片翼のエール

乃南羽緒

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第二章

35話 これ、やばない?

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「間に合った?」
 気の抜けた声とともに、愛織の肩越しからニュッと顔を覗かせた男がいる。──如月千秋。来るとおもわなかった桜爛大附レギュラー陣はたいそうおどろいたが、愛織はからかうようにわらった。
「やっぱり来た」
「おまえが来いってうるさいから」
 と椅子に座り、腕を愛織がすわる椅子の背もたれにまわして気だるそうに試合コートへ目を向ける。S1試合はちょうどサービス練習がはじまったところである。
 如月先輩、と本間がうれしそうに頭を下げた。
「まさか先輩がいらっしゃるとは思わなかったです。大神の試合を見に来たんですか」
「うん」
「ウソ、ほんまの目的は伊織やろ」
「だってさアイツこのおれがライン送っても、返事どころか読みもしないんだよ。携帯壊れてんのかな──おまえなんか聞いてる?」
「…………」
 ちなみに愛織はきのうも伊織と電話した。
 義兄の問いかけには答えずに、愛織はゆっくりと立ちあがって観客席最前列へと歩みをすすめる。桜爛大附のレギュラー陣もつられて前面にずらりと並び、大神の試合に集中した。
 仲わるいの、と忽那がささやく。
「うん?」
「如月さんと妹さん」
「千秋は仲良しや思てるみたいよ。たぶん、ブロックシステムも知らへんのやろね。しあわせな人」
「そ、そうなんだ」
「伊織はテニスが強いから。千秋のお気に入りやねん」
「────」
 忽那はちらりと如月を見る。
 彼は尊大な態度で椅子に腰かけたまま視線は試合に向けられている。いや、正しくはフェンス内のベンチに座る伊織に──である。そのまなざしはどこか執着ともとれるほどに熱い。
 桜爛大附のレギュラー陣たちも、七浦姉妹が如月千秋と腹違いの兄妹であることは知っている。愛織がマネージャーとして入部したときに如月からそう紹介をうけたからである。腹違いとはいえさすがは兄妹、テニスの腕もたしかだということで、一度準レギュラーのひとりとシングルスの試合をさせたことがある。
 七浦愛織は強かった。
 しかし彼女は女子テニス部に入る気はないようだった。ワケを聞くと、長時間の運動をすると咳が出るからという胡散臭いものだったが、義兄である如月もとくになにを言うこともなかったので、現在ではマネージャーとしてたまに男子テニス部の練習に参加している。
 はじまるぞ、という播磨のひと声で、忽那の意識は試合にもどる。
「大神謙吾──如月さんを追い詰めた才徳エース、……」
 となりに立つ咲間がつぶやいた。

 ────。
 青峰学院高校エース、水沢修一。
 視野の広さと精度の高いコントロールによって、相手の死角を的確に突く攻撃を得意とするオールラウンダー。彼のシングルスは全国区レベルと評価され、青峰学院高校のなかでもその実力は突出している。
 大神とはこれが初対戦だが、水沢に緊張したようすはない。試合前の準備をしながら、嬉しそうに伊織へ顔を向ける。
「ベンチコーチ、七浦さんか」
「うん。水沢サン手強そうやから、近くで大神のこと応援したらんと」
 それは逆効果だなぁ、と水沢が苦笑する。どういうことかと首をかしげると、彼はすこし照れたようにわらって、
「だって俺がはりきっちゃうから」
 とつぶやいた。
 大神と伊織の動きが止まった。一瞬の沈黙ののち、意味を理解した伊織の頬がポッと紅く染まる。
「…………、へぁ?」
「おい、腑抜けたツラしてんじゃねーよ。恋愛ごっこなら外でやれ」
「そ、そんなんちゃうわ。くそう──うちの心を乱して応援でけへんようにするつもりやな。負けへんで……!」
「ちょっといい顔されたくらいで心乱すな、バカ」
 大神は冷たく言い放ち、ボールを手にコートのなかへと入っていく。馬鹿言うなと小声で反論してちらと水沢を見る。
 彼は熱のこもる視線を伊織に向けて、ゆっくりとコートに入った。その一挙手一投足をにらみつけ、大神はガットの目をパキパキと調整する。
(大神が負けるわけない。負けるわけ──ないとおもうけど)
 伊織の胸に言い知れぬ不安がよぎる。ぎゅっと胸の前で祈るように指を組んだ。

