片翼のエール

乃南羽緒

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第二章

30話 才徳の坊や

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 熊澤と鯉淵が互いの背を叩いてよろこぶすがたがあった。対する姫川の足もとには、ネットにかかったボールが転がっている。
 膝があがってんねんもん、と。
 伊織がBコートを睨み付けてつぶやいた。息を乱した姫川がラケットと足を使ってボールを拾い上げる。
 才徳リードのゲームカウント5-4、ポイントは青峰リードの15-30。
 星丸と姫川のあいだにわずかな焦燥が見てとれる。先ほどまで一球決まるごとによろこんでいたふたりも、いまではポイント間でハイタッチをする程度におさまった。テクニックもメンタルもパワーすら負けてはいない。なんならフットワークは才徳の方が上である。が──。
 ちくしょう、と倉持が眉をしかめる。
「スタミナの差がでたか」
「あの筋肉ダルマのストロークが重いんや。いくら姫ちゃんがパワープレイヤーといっても、あんだけ身体の大きさが違うたらそら不利やで」
「一見すると、子どもとゴリラの試合ッスからね」明前がうなだれた。
「んはっ」杉山は吹き出す。
「アホ」伊織が声を尖らせた。
「ゴリラはめっちゃ優しい動物やねんで。握力強うて小動物握りつぶしたあかつきには、メシも喉を通らんほど落ち込むねん。あれはもうゴリラというよりキングコングや」
「どっちにしろゴリラじゃねースか!」
「んははっ」
 と、杉山が笑い転げたところで星丸のショットがアウトとなり、ポイントは15-40。ゲームカウントはいまだ才徳優勢だが、つぎのポイントでブレイクされた場合、スタミナが残り少ない才徳陣が一気に不利である。
 メンタルは強いふたりだが、さすがにスタミナも削られて元気がない。一方の青峰は、いまだスタミナに余裕があるのか、顔を寄せあって冷静に次ポイントの攻め方を話し合っている。
 倉持が伊織の手元にあるノートを覗いた。
「青峰D2、熊澤剛と鯉淵寛太──あのパワーがすげえのは熊澤の方か」
「やははっ。ゴリラやのうて熊やったな」
「わろとる場合ちゃうで。ここで踏んばってくれんと、5-5に追いつかれたらあと2ゲーム戦うスタミナないかもわからん!」
「廉也のテンションがもどったら、ワンチャン踏ん張れそうなんスけどね──」
 明前がつぶやく。
 一同の視線は自然と大神に注がれた。が、コート外にいる以上彼らにアドバイスを授けることはルール違反となる。大神はフェンスに顔を近づけてBコートをぎろりとにらみつけた。いや、その視線に捉えられているのは星丸である。
 視線を感じたか、星丸がびくりと肩を揺らしてこちらを見た。
「…………」 
 目があうふたり。
 大神は、なにも言わぬままフェンス越しに拳を突き出した。
「!」
 ふたたび星丸の肩が揺れる。
 まもなく彼は、二度ほどおのれの太ももを叩いた。ぐるんと肩をひと回し。ラケットもくるりと回してグリップを持ち直すと、彼は唐突に人差し指を空に突き上げた。
 なんだよ、と姫川がおどろいて目を見ひらく。
「姫ちゃんセンパイッ」
「だっ、だれが姫ちゃんだ」
「つぎ一本オレぜったいとるんで、とったら帰りにご褒美の肉まんねだっていいすか?」
「あァ?」
「ネッ、おねがい。肉まん一個!」
「しょーがねえな分かったよ。その代わり、おれが決めたらチャラだからな」
「よっしゃッ」
 星丸はピョンと跳びはねて、ボールを熊澤のほうへ投げ渡す。
 とたん空気が変わった。星丸の顔に翳りはなく、姫川とタッチを交わしてベースラインへ下がる。星丸のリターンである。
 サービスは熊澤。
 ぐっと膝を落とした星丸は手元でグリップを遊ばせる。相手の巨体から繰り出される力強いサーブを返す際、その握りはウェスタンではなくコンチネンタル──包丁握りでスライスをかける。ボールは低い弾道を描きクロスのサービスラインへ。むこうの前衛、鯉淵はそれほどポーチが得意でないのか球を見送る。瞬間、星丸は前に出た。
 姫川との並行陣である。
 熊澤はかまわず強烈なストロークをかましてきた。が、星丸はひるまずにボールへ飛びつき、ショートクロスへ決めた。
「30-40」
 いっしゃァ、と星丸が姫川に駆け寄る。
 肉まんっすよ肉まん、と繰り返す星丸をなだめる姫川は苦笑して「わかったよ」とうなずく。が、その顔はすぐにいたずらっ子のような表情に変わった。
「じゃあつぎ、おれが決めたらハーゲンダッツな」
「えっ。肉まんの倍以上じゃないスかァ! 勘弁してくださいよ──」
 才徳の坊や、星丸廉也。
 彼の持ち味である底抜けの明るさは、逆境のときにこそ役に立つ。つづく姫川のリターンも外に跳ねた球を見事にストレート抜き。試合はデュースへもつれこんだ。
 ホッと明前が肩の力を抜く。
「あのダブルスは、やっぱなんだかんだ廉也の機嫌で左右されるッスね」
「ああ。最高潮を維持してたらだいたいいけるからな……ほらいくぞ」
 倉持は腰をあげて明前の背中を叩いた。
「あ、ウォーミングアップですか」
「ああ。次の試合俺たちも、負けるわけにはいかねーからな」
「うぃッス」
 ふたりは靴紐をしめなおし、ゆっくりと走り出す。
 その背を見送ってから大神が「よお」とつぶやく。
「テメーもそろそろだぜ。杉山」
 Aコートでおこなわれる蜂谷の試合が、5-5と拮抗する。そのようすを一瞥した杉山は「よっこいせ」と大儀そうに立ち上がった。
「オレも、とくにつぎのゲームは負けられへんなぁ──」
「しっかりエンジンかけてこい」
「おう」
 杉山は駆けだした。
 内角へ入ったサーブを星丸がクロスへリターン。瞬間、前衛にて姿勢を低く構えていた姫川がぐっと一歩前にでた。ふたたび熊澤のストロークは極端にクロスへ。しかしボールが浅かった。星丸はぐっと肩を入れてテイクバックをし、強烈なトップスピンをかけた球を相手前衛へとぶつける。
 球は相手のラケットフレームに当たり、ラケットは弾かれた。
 幸か不幸かボールは姫川の眼前へ返る。彼の前にロブをあげてはならない。なぜならそれは、百発百中、ベースライン際まで伸びるスマッシュとなって返ってくるのだから。
「ゲームセット ウォンバイ才徳 6-4」
 星丸が雄叫びをあげる。
 それと時を同じくして、S3試合も才徳マッチポイントをむかえていた。蜂谷のサーブ。力強いサーブを外角へ叩き込む。和泉はわずかに体勢を崩したがラケットの面に当ててリターンする。返球は高い。めずらしく前に詰めた蜂谷が、スマッシュを叩き込んだ。しかしそれはふたたび返される。蜂谷はからだをわずかにずらし、バックハンドでショートクロスへ。
 スマッシュを警戒してベースラインに下がっていた和泉は、予測して駆けあがるも一歩及ばず。
「ゲームセット ウォンバイ才徳 7-5」
 審判コールによって、蜂谷司郎と和泉小太郎のS3試合は終了した。

