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二部
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しおりを挟む翌日、月奈が父に連れられてやって来たのは、赤坂にある由緒ある料亭だった。
荘厳な門をくぐると、途中に小さな池があり、ふたりは紅色の橋を渡った。池を覗き込むと、赤や黒の鯉が静かに泳いでいる。夕暮れが迫る中、水面にぼんやり映った自分の姿──父に「少しおしゃれしていこうか」と言われて選んだ、紺色の大人びたワンピース──が、やけに他人のように感じられた。
月奈には、今朝から父の様子がいつもと違うことがはっきり分かっていた。普段はめったに吐かないような溜息を、何度も何度もついている。「どうしたの?」と訊いても、「ああ、なんでもないよ」と、無理に笑ってみせるだけ。長年一緒に暮らしてきた月奈には、その笑顔が作り物であることはすぐに分かった。
玄関先で待っていた仲居さんに、父は「予約した浅倉です」とだけ伝える。仲居さんは穏やかな笑みで、ふたりを奥の部屋へと案内した。
縁側の廊下を歩く途中、行燈に照らされた庭園の美しさに、月奈は思わず足を止める。静かで、まるで別世界のような景色──このままここにずっと立っていたくなる。
そんな思いのまま廊下の先を見つめていると、仲居さんが正座して襖を開けた。その奥の座敷には、すでに英作がいた。静かに座り、ふたりの到着を待っていた。
「今日の月奈は大人っぽいね」
英作は月奈の姿を見るなり、少し驚いたような声を出した。月奈は照れくさそうに頬を赤らめ、ワンピースの裾をつまんで、まるでお姫様のようにお辞儀をしてみせた。英作は優しく笑って、そっと月奈の手を取り、自分の隣に座らせた。
(パパが目の前にいるのに……)
月奈の中で、昨日と今日でまるで別人のような英作が重なり合っていた。今目の前にいるのは、父の友人としての穏やかな仮面をかぶった彼。昨日ホテルで、自分を何度も抱きしめた情熱的な彼は、どこにもいない。
父が向かいに座ったのと同時に、英作の手が、卓の下でそっと月奈の手を握った。
──この手が、昨夜は、月奈のすべてに触れていた。
その記憶がよみがえり、月奈は父の顔をどんなふうに見ればいいか分からなくなる。けれど、顔を伏せることもできず、静かに視線をあげた。
父は、そんなふたりの空気にまったく気づいていないようだった──いや、気づいていないというより、他のことに心がいっぱいで余裕がないのだろう。視線は落ち着かず、額の汗をハンカチでぬぐっている。
「早速だけど、パパ……何か話があるんでしょ? しかも、けっこう重要な」
「月奈……なんで分かったんだ?」
「だって、パパの様子、今日ずっと変だったもん」
父は、嘘がつけない人だ。表情に全部出てしまう。それもきっと、父の優しさのせいなのだ。
「そうだな……緊張して、飯も喉を通りそうにないから、先に話しておこうか」
そう言って、父はお通しにも手をつけずに湯呑みに茶を注ぎ、一度大きく深呼吸したあと、改めて月奈と英作を見つめた。
「……実は最近、英作について書かれた雑誌記事を偶然目にしてしまってな。恋人は誰かとか、家族構成とか、プライベートなことを詮索するような記事だった。万が一、英作の周囲を嗅ぎまわるような人間がいて、月奈が巻き込まれるようなことがあったら……そう思うと、パパの口からちゃんと伝えておくべきだと思ったんだ」
穏やかに、だが確かな口調で、父は話し出した。けれど月奈は、その切り出し方に、どこか腑に落ちないものを感じていた。
「……どうして英作さんのことで、私が傷つくの?」
疑問をそのまま口にすると、父はスーツの内ポケットから数枚の写真を取り出し、卓の上に静かに並べた。
その中の一枚を見て、月奈は思わず「あ……」と声をもらした。そこに写っていたのは、テニスラケットを持った父と、月奈の母。ふたりが並んで笑っている、あの写真だった。
「月奈、ママのことは覚えてるよな? 前にも写真を見せたはずだ」
「うん。……知ってる。私、この写真、好きだよ」
母の写真の中で、月奈はこの一枚が一番好きだった。とても幸せそうな顔をしているから。
写真を見つめながら、月奈は父と母の思い出にふっと心を寄せる。そしてふと、一枚の古びた、少し黄ばんだ写真に目が留まった。
そこには、どこかの団地の前でセーラー服を着た母と、隣に立つ黒髪の美しい少年が写っていた。学ランを着て、どこか面影のある顔──その目に、月奈は見覚えがあった。
「ママは、英作の義理のお姉さんなんだ」
父の声が、静かに耳に落ちる。
月奈は、ただ黙って、その少年の写真を見つめ続けていた。
「つまり、英作は──月奈の“叔父さん”ということになる」
そのとき、英作の手が、卓の下で強く月奈の手を握った。
月奈は、そっと彼の横顔を見る。けれど英作は、決してこちらを見ようとはせず、まっすぐ前を向いていた。
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