『ワンセットマッチ 才徳トゥサーブプレイ!』

 地面にボールを二度ついて大神はゆっくりとトスをあげる。わずかに膝を曲げ、からだが前のめる。やわらかい肩から振り下ろされたラケットは、重厚な音を立ててボールを飛ばした。
 コースは内角。トップスピンによって球は大きく跳ねる。水沢はそれを見越した打点でしっかりと捉えた。リターンは深い。よく伸びる打球である。ここからラリーがはじまった。
 伊織の脳裏に、コートへ立ち入る前に聞いた蜂谷の話がよぎる。
「たしかに大神はラリーに強いけど、水沢も相当うまいよ。彼、メンタルもスタミナも、とくにコントロールの良さは中学のときからけっこう有名だったから」
 と。
 アホ、と伊織は内心で毒づいた。
 大神の勝利をわけもなく信じていただけに、蜂谷にそう言われると気持ちが揺らぐではないか──という思いである。
「アウト!」
 審判の声で、伊織は我に返る。
 アウトしたのは大神のボールだった。水沢からボールを受け取り、息を整える大神の表情は見えない。ポイント先制された程度でどうというわけでもない、が──。
(水沢サンの視野、広い)
 ボールを打つ瞬間、大神の位置やからだの向きを見て即座に打つコースを変えている。
 ふたたびはじまったラリーのなか、大神のボールがネットに当たってゆっくりと落下した。コードボールだ。しかし水沢はすでに走り出し、落ちたボールを掬い上げてドロップショット。しかもコースは大神からもっとも遠い右クロス前へ。
 すでに大神も駆け出して、ボールを拾う。
(あかん、浮いた!)
 水沢はチャンスボールをすかさず深く打ち込んだ。
「0-30!」
 先制二ポイント。
 伊織は呆然と水沢を見る。
(あのコードボール、ふつう取るか?)
 その後も、大神得意のラリーに持ち込むも巻き返すことはならず、まさかのサービスゲームをブレイクされるという結果になった。
 大神の調子がわるいのか?
 たしかに、いつもよりも若干フォームが荒いかもしれない。しかしそれでもしっかりとボールは面で捉えているし、伸びもよい。
 チェンジコートのため、大神がこちらにやってくる。彼の顔に焦りはないが、仲間の不安な顔を見るといつも浮かぶはずの不敵な笑みは出なかった。とはいえ伊織も、
(まあでも、まだ一ゲーム目やし。どうせ大神的には様子見ゲームやったんやろ)
 と、水沢を見ながら楽観的に捉えていた。
 が──。

「ゲーム青峰学院 3-0」

 の局面にきたとき、さすがの伊織も気がついた。
(あれ?)
 ふたたびのチェンジコート。
 大神がどかりとベンチに腰かけ、ドリンクを飲む。その横顔はすこし不愉快そうに歪んでいる。
 伊織はちらとフェンスの外にいる才徳レギュラー陣を見る。全員の顔がひきつっていた。
 きっと自分もまったく同じ顔をして、同じことを考えていることだろう。
(これ──やばない?)
 と。
「お、大神──なにやっとんねん」
「ああ」
「…………具合わるいんか」
「絶好調だ」
「なんで。なんで三ゲーム連続で取られとんねん」
「ほんとにな」
「……………」
 本当に。──本当にどうしたことだ。
 いまだ、彼のわるいところは特に見受けられない。フォームは多少荒いが崩れてはいないし、スタミナもまだ余裕がある。あと打球が左右されることといったらメンタルくらいだが、この男がメンタル不調など──。
 大神がゆっくりと立ち上がる。
 その横顔を見た瞬間、
「大神」
 と無意識に彼の腕を掴んでいた。
 おどろいたように伊織を見下ろす大神の目を見て、「お願いやで」とつぶやく声がすこしふるえた。
「勝って」
「…………ああ」
「別にもう、団体は勝ったも同然やからええねん。ただうちが、個人的に、あんたが負けるの見たないねん」
「分かってる。負けねーよ」
「大神より強い奴なんていてへん」
「当たり前だ」
「こないなとこで負けるようなら、一生あんたと試合なんかせえへんからな!」
「…………」
 大神はなにも言わずに微笑んだ。
 くしゃりと伊織の頭を撫でて、コートを見据える。次の四ゲーム目は水沢サービス。
「だったら」
 大神はつぶやいた。
「え?」
「一挙手一投足の俺のプレーをよく見ておけ、バーカ」
「ば。……」
 馬鹿言うなって、と言いかけて伊織は口をつぐんだ。大神があんまりかわいらしい笑みを浮かべていたからである。
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