6 / 35
第一夜
第5話 相談事
しおりを挟む
まあ、と神那の声に悲壮の色が混じった。
どうやらこの人のよい姉は、亡くなったと告げられた人物に心当たりがあるらしい。よくよく話を聞くと、恭太郎は知らなかったのだが、相談者の生家である相良家とわが藤宮家とは、なかなかの交流があったのだそうである。神那が幼いころのことゆえ、神楽や恭太郎は知らずとも当然らしいが、とかく神那は此度亡くなったという冬陽の祖母にはよくしてもらった記憶があるのだとか。
恭太郎は首をかしげた。
「薙刀道場で知り合ったのじゃないんですか」
「ぐうぜんに再会したのですよ。十年くらい前、冬陽さんが道場に入ってくださって」
「いえその──それも、神那さんが通われているというのを聞いて、私も入ろうとおもったのです。神那さんのことはすこしだけですが、遊んでもらったお姉さんって記憶していたものですから」
と、すこし恥ずかしそうに冬陽は言った。
ふたりから語られる昔話を要約すると次のようなものだった。
藤宮家と相良家のあいだに縁ができたのは恭太郎たちの祖父の世代。当時大東亜戦争只中にあった日本では、昭和二十年の三月に起きた東京大空襲の影響で祖父の弟妹たち──恭太郎からすれば大叔父、大叔母にあたる──が岩手県遠野町あたりに集団疎開をした。相良家もまた陸奥の山深いところにあり、当時十歳だったという冬陽の祖母ミチ子が、疎開してきた学童たちと縁を結んだ。そのなかに、藤宮家の子どもたちもいたという。
当時はまだ財閥とは程遠かった藤宮家の子どもたちに対し、当時から村の名士と名高い大地主であった相良家はたいへんによくしたという。というよりも、単純にミチ子と殊更仲良くなったのが藤宮の子であったにすぎないが、戦時中でありながら周囲に隠れてこっそりと食事の提供もしてやったのだとか。
ちなみに恭太郎たちの祖父正太郎は、特別年少兵に志願したために、当時十七歳で特攻隊員として自身の出番を待っていたが、出番が来る前に終戦を迎えたため飛ばずに済んだそうだ。このとき彼が神風に乗っていたならいまの藤宮家もないのだから、運命というのはわからない。
さて、終戦後になって子どもたちから話を聞いた正太郎が、弟妹たちが世話になった礼をしたいと手紙を送り、それから相良家と藤宮家とのあいだで、文通交流がはじまったのだそうである。
それも、時の流れとともにいつしか途絶えていたが、二十一世紀になってすぐ、七十歳を超えていた正太郎が孫を連れて相良家へとやってきた。自身の生い先が永くないとおもってのことだったのだろうが、その際に当時九歳だった神那と七歳だった冬陽が出会った──。
「なんだ、祖父上つながりだったわけですか」
「正しくは大叔父様、大叔母様たちなのですけれどね。でもけっきょく、一番恩を感じていらしたのがじい様でしたから、縁を切らさず繋いでくださったのでしょう。それで冬陽さんは、あの日わたしたちが訪問したことを覚えていてくださっていたのですか」
「ええ。あの頃はもう、相良は名ばかり地主にすぎなくて、藤宮のおうちがとってもご立派でいらしたから。孝太郎さんも神来さんも、神那さんも──みなさん品がよくていらして、なんだか自分とはちがう世界から来た方たちなんだわって、子どもながらに思っていました」
と、冬陽ははにかんだ。
──会ったのは一回こっきりか。
恭太郎は無意識のうちに首を左にかたむけている。この異常な聴覚のなかで、もっとも異常と言えるのはここにある。とくに左耳。通常の声音の奥から聞こえる音がある。
音、なのである。
『人心の声』だと人は言う。そうなのだろうと恭太郎もおもう。
しかしそれは声でもあるが音でもある。
おそらくは感情の音なのだろうとおもっている。
人の心は時として、言葉にできない情を抱くことがある。
もやもや。ぐるぐる。ざわざわ。ざくざく。
この聴覚と長らく付き合ってきて分かったのは、人の情というのはそれなりに共通しているということ。さらには情の種類は無限にあるということも。
