落ちこぼれの半龍娘

乃南羽緒

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終章

130話 朱月丸の話

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 朱月丸から聞いた話である。
 ターシャと庚月丸を見送ったのちのこと。先に戻っていた奇蹄族や鎌鼬とも再会し、瀕死であった二眷属もなんとか一命をとりとめたと知らされた朱月丸。すべてが終わった安心感に脱力し、おもわずタヌキに戻る。そうしてようやく周囲が見えるようになったころ、ふと気がついた。
「あれ──」
 水守のすがたがない。
 先ほどまで、ターシャが支えていたはずだが、当のターシャは水緒を抱えて庚月丸とともに下へと行ってしまった。
 麒麟さまァ、といまだ獣姿の彼の背に、タヌキがぴょこんと飛び乗った。
「水守さまどこに行ったん?」
「ああ。……滝へゆくと行って、ついいましがたそっちの道へ行ったよ」
「ひどい怪我じゃと聞いたからのう。翠玉どのに治してもらわんと」
 麒麟の背から、翠玉の足もとへ飛び降りる。
 彼はいつもの飄々とした顔ではなく、すこし寂しそうな表情をしている。朱月丸はタヌキのすがたのまま翠玉の足にしがみついた。
「翠玉どの、翠玉どのォ」
「あ、朱月丸どの。どうしやした」
「どうしたもこうしたも、水守さまのお怪我がひどいというではござらんか。はよう薬塗っておくれよ」
「…………」
 しかし翠玉は動かない。
 いつもならば、言われる前におのずから塗りに行くものを──水守だからと遠慮しているのか。朱月丸はケタケタわらって翠玉の足をたたく。
「なにを遠慮しとる。水守さまの一大事ぞ、豪瀑におるんじゃて。いっしょに行ったるから」
「……朱月丸どの」翠玉がつぶやいた。「聞いてねえんですかィ」
「ん?」
「若さまの怪我──紫焔の逆鉾でつらぬかれたって」
「わあかっとるわい。じゃからはよ行かんとって」
「だからッ」声が荒ぶる。
「紫焔の逆鉾でその身を貫かれちまったら、待ち受けるは取りひしがれるのみ。決して治ることはねェんです。……僕の薬なんざ、あっても意味がねえって言ってんでさァ!」
「…………」
 拳を握りしめてうつむく翠玉。薬があっても意味がない、というその意味を、朱月丸はいまいちわかりかねていた。いや、当然頭ではわかっていたのだけれど、心が認めようとしていない。
 そこもと、とすこし声を荒げる。
「水守さまをなめるでないぞ。ふつうの妖怪風情ならばともかく、水守さまなんじゃ。龍のお力とてほかとはけた違いじゃし、そもそも四百年前とて胸に大穴をあけても生きつづけたではないかッ」
「穴をあけたのが大龍さまだったからでしょ。大龍さまは子息を生かすために、穴をあけたんでさァ。でも此度穴をあけたのは紫焔の逆鉾なんです。それが問題だって言ってるんでェ!」
「な、なんじゃとォ」
「朱月丸」
 と。
 さえぎったのは大龍だった。彼は翠玉の手から薬壺をもらい、朱月丸に差し出した。翠玉の足もとで固まっていたタヌキはすぐに人型へ変化し、それを受け取る。
「翠玉は、わが倅のため力を尽くしてくれた。されどもおのれの目でたしかめたがよかろう。朱月丸」
「……だ、大龍さままで。なんじゃなんじゃみんなして、ええわい。それがしが水守さまにありったけの愛情をこめて、この薬を使いきっちゃるからのう!」
 地団太を踏み、朱月丸は薬壺を小脇に抱えて豪瀑へと駆け出した。
 うしろでだれかが止める声が聞こえた気がしたけれど、そんなことは関係ない。はやく水守さまの腹にあいた穴をふさいで祝宴じゃ。たらふく御前さまのご飯を食べるんじゃ、と。朱月丸の顔は笑みすら浮かんだ。

