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第二章
第7話 恋は毒だ
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牛太郎。
伎夫即ち客引のことである。老婆により、扇屋と縁故ある茶屋で牛太郎をする男のもとへと案内された。
男は鶴吉といった。
丸まった背、痩けた頬と反っ歯を一目見て、岡部の瞳に疑惑の念が浮かぶ。人相で人柄を決めつけるつもりはないが、この男はやりそうだ──と目を光らせた。
虎視眈々と襤褸が出るのを待つ友人に気付いたか、惣兵衛は岡部の背中をつねる。
「イダッ」
「阿呆、そない目ェした奴に聞かれたって話す気失せてまうわ。どうしょうもないんやったら目隠ししとけ」
「…………」
ごもっともで。
と卑屈に返して眉間を揉む。
老婆の口添えもあって、ちぐはぐなふたりは茶屋の一室に招かれた。こういう場は惣兵衛にとっては慣れたものだが、岡部は初体験である。妓をつけるかと聞かれたが固まる友人を慮ってか、惣兵衛が丁重に断りを申し上げた。
座敷の一室に腰を下ろす。幼い娘たちが茶を運び入れたのち、卓を挟んだ向かいに座る男は居住まいを正した。
「それで、長浜のことで聞きたいこととは」
口火を切ったのは鶴吉だった。
岡部が身を乗り出す。
「先日起きたころしは知っておろう。二人目が長浜ちゅう娘やった」
「へえ、それはもう。えらいおぼこいころから見とりましたんで──まさか儂が疑われとりますか」
「長浜について聞きたいだけや。新町から抜けてなにゆえ九郎右衛門町にてふたたび芸妓となったんか、貴様なら知っているやもしれんと聞いた」
ほうですか、と男は目を伏せる。
見た目がどうもとぼけた顔なので、たいして気にしていないものと思っていたが、顔はもともとで、内心はえらく傷付いているようである。岡部はすこし反省した。
「手引きしたんは儂ですわ。ここ抜けるいうたときも、向こうでまたやるいうたときも。男関係で悩んどったんで、姐さんらにも言えへんかったみたいで」
「男関係」
「はあ。えらい惚れ込んでしもたみたいでなぁ、こないなとこにおったら嫌われてまうかもわからんいうて──足抜けしたんやけども。どうも男は籠の鳥やったから良かったんや、みたいなこと言うたらしゅうて。ほんでもいまさら新町戻るわけにもいかへんから、泣く泣く九郎右衛門町で再出発を」
なんちゅう男や、と惣兵衛が不服そうに顔をしかめる。
「自分のために親元飛び出した娘に言うことちゃうわ」
「儂も、そんな男はやめたがいいと言うとったんですがねえ」
「そ、そんなこと言われても長浜は男が好きやったんか」岡部は動揺した。
「そうのようですよ。人間は恋すると変わるもんですな、これまでは姐さんたち見て、自分だけは男に振り回されんように、なんて自分を律しておった長浜が、あの様や」
「…………」
恋など。
岡部にはいまだ分かるまい。しかし、恋で身を滅ぼしかけた男が身近にいることもまた、事実であった。
恋はまるで──毒だ。
内心の声が漏れ出たか、惣兵衛はせやなあ、と相づちを打つ。
「ほんでも毒を食らわば骨まで、とも言うやろ。一度恋してしもたらもうあかんねんな。長浜はたぶん、恋した男がわるかったんや──」
「…………」
「その男のことは儂も知らんです。知っておったら、儂がそやつをころしとるかもわかりまへん」
「鶴吉どの」
「なあに、そのくらい悔しいちゅう話ですわ。おのれの娘とおんなじようなもんでしたさかいに」
といって、鶴吉は泣いた。
岡部はいよいよ申し訳なくなって、深々と頭を下げて礼を言った。ふだん人に頭を下げることのない友人の姿に、惣兵衛は唇を噛みしめてその肩を叩いた。
茶屋を辞したのはそれからまもなくのこと。
わずか小半刻にも満たぬ滞在であったが、岡部の顔はさっぱりしている。
惣兵衛はじとりとその面を見下ろした。