寺などは大みそかに除夜の鐘を打ち鳴らし、百八の煩悩を払うというが、百八どころではない──と、恭太郎はひそかにおもっている。だからといってそれらをリスト化することは一生ないだろう。人の情はほとんどが向き合うには醜いものが多すぎる。
──憧れたんだな。
と恭太郎は首をもとにもどした。
憧れた──と冬陽から声が聞こえたわけではない。ことばの裏に憧憬の音を聞いた。恭太郎はこうして、総合的に人心の声を聞いている。
「中学にあがる頃に上京して、なかなか友人が出来ない私を見かねて、十七歳のときに母が教えてくれたんです。薙刀道場に神那さんが通っていらっしゃるって」
「それで道場まで訪ねてくださったんですね。でも、どうしてわたしが道場に通っていると知っていらしたのかしら」
「正太郎さまがお手紙で近況を寄越してくだすったそうです。神那さんとはいちばん年齢も近かったですし、神那さんがいるなら私もやってみたいって、言ったんです」
うふふ、と笑い合うふたりの淑女たちを前に、恭太郎は欠伸をひとつした。
恭太郎は飽きている。
話がちっとも相談事とやらにたどり着かないからである。しかしあんまり退屈なすがたを見せると神那が悲しむだろうとおもった恭太郎は、あわてて欠伸をかみ殺す。
神那がそれで、と話題を変えた。
「ミチ子おばあ様はいつ?」
「一昨日です。使用人の方がその日に発見されたそうで、お布団のなかで静かに息を引き取っていたそうです。前日までは元気だったそうですから──人間というのは、分からないものですね」
「そうだったの──それは、座敷わらしさんも悲しんでらっしゃるでしょうね」
といって眉を下げる。
──座敷わらし。
恭太郎がちらりと冬陽の方を見る。
じつは先ほどから気になっていた単語がある。彼女のなかにずっと渦巻く不穏な感情と寄り添うように併存するこのことば──。
「わらしもり」
おもわずつぶやいた。
冬陽がハッと顔をあげる気配がする。代わりに神那がこっくりとうなずいた。──気配がした。
「ってなんです? 姉上」
「相良のおうちには代々、童子守というお役目があるそうです。あそこの家には座敷わらしが住んでいらして、その子のお世話をするのですって。ね、冬陽さん」
「え。ええ──」
「さっきね、イッカさんがいらしたときに、そもそも座敷わらしっていったい何かしらという話になったので、博臣のおじ様に聞きに行こうかという話をしていたのですよ」
「ああ。どの書籍よりもくわしく教えてくれるでしょうね」
──浅利博臣。
東京・宝泉寺の現住職である。宝泉寺は藤宮家、とくに恭太郎にはなにより身近な場所である。高校時代からの友人浅利将臣の生家であり、盆や正月になるとなにかと寺の作務を手伝わされる、第二の実家ともいえるほど馴染みがある。
恭太郎は、彼ほど聡明な男を見たことがない。
歩く辞書と揶揄される将臣すら、彼と並ぶと未熟者に成り下がる。ふだんは飄々と軽口を叩くことも多いが、一度説法モードになればあの将臣の父にふさわしい知識家なのだ。
それで、と冬陽は畏怖の念を胸中に抱えたまま口をひらいた。
「今日は母が向こうに行って、火葬を済ませる予定になっているのですけれど」
「お通夜はなさらないのですか?」
「あの地域では、火葬を先にするのだそうです。ああいう山奥ですから昔は、人が亡くなってもすぐには参列者も集まることが出来なかったので、先に遺体を火葬にしてからゆっくりとお葬式をしていたのですって。その名残がいまも残っているんだとか──」
「そう。お葬式はいつごろか、もう決まったんですか? わたしも出来たら参列したいのですけれど」
という神那の問いかけに、冬陽の心情で音がふるえた。
──本題だ。
と、恭太郎はおもった。
どうやらこの人のよい姉は、亡くなったと告げられた人物に心当たりがあるらしい。よくよく話を聞くと、恭太郎は知らなかったのだが、相談者の生家である相良家とわが藤宮家とは、なかなかの交流があったのだそうである。神那が幼いころのことゆえ、神楽や恭太郎は知らずとも当然らしいが、とかく神那は此度亡くなったという冬陽の祖母にはよくしてもらった記憶があるのだとか。
