婚約破棄は根回しが大事

平井敦史

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根回し編

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「アリシア嬢、君との婚約を破棄したいのだが、どうだろうか」

 私の婚約者にしてここキャメロン王国の王太子であるクリス殿下から、いきなりそのような相談を持ち掛けられ、私は思わず言ってしまった。

「何か悪いものでもお召し上がりになりまして?」

「……相変わらず辛辣だな、君は」

「失礼いたしました。つい本音が出てしまいまして。ウィルシャー子爵家のエリサ嬢とご親密という噂は聞き及んでおりますが、理由はそれですか?」

「ああ。是非彼女と結婚したいと思ってね。……念のため言っておくけれど、正式な結婚もせぬうちに一線を越えるような真似はしていないからな?」

「当然のことをわざわざ仰らなくても結構です」

 クリス殿下は型破りなお人だが、守るべき一線というものは心得ておられる。そのあたりのそつの無さが、いささかしゃくさわるところではあるのだが。

「わかってくれているようで何よりだ。元々、僕たちの婚約は親たちが決めたこと。君だって、僕のことを愛しているわけではないのだろう?」

「素敵な方だと思ってはおりますよ」

 如才なくそう答える。
 確かに、私たちの婚約はいわゆる政略結婚だ。お互いの愛情の末に結ばれる、というようなものではない。しかし……。

「しかしながら殿下、私よりも彼女の方が王妃にふさわしいと、本気でお思いで?」

 自慢するようなことではないけれど、私は貴婦人としての立ち居振る舞いやたしなみはもちろんのこと、内政から経済、外交に至るまで、各分野の見識も身に着けてきた。
 すべては、この国の王妃として殿下をお支えするためにだ。

「そのことなんだがな。逆に聞こう。王妃という立場は、本当に君にふさわしいと思うか?」

「どういう意味でしょうか」

 少々声が尖ってしまったのは、やむを得ないだろう。
 しかし、殿下は落ち着き払った態度を崩すことなく仰った。

「君も知っての通り我がキャメロンの国法では、男女を問わず王の配偶者が政治に関わることを厳しく制限している。ていに言えば、王妃になれば君は単なるお飾りになってしまうということだ。それならばむしろ、君にはラングレー公爵位を継いで僕の右腕として手腕をふるってもらう方が、君にとっても、この国にとっても、良いことだとは思わないか?」

 ただ妻として殿下――将来の国王陛下に助言をするだけの役割ではなく、政治の表舞台に立てと? それは……。

「それはたしかに魅力的なお話ですが。私に、異母兄あにを押しのけて公爵家を継げと仰るのですか?」

 私が殿下に嫁ぎ、公爵家は父の第二夫人の息子である異母兄あにが継ぐ、というのが既定路線だ。それをくつがえせと仰るのか。

「ああ。是非そうしてくれ。君だって、がラングレー公爵家の当主にふさわしいだなんて思ってはいないのだろう?」

 そう言われると返答に困る。
 たしかに、異母兄あにのドノバンはどうしようもないクズだ。身分の低い女性たちに片っ端から手を着け、金ずくで黙らせてきた。さらには賭けポーカーやドッグレースにのめり込み、多額の借金もかかえている。
 貴族家の御曹司には遊蕩三昧の者も少なくはないのだが、あれはそんな生易しいレベルではない。

「仰せはごもっとも。ですが、王家としてはが公爵位を継ぐ方が、都合が良いのではございませんか?」

「ほう。と、言うと?」

 殿下が興味深げな眼差しで私を見つめる。

「ドノバンにラングレー公爵位を継がせた上で自滅させ、公爵家の勢力をぐ――。その方が、王家にとっては良いのではないか、と申し上げているのです」

 有力貴族というものは、王家にとってみれば、国を支える柱である一方、厄介な足枷でもある。叩ける機会に叩いておく、というのは一つの選択肢だろう。
 それを聞いて、殿下はいささか芝居がかった様子で憤慨して見せた。

「ふん。と君の才覚を天秤にかけて、どちらが重いか僕が見誤るとでも思っているのか? 随分と見くびられたものだな」

 ……まったく、この人たらしめ。
 私のことをそこまで買ってくださっているというのなら、ご期待にこたえないわけにはいかないではないか。

「失礼いたしました。しかしながら、我が父が婚約破棄など受け入れますでしょうか。お恥ずかしい話ですが、父はいまだにドノバンを見捨ててはおりませぬもので。それに、国王陛下もご納得はされますまい」

「そのことか。いくつか策は考えている。まず、ドノバンの放蕩ぶりについてだが、王家もその詳細を把握し、公爵位継承に懸念を抱いている、という事実を突きつけてやるつもりだ」

「なるほど。実を申しますと、その件に関しては私も切り札を握っております。しかし、父のことですから、メンツを潰されたとかえってかたくなになることも考えられますが」

 私の父は――というか、貴族などというものは大体そうなのだが――、メンツというものにひどくこだわるたちだ。そうそう素直に、ドノバンを廃嫡などするだろうか。

「つまり、公爵家のメンツを立ててやれば良いのだろう? ならば、娘との婚約を白紙に戻し、息子を廃嫡させる、その代わりに、娘に公爵位を継がせた上で国政において重用することを約するとともに、を王太子妃とする栄誉も差し上げよう」

 はい? どういう意味だろうか。妃には、私ではなくエリサ嬢を迎えるという話ではなかったのか?

「おや、君ともあろう者が、察しが悪いな。つまり、エリサ嬢をラングレー家の養女にしてはどうかと言っているんだ。……実は、彼女とその父君には、内々に話は通してあるのだよ」

 呆れたお人だ。すでにそんな根回しをなさっていたのか。
 しかし、形式的なことはともかく、実の娘を嫁がせるのと、形だけの養女を嫁がせるのとでは、影響力は全く違う。そんなことで父が納得するだろうか。

「ウィルシャー子爵家自体は、ラングレーから見れば吹けば飛ぶような弱小貴族にすぎないだろう。けれど、昨今経済的な力を付けてきている新興貴族層の一員ではある。そういった勢力を取り込むというのは、公爵家にとっても悪いことではないと思うのだが?」

 なるほど……。たしかに昨今では、ウィルシャー家のように家格は低いが商工業で力を付けてきた新興貴族層と、ラングレー家のような名門貴族層との間で、次第に軋轢あつれきが生じてきている。ラングレーがウィルシャーを取り込むことが、即その解決に繋がるかどうかはともかく、父に対する説得材料の一つにはなるだろう。

「承知いたしました。私の父についてはそのような方針でまいりましょう。国王陛下についてはどうなさるおつもりですか?」

「父上のことならば、案ずるまでもないさ。元々、公私ともに有力貴族たちの顔色を窺いながら生き抜いてきたようなお人だ。ラングレー公が納得してくれるなら、とやかくは仰るまい」

「左様でございますか。でしたら、陛下のことはお任せいたします」

 これでおおよその方針は決まった。さぞかし大騒ぎにはなるだろうが……。

「夫婦の縁は結べなくとも、君とは末永い付き合いになるだろう。今後ともよろしく頼むよ」

 そう仰って、殿下は右手を差し出された。
 初めて握る殿下の手は、とても大きくて逞しかった。

「非才の身なれど、微力を尽くす所存でございます。なにとぞお見捨てなきよう」

 殿下の手を握り返しながら、私は誓いの言葉を述べた。
 その気持ちに、嘘偽りはない。
 それにしても、本当に逞しい手――。

「さすが、よく鍛えていらっしゃいますね」

「剣のことかい? ジェラルドには全然かなわないのだけどね」

 ジェラルド=ミラン――。ミラン伯爵家の令息で、近衛騎士団随一の剣の使い手。そして私の幼馴染だ。
 人にはそれぞれの役割というものがあるのだから、殿下が彼より強くなる必要も無いだろう。

「ところで、君の新しい婚約者なのだけれど。王家の方でしかるべき縁談を取り纏めようか? それとも、ラングレー公の意向を優先したほうが良いかな?」

 ふと思いついたように、殿下がお尋ねになる。

「お気遣い、痛み入ります。されど、殿下がご自分でお相手を選ばれたのですから、私も自分で選びたいと存じます。よろしいでしょうか」

「そうか。君の眼鏡にかなう男性がいるのなら、僕に否やはないよ」

「ありがとうございます」

 おそらく、私の答えも予想なさっていたのだろう。本当に、憎たらしいお人だ。

「あー。そろそろいいだろうか?」

 そう言われて、ようやく私は殿下のお手を握ったままだったことに気付いた。

「失礼いたしました」

 手を放し、つとめて平静な声で謝罪する。
 殿下のお顔が少しだけ困惑しておられるように見えたのは――、きっと気のせいだろう。
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