片翼のエール

乃南羽緒

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第四章

57話 観に来るか

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 一瞬驚いたものの、昼に入った酒が抜けきれていないのか平井はなおも上機嫌に、
「伊織ちゃんの彼氏が迎えに来たぞう」
 と言った。
 器を洗う伊織がぎくりと肩を揺らす。みるみるうちにその頬が染まるので、平井はいよいよ勘違いしたらしい。すれ違いざまに大神の肩を叩き、鼻歌をうたいながら帰っていった。
 登場からわずか五秒足らずで、おおきな勘違いを吹っ掛けられた大神だが、彼は動じることなく平井に会釈。ゆっくりと大将を見た。
「こんばんは。大神です」
「お、おう! どうしたどうした大神の坊っちゃんがこんな時間に、こんなとこまで──おめえさん噂によると足を怪我したって話じゃねえか。まさかまたりむじんで来たんか」
「ああいや、あれはお嬢さんに叱られるのでやめましたよ。怪我といっても歩行にはまったく支障ないですし、平気です」
「な、なにしに来てんこない夜遅くに。ラーメン食べたい言うてももう味楽閉めてんで!」
「アンタァまさかほんとに伊織をデートにでも誘いに来たのか」
「まあ──そんなようなもんです」
 と、めずらしく茶目っ気のある笑みを浮かべ、ここに来てようやく伊織へと目を向けた。
「初詣行くぞ」
「は、初詣?」
「べつにでかいトコじゃなくていい。ここから近いところで、あるだろ。一社くらい」
「えー知らん。おっちゃん知ってる?」
「うちの氏神さまが、そっちの道を行った先にある。新年の始めには毎年商売繁盛を願って御札買ってんだよ。そこならそんなに歩かねえし足にもいいんじゃねえか」
「いつも夜中出歩くなっていうくせに……」
「夜中ったって、大神くんがいるなら安心だもん」
 だもん、って。
 と言いたげに伊織は眉を下げたが、有無を言わせぬ大神の雰囲気に気圧されて、渋々カウンター内から降りる。支度してくる、とつぶやいて自室のある二階へと駆け上がっていった。
 大将がクッと口角をあげる。
「わりィな、素直じゃなくて」
「──可愛いもんじゃないですか」
「ああ。可愛いんだよなぁ──しかし、おめえさんのことだからてっきり、大神家の新年パーティーとかにでも誘いに来たのかとおもったよ。やることでかそうだもんなァおたく。なーんて」
「それは明後日やります。毎年テニス部全員呼んでやってんです。新年初日くらいは、家族団欒で過ごしてもらおうとおもって、毎年二日に」
「ほ、本当にやってんのかい」
「伊織さんもぜひ」
「食いもんがあるって言やぁ、コロッと釣られるだろな」
「そのつもりでした」
 クスクスと大神は上品にわらった。
 まもなく降りてきた伊織は、もこもこのダウンジャケットとマフラーに身を包む。胸元まである髪の毛がマフラーの先から顔を覗かせる。
 行こか、と伊織は言った。
 ああ、と大神は外套のポケットに手をいれた。

