片翼のエール

乃南羽緒

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第五章

86話 優しいんだよ僕は

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 負けちゃったよ、と蜂谷が苦笑した。
 いつもは髪も服もすこしの乱れすら嫌う彼が、試合終了後の乱れた身だしなみもそのままに、才徳陣営で項垂れている。
 となりにはドリンクを用意した伊織が寄り添う。いつもの彼ならば、たとえ敗北してもすぐに試合の振り返りデータをノートにまとめてゆくものだが、よほどショックであったのか、あるいは相手の実力にとてつもない衝撃を受けたのか──。
 実力は、とつぶやく彼の声は掠れた。
「負けてないつもりだったんだけど、……やっぱりまた出てたかな。自分では分からないんだ、あの癖」
「うん。思いきり引っ張られてはったで。自分も分かったときあったやろ、いつものペースとちゃうなって」
「ああ──すこし焦ってはいたかもしれない。今となってはなにをそんなに焦っていたのか、分からないんだけど。……情けない」
「情けないことないよ! ただ悔しくはあるよ。いつものハチのテニスやったらもっと失点無くせたし、アプローチショットかてあんな雑にこなさへんかったはずやもん。全体的に荒かったんは、明らかに相手のプレーが鏡写しで出てきてたからやねん。いつもの癖や」
 やっぱり、と蜂谷は頭を抱えた。
 彼の癖は本人にはそれほど自覚がない。ゆえにどう攻略すべきか、蜂谷はいまだに答えを出せていない。関東以降からは積極的に練習参加していた伊織でさえも、蜂谷の癖を直す術は分からなかった。なにせ伊織には相手のプレーを写せるほどの器用さはないのである。
 これまでの試合では、その癖がプラスに作用したことの方が多かった。相手のペースを掴んだ上で攻略を見極め、攻めるべきコースやショットを即座に算出出来ていたから。しかし今回は──。
「余裕がなかったんだな。俺、……」
「らしくないやんか、ハチが余裕なくすなんて」
「ああ。ホント、なにやってんだろう。────ちょっと頭冷やしてくる」
 といって、蜂谷はふらりと立ち上がるとおぼつかない足取りでコートから遠ざかってゆく。その哀愁立ち込める背中を見送った伊織は、たちまち駆け出した。
 駆けた先は、観客席。
 向いた足は、天敵へ。
「千秋!」
 愛織の写真をぼんやり眺める千秋の肩がピクリと揺れた。
「なに、……」
「オマエに頼みたいことがあんねん」
「ほう?」
 虚ろな表情を浮かべていた千秋の顔に、じんわりと笑みが広がった。

 ※
 いずれ、ぶち当たる壁になると思っていた。
 ほとんどのプレーをバランスよくコピーできる蜂谷が、唯一苦手とするのがパワー系。とくに今回の飛天金剛のような強豪レベルの選手と対峙した際、どれほど頭で試合展開を組み立てたところで相手のパワフルさにからだが負ける。結果、いま一歩及ばぬ試合になってしまった。
 パワー系が苦手だと認識してからは、姫川と試合を繰り返すことで弱点を克服したつもりであったが、やはりそれ以上の高レベル相手にはまだ通用しなかったらしい。
「クソッ」
 めずらしく悪態をつき、蜂谷が水道水を頭からかぶる。
 なにが悔しいって、昨日の時点で不破が自分にとって相性のよくない選手であると分かっていたにも関わらず、「やってみろ」と任せてくれた大神の期待に応えられない自身の未熟さである。
(やっぱりダメだったよ、なんて)
 言いたくない。言えるわけがない。
 大神やほかのチームメンバーを前に、自分のテニスがさもここで限界であるかのようなこと、蜂谷のプライドが許さない。蜂谷はぐいとタオルで濡れた顔をぬぐった。さんざん水道水で冷やしたはずが、冷やせば冷やすほど目頭ばかりは熱くなる。
 蜂谷はしばらくタオルを顔に押し当てて、その場に静止した。

