片翼のエール

乃南羽緒

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第五章

97話 ハプニング

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「あれで3なんですねぇ」
 とは、かつて自分が諸先輩に対して蜂谷についての感想を述べたときのことばである。たしか神奈川県大会、才徳と青峰学院との対戦を観た感想だった。
 咲間遼太郎は、桜爛テニス部こそ至高であると考える。あの如月蓮十郎が桜爛テニス部の礎を築き、長き歴史のなかで全国大会常連校、果ては全国王者として君臨するまでになったこのテニス部。そうそう敗北などしようはずもない。
 しかし関東大会は誤算の嵐であった。
 マネージャーの凶報により均衡を崩した播磨の慟哭は、報せを受けていないメンバーのメンタルバランスさえも崩した。気が付けば井龍、仙堂を除く三試合が敗北に終わった。ましてあの大神が不出場だったにもかかわらず──である。
 咲間はひどくプライドが傷付いた。
 もちろんイレギュラーだった。だれを責めることもないし、それで桜爛テニス部の格が墜ちたわけではない。だからといって咲間のなかで許されることではなかった。
(この試合もそうだ、……負けは許されない。いや負けるわけない。が)
 咲間はドリンクを飲んだ。
(蜂谷さん、前に見たときとプレーがちがう)
 ムッと眉をひそめる。
 蜂谷のプレーは、鏡だという。以前そう聞いていた。それゆえなおさら違いが顕著に見えた。県大会で見た彼のプレーは、相手がベースライナーだったこともあってずいぶん間延びしていた印象があった。が、この三ゲームで彼が見せたのは安定したラリーのほか、様々な仕掛け技の数々。
 くせ者と大仰に言うほどではない。が、こちらのプレーを分かった上で、さらに上手をゆくボールが多い。ショットも全体的に速くするどくなった気すらする。
(だからどうということは、ないけれど)
 咲間はタオルで汗を拭いた。
 三ゲーム終了してのチェンジコート、審判台を挟んだ向う側のベンチでは、才徳の蜂谷司郎が平静な顔でガットの目を調整している。
 先ほど咲間のサービスゲームが終わり、桜爛リードの2-1。一方の蜂谷は内心でも落ち着いていた。
(咲間遼太郎──)
 高校生にはめずらしい両利き選手であり、彼の慎重な性格がそのまま投影されたようなテニスをおこなう。試合前半はひたすらラリーを駆使して相手のコントロールやテクニックを見極め、後半、その広い視野を武器に相手のポジショニングから判断しコースを攻めたり、あえて相手へチャンスボールを送ったり。
 そこから相手のミスを誘発するのが非常にうまい選手でもある。
 『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』──彼の挑発に乗れば最後、自滅の未来への片道切符なのである。
 おそらく以前の蜂谷ならば、彼のプレーに引きずられて場合によっては自滅まっしぐらだったことだろう。しかし、千秋とのラリーを経て分かったことがある。
(如月さんは自分と似ていると言ったけど、やっぱりちがう)
 蜂谷はラケットを握りしめた。
(あの人のスランプはたしかに、器用さゆえだったんだろう。でも、俺のテニスはそんないいものじゃなかった。俺のテニスは──)
 ゆっくりと立ち上がり、コートへ入る。咲間はすでにコートへ入ってガット目の調整をしている。
 ちらととなりに連なるコートを見た。
 となりでは姫川と星丸が、その奥では倉持。杉山と明前も見える。さらにその奥には──大神も。
(なんにせよ負けられない)
 人知れず、蜂谷の口角があがる。
(ようやく俺のテニスに『俺』が出てきたんだから)
 S3で、四ゲーム目がはじまる。
 
 ※
「俺!」
 と、播磨の声が轟いた。
 中津川の頭上を越した杉山のロブを追って、サイドを駆ける播磨。高い打点でとらえたボールを相手前衛の明前めがけて叩き込む。その殺人的なボールを前に明前はあわてて身体を避け、ラケットでそれを捉えた。
 ボールはゆるく中津川の足元へ。彼はすかさず前に詰め、明前が避けたことでがら空きになったセンターコースへボレーを叩きつける。後衛杉山は、その弾丸のようなスピードに追いつけず相手ポイントへ。
 D1試合は、開始二十分にして桜爛リード4-2のスコアを数えた。サーバー交代によって明前から中津川へとボールが渡る。
 すみません、と。
 明前が寄ってきた杉山に頭を下げた。
「チャンボ渡しちまいました」
「いや、あれはお前よう取れたわ。ふつうの人やったらラケット弾いて死んどるで。あんなもん大砲やがな、大砲」
「ふはっ。まあそっすね、正直自分でもよくとったなと思ったッス。播磨さん確実に殺意ないスか?」
「あるやろな。あれで殺意なかったらあの人化け物やで──ま、とにかくこっから挽回や。オレはまだ諦めてへんからな」
「自分もッスよ」
 軽くタッチを交わし、杉山はベースラインへ。中津川サーバーの七ゲーム目がスタートする。
 播磨十郎太と中津川鉄心。
 中学時代からペアを組み、別日程でおこなわれた関東大会や全国大会個人戦でも優勝し、名実ともに高校男子テニス界ダブルスのトップまでに昇りつめたふたりである。
 その名声どおり、全国大会団体決勝戦の今試合でもその実力をまざまざと見せつけられている。
 とくに播磨のプレーは、これまで『テニスの申し子』として褒められた杉山でさえ、そのボールに対する嗅覚と本能的なコース狙いにはおもわずお手上げだと言いたくなる。
(頭で考えるテニスよりよほどタチ悪いやん)
 内心毒づいた。
 とはいえ、ここで諦めるわけにはいかない。播磨の予測不可能なテニスを攻略するよりは、サポート的プレーに徹底する中津川から崩していけば打開の光も見えてこよう。
 リターナーは杉山。
 中津川サーバー、その長身から放たれた球は叩きつけるように外角に入った。前衛の播磨から逃げるように杉山がロブをあげると、中津川もおなじくロブで対応する。播磨は膝をゆるめていまかいまかとポーチのタイミングを図っている。甘いクロスなぞ打とうものならまず仕留められてしまう。
(安牌は──ここやッ)
 高い打点でショートクロスへ。
 中津川が駆け出してスライスでの返球、甘いチャンスボールに明前が前へ詰めた。
「ッアァ!」
 ネット間際から殺意を込めて──播磨に向けた七浦印の殺人ショットが放たれる。が、播磨はなんと仰け反りながらラケット面でボールを捉え、力任せに返球してきたではないか。ボールはお返しと言わんばかりに明前の顔面へ。
 明前の目が見開く。
 動きがワンテンポ遅れた。
「ぅあっ」
 ガシャン、と。
 ラケットとともに地面に転がった明前。直後、杉山は明前の名を叫び駆け寄った。
「明前ッおい!」
「だ、大丈夫かっ」
 と、審判台上の主審もあわてて駆け下り寄ってくる。会場がざわついた。青ざめた顔で杉山が明前に手を添えるも、彼は顔を抑えたまま起き上がらない。桜爛ペアはネットの向こう側、肩で息をととのえながらネット際まで寄り来た。
 杉山が顔を寄せる。
「明前──大丈夫か。目ェ打ったか?」
「…………」
「明前」
「だ、いじょうぶ。大丈夫ッス」
「顔見してみい、手ェどけて」
「大丈夫って」
「キミ大丈夫か。目を打ったなら病院に行った方がいい。才徳の棄権にはなるが早い方がいいから──」
 という主審の呼び掛けに明前は「いや」と首を振り、ゆっくりと身を起こした。
「明前!」
「いけます。いきましょう、ねえ譲さん」
「お、お前──」
 相方の顔を見た杉山の眉が下がる。ふだん涼しげに細められた彼の右目周りが朱くなり、まぶたの薄い皮から血が滲みでている。時が経てば腫れてくるだろう。
 が、明前は乱暴に袖で血を拭うと、主審を睨み付けた。
「絆創膏貼っていいスか」
「あ、ああ──でも本当に大丈夫なのかい」
「平気ッス。譲さん、自分じゃ見えねえから貼ってください」
「お、おん。…………、おいやっぱりやめとこうや。目になんかあったらそれこそ」
「しつけーッスよ。あと一時間もやるわけじゃあるまいし、終わったらちゃんと冷やしますから」
 といって、明前は立ち上がった。
 ネットの向こうから「すまん」と播磨が叫ぶ。とはいえ、もとはと言えば明前の挑発が発端である。明前はひょいとラケットをあげて無事をアピールした。
(右目がすこし霞むけど。……)
 パチパチと二度まばたきをする。
 絆創膏の下、ジクジクと皮膚のなかで鈍痛が広がるのを感じながら、明前は改めて主審に頭を下げてから杉山に向き直った。
「お騒がせしました」
「ヤバいとおもったら隠さず言えよ!」
「分かってます」
「明前──」
 杉山のこめかみに汗が流れる。
 明前の目が、いまだかつてないほどギラギラと光っていたからである。彼は興奮を隠しきれぬようすで、
「譲さん、俺──今までしてきた試合のなかで、今この試合が一番難しくって、楽しいッス」
 と言った。
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