恭太郎は首をかしげた。
「薙刀道場で知り合ったのじゃないんですか」
「ぐうぜんに再会したのですよ。十年くらい前、冬陽さんが道場に入ってくださって」
「いえその──それも、神那さんが通われているというのを聞いて、私も入ろうとおもったのです。神那さんのことはすこしだけですが、遊んでもらったお姉さんって記憶していたものですから」
と、すこし恥ずかしそうに冬陽は言った。
ふたりから語られる昔話を要約すると次のようなものだった。
藤宮家と相良家のあいだに縁ができたのは恭太郎たちの祖父の世代。当時大東亜戦争只中にあった日本では、昭和二十年の三月に起きた東京大空襲の影響で祖父の弟妹たち──恭太郎からすれば大叔父、大叔母にあたる──が岩手県遠野町あたりに集団疎開をした。相良家もまた陸奥の山深いところにあり、当時十歳だったという冬陽の祖母ミチ子が、疎開してきた学童たちと縁を結んだ。そのなかに、藤宮家の子どもたちもいたという。
当時はまだ財閥とは程遠かった藤宮家の子どもたちに対し、当時から村の名士と名高い大地主であった相良家はたいへんによくしたという。というよりも、単純にミチ子と殊更仲良くなったのが藤宮の子であったにすぎないが、戦時中でありながら周囲に隠れてこっそりと食事の提供もしてやったのだとか。
ちなみに恭太郎たちの祖父正太郎は、特別年少兵に志願したために、当時十七歳で特攻隊員として自身の出番を待っていたが、出番が来る前に終戦を迎えたため飛ばずに済んだそうだ。このとき彼が神風に乗っていたならいまの藤宮家もないのだから、運命というのはわからない。
さて、終戦後になって子どもたちから話を聞いた正太郎が、弟妹たちが世話になった礼をしたいと手紙を送り、それから相良家と藤宮家とのあいだで、文通交流がはじまったのだそうである。
それも、時の流れとともにいつしか途絶えていたが、二十一世紀になってすぐ、七十歳を超えていた正太郎が孫を連れて相良家へとやってきた。自身の生い先が永くないとおもってのことだったのだろうが、その際に当時九歳だった神那と七歳だった冬陽が出会った──。
「なんだ、祖父上つながりだったわけですか」
「正しくは大叔父様、大叔母様たちなのですけれどね。でもけっきょく、一番恩を感じていらしたのがじい様でしたから、縁を切らさず繋いでくださったのでしょう。それで冬陽さんは、あの日わたしたちが訪問したことを覚えていてくださっていたのですか」
「ええ。あの頃はもう、相良は名ばかり地主にすぎなくて、藤宮のおうちがとってもご立派でいらしたから。孝太郎さんも神来さんも、神那さんも──みなさん品がよくていらして、なんだか自分とはちがう世界から来た方たちなんだわって、子どもながらに思っていました」
と、冬陽ははにかんだ。
──会ったのは一回こっきりか。
恭太郎は無意識のうちに首を左にかたむけている。この異常な聴覚のなかで、もっとも異常と言えるのはここにある。とくに左耳。通常の声音の奥から聞こえる音がある。
音、なのである。
『人心の声』だと人は言う。そうなのだろうと恭太郎もおもう。
しかしそれは声でもあるが音でもある。
おそらくは感情の音なのだろうとおもっている。
人の心は時として、言葉にできない情を抱くことがある。
もやもや。ぐるぐる。ざわざわ。ざくざく。
この聴覚と長らく付き合ってきて分かったのは、人の情というのはそれなりに共通しているということ。さらには情の種類は無限にあるということも。
寺などは大みそかに除夜の鐘を打ち鳴らし、百八の煩悩を払うというが、百八どころではない──と、恭太郎はひそかにおもっている。だからといってそれらをリスト化することは一生ないだろう。人の情はほとんどが向き合うには醜いものが多すぎる。
──憧れたんだな。
