』なのだから困ってしまう。
サルは漆器を胸に抱いてタヌキにささやいた。
「朱月丸……水緒さまはまだかのう」
「白月丸が呼びに行った。もうまもなくの辛抱じゃ」
「こんな犬も食わん喧嘩、わしらじゃもう無理じゃけん……」
といってサルは頭を抱えた。
御簾のなかの影──大龍はすっかり閉口している。第二ラウンドの勝敗は決まったも同然だ。
もっとも、龍神である彼が人間の妻である彼女に勝ったことは一度もないのだけれど。
「主役のご到着ゥ~」
それからまもなくのこと。
ウサギがぴょんこと跳ねて座敷に入ってきた。そのうしろからオオカミと水緒ものっそりとあらわれる。
「水緒さまァ」
「水緒さまじゃァ」
タヌキとサルはわっとよろこんだ。
そう、きょうは彼女の齢十五の誕生日。
が、娘のすがたを見た瞬間に母──天沢美波は、キッと御簾の奥を睨みつけて「だったら」と声をはりあげる。
「水緒に聞いてごらんなさいよ。さっきアナタが言ったことこの子が聞いたら、まちがいなくアナタのこと嫌いになりますからね!」
「…………」
「え。なに」水緒は動物たちを見下ろした。「なんの話?」
「それがね水緒。この人ったらこんどの高校受験、受けさせないって言うのよ!」
「えっ。……」
座敷に膝をついた水緒の視線がゆっくりと御簾の奥に注がれた。
じっとりとした空気が、座を囲む。
御簾の奥に坐する水緒の父──大龍が、ちいさな声で反抗した。
「水緒、おまえには龍の血が混じっておる。十五となったいまより、いつおまえの龍化がはじまるともかぎらん」
龍化?
と、水緒がオオカミに目を向けた。
「その御身が龍になる、ということです」
「龍になる、あたしが?」
「そうですよ」ウサギが割り込む。
「それだけの力を、水緒さまは本来お持ちだということなのです」
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