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第四夜
第23話 釈尊のぬくもり
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宝泉寺本堂。
座布団を枕に寝ころがる人影がひとつ。一花である。
土日を過ぎて平日に入ってもなお、彼女は自分の家に帰ることなく宝泉寺に入り浸っている。どうやら一花の親は長期休暇をとったようで、とんと帰るようすがない。一秒だっておなじ空間にいたくない一花にとってあの家は監獄のようなものである。祖母のことは好きだが、あの家に一花をとどめ置くほどの理由にはならない。
──いつからこんなに。
一花はぼんやりと暗闇に浮かぶ釈尊像を見上げている。
蝋燭の明かりひとつないこの空間で、お堂の四方から感じるは脇仏とされる四体の仏像たちの視線である。仏像にはくわしくない。が、ここの本尊や脇仏たちがいま、孤独の沼に沈みゆく一花をやさしく見守ってくれているのは感じた。
──あたしってば、可哀想な子。
ごろりと寝返りを打つ。ひんやりとした床板が頬に当たって気持ちいい。
夜も更けたころにこのお堂へ忍び込むのは初めてではない。将臣と出会ってから幾度かこの寺に泊まったが、そのたびこうしてお堂に入っては、えも言われぬ温かさに包まれたくて、この板敷に転がるのである。
「ケイたん」
つぶやいた。
今日の昼過ぎ、恭太郎に連れられるがまま訪ねた勾留中の男は、一花の顔を見るなり慈愛に満ちた笑みを浮かべた。あのような笑みは親からだって向けられたことはなかった一花にとって、とてつもなく新鮮で、こそばゆくて、嬉しい体験だった。
彼はいったい誰だろう?
覚えていない。いや、自分の記憶力はあまり当てにならない。けれどどうやら、彼はむかしの一花を覚えていたようだった。
──キミには、ケイたん、と呼ばれてた。
面会室から退室する間際の彼の瞳は、深海のような濃紺色のなかに太陽が射し込むようなキラキラとした輝きが見えた。
「ケイ。ケイたん?」
また、呼んでみる。
すると不思議なことに、一花の瞳から涙がこぼれた。温湯につけたように、胸の内が温かくなったからだった。
「────あなたは、だれなの。──」
つぶやいた。
そのとき、本堂から外へ通ずる木戸ががたりと揺れた。一花が首だけをそちらに向けると、そこには麻の作務衣を着用した宝泉寺住職──浅利博臣が立っていた。
「和尚」
「またこんなところで君は」
「だってここ、気持ちいいんだもの。お母さんの胎盤にいるみたいに、あったかくて……」
「────」
博臣はゆっくりとお堂に入り、横たわる一花のとなりに腰を下ろした。
その表情は、木戸の隙間からさしこむ月明りひとつでは逆光になってよく見えない。一花はごろんと転がって、博臣のひざ元ににじり寄る。
博臣は左手に提げていた行灯に火をつけた。
彼の膝元のあたりが、柔らかい灯火に照らされる。
一花はようやく上半身を起こした。
一寸先は深い闇。ただ、手元だけが照らされたこの世界に、一花はひどい安心感を覚えている。和尚からただよい来るかすかな白檀の香りもまた、一花の心をリラックスさせた。
和尚は背筋を伸ばし、本尊を見上げる。
「釈尊の前で──嘘はつけないな」
「え?」
「いや。イッカちゃんの元気がないと聞いて、様子を見に来た」
「あたしの? 誰から聞いたの?」
「愚息だ。アレで友達のことをよく見てる」
「うん、知ってるわよ。将臣がいなくっちゃ、あたしも恭ちゃんもいまごろ大変なことになってるとおもう」
くすくすと肩を揺らす。本心である。
天邪鬼でつれないことも多いけれど、彼の心優しさにこれまで幾度救われたか知れない。いまだ頑なに『イッカ』と呼んではくれない彼だけれど、一花は彼を愛している。
博臣は釈尊を見上げたままつづける。
「今日、勾留中の被疑者に会ってきたんだって?」
「あ。ああ、うん。そう、びっくりしちゃった。あたしのこと知ってる風なこと言うの。その人、あたしから『ケイたん』って呼ばれてたんだって。あたし覚えてないのにさ。人違いじゃないの、ちゃんとあたしのことイッカって呼んだしね」
「────そうか」
といって、ようやく釈尊から視線を外すと、博臣は懐から一通の手紙を取り出した。海外からの郵便らしく住所やあて名はすべて英語で書かれている。
一花は博臣の手元を覗き込んだ。
便箋につづられた文字はすべて英語だったので、一花は早々に読むのを諦めた。
「だれから?」
「古い友人──いや、知人からだ。しばらく音沙汰のなかったヤツなんだがね、十数年ぶりに手紙をよこしてきたかとおもえば、日本に帰るだと。だがどうも配達がずいぶん遅れたんだな。彼はもうすでに帰国したようだ」
「ふうん」
「イッカちゃん、君が」
博臣が、手紙をていねいに四つ折りにして、ふたたび封筒へと戻してゆく。
「ほんとうにあの家には帰りたくないというのなら──『たすけて』とひと言言えばいい。君がおもうより君の周りには、イッカちゃんを大切に想う大人で溢れている。それを忘れないでほしい」
「? ────」
どういう意味かしら、と思った。
一花にとって大人というのは、信用できない生き物である。そんな自分も今、子どもから大人までの狭間たる『大学生』というモラトリアム期間を過ごしている。きっとそう遠くない未来で、自分もまた大人になってしまうのだと思うと嫌になる。
ここ数か月のなかで、浅利博臣や司、沢井などの警察官たちのように、目指したい大人に出会うことも増えた。彼らのような大人なら、なってもいいと思い始めた。けれどいつでも、脳裏のどこかにあらわれる。
──良い子だね。さあ、目を閉じて。
という、身に覚えのない大人の不気味な声色が、一花を芯からふるわせるのである。
突如黙りこくった一花を案ずるように博臣は背を丸めた。
「イッカちゃん」
「────」ハッと顔をあげた。「うん」
「じきに意味も分かる。さあ、もうお休み。ここで寝るなら布団を持って来ようか」
「ううん──部屋で寝る。ごめんなさい」
「なにが?」
「──仏さまたちのお休み、邪魔しちゃって?」
「ははは。それが仏さまのお仕事なんだ、気にするな」
と、博臣に背を押されて一花は本堂から一歩外に出る。
六月の夜風はすこし湿気を帯びてはいるが、ここが寺だからか涼しくて過ごしやすい。いまいちど本堂のなかへと目を向ける。先ほどまでこちらを見下ろしていたはずの釈尊はいま、すこし距離のあいた一花をやさしく見送ってくれている──ような気がした。
──宝泉寺の釈尊は目玉がうごく。
参拝客から時折聞こえるこの風聞も、あながち間違いではない。あの釈尊は見るたび目が合うのだから。本堂への襖が閉じられる間際、一花がひらりと釈尊へ手を振ると、仏像の瞳がわずかにきらりと光った気がした。
「さあ、寝よう」
「うん。和尚もありがとう、心配してくれて」
「せめてもの責務だ」
といって博臣は哀しげにわらった。
本堂から母屋へ戻り、博臣と別れ、客間へ向かおうと玄関からつづく廊下へ一歩踏み出したとき、階段から人が降りてくる気配を感じて顔をあげる。寝巻代わりの作務衣に羽織りを一枚肩にひっかけた将臣だった。
「あ。将臣」
「本堂にいたのか」
「ウン。でももう、寝る」
「そう」
「将臣、起きてたの?」
「本を読んでたんだ。もう寝るよ」
「そ」
おやすみ、と言いかけて、一花は将臣に向き直った。
彼は早く寝ろよ、と言いたげに眉を下げている。
「ねえ」
「ん」
「心配してくれたの?」
「は?」
「和尚が言ってたよ」
「元気がなさそうだった、って見たままのことを言っただけだ」
「うふふふふふ」
「気色わるいな──すっかりご機嫌なようで何よりだ。早く寝ろよ」
と、将臣は言いながらふたたび階段をあがっていった。
「────」
天邪鬼なんだから。
一花はフフフ、と再度わらってから客間へ行く。
わざわざ階段を降りてまでようすを見に来るほど情深いタチでありながら、つれない言葉ひとつで隠せているとおもっているのだから、彼もたいがい可愛らしい。一花は彼を、時折弟のように愛でたくなる衝動に駆られる。
明日は家に帰ってみよう。
それからどうするか、考えればいい。
一花は布団に入りながらそんなことを考えている。
座布団を枕に寝ころがる人影がひとつ。一花である。
土日を過ぎて平日に入ってもなお、彼女は自分の家に帰ることなく宝泉寺に入り浸っている。どうやら一花の親は長期休暇をとったようで、とんと帰るようすがない。一秒だっておなじ空間にいたくない一花にとってあの家は監獄のようなものである。祖母のことは好きだが、あの家に一花をとどめ置くほどの理由にはならない。
──いつからこんなに。
一花はぼんやりと暗闇に浮かぶ釈尊像を見上げている。
蝋燭の明かりひとつないこの空間で、お堂の四方から感じるは脇仏とされる四体の仏像たちの視線である。仏像にはくわしくない。が、ここの本尊や脇仏たちがいま、孤独の沼に沈みゆく一花をやさしく見守ってくれているのは感じた。
──あたしってば、可哀想な子。
ごろりと寝返りを打つ。ひんやりとした床板が頬に当たって気持ちいい。
夜も更けたころにこのお堂へ忍び込むのは初めてではない。将臣と出会ってから幾度かこの寺に泊まったが、そのたびこうしてお堂に入っては、えも言われぬ温かさに包まれたくて、この板敷に転がるのである。
「ケイたん」
つぶやいた。
今日の昼過ぎ、恭太郎に連れられるがまま訪ねた勾留中の男は、一花の顔を見るなり慈愛に満ちた笑みを浮かべた。あのような笑みは親からだって向けられたことはなかった一花にとって、とてつもなく新鮮で、こそばゆくて、嬉しい体験だった。
彼はいったい誰だろう?
覚えていない。いや、自分の記憶力はあまり当てにならない。けれどどうやら、彼はむかしの一花を覚えていたようだった。
──キミには、ケイたん、と呼ばれてた。
面会室から退室する間際の彼の瞳は、深海のような濃紺色のなかに太陽が射し込むようなキラキラとした輝きが見えた。
「ケイ。ケイたん?」
また、呼んでみる。
すると不思議なことに、一花の瞳から涙がこぼれた。温湯につけたように、胸の内が温かくなったからだった。
「────あなたは、だれなの。──」
つぶやいた。
そのとき、本堂から外へ通ずる木戸ががたりと揺れた。一花が首だけをそちらに向けると、そこには麻の作務衣を着用した宝泉寺住職──浅利博臣が立っていた。
「和尚」
「またこんなところで君は」
「だってここ、気持ちいいんだもの。お母さんの胎盤にいるみたいに、あったかくて……」
「────」
博臣はゆっくりとお堂に入り、横たわる一花のとなりに腰を下ろした。
その表情は、木戸の隙間からさしこむ月明りひとつでは逆光になってよく見えない。一花はごろんと転がって、博臣のひざ元ににじり寄る。
博臣は左手に提げていた行灯に火をつけた。
彼の膝元のあたりが、柔らかい灯火に照らされる。
一花はようやく上半身を起こした。
一寸先は深い闇。ただ、手元だけが照らされたこの世界に、一花はひどい安心感を覚えている。和尚からただよい来るかすかな白檀の香りもまた、一花の心をリラックスさせた。
和尚は背筋を伸ばし、本尊を見上げる。
「釈尊の前で──嘘はつけないな」
「え?」
「いや。イッカちゃんの元気がないと聞いて、様子を見に来た」
「あたしの? 誰から聞いたの?」
「愚息だ。アレで友達のことをよく見てる」
「うん、知ってるわよ。将臣がいなくっちゃ、あたしも恭ちゃんもいまごろ大変なことになってるとおもう」
くすくすと肩を揺らす。本心である。
天邪鬼でつれないことも多いけれど、彼の心優しさにこれまで幾度救われたか知れない。いまだ頑なに『イッカ』と呼んではくれない彼だけれど、一花は彼を愛している。
博臣は釈尊を見上げたままつづける。
「今日、勾留中の被疑者に会ってきたんだって?」
「あ。ああ、うん。そう、びっくりしちゃった。あたしのこと知ってる風なこと言うの。その人、あたしから『ケイたん』って呼ばれてたんだって。あたし覚えてないのにさ。人違いじゃないの、ちゃんとあたしのことイッカって呼んだしね」
「────そうか」