「やったーッ!」

 伊織が飛び跳ねた。
 コートから出てきた才徳選手たちに、出入口を陣取っていた彼女が一番に声をかける。蜂谷の両肩に手を置いてぴょんぴょん跳ねたあと、後続の姫川を力いっぱいに抱きしめて、星丸の頭に飛びつく。
 勝利の余韻に浸る一方、ウォーミングアップからもどった杉山が「大神」と手を振った。
 これからS2として試合に入るためのアドバイスはあるかと聞くためだ。
 しかし大神は、
「楽しめ」
 とだけ言った。
 杉山はニッコリとわらってサムズアップ。まもなく蜂谷が試合していたコートへと足を踏み入れた。
 そのうしろから大神を見つめるふたりがいる。D1として出場する倉持と明前である。こちらも大神からのアドバイスを期待しているらしい。が、大神は早く入れ、と言いたげに手をヒラヒラと振った。曰く、アドバイスはないということである。
 倉持はまたかよ、と地団駄を踏んだが、大神はクックッと肩を揺らすばかりでなにを言うこともなかった。
 ええの、と伊織が眉を下げる。
「なんもアドバイスせんと」
「いらねえ。戦術的なことは今日までにさんざ蜂谷に聞いただろうし、いまのアイツらは青峰ごときに負ける実力じゃねえ。俺から言うことはなにもねーよ」
 ふーん、と伊織はわらった。
「信じとんねや」
「さむい言い方すんな。バカ」
「関西人に馬鹿いうなアホ」
 ムッと口をとがらせる伊織に、どうだった、と蜂谷がその肩を叩く。
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