「なんや、一発出してきたみたいな顔して」
「ぶ、無礼者!」岡部の頬が染まる。
「あ。こういうからかいは通じんねや」
「とにかく無慚と合流せねば。なにかしら、男が絡んでおることは間違いない」
と、猛烈にやる気に満ちる岡部。
これ以上なにかを求められる前に退散しよう、と惣兵衛が荷を背負った。
「ほうか、ほな頑張りィ」
「待て惣兵衛」
「今度はなんやねん」
「いろいろ助かった。かたじけない」
「…………」
「な、なんやその顔」
その顔、とは、末法の世を見るような惣兵衛の表情である。惣兵衛は岡部の額に手を当てた。その身長差から、端から見るとおおきな子どもを心配する大人である。
「自分、熱でも出たんちゃうか。わるいこと言わんから、無理せんとはよう帰って眠りィ」
「たわけ! 俺とて人に礼くらい言うわ阿呆ッ」
「ヨーシヨシ。しゃーないなぁ。兄貴が心配やし、無慚のとこまで送り届けたろ。ホンマはあんまし気ィが進まんのやけど。まったくおのれの面倒見の良さには呆れてまうわァ」
「頼んどらんッ」
巳の刻告げる鐘が鳴る。
さて無慚はいずこ。惣兵衛がつぶやくと、岡部は「だいたい決まっとる」と鼻をならした。
「あいつの行動範囲は限定されよる。どうせおふなどのの団子屋か芝居小屋通りあたりやろ」
「芝居小屋は通り道やし、おふなさんとこ行きがてら覗いてみよか」
「貴様、仕事はええんか」
「もうええわ。どうせ店閉めとるし、もうこの際とことん付き合うたるわ」
と、惣兵衛は苦笑した。
九郎右衛門町から道頓堀南岸沿いに並ぶ芝居小屋前に、以前ほどの盛況はない。付近で死体が出たためかと観劇帰りの男に聞けば、そうでもないという。きっかけはそうでも、『国姓爺合戦《こくせんやかっせん》』の景気自体も、ひとつ終わりを迎えはじめているということか。
およそ十年前も曾根崎心中ひとつを観るために、人が蜂のようにごった返していたものだが、気づけばさっぱり消えとったしな、と岡部はちいさくつぶやいた。
せやな、と惣兵衛は肩を落とす。
「人の噂も七十五日、とはちゃうけども。人間何事も、そこまでひとつの物事に興味を持つ方が難しいちゅうことやなァ」
「しかしわるい印象はいつまで経っても拭えぬものか。十年経てども、無慚は」
「あれはもう、興味云々の問題ちゃうやんか。無慚の顔を見りゃ『こいつは悪や』と思うてしまう、単なる刷り込みやろ。無慚のことなんやなーんも知らんと、事件の悲しみを怒りに変えてぶつけとるだけ。ただの駄々や」
「…………」
「罪を憎んで人を憎まずっちゅうことばが、海の向こうにはあるそうや。──あの事件でいちばん悲しみ背負うたんは無慚のはずやろ。それを、たいして関係もあらへん野次馬どもが、誰かの代弁者気取って、声でかく叫んどるだけや」
(惣兵衛が)
怒っている。
いつもならば人あたり良く、どちら側にもつかぬ俯瞰した意見を述べる男だが、無慚がわるく言われることは鼻持ちならぬらしい。
岡部は戎橋から道頓堀川をのぞむ。
水はつねに走り続ける。なにものを振り返ることもなく。
(人の記憶も感情も、水に流れてしまえばいいのに)
柄にもなく岡部はそんなことを思った。
せやから俺な、と隣で惣兵衛も欄干に手をかける。
「岡部が、いまだに無慚と仲良うしとるんが嬉しいねん」
「仲良うなどしとらんわ。気色のわるい」
「べつに特別仲良うしとるって言うとんちゃう。自分が無慚に、阿呆だの頓馬だの、悪口言うてくれてると安心すんねんな」
「変な趣向やな」
「んふふふ」
惣兵衛は笑った。
軽口を叩く岡部ではあったが、この古い友人の言うことには共感した。岡部もまた、惣兵衛が無慚のために怒りをあらわにしたとき、心のどこかでホッとしたのである。
たとえただの腐れ縁であろうとも、かつて若者衆として共に青臭い時代を過ごした仲間。大切に思う気持ちも嘘ではないのだ。
さあて、と惣兵衛が前を向く。
「芝居小屋近辺におらんとなると、あとは団子屋やな。行ってみよか」
「応」
川から吹く風が頬を撫でる。
年の瀬というに、風は妙に生ぬるかった。
伎夫即ち客引のことである。老婆により、扇屋と縁故ある茶屋で牛太郎をする男のもとへと案内された。
男は鶴吉といった。
丸まった背、痩けた頬と反っ歯を一目見て、岡部の瞳に疑惑の念が浮かぶ。人相で人柄を決めつけるつもりはないが、この男はやりそうだ──と目を光らせた。
虎視眈々と襤褸が出るのを待つ友人に気付いたか、惣兵衛は岡部の背中をつねる。
「イダッ」
「阿呆、そない目ェした奴に聞かれたって話す気失せてまうわ。どうしょうもないんやったら目隠ししとけ」
「…………」
ごもっともで。
と卑屈に返して眉間を揉む。
老婆の口添えもあって、ちぐはぐなふたりは茶屋の一室に招かれた。こういう場は惣兵衛にとっては慣れたものだが、岡部は初体験である。妓をつけるかと聞かれたが固まる友人を慮ってか、惣兵衛が丁重に断りを申し上げた。
座敷の一室に腰を下ろす。幼い娘たちが茶を運び入れたのち、卓を挟んだ向かいに座る男は居住まいを正した。
「それで、長浜のことで聞きたいこととは」
口火を切ったのは鶴吉だった。
岡部が身を乗り出す。
「先日起きたころしは知っておろう。二人目が長浜ちゅう娘やった」
「へえ、それはもう。えらいおぼこいころから見とりましたんで──まさか儂が疑われとりますか」
「長浜について聞きたいだけや。新町から抜けてなにゆえ九郎右衛門町にてふたたび芸妓となったんか、貴様なら知っているやもしれんと聞いた」
ほうですか、と男は目を伏せる。
見た目がどうもとぼけた顔なので、たいして気にしていないものと思っていたが、顔はもともとで、内心はえらく傷付いているようである。岡部はすこし反省した。
「手引きしたんは儂ですわ。ここ抜けるいうたときも、向こうでまたやるいうたときも。男関係で悩んどったんで、姐さんらにも言えへんかったみたいで」
「男関係」
「はあ。えらい惚れ込んでしもたみたいでなぁ、こないなとこにおったら嫌われてまうかもわからんいうて──足抜けしたんやけども。どうも男は籠の鳥やったから良かったんや、みたいなこと言うたらしゅうて。ほんでもいまさら新町戻るわけにもいかへんから、泣く泣く九郎右衛門町で再出発を」
なんちゅう男や、と惣兵衛が不服そうに顔をしかめる。
「自分のために親元飛び出した娘に言うことちゃうわ」
「儂も、そんな男はやめたがいいと言うとったんですがねえ」
「そ、そんなこと言われても長浜は男が好きやったんか」岡部は動揺した。
「そうのようですよ。人間は恋すると変わるもんですな、これまでは姐さんたち見て、自分だけは男に振り回されんように、なんて自分を律しておった長浜が、あの様や」
「…………」
恋など。
岡部にはいまだ分かるまい。しかし、恋で身を滅ぼしかけた男が身近にいることもまた、事実であった。
恋はまるで──毒だ。
内心の声が漏れ出たか、惣兵衛はせやなあ、と相づちを打つ。
「ほんでも毒を食らわば骨まで、とも言うやろ。一度恋してしもたらもうあかんねんな。長浜はたぶん、恋した男がわるかったんや──」
「…………」
「その男のことは儂も知らんです。知っておったら、儂がそやつをころしとるかもわかりまへん」
「鶴吉どの」
「なあに、そのくらい悔しいちゅう話ですわ。おのれの娘とおんなじようなもんでしたさかいに」
といって、鶴吉は泣いた。
岡部はいよいよ申し訳なくなって、深々と頭を下げて礼を言った。ふだん人に頭を下げることのない友人の姿に、惣兵衛は唇を噛みしめてその肩を叩いた。
茶屋を辞したのはそれからまもなくのこと。
わずか小半刻にも満たぬ滞在であったが、岡部の顔はさっぱりしている。
惣兵衛はじとりとその面を見下ろした。
「なんや、一発出してきたみたいな顔して」
「ぶ、無礼者!」岡部の頬が染まる。
「あ。こういうからかいは通じんねや」
「とにかく無慚と合流せねば。なにかしら、男が絡んでおることは間違いない」