と恭太郎は首をもとにもどした。
憧れた──と冬陽から声が聞こえたわけではない。ことばの裏に憧憬の音を聞いた。恭太郎はこうして、総合的に人心の声を聞いている。
「中学にあがる頃に上京して、なかなか友人が出来ない私を見かねて、十七歳のときに母が教えてくれたんです。薙刀道場に神那さんが通っていらっしゃるって」
「それで道場まで訪ねてくださったんですね。でも、どうしてわたしが道場に通っていると知っていらしたのかしら」
「正太郎さまがお手紙で近況を寄越してくだすったそうです。神那さんとはいちばん年齢も近かったですし、神那さんがいるなら私もやってみたいって、言ったんです」
うふふ、と笑い合うふたりの淑女たちを前に、恭太郎は欠伸をひとつした。
恭太郎は飽きている。
話がちっとも相談事とやらにたどり着かないからである。しかしあんまり退屈なすがたを見せると神那が悲しむだろうとおもった恭太郎は、あわてて欠伸をかみ殺す。
神那がそれで、と話題を変えた。
「ミチ子おばあ様はいつ?」
「一昨日です。使用人の方がその日に発見されたそうで、お布団のなかで静かに息を引き取っていたそうです。前日までは元気だったそうですから──人間というのは、分からないものですね」
「そうだったの──それは、座敷わらしさんも悲しんでらっしゃるでしょうね」
といって眉を下げる。
──座敷わらし。
恭太郎がちらりと冬陽の方を見る。
じつは先ほどから気になっていた単語がある。彼女のなかにずっと渦巻く不穏な感情と寄り添うように併存するこのことば──。
「わらしもり」
おもわずつぶやいた。
冬陽がハッと顔をあげる気配がする。代わりに神那がこっくりとうなずいた。──気配がした。
「ってなんです? 姉上」
「相良のおうちには代々、童子守というお役目があるそうです。あそこの家には座敷わらしが住んでいらして、その子のお世話をするのですって。ね、冬陽さん」
「え。ええ──」
「さっきね、イッカさんがいらしたときに、そもそも座敷わらしっていったい何かしらという話になったので、博臣のおじ様に聞きに行こうかという話をしていたのですよ」
「ああ。どの書籍よりもくわしく教えてくれるでしょうね」
──浅利博臣。
東京・宝泉寺の現住職である。宝泉寺は藤宮家、とくに恭太郎にはなにより身近な場所である。高校時代からの友人浅利将臣の生家であり、盆や正月になるとなにかと寺の作務を手伝わされる、第二の実家ともいえるほど馴染みがある。
恭太郎は、彼ほど聡明な男を見たことがない。
歩く辞書と揶揄される将臣すら、彼と並ぶと未熟者に成り下がる。ふだんは飄々と軽口を叩くことも多いが、一度説法モードになればあの将臣の父にふさわしい知識家なのだ。
それで、と冬陽は畏怖の念を胸中に抱えたまま口をひらいた。
「今日は母が向こうに行って、火葬を済ませる予定になっているのですけれど」
「お通夜はなさらないのですか?」
「あの地域では、火葬を先にするのだそうです。ああいう山奥ですから昔は、人が亡くなってもすぐには参列者も集まることが出来なかったので、先に遺体を火葬にしてからゆっくりとお葬式をしていたのですって。その名残がいまも残っているんだとか──」
「そう。お葬式はいつごろか、もう決まったんですか? わたしも出来たら参列したいのですけれど」
という神那の問いかけに、冬陽の心情で音がふるえた。
──本題だ。
と、恭太郎はおもった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
秘書と社長の秘密
廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。
突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。
ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる