無慚

乃南羽緒

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第四章

第19話 狐憑き

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『狐憑き』──。
 このことばで、草木鳥獣はけたたましく喚きだす。あまりの騒がしさに無慚が話を中断させて「うるせえ」と一喝するほどであった。しかし、鳥獣はピタリと鳴きやむものの、草木は黙らぬ。
 彼らは必死に無慚へ伝えようとしている。
(なんだ)
 と、無慚が一本の大樹を睨みつけた。
 この樹がいちばん話が通じるとおもった。樹は、ほかの草木が黙りきってから、重々しい口調で無慚へ語りかけた。

“狐憑き 恐ろしや 恐ろしや”
(なにが恐ろしい)
“おのれも気付かず 人をころすよ あな恐ろしや”
(人を──?)
"乞われて目覚める 奴を起こすな“
「たれのことだ」

 おもわず無慚がさけぶ。
 夜闇がピリリと張りつめた。大樹が枝葉をふるわせ、わらう。

"誑かすは徳兵衛 ころすは別“

 と。
 言ったきり大樹は沈黙した。
 それで終わりかよ、と無慚は地団駄を踏んだ。が、名を聞いた。大樹は言った。──徳兵衛、と。
「おい惣兵衛」
「な、なんや」
「この町に徳兵衛なんて男いるか」
「徳兵衛──いや。いまはもういてへんけどやな、いやしかし、徳兵衛ちゅうたら、その」
 惣兵衛はおもわず閉口する。
 友人が言いたいことは、無慚にも分かっている。この町で徳兵衛という名が意味するものなど、ひとつしかない。
「これもまた、曾根崎心中かェ。……」
 無慚は憎々しげにつぶやいた。
 『曾根崎心中』──かつて曾根崎の森にて情死したという、大坂堂島新地天満屋の女郎と、内本町醤油商平野屋の手代。この手代の名は"徳兵衛“。
 狐憑き。
 徳兵衛。
 人に乞われて──。
 惣兵衛ッ、と無慚は錫杖の石突きを地に叩きつけた。
「同心岡部に伝えろ。女を誑かす徳兵衛なる男、町中を至急取り締まれと」
「なんやて」
「泰吉。テメーはおれとともに畜生どもの墓を作れ。そのためにここへ呼んだ」
「なんや、気が滅入る仕事やなぁ」
「ちょォ待ち。その徳兵衛いうんがころしの犯人か?」
「いや、ころしは別だ。同じかもしれんが──少なくとも徳兵衛ではないらしい」
「は?」
 惣兵衛はキョトンとした。
 が、
「無慚様、私は──」
 蕎麦屋の若主人もとい忍装束の男が目を細める。すっかり無慚の駒として動く気らしい。無慚は一瞬沈黙し、やがて険しい顔で男を睨んだ。
 四人目を張る、と。
 無慚はふたたび錫杖を地面に突く。
「四人目?」惣兵衛が目を丸くした。「つぎの被害者っちゅうことか」
「ああ」
「どこのどいつや。そらァ」
「コイツだよ」
 と。
 無慚が懐に手を突っ込む。ずるりと中身を取り出す。ふなの店から忍ばせていたか──その中身とは黒猫であった。
 首根っこを掴まれたコテツは琥珀色の瞳を皿にして、ふてぶてしい顔で周囲をにらみつける。にゃあ、と抗議するように鳴いて、四つ足をパタパタと動かしている。
「──猫」
「おう無慚。この猫、玉がついとるようやけど、これが四人目の娘はんやとでも言わはるんかェ」
 泰吉が吹き出すのをこらえる顔をした。
「おろか者」
 しかし無慚はピシャリと一蹴。
 猫を地面に置き、

「この猫の飼い主よ」

 錫杖の先でその尻をつついた。

 ※
 岡部は早足で歩く。
 うしろからついてくるふたりの若人は、その早足につられて自然と早歩きに変わる。三郎治はたっぱがあるゆえそれほどでもないが、小柄なこいとはもはや小走りに近い。
 いじわるをしているのではない。
 特段、彼らと話すことがないだけのこと。武士たるもの無駄な口は開かぬのが信条──とは建前で、苦手な女とは早く離れてひとりになりたいというのが実情である。
 早く犯人を捕まえねば。
 逸る気持ちが、岡部の足を加速させる。

「今日は──夢のような一日でした」

 ふと三郎治がつぶやいた。
 夢見心地な声色で、うっとりと虚空を眺める。いったいどの辺りが夢のようだったのか、具体的に聞きたいものだが、岡部は「む」とちいさく返すのみでふたたび黙った。代わりにこいとが「夢のような?」と問う。
 三郎治はつづける。
「無慚の兄貴とこれほどお話できるやなんて、昔の俺やったら考えられへんやった。もちろん岡部さんも、惣兵衛さんもそうや。ホンマに今日はありがとうございました」
 と、とうとう立ち止まって頭を下げる三郎治。これでは岡部が足を止めないわけにもゆかぬ。振り返って鼻頭をポリポリと掻いた。
「俺が礼を言われる筋合いはない。むしろ無慚の為と、聞き込みをしてくれたのは三郎治とこいとどのや。こちらから礼を言わんといかん」
「えっ。いえそんな」
「ええんですよホンマに。俺も役得でしたわ」
 三郎治はクスクスわらう。
 それを見た岡部はいよいよ疑問におもった。
「三郎治」
 と眉根を寄せて彼を見る。
「貴様は無慚のことを尊敬しておるようだが」
「ええ──」
「そのわけはあるのか。旧友として言うのもなんだが、ヤツは昔からたいそうな無頼漢で、子どもには興味ひとつもなかった男や。おぬしに何かしてやったこともなかろうに」
「それは、ええ。そもそもあの頃──兄貴は俺のことすら知らんかったんちゃうかな。まだ若者衆にもいれてもらえへん歳やったし」
「へえ。そうなんや!」
 そうである。
 三郎治はガキだった。無慚や岡部、惣兵衛に泰吉といった若者真っ只中の兄貴分たちを、影からこっそり憧憬するような、慎ましい子どもであった。
 いつからだったのだろうか。
 この三郎治が、無慚のそばに寄り来て慕うようになったのは。
「無慚の兄貴は──とかく俺のあこがれでした。もう立っとるだけでも眩しくって。どこがと聞かれたらもうすべてとしか言えへんくらいに、大好きで……」
「趣味のわるいヤツだ。それはいつから?」
「よう覚えとらんですが、兄貴が真名をお捨てになる前からなんは確かや。でもやっぱり、俺がいちばん好きになったんはあの──」
「いや待て」
 もういい、と。
 岡部の胸にざわりと不快感がめぐる。
 自分でも分からぬが、心がそれ以上のことばを拒んだ。こいとはこてりと首をかしげ、三郎治はそうですかとすこし残念そうにつぶやいた。
 まもなく本間米屋である。
 米屋の娘さえ帰してしまえば、三郎治は男だしひとりで帰るも特段問題なかろう、と足を止めた岡部。西町奉行所は野田村と反対方向になる。三郎治もそれを承知したようで、改まって岡部に向き直った。
 吸い込まれそうな瞳にたじろぐ。いろいろと気をわるくすることを聞いただろうか、と岡部はあわてて礼を言った。
「三郎治、こいとどのも。ホンマに今日はいろいろと助かった」
「あ、いえそんな」
「こうして協力者が増えるんはええことやな。娘が、もう三人もころされた──。みなおのれから『くれ』と言うわけもない、先ある若者や。その命が訳も分からぬまま奪われとるのだ。はように片を付けんと、娘たちも浮かばれまい」
「ころ、して──」
 三郎治がつぶやく。
 柔和な眉と、すこし垂れた横長の瞳、すっきりと通った鼻筋──三郎治はその整った顔をゆっくりとあげ上唇をぺろりと舐めた。
「そうですね」
 三郎治は笑んでいる。
 こいとは深々と辞儀をした。
「岡部様、お送りくだすってどうもおおきに」
「うむ。戸締まり用心せえよ。まあ、ここの親父どのがいてるんやったら心配ないとはおもうが」
「よくも悪くもですね──ホンマに、あんなお人やとおもわへんかった。うちこれからはもうちょっと、世間をよう見ることにします」
「フフ、それがええな」
 短い挨拶のなか、最後まで本間の主人は出てこなかった。岡部にしてみれば好都合だ。
 気をつけて帰れよ、と三郎治にも言い伝え、岡部はふたりの深い辞儀を背にそそくさと米屋から離れた。
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