片翼のエール

乃南羽緒

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第五章

93話 絶対勝てや

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 S3試合のタイブレークが決したのは、雨が降りはじめてすぐのこと。
 タイブレークカウント8-7の才徳リード、蜂谷サーバーのポイント。低いトスからのクイックサーブ。リズムが乱れた大友の反応が一瞬遅れた。ここまでのスタミナ消耗も影響したか、リターン時、大友のからだがわずかにひらく。
 コースは甘めのストレート、蜂谷はすでにテイクバックを終えていた。高めの打点から放たれた蜂谷のバックドライブによって返球はするどくベースライン際へ。強いスピンによってバウンド後に大きく跳ねたボールを見上げた大友は、うしろも見ずにバックステップでラケットを伸ばす。
 危ないッ、という外野の声は遅く、大友はフェンスに激突。ボールはころりと彼の足元へころがった。
「大丈夫かっ」
 と、主審があわてて審判台から降りる。大友はしばらくフェンスに背中をあずけてうつむいていたが、駆け寄る足音を聞いてかゆっくりと顔を上げた。
 その表情は、照れとわずかな安堵の笑み。
「大丈夫、大丈夫です。はは……」
 後頭部をさすりながら立ち上がり、大友は主審に支えられるようにネット前へ戻ってきた。異例なことだが、主審は審判台から降りた状態でゲームセットコール。
 タイブレークカウント9-7というスコアによって、S3の試合は終わりを告げた。

 結果、団体戦における軍配は才徳にあがった。
 しかしS1試合を観戦する者たちにとって、もはや団体戦の結果など二の次であった。
 S1試合も同様にタイブレークへと突入。小細工なしのラリー応酬戦のあまりの迫力に、一等近くで観戦する伊織の手がふるえる。タイブレークカウントが交互に増えた挙げ句、気が付けば62-61というところまでポイントを重ねていた。
 一瞬の瞬きさえ許されない。
 大神と獅子王は、もはやその命尽きる覚悟で全身全霊を込めたボールを打つ。
「…………」
 となりに立つ天城が伊織を見てギョッとした。彼女の瞳から幾筋かの涙が頬を伝っていたからである。彼女は気付いていないのか、見開いた瞳をふるりとふるわせて大神を凝視し続ける。
 雨、が。
 先ほどまで粒の細かい霧雨だったのに、だんだんとコートに染みを作るまでになってきた。運営席で試合続行の是非について相談する声が聞こえる。
 とはいえ、みな分かっていた。
 この緊迫感のなか中断させることの罪深さ。きっと翌日に持ち越したところで、それはもはや別の試合にすぎないのだ、ということ。
 この試合を見る者すべてが、この試合の結末を見届けたいと内心で願っていた。
「は、…………」
 涙を流す伊織の息も荒い。
 才徳、黒鋼両校の選手全員が固唾を呑んで見守るなか、大神リードの獅子王サーブ。
 獅子王がトスをあげる。瞬間、大神の口角がわずかにあがった。疲れているだろうになおも踵はくっと地面から離れ、美しく鍛えられたふくらはぎが筋を見せる。
 サーブは内角へ。同時に片足スプリットステップから、大神のリターンが返る。なおもベースライン深くへ飛ぶボールに、獅子王もまた上体がぶれることなくしっかりと面で捉え、バウンド後に大きく跳ねるスピンショット。が、跳ねた直後に捉えて打つライジングショットによって、スピンを無力化する大神。
 ぱた、ぱたと雨が降り落ちる。
 ハードコートが水玉模様に染まるころ、運営席からひとりのスタッフが駆けてくる。観客みなが「ここまでか──」と落胆した瞬間であった。

「あっ」

 という声とともに獅子王の上体が崩れた。
 その拍子に、返球が浮いた。なぜか大神がすでに前へ詰めている。大きく振りかぶって肩からラケットを振り抜いた。
 スマッシュは獅子王のラケットヘッドに直撃。ボールは奇跡的にロブとなって大神のもとへ返った。が、大神は構えていた。
 ふたたび叩きつけられたスマッシュは、逆クロスへ。これまで、ボールを追うことを一度たりとてやめなかった獅子王の足がぴたりと止まる。その口元には笑みがこぼれ、彼の頭はうなだれた。

「げ、──ゲームセット!」
 
 審判コールの声がふるえる。
 タイブレークカウント63-61にて、今大会最長となる一時間五十八分ともなる試合が終了した。
 ネットを挟んだ大神と獅子王。
 握手をするなり、獅子王は健闘を称えるかのように大神を引き寄せ抱きしめた。熱い抱擁をうけ、大神もまた力強く獅子王を抱き返す。
 そのときにようやく、試合開始後から水を打ったように静まり返っていた会場からワッと大歓声が戻った。観客席の神村や校長も、滝のような涙を流して拍手を送っている。
 同時に両校の選手がコート内へ駆け入り、各々のS1選手を称える。そのまま、4-1というスコアが告げられ、黒鋼高校対才徳学園団体戦は終了した。

 大神がコートから出た。
 その目はフェンス前を探している。まもなく見つけたソレは背を丸めて泣いていた。声をかけるまでもなく近付く足音に反応して、ソレがふと顔を上げる。
 目が合った。
 言ったろ、と大神は微笑んだ。
「勝つって」
「────」
 ソレ──伊織は、緩慢な動きで大神に近寄り、その首にしがみつくように抱きついた。大神も当然のごとくそれをやさしく抱き返す。すると感極まったのだろう、途端に伊織がわんわんと大きく泣き出した。
 まったく、疲れているのに耳元でうるさいやら座れないやら──。とはいえ、大神の顔もまた、これまで見たことのない無邪気な笑みを浮かべてその抱擁をじっくりと堪能した。
 大神、と。
 背後からかけられた声で、ようやく伊織から身を離して振り返る。声の主は獅子王だった。
「完敗や。ほんなこつ楽しか試合やった──ありがとう」
「こっちこそ、雨に助けられた。でなきゃ夜まで続く試合になるかと覚悟したぜ」
「わははっ。いやいや、大神だけやなか。才徳さんな強かばいっちゃ思い知らされたわ。明日ん決勝、応援しとーぜ」
「ああ。ありがとう」
「七浦さん!」
 獅子王は、いまだ鼻をすする伊織を覗き込むように身を屈めた。にっこりと太陽のようにわらうその笑みに、伊織はぱちくりと目を見開く。
「決勝進出おめでとう。──絶対勝てや」
「……、うん。おおきに!」

 こうして、全国大会六日目は終了した。
 決勝進出校は黒鋼高校を破った才徳学園と、準決勝ながら相手校に5-0のスコアで差をつけた東京代表、桜爛大附属高校。
 翌日の大会最終日にて、最後の試合がおこなわれることとなる。

 ※
 その夜。
 伊織は、興奮して寝るに寝られず天谷を起こさぬようにひっそりとロビーに降りた。土産物屋はとうに閉まって、旅館の人間も奥に引っ込んでいるのかがらんどうである。
(雨。……)
 止んだかな、と中庭を覗き見た。
 一時的な通り雨だったようで、夜空には満点の星空が広がる。都心にいるとなかなか見られぬ光景だ。この分だと明日の決勝戦は、水捌けさえ済めば問題なくおこなわれることだろう。
(愛織が降らせたの?)
 問いかける。
 正直、あのとき獅子王が足を滑らせなければ、大神が勝っていた保証はない。おなじコートで戦っていた以上、大神にもおなじリスクはあったわけで、地面に足をとられたのは大神だったかもしれない。
「…………」
 なんにせよ、勝ち得た切符だ。
 明日の決勝戦で泣いても笑っても、現二年生の全国高校テニス大会は最後となる。伊織はぶるりと身ぶるいをした。
 そのとき。
「七浦さん」
 と、肩を叩かれた。
 この優しげな声色はよく知っている。振り返った。
「あまやん──」
 顧問の天谷夏子だった。
「あっ、ごめん。起こしてもた?」
「ううん。私もね、なんだか胸がドキドキしちゃってねむれなくって──起きてたのよ。そしたら七浦さんが部屋出ていくから、おんなじなんだわとおもって」
「うん。……なんや外の空気吸いたくてさぁ。信じられる? 全国決勝やで。まあみんなの実力的にいえばもちろん当然のことやねんけどさ。でもなんか、関東からここまで、一歩違ってたら負けてたっていうシーンがたくさんあったんやんか。それ考えるとホンマに感慨深くって」
 伊織はぐっと腕を伸ばす。
 そうねえ、と天谷は微笑んだ。
「あっという間にここまで来ちゃったね。道中はいろいろあったけど──とくに七浦さんは、とってもツライことがあったし。そもそも入部だって半ば強制的だったし」
「ホンマやで。出会って初日で『マネージャーとして部活入れ』て。大神のヤロー頭おかしいんちゃうかって思たわ。それがまさか、おとんと学校側で決めてた約束とは──せや、なんでそんな約束したん?」
「約束したのは校長先生とあなたのお父様よ。うちは編入ってあまり推奨されてないの。でも如月さん、どうしても伊織さんを才徳に入れたかったんだって。うちの校長って才徳学園のイメージアップに必死でしょ、プロテニス選手が頭を下げて頼み込んできたら断れなかったみたい」
「なんでおとんは、そんなにうちをテニス部に入れたかったんやろ──うちもともと部活動とか嫌いやし、勝ち負けとかそんなんどうでもええし。ましてマネージャーなんて、人の世話なんかいっちゃん嫌いやのに」
「だからじゃないかな。……父親として、テニスプレイヤーとして、才能があるあなたにどうしてもテニスから離れてほしくなかった。仲間といっしょにやることの楽しさ、テニスの楽しさを──知ってほしかったのよ」
 といって天谷はくすくすと肩を揺らした。
 伊織は不服そうにうつむく。昔から、父のそういう勝手なところが嫌いだった。その性格ゆえ母がみじめな立場になったと憎むこともあった。それなのにどれほど距離を置こうが、恨もうが、彼はいつまでも自分の父であろうとすることをやめなかった。
 それを今また、痛感したのである。
 さ、と天谷は伊織の肩を抱いた。
「部屋に帰りましょ。夜更かしはお肌の天敵よ」
「うん。──あまやん」
「ん?」
「うち、テニス部に入ってよかった」
「…………」
「テニスのホンマの楽しさとか、家族とも学校の友だちともちょっと違う──なんていうかその、仲間がいてることの有り難みとか。そういうの」
「伊織さん──」
「知らなきゃ知らんで生きられるんやろうけど。でも、ホンマに、知れて良かった。おおきに」
「そう。……」
 そうねえ、と。
 天谷夏子はすこし泣きそうな顔で、わらった。
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