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新人魔導師、配属される

同日、10時25分

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 地下5階、夏希の執務室の前に天音は辿り着いた。ノックをするが、返答はない。どうやらここにはいないようだ。

「副所長のいそうなところは……」

 夏希がどこにいるのか、見当もつかなかった。
こういう時、相手のことを理解していないと選択肢すら出てこないのだと、天音は初めて知った。今まで冷めた目で周りを見下して、深く関わらずに生きていたのだということを思い知る。

 自室だろうか。それとも、研究室?
 いや、多忙な副所長のことだ、この研究所にいないことも考えられる。
 悩んでいると、足元に温かな何かが触れた。

「わっ……猫?」

 美しい黒猫だった。金色の目を輝かせた凛々しい顔つきをしている。首に巻かれた赤いリボンが可愛らしい。

「にゃあ」
「え、何……誰の飼い猫? まさか使い魔?」

 古代、魔法が使われていたころ、魔法使いたちは使い魔と呼ばれる生き物を従えていたらしい。魔導発見以前のファンタジーに描写されていたように、遺跡からも動物の絵がいくつも発見されているのだ。しかし、どのように従えていたのか、それは詳しくはわかっていなかった。ならばペットの猫のはず。

「ええ、どうしよう……ここにいていいの?」
「にゃあ」

 天音は猫は嫌いではない。むしろ好きな方だ。けれど、夏希を探している今、猫を撫でている暇はない。焦っている天音を見て、猫は呆れたように一声鳴くと、夏希の自室の方へすたすたと歩き出した。まるで、ついてこいと言うように。

 何故か猫用の扉がついている夏希の自室へ、黒猫は入っていった。偶然かもしれない。けれど、今の天音にはそれにすがるしかなかった。

 深呼吸をしてノックをする。扉の向こうから、くぐもった夏希の声が聞こえてきた。もう隠す気はないのか、恐らく素の低い声である。

「開いてる。さっさと入んな、新人」
「……失礼、します」

 中に入ると、先ほどの黒猫が天音を出迎えた。夏希は鋭い眼差しでこちらを見ている。その頬がまだ赤くなっているのが見えて、自責の念が押し寄せる。

 寝室代わりに使っているという割には生活感のない部屋だった。支給されたばかりの天音の部屋よりも、「個人の部屋」という印象が薄い。私物がほとんど無いせいだろう。

「用意はできてる」

 そう夏希が指さす机の上には、転属願の書類や魔導考古学省への推薦状、退職願などが揃っていた。書き方の見本やペンまで置かれている。

「必要なモン書け、そしたら後はあたしと所長の印だけで済む」

 黒猫を抱き上げながら、夏希は気だるげに言った。
 彼女は、一体このやりとりを何回、何十回繰り返したのだろう。

「どれもいりません」
「は?」

 夏希が目を見開いた。彼女の本気で驚いた顔を見るのは初めてかもしれない。

「申し訳ございませんでした」
「何の話だ?」

 何言ってんだコイツ。夏希の顔にはわかりやすくそう書かれている。この表情も初めて見た。自分はどれだけこの人のことを見ていなかったんだろう。意外と顔に出るタイプなのか。

「貴女のことを知らずに一方的に決めつけて、傷つけたこと。手をあげたこと。謝って済むこととは思いません。クビにされてもおかしくないと思っています。それでも、どうか」

 どうか許されるのならば、この研究所の職員として置いていただけませんか。
 はっきりと言うはずだったのに、情けなく声が震えていた。
 誰かにこんな必死に何かを願ったことなんて、ないからかもしれない。

「……雅か」

 一瞬、言われた意味が分からなかった。
 少し考えて、「雅に何か言われたのか?」と判断する。素の性格だと、あまり喋らないのかもしれない。

「確かに、武村さんにお話はうかがいました」
「余計なコトしやがって」

 舌打ちをする夏希を窘めるように、黒猫がぺしぺしと叩いた。やけに人間臭い猫だ。

「今までずっと、自分ですら気づいてなかったんです。自分のことなのに、わかってなかった。わかろうとしなかった。自分の弱さに気づきたくなかった。そのことに、この4日間で気づかされました」
「それで? 私の人生変わりましたー、ありがとうございますってか?」

 皮肉めいた笑み。温度を感じさせない言葉。
 そうやって、夏希はあえて嫌われて、相手が望む道に進めるようにしていったのだろう。

「私の人生はまだ変わってません。でも、考える力を、私はこの場所で手にすることができました。弱さを自覚して、欠点と向き合うことができました」
「考えた結果それか?」
「はい」

 天音はまっすぐ夏希を見つめた。
 こんなに誰かと真剣に話し合ったのは、いつぶりだろうか。いや、そもそも誰かと真剣に話し合ったことなんてなかったかもしれない。

「私は選ばれた存在じゃない。ただの人間で……魔導師です。第5研究所の魔導解読師の、伊藤天音です」

 天音の言葉に対し、夏希は何も言わなかった。その代わり、深い深い溜息をつく。

「もう、憧れは憧れのままになんてしません。私がこの手で憧れを形にしてやります!」
「雅のヤツ、洗脳でもしたのかよ……キャラ変わりすぎだろ……」
「なっ!? これは私の意志です!」
「はいはい、そーですか……」

 眩しいほどの白い光が机を包んだ。次の瞬間、置かれていた書類は全て消えてなくなり、代わりに1枚の紙が置かれた。

「そう言ったからには泣いてもここから離してやらねぇからな。そこの紙に魔導衣の希望書いとけ。あと、明日からみっちり魔導訓練だから覚悟しろよ」
「はい! ありがとうございます!」

 被せる勢いで頷く天音を見て、夏希は再び溜息をついた。だが、先ほどとは異なり、その唇は僅かに弧を描いている。

「国立第5魔導研究所へようこそ。よろしくな、『天音』」

 初めて呼ばれた名前に驚いて、手元の紙から顔を上げる。
 「新人」ではなく「天音」。研究員として認められたような気がして、思わず涙がこぼれた。
 泣き顔に驚いた夏希が大声をあげるまで、もう少し。
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