 ────。
 豪瀑前にたどりついた。
 この草むらを越えれば、きっと水守が滝を浴びているはずだ──と草むらから顔を覗かせた朱月丸の足が止まった。
 滝壺の前に、上半身を起こして深く座った水守。
 それを囲むようにして天羽と杠葉が主の手を握っている。周囲の木々や草花、森の動物たちまでもが集まって、水守を囲んでいた。
「水守さま──」杠葉の声がふるえている。
「水守さま」天羽の声はすこし怒りをはらんだ。
 『龍は涙を流さない』。そのとおり、彼らは涙をこぼさなかった。けれどその表情は泣くよりもひどい。
 水守はゆっくりと息を吸い、吐く。それだけの動作に集中する。いや、むしろそれだけしかできないほどに消耗していた。が、彼らのなさけない声色を聞くや唐突にふっとわらった。
しるしがあらわれた」息が荒い。「時間だ」
(しるし──?)
 草陰で立ちすくむ朱月丸が気がついた。水守の手中にある宝珠が淡く光っている。よく見れば、天羽と杠葉のからだも光っているではないか。いったい、いま彼らになにが起こっているのだ。
 と、とまどう間にも、水守は荒い息の下でことばをつむぐ。
「とうとう、解放されるというに、ずいぶん浮かない顔だな──」
「いいえ。おめでたいことです、これこそわれら使役龍の使命ですもの。……けれど、本音をいえば、もっと、もっとおそばにいたかった」と、杠葉。
「こんなに早く孵化が来るなら、遠慮しねえでもっと甘えときゃよかったな、って思ってたんですよ」とは、天羽。
 涙をこらえて笑むふたりを、水守はまぶしそうに見つめて、ゆっくりと彼らの肩を抱き寄せた。息苦しいのだろう、胸が大きく上下する。
「み、」
「水守さま」
 杠葉と天羽の顔が歪む。
 朱月丸の足はすくんだ。動きたいのに動けなかった。ふるえるあまりタヌキに戻った拍子に、手の薬壺を取り落とす。しかしそれを地面手前で受け止めた手があった。背後を見る。大龍。
「だ、大龍さま」朱月丸の声もふるえた。
 水守が死んでしまう。どうしよう。どうしたらいい。助けて。大龍さま、たすけて。
 ふるえるタヌキを胸に抱き、大龍はちいさくささやいた。
「朱月丸。ようく見ていてやっておくれ」
「……いやじゃ。イヤ──見とうない」
「わが息子の晴れ姿なのだ」
 といって、大龍がさみしそうに微笑む。
 晴れ姿。死ぬことが? と朱月丸がおもわず大龍を見る。しかし彼は首を横に振って、ふたたび視線を水守にもどした。

「龍となるにふさわしいこころを持ち得たいま、躯を脱ぎ捨て、半龍から純龍へ。ホンモノの龍になる」

「…………」
 朱月丸がゆっくりと水守に目を向ける。
 ふたりの使役龍を胸に抱き、しばらく苦しそうに呼吸をしていた彼が言う。
「苦労をかけた」
 と。
 遠い何時いつかを眺めるように瞳を細めて。彼はつむぐ。
「かつて、あの紅来門の下──おろかな主がいたことを、その胸に刻め」

 朱月丸はもう目を離さない。
 大龍の胸のあたたかさが、目に沁みて、視界が歪んでしまっても。

 水守が瞳を閉じる。宝珠が光を増す。
 彼は声をしぼりだして、言った。

「次世では、りっぱな龍となれ。天羽、杠葉。────」

 主の最期のことば。
 ふたりは深く、深くうなずいた。

 あたりは一面、光に包まれる。
 まぶしくておもわず顔をそむけた朱月丸だが、すぐに視線を戻した。光のなか、かすかに見える。人形のごとく動かない水守の胸元に、光る天羽、杠葉のすがた。
 二匹はやがてひとつの光となり、空へ高く昇ってゆく。
 と、同時に水守のからだから立ち昇る巨大な気。風が吹く。周囲の動物が一斉に鳴きだす。草花は揺れ、木々がさざめく。
 目に見えない気のかたまりが、雄大に空へと飛び立った。
「あっ。……」
 おもわず朱月丸は手を伸ばす。
 とどかない。届くはずもない。
 
 滝壺の前にころがるうつくしい人形は、もう二度と動くことはない。

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