「いたいた。……えーっと、蜂谷だっけ?」

 声をかけられた。
 聞き覚えのある声。もう一度タオルで顔を拭ってから、蜂谷がゆっくりと振り返る。
「き、如月さん」
 なぜか声をかけてきたのは如月千秋であった。
 その手にはラケットが二本とボールが一球握られている。すこしつまらなそうに目を細めていた彼は、蜂谷の濡れたすがたを見るやにっこりわらってラケットの一本をその胸元に押しつけた。
「あっちのコート、空いてるんだって。ちょっと打たない?」
「えっいやあの」
 打たない? と聞くわりに蜂谷の返事を聞く気はないらしい。
 有無を言わさず歩き出す千秋に、蜂谷はあわててそのあとをついていく。向かう先は会場裏手の寂れたテニスコートだった。パーカーにジーンズパンツ姿の千秋と、先ほどまで頭に水をかぶっていたびしょぬれの蜂谷という珍妙な組み合わせだが、一般観衆は全国大会の試合に釘付けでこちらのコートには見向きもしない。
 如月さん、と蜂谷は濡れた眼鏡を袖で拭いた。
「あの、どうして」
「いいから一本ラリーしようぜ。本気でこいよ」
 コートに入ってすぐ、千秋からボールがくる。
 蜂谷はあわてて打ち返す。それからは安定したロングラリーがはじまった。
(すごいな)
 内心、蜂谷は胸が高鳴っている。
 インターハイで見た大神と如月の試合、フェンス外から大神の勝利を願うと同時に圧倒されたその熾烈なゲーム。およそ自分には到達し得ないレベルだと感じた瞬間だった。どれほど観察眼が優れていようと、どれほど試合の組み立てを図ろうと、自分は彼らのようにはなれない。
 届かない──と。
 おもっていた相手がいま、自分とラリーを交えている。
「ハッ」
「おらどうしたァ」
 千秋の声はたのしそうに弾んだ。
 そんな声色とは裏腹に、球はどんどん重くなる。
 大きく弧を描くようにベースライン際へ落ちたボールは強いトップスピンによって大きく跳ねた。四肢の長い長身の蜂谷でさえも、高い打点で面に捉えるのが一苦労である。負けじとからだのひねりを利用して深く返球するが、千秋は難なく重い球を打ってくる。
 徐々に蜂谷のストロークが変わってきた。
 いままではその長身を生かした上から攻め込むような球筋であったのに、千秋と一球一球を交えるうち、その軌道は千秋が放つような弧を描くものに変化している。
「…………」
 ラリーの応酬が八十球を越えたころ。
 ふいに千秋がスライスの動きでボールをネットにかけ、ラリーを終わらせた。突然のことに蜂谷はゆっくりと構えを解く。
 まあ座れよ、と千秋は据え付けられたベンチに腰かけた。
「っはあ、久しぶりに打った」
「桜爛の部活には顔出していないんですか」
「だって僕が行くとアイツら、気ィ遣うだろ。やさしーんだよ僕は」
「なるほど。……」
 如月千秋はあまり息を乱していない。
 テニスからすこし離れていたというのに、そのスタミナもテクニックもすべてが現役時代のままのようで、改めて高い壁であることを思い知らされた。なにかを喋ろうにも、柄にもなく緊張しているのかうまく言葉も出てこず、蜂谷は意味もなく眼鏡を外してレンズを拭った。
 やっぱり似てたな、と。
 千秋が気の抜けた声を出した。
「え?」
「お前のテニス、むかしの僕にそっくりだ」
「むかしの如月さんに」
「器用貧乏なんだってサ。やんなっちゃうぜ、器用だからなんでもできちゃうのに度が過ぎるとそれに振り回されるなんて」
 器用貧乏、と蜂谷がつぶやいた。
 ずいぶん苦しんだ、と千秋はわらった。
「だからへたくそなヤツと打つの嫌いだったんだ。なんかこっちまで下手になるような気がしてさ、お前もそういうのない?」
「そう──ですね、うまく打てないときはあります。急にからだがこわばるというか」
「ハハッ、そうそう」
「如月さんはどうやって克服なされたんですか」
「なんで敵チームのヤツにそんなこと教えなきゃなんないの、この僕が」
「あ……そ、そうでした。すみません」
 と、困惑した顔で頭を下げた蜂谷。
 それを見た千秋はさらに困った顔でぼりぼりと頭を掻いた。
「って言いたいのはやまやまなんだが、どうにも監視の目があるようだ」
「は?」
 千秋の視線の先はコートの外に向けられている。つられて蜂谷が見ると、フェンスにかじりつくように伊織がじとりとこちらを──というより千秋を睨みつけているようだった。
「な、七浦さん。なにやってんだあんなところで」
「おいおい蜂谷クン。どうしてこの桜爛OBの僕がわざわざゲームの敗北者に、ましてや才徳の選手に声をかけたとおもうんだ? ふつうならありえないんだぜ、言ったろ。僕はへたくそと打つのは嫌いなんだ」
「は、はい」
「──飛天金剛の不破との試合を見たよ。まあ見事にむかしの自分を見ているようでおっかしくってさ、ああコイツも器用貧乏なんだなあと共感したわけだよ」
「はあ」
「でもこの癖はどうにもひとりで抜け出すのはむずかしい。気持ちはよくわかるよ、経験者だからな僕は。ただこの癖をうまく自分のものにしちまえば、ほかの奴らよりもずっとおもしろいプレーをすることが出来るようになるってことも、僕は知ってるんだ。なにせ自分がそうだから」
「それで見かねて、こうしてラリーをしてくださったというわけですか」
「だからどうして僕がそんな慈悲をかけなきゃいけないんだよ。わざわざ敵チームに」
「はあ」
 いよいよ蜂谷の顔が怪訝に曇る。
 アイツがね、と千秋がフェンスの外から目を光らせる伊織を顎で示した。
「むかしの僕とお前のプレーが似ていると知るや、僕にお前を指導するように頼んできたんだよ」
「七浦さんが──」
「うん」
「それで?」
「それでって? それがすべてだけど」
「そ、それだけですか。妹さんに頼まれたから、敵チームなのに引き受けてくださった、と?」
 とおもわず蜂谷が身を引くと、逆に千秋がぐいと蜂谷に顔を近づけた。なぜかその瞳は爛々とした輝きに満ちている。
「だってさ聞いてくれる? いっつも恥ずかしがり屋でツンケンしてるアイツが、『お兄ちゃんお願い』って小首かしげて手まで握ってきたんだぜ。まったくそんな可愛いことされたら断るに断れないだろ。だから、いろいろ条件付けたうえでその依頼に乗ってやったというわけ」
「条件。──」
 蜂谷がちらりと伊織を見た。
 すこし遠目でわかりづらいがどことなく憂鬱そうに青ざめた顔をしているようにも見える。
「べつにたいした条件じゃない。僕はやさしいからね」
 と、千秋はわらって立ちあがり、伊織に向かってシッシッと払うような手ぶりをした。
 早く戻りなさい、と声を張る。
「まだむこうで試合やってんだろ。心配するな、蜂谷クンにはちゃんと指導してやるから」
「…………」
 伊織は心配そうに蜂谷と千秋を見比べた。
 千秋が蜂谷に向き直る。
「さて、仕方ない。一度引き受けちまったからにはしっかり教えてやるよ。ラリーをした感じじゃ最低限の見込みはありそうだしな」
 その瞳には、先ほどとはまた違う光がぎらりと宿る。
 お願いします──と。
 頭を下げた蜂谷の胸が、どくんとひとつ跳ねあがるのを感じた。
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