フリードリヒ二世の手紙

平井敦史

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聖都の惨劇

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エルサレムアル=クドゥスを……とすですと!? ご自分が何をおっしゃっているのかおわかりか、バラカ殿!」

 ファーリズミーヤのおさの言葉を聞いて、カイマリヤの長・ハサンは柄にもなく取り乱した。

「そもそも、エルサレムアル=クドゥスに関しては、スルタンとキリスト教徒フランクとの間で和平が成立しているはず。それを破るおつもりか!」

 かすかに冷笑を浮かべるバラカ。彼とてアイユーブ朝の傘下に入ったのは昨日や今日のことではない。おおよその事情は聞き及んでいる。

エルサレムアル=クドゥスの譲渡を条件とする和約は、あくまでもキリスト教徒フランクの王の一人である皇帝アル=エンボロルとやらとの間で結ばれたもの。そして今、皇帝アル=エンボロルと他のキリスト教徒フランクどもとは対立しており、先ごろ皇帝アル=エンボロルの代官が追放されたよし

「だからと申して……。第一、スルタンはキリスト教徒フランクとはことを構えるなと、きつくおおせせであったろう!」

左様さようですな。わしがスルタンのお立場でも、ダマスカスはじめご家門の反逆者と、キリスト教徒フランクとを同時に敵に回そうとは思わぬでしょう。ましてや――、今彼奴きゃつらと戦うとなれば主力とせざるを得ない我々に、しんが置けぬとなればなおのこと」

「まさかバラカ殿……、スルタンが我らを頼らざるを得ぬよう、わざとキリスト教徒フランクと?」

 歴戦の武人であるハサンが、さすがに動揺を隠せぬ様子でバラカを見つめる。

「スルタンのお考えはおそらく、まずはご家門の反逆者どもを討ち、しかる後にキリスト教徒フランクを追い払って、シリアを統一するという筋書きでしょう」

「うむぅ……」

 ハサンもその見方にはおおむね異論は無い。
 そして、もしその思惑通りにことが運んだなら――。

「東方のことわざにこのようなものがあるのだが、ハサン殿はご存じかな? 兎を狩り尽くせば猟犬は食われてあるじの腹の中、と」

 スルタン・サーリフは今、自分に絶対的忠誠を捧げるマムルーク部隊・バフリーヤを育成中だ。そして、東方のモンゴルの問題はあるにせよ、当面の敵がいなくなれば、ファーリズミーヤやカイマリヤがどのような運命をたどるかは、ハサンとしても懸念けねんを抱いていたところではある。だが。

「我らがエルサレムアル=クドゥスとし、キリスト教徒フランクを敵に回して、最悪アイユーブ一族と彼奴きゃつらとが手を組んだとしたら……それでも勝てる自信がおありか?」

「おや、ハサン殿は勝てぬとお思いで?」

 不敵に笑うバラカ。ハサンとしても、そこまで言われて引き下がるわけにはいかなかった。


 バラカはカイマリヤの長を説得しおおよその打ち合わせを済ませると、自分の部下たちのところに戻り、告げた。

「これより我らは、エルサレムアル=クドゥスを攻める!」

 周囲の者たちの間にどよめきが広がる。このままエジプトに帰るのではなかったのかと困惑する者もいる一方、ちっぽけな村よりもよほど得るものも多かろうと、目を輝かせる者も少なくない。

「本当に……よろしいのですか、父上?」

 バラカの息子アリーが不安げに問いかける。彼や一族の主だった者たちは、バラカからあらかじめ話は聞かされていた。しかし同時に、キリスト教徒フランクに手を出すなというスルタンの厳命も承知しているのだ。案ずるのも無理はない。

「ダマスカスと通謀しているという情報が得られた――。スルタンにはそう報告しておく。我らこのままじわじわと立場を失っていくのを座視するか、ホラズム王家再興への第一歩を踏み出すか。勝負の時ぞ!」

 その言葉を聞いて、アリーは父に顔色を見られぬようこうべを垂れた。

 アリーが物心ついた頃には、ホラズム=シャー朝はすでに滅びており、故国や王家といったものに対する思い入れは薄い。
 本来ならば、流浪の民を率いるジャラールッディーンへの忠誠心を叩き込まれ、それが心の芯となったのであろうが、なにせ父自身があるじに隔意を抱いていたものだから、それで「故国」だの「王家の再興」だのと言われても、アリーにしてみればふわふわしたものにならざるを得ない。

(それはあのお方も同じなのではないかな……)

 父がホラズム王家再興の旗印と考えているであろう若者――今はカイロのスルタンの孫マムルークとなっているクトゥズにしても、ホラズム王家の血を引いているとはいえ、アリーと同様物心ついた頃には故国は滅びてしまっている。
 彼と腹を割って話をしたことはないが、おそらく自分と似たような考え方だろう。率直に言って、我が父の「忠誠」はあのお人にとっては有難迷惑なのではないか――。アリーには確信めいたものがあった。

 とは言うものの、このままではジリ貧だという父の焦りも理解はできる。一族の者達を守らねばならぬという使命感は、彼の中にも確かにあるのだ。それゆえに、彼は父に異を唱えることはしなかった。


 ファーリズミーヤとカイマリヤ、そしてその他の雑多な傭兵団たちもバラカの誘いに乗り、1244年7月15日、エルサレムを囲んだ兵力はおよそ一万にも及んだ。

 エルサレムの城壁は、1217年に一度イスラム教徒ムスリムの手によって取り壊されており、ヤッファ条約締結以降、キリスト教徒の手で修復されはしたが、そこまで堅牢けんろうなものとはなっていない。
 ファーリズミーヤ達の猛攻の前に、聖都の防壁はあっさり破られた。

 無論、エルサレムを守るキリスト教徒の兵達も、懸命の抵抗は見せた。
 しかし、兵力差は如何いかんともしがたい。彼らの抵抗を排除したファーリズミーヤ達は、エルサレム市街の南西部、アルメニア人地区になだれ込み、アルメニア正教を奉ずるキリスト教徒達を血祭りにあげ、破壊と略奪と虐殺の限りを尽くした。

 さらに、聖墳墓せいふんぼ教会きょうかいでは歴代エルサレム王の墓をあばき副葬品を略奪するなどの暴挙に出る。

 8月23日、市街の西部ダビデの塔に立て籠もって抵抗していた者達もついに降伏し、エルサレムは陥落。約六千人にもおよぶキリスト教徒の老若男女が、聖都を逃れ出た。
 この一連の戦闘で、テンプル騎士団は聖都の守備についていた三百余名のほとんどが戦死という憂き目を見た。

「中々にしぶとかったですが、無事ちましたな」

 ファーリズミーヤの幹部の一人が、おさに話しかける。バラカは満足気に頷いた。

「しかし、これならカイマリヤの連中の手を借りることもなかったのでは?」

「確かに、我らだけでもとすことはできたろう。そしてその後、スルタンの命を受けたカイマリヤが、我らを討ちに来る」

「なるほど、それで彼らを仲間に引き入れられたのですか。恐れ入りました。ただ、そうなると、この町を我らだけのものにするわけにもいかぬのではございませんか?」

 部下の問いに、バラカは冷笑を浮かべ、

「このままエルサレムアル=クドゥスを占拠しようなどとは考えておらぬよ。一旦はスルタンに献上する」

 さすがに、このままエルサレムに居座るような真似をすれば、スルタンの討伐はまぬがれない。一旦はスルタンに預けて、しかる後にあらためて正式に頂戴しよう、というのがバラカの思惑おもわくであった。そして、事は彼の目論見もくろみ通りに進むかと思われた――。


「あの、馬鹿者どもめ! あれほどキリスト教徒フランクには手を出すなと言い含めておいたものを!」

 知らせを聞いて、スルタン・サーリフは当然ながら激怒した。その剣幕に恐れをなしながらも、側近の男が言う。

「恐れながら陛下、バラカきょうが申されるには、キリスト教徒フランクどもはダマスカスと通じておったとのこと。それに、キリスト教徒フランクとの和約はあくまで皇帝アル=エンボロルとの……」

「そんなことはわかっておるわ! まあ百歩譲って、彼奴きゃつらがダマスカスと通じておったとしよう。だとしても、迂闊うかつに手を出すべきではないのだ。父上が何のために背教者はいきょうしゃの汚名を着られたと思っておる!!」

 スルタン位を自分ではなく無能な異母弟に継がせようとした父・カーミルに対して思うところがないではないが、サーリフは基本的に父を敬愛していた。
 十字軍と称するキリスト教徒の大軍勢が彼らの本国から押し寄せてくる事態を避けるためには、聖地を譲り渡すこともいとわない、という父の方針も、十分に理解している。

 サーリフ自身、第五回十字軍がカイロに向けて攻め寄せてきた時には、当時十代半ばながら父に従って出陣し、さらには、父が十字軍を水攻めで降伏に追い込んだ際には、捕虜とダミエッタとの交換が無事済むまでの見届け人――要は人質として、キリスト教徒の元におもむいたこともあるのだ。

 父・カーミルはキリスト教徒フランクを見事撃退した。だから恐るるに足りず、などとは、サーリフは考えない。彼らの恐ろしさ、あるいは厄介さは、十分に承知しているのだ。
 そしてその点が、キリスト教徒といえば現地の十字軍国家ウトラメールや宗教騎士団のことしか知らぬバラカ達との、認識の決定的な断絶であった。

 それでも――サーリフは不本意ながら、ファーリズミーヤ達の戦力を当てにするしかなかった。アイユーブ一門の不満分子と、キリスト教勢力とが、手を結んだのだ。
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