 ※
 氷上神社といった。
 まもなくの年明けに備えてパラパラと老人のすがたが見えるものの、おおきな神社仏閣に見るような人混みはない。
 大神は足首を固定しているとのことだったが、痛み自体はほとんどないらしかった。
「だいたい兄貴が大袈裟すぎるんだよ。医者の言うことだなんだと言いやがるが、アレは内科医だぞ。外科でもねえのになにが重症だ」
「でも──やっぱり万が一ってこともあるやんか。ただでさえ大神は素直に痛いって言えへんのやから」
「俺だってマズイとおもったら申告くらいする」
「ほんなら、信用されてへんねや。いつも強がっとるからやなー」
「チッ」
 大神は不服そうに舌打ちをした。
 その様が痛快だったのか、伊織はケタケタとひとしきりわらってそのまま、上機嫌な声色で関東大会オーダーについて問いかける。
「大神から見て、仕上がりはどう?」
「わるくねえな。とくに明前と天城のシングルスは、はえェとこ他校と試合させてみてえもんだ。最初はつまずくこともあるだろうがその分伸びるだろうぜ」
「大神お気に入りのD1ペアは?」
「杉山がのびのびやってて何よりだよ。ありゃ杉山のダブルスじゃベストペアだろ」
「ハチの安定感が抜群やもんなァ。ちょっぴり薫クンが寂しそうやってんけど」
「この一年間、主に杉山とばっかりやってきたからなアイツは。一見シラケた顔してるが、ああ見えて寂しがり屋らしい」
「めんこいとこもあるやないの~」
 と、ふたりは笑いあった。
 関東大会まであと十日、大神がいないなかで桜爛との戦いを任された彼らは、これまで以上に熱をいれて練習に励んでいる。
 とくに姫川のスタミナ強化は目覚ましく、ランニングと筋力トレーニング時は余念がない。ほかのメンバーも、県大会時に顕れたそれぞれの弱点を念入りに洗いだし、大神指導のもと、徹底的に克服をしているのである。
 その練習風景を思い出し、伊織はふうとちいさく息を吐いた。晦日の空気は刺すように冷たい。
 まもなく、数人の列を見つけた。
 この先には社があり、いまかいまかと人々は新年の時を待っている。遠くから聞こえるは百七つ目の除夜の鐘。
 大神が腕時計を確認した。
 10、9、8、7。
 カウントダウンがはじまる。伊織はにっこりわらってソワソワしはじめた。
 6、5、4。
 人々の空気が浮わつく。
 3、2。
 伊織の足に力がこもる。
 ──1。
「ハッピーニューイヤー!」
 伊織が跳んだ。
 一斉に周囲から新年の挨拶が聞こえ出す。大神はひとり冷静に、となりで地面に着地した伊織を見下げている。
 伊織の顔は満足げだった。
「うち、年明けた瞬間地球にいてへんかった!」
「フッ──いや地球にはいただろ……ブフッ、ガキかよおまえ」
「明けましておめでとうございます」
「切り替えが早ェな。……明けましておめでとう」
 すると、社の前に並ぶ列が徐々に動き出した。
 新年が明けて続々と初詣がはじまったのだろう。大神と伊織も列の動きにならってすこし前に進む。
「おまえ、もう東京やらなんやらは満喫したのかよ。大阪から越してきて三ヶ月経ったろ」
「ぜーんぜん。越してきた思たら、あっちゅー間にテニス部のマネージャーやらされとってん。そんな暇あらへんがな」
「ああ──それもそうか。なら、今年引退したらおまえの行きてえところ、俺が連れてってやるよ」
 エッ、と伊織が目を見開く。
「あのリムジンで?」
「ご所望なら」
「あー、でもザギン銀座のど真ん中をリムジンが通るってのも、なんや気分いいかもなぁ」
 それからは他愛ない話をした。
 引退後はもう受験勉強の時期に入るだろうことや、互いの将来のこと。大神は決めかねているらしく明言はしなかったが、伊織は自身について「おそらく大学受験はしない」と言った。なにより大きな理由はひとつ。勉強が嫌いだからである。
 愛織と大阪にもどるのか、と大神が言った。
 そやなあ、と伊織は白い息を吐く。
「おかんも大阪いてるしな。ここは好きやけど──戻るとおもう。でも愛織はきっとこっちで大学受験するんちゃうかな、それこそ桜爛大学とか。……そうなると本格的に離れ離れになってまうなァ」
「離れるったって、大阪東京間なんか二時間ちょっとすりゃあ行けるだろ。たいした距離じゃねえ」
「うん。そやな、離れとっても生きてりゃ会えるわ」
「ああ」
 生きていれば。
 互いのあいだに沈黙が走る。ちょうどお参りの順番がまわってきたところだった。ふたりは賽銭を取り出して同時にいれる。本坪鈴の鈴緒を握り、やさしく揺らすと心地よい鈴の音が辺りに響いた。
 二拝、二拍手、一拝。
 頭を下げたまま、伊織はぎゅっと目を閉じた。
 となりでは大神が目を閉じて何ごとかを祈る気配がする。この男も、神に祈りたくなることがあるのか──とおもうと伊織はすこし可笑しくて、目を閉じたままクスリとわらった。
 伊織のなかにある願い事はひとつである。
(また、愛織が元気で笑てくれますように)
 姉のいない年末年始は、やっぱり寂しい。
 いつか進学のため離れ離れになっても、会えない日が続いても、新年を迎えるこの一瞬のときくらいはいっしょにいたい。そう思えば思うほど伊織の胸には込みあがるものがあって、鼻の奥がきゅうと熱くなった。
 涙が乾くのを待って伊織はゆっくりと目を開ける。
 となりの大神はすっかりお参りを終えて横に捌けていた。あわててそばへ近寄ると「ずいぶん熱心だったな」と苦笑される。とはいえその願い事が何か、彼も察していたのだろう。さして突っ込まれることはなかった。