と、猛烈にやる気に満ちる岡部。
これ以上なにかを求められる前に退散しよう、と惣兵衛が荷を背負った。
「ほうか、ほな頑張りィ」
「待て惣兵衛」
「今度はなんやねん」
「いろいろ助かった。かたじけない」
「…………」
「な、なんやその顔」
その顔、とは、末法の世を見るような惣兵衛の表情である。惣兵衛は岡部の額に手を当てた。その身長差から、端から見るとおおきな子どもを心配する大人である。
「自分、熱でも出たんちゃうか。わるいこと言わんから、無理せんとはよう帰って眠りィ」
「たわけ! 俺とて人に礼くらい言うわ阿呆ッ」
「ヨーシヨシ。しゃーないなぁ。兄貴が心配やし、無慚のとこまで送り届けたろ。ホンマはあんまし気ィが進まんのやけど。まったくおのれの面倒見の良さには呆れてまうわァ」
「頼んどらんッ」
巳の刻告げる鐘が鳴る。
さて無慚はいずこ。惣兵衛がつぶやくと、岡部は「だいたい決まっとる」と鼻をならした。
「あいつの行動範囲は限定されよる。どうせおふなどのの団子屋か芝居小屋通りあたりやろ」
「芝居小屋は通り道やし、おふなさんとこ行きがてら覗いてみよか」
「貴様、仕事はええんか」
「もうええわ。どうせ店閉めとるし、もうこの際とことん付き合うたるわ」
と、惣兵衛は苦笑した。
九郎右衛門町から道頓堀南岸沿いに並ぶ芝居小屋前に、以前ほどの盛況はない。付近で死体が出たためかと観劇帰りの男に聞けば、そうでもないという。きっかけはそうでも、『国姓爺合戦《こくせんやかっせん》』の景気自体も、ひとつ終わりを迎えはじめているということか。
およそ十年前も曾根崎心中ひとつを観るために、人が蜂のようにごった返していたものだが、気づけばさっぱり消えとったしな、と岡部はちいさくつぶやいた。
せやな、と惣兵衛は肩を落とす。
「人の噂も七十五日、とはちゃうけども。人間何事も、そこまでひとつの物事に興味を持つ方が難しいちゅうことやなァ」
「しかしわるい印象はいつまで経っても拭えぬものか。十年経てども、無慚は」
「あれはもう、興味云々の問題ちゃうやんか。無慚の顔を見りゃ『こいつは悪や』と思うてしまう、単なる刷り込みやろ。無慚のことなんやなーんも知らんと、事件の悲しみを怒りに変えてぶつけとるだけ。ただの駄々や」
「…………」
「罪を憎んで人を憎まずっちゅうことばが、海の向こうにはあるそうや。──あの事件でいちばん悲しみ背負うたんは無慚のはずやろ。それを、たいして関係もあらへん野次馬どもが、誰かの代弁者気取って、声でかく叫んどるだけや」
(惣兵衛が)
怒っている。
いつもならば人あたり良く、どちら側にもつかぬ俯瞰した意見を述べる男だが、無慚がわるく言われることは鼻持ちならぬらしい。
岡部は戎橋から道頓堀川をのぞむ。
水はつねに走り続ける。なにものを振り返ることもなく。
(人の記憶も感情も、水に流れてしまえばいいのに)
柄にもなく岡部はそんなことを思った。
せやから俺な、と隣で惣兵衛も欄干に手をかける。
「岡部が、いまだに無慚と仲良うしとるんが嬉しいねん」
「仲良うなどしとらんわ。気色のわるい」
「べつに特別仲良うしとるって言うとんちゃう。自分が無慚に、阿呆だの頓馬だの、悪口言うてくれてると安心すんねんな」
「変な趣向やな」
「んふふふ」
惣兵衛は笑った。
軽口を叩く岡部ではあったが、この古い友人の言うことには共感した。岡部もまた、惣兵衛が無慚のために怒りをあらわにしたとき、心のどこかでホッとしたのである。
たとえただの腐れ縁であろうとも、かつて若者衆として共に青臭い時代を過ごした仲間。大切に思う気持ちも嘘ではないのだ。
さあて、と惣兵衛が前を向く。
「芝居小屋近辺におらんとなると、あとは団子屋やな。行ってみよか」
「応」
川から吹く風が頬を撫でる。
年の瀬というに、風は妙に生ぬるかった。
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