といって、ようやく釈尊から視線を外すと、博臣は懐から一通の手紙を取り出した。海外からの郵便らしく住所やあて名はすべて英語で書かれている。
一花は博臣の手元を覗き込んだ。
便箋につづられた文字はすべて英語だったので、一花は早々に読むのを諦めた。
「だれから?」
「古い友人──いや、知人からだ。しばらく音沙汰のなかったヤツなんだがね、十数年ぶりに手紙をよこしてきたかとおもえば、日本に帰るだと。だがどうも配達がずいぶん遅れたんだな。彼はもうすでに帰国したようだ」
「ふうん」
「イッカちゃん、君が」
博臣が、手紙をていねいに四つ折りにして、ふたたび封筒へと戻してゆく。
「ほんとうにあの家には帰りたくないというのなら──『たすけて』とひと言言えばいい。君がおもうより君の周りには、イッカちゃんを大切に想う大人で溢れている。それを忘れないでほしい」
「? ────」
どういう意味かしら、と思った。
一花にとって大人というのは、信用できない生き物である。そんな自分も今、子どもから大人までの狭間たる『大学生』というモラトリアム期間を過ごしている。きっとそう遠くない未来で、自分もまた大人になってしまうのだと思うと嫌になる。
ここ数か月のなかで、浅利博臣や司、沢井などの警察官たちのように、目指したい大人に出会うことも増えた。彼らのような大人なら、なってもいいと思い始めた。けれどいつでも、脳裏のどこかにあらわれる。
──良い子だね。さあ、目を閉じて。
という、身に覚えのない大人の不気味な声色が、一花を芯からふるわせるのである。
突如黙りこくった一花を案ずるように博臣は背を丸めた。
「イッカちゃん」
「────」ハッと顔をあげた。「うん」
「じきに意味も分かる。さあ、もうお休み。ここで寝るなら布団を持って来ようか」
「ううん──部屋で寝る。ごめんなさい」
「なにが?」
「──仏さまたちのお休み、邪魔しちゃって?」
「ははは。それが仏さまのお仕事なんだ、気にするな」
と、博臣に背を押されて一花は本堂から一歩外に出る。
六月の夜風はすこし湿気を帯びてはいるが、ここが寺だからか涼しくて過ごしやすい。いまいちど本堂のなかへと目を向ける。先ほどまでこちらを見下ろしていたはずの釈尊はいま、すこし距離のあいた一花をやさしく見送ってくれている──ような気がした。
──宝泉寺の釈尊は目玉がうごく。
参拝客から時折聞こえるこの風聞も、あながち間違いではない。あの釈尊は見るたび目が合うのだから。本堂への襖が閉じられる間際、一花がひらりと釈尊へ手を振ると、仏像の瞳がわずかにきらりと光った気がした。
「さあ、寝よう」
「うん。和尚もありがとう、心配してくれて」
「せめてもの責務だ」
といって博臣は哀しげにわらった。
本堂から母屋へ戻り、博臣と別れ、客間へ向かおうと玄関からつづく廊下へ一歩踏み出したとき、階段から人が降りてくる気配を感じて顔をあげる。寝巻代わりの作務衣に羽織りを一枚肩にひっかけた将臣だった。
「あ。将臣」
「本堂にいたのか」
「ウン。でももう、寝る」
「そう」
「将臣、起きてたの?」
「本を読んでたんだ。もう寝るよ」
「そ」
おやすみ、と言いかけて、一花は将臣に向き直った。
彼は早く寝ろよ、と言いたげに眉を下げている。
「ねえ」
「ん」
「心配してくれたの?」
「は?」
「和尚が言ってたよ」
「元気がなさそうだった、って見たままのことを言っただけだ」
「うふふふふふ」
「気色わるいな──すっかりご機嫌なようで何よりだ。早く寝ろよ」
と、将臣は言いながらふたたび階段をあがっていった。
「────」
天邪鬼なんだから。
一花はフフフ、と再度わらってから客間へ行く。
わざわざ階段を降りてまでようすを見に来るほど情深いタチでありながら、つれない言葉ひとつで隠せているとおもっているのだから、彼もたいがい可愛らしい。一花は彼を、時折弟のように愛でたくなる衝動に駆られる。
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