「帰るか」
 大神が言った。
 現在時刻は〇時二十分をまわったところである。砂利道を歩くふたりの足音がやけに遠く聞こえる。「あー、ウン」と答えた伊織の足がふと歩みを止めた。
「あ、あの。そういえばあれって何時やったっけ。ホラ」
「初日の出?」
「ああそう! それそれ」
「日の出の時間なんだから朝の六時とかじゃねえのか。この真冬じゃ四時台ってこともねえだろう」
「ろ、六時──あと六時間もあんねや。そかそか。ほなしゃーないわ」
 帰ろか、と伊織はわらった。ふたたび砂利を踏みしめる。
 しかし今度は大神の足が動かない。伊織が眉を下げた。
「何してん。足、痛い?」
「──うちに、東に面した展望室ってのがある」
「へ。……」
「アメリカ暮らしの多い両親が、日出る国の日の出を見たいがためにわざわざ作った部屋らしくてな。俺もそれにならって、こちらに越してきてからのこの二年は毎年なにかの節目とあっちゃあその部屋から日の出を見ることにしてる」
「へえ。やることのスケールがいちいちデカい家族やな」
「観に来るか」
「へ?」
「客間があるから、時間まで仮眠でもとりゃあいい。特等席から見る日の出は格別だぜ」
「…………」
 とたん。
 伊織は、じぶんの頬が燃えるように熱くなるのがわかった。
 恥ずかしかったからだ。なにが恥ずかしいって、さきほど抱いた気持ちを大神に悟られたことである。
 しかし不思議なことだが、いつもならばつっけんどんに返しただろうこのシチュエーションで、伊織はすなおにうなずいていた。恥ずかしさよりもまだ帰りたくない気持ちの方が大きかった。
 そうと決まるや、大神は「車を味楽の前まで回すように」とどこかに連絡を入れ、こちらはこちらで味楽への帰路につく。ラーメン屋はすでに明かりが消えて、裏の母屋から大将の盛大ないびきが聞こえている。
 大神は苦笑した。
「ひと言言っておかねえと、大将が起きたときに心配するぞ」
「でもいっぺん寝ると起きひんのよ。メモ置いとくわ」
 メモを残す。
 味楽の前に車が停車する音がした。どうやらもともと近くに待機していたらしい。
「行くぞ」
「うん。……でも、その、本当にお邪魔してええの?」
「遠慮なんかするんじゃねえよ。一度観たらいろんなことがふっ飛ぶぜ、覚悟しとけよ」
「うん。──おおきに」
 伊織がうつむく。
 大神はなにも答えなかったけれど、その顔にはなんとも慈しみ深い笑みが浮かんでいた。
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