誰も私たちを見ないで

あすみねね

文字の大きさ
33 / 33
二部

12

しおりを挟む

 翌日、月奈が父に連れられてやって来たのは、赤坂にある由緒ある料亭だった。
 荘厳な門をくぐると、途中に小さな池があり、ふたりは紅色の橋を渡った。池を覗き込むと、赤や黒の鯉が静かに泳いでいる。夕暮れが迫る中、水面にぼんやり映った自分の姿──父に「少しおしゃれしていこうか」と言われて選んだ、紺色の大人びたワンピース──が、やけに他人のように感じられた。
 月奈には、今朝から父の様子がいつもと違うことがはっきり分かっていた。普段はめったに吐かないような溜息を、何度も何度もついている。「どうしたの?」と訊いても、「ああ、なんでもないよ」と、無理に笑ってみせるだけ。長年一緒に暮らしてきた月奈には、その笑顔が作り物であることはすぐに分かった。
 玄関先で待っていた仲居さんに、父は「予約した浅倉です」とだけ伝える。仲居さんは穏やかな笑みで、ふたりを奥の部屋へと案内した。
 縁側の廊下を歩く途中、行燈に照らされた庭園の美しさに、月奈は思わず足を止める。静かで、まるで別世界のような景色──このままここにずっと立っていたくなる。
 そんな思いのまま廊下の先を見つめていると、仲居さんが正座して襖を開けた。その奥の座敷には、すでに英作がいた。静かに座り、ふたりの到着を待っていた。
「今日の月奈は大人っぽいね」
 英作は月奈の姿を見るなり、少し驚いたような声を出した。月奈は照れくさそうに頬を赤らめ、ワンピースの裾をつまんで、まるでお姫様のようにお辞儀をしてみせた。英作は優しく笑って、そっと月奈の手を取り、自分の隣に座らせた。
(パパが目の前にいるのに……)
 月奈の中で、昨日と今日でまるで別人のような英作が重なり合っていた。今目の前にいるのは、父の友人としての穏やかな仮面をかぶった彼。昨日ホテルで、自分を何度も抱きしめた情熱的な彼は、どこにもいない。
 父が向かいに座ったのと同時に、英作の手が、卓の下でそっと月奈の手を握った。
 ──この手が、昨夜は、月奈のすべてに触れていた。
 その記憶がよみがえり、月奈は父の顔をどんなふうに見ればいいか分からなくなる。けれど、顔を伏せることもできず、静かに視線をあげた。
 父は、そんなふたりの空気にまったく気づいていないようだった──いや、気づいていないというより、他のことに心がいっぱいで余裕がないのだろう。視線は落ち着かず、額の汗をハンカチでぬぐっている。
「早速だけど、パパ……何か話があるんでしょ? しかも、けっこう重要な」
「月奈……なんで分かったんだ?」
「だって、パパの様子、今日ずっと変だったもん」
 父は、嘘がつけない人だ。表情に全部出てしまう。それもきっと、父の優しさのせいなのだ。
「そうだな……緊張して、飯も喉を通りそうにないから、先に話しておこうか」
 そう言って、父はお通しにも手をつけずに湯呑みに茶を注ぎ、一度大きく深呼吸したあと、改めて月奈と英作を見つめた。
「……実は最近、英作について書かれた雑誌記事を偶然目にしてしまってな。恋人は誰かとか、家族構成とか、プライベートなことを詮索するような記事だった。万が一、英作の周囲を嗅ぎまわるような人間がいて、月奈が巻き込まれるようなことがあったら……そう思うと、パパの口からちゃんと伝えておくべきだと思ったんだ」
 穏やかに、だが確かな口調で、父は話し出した。けれど月奈は、その切り出し方に、どこか腑に落ちないものを感じていた。
「……どうして英作さんのことで、私が傷つくの?」
 疑問をそのまま口にすると、父はスーツの内ポケットから数枚の写真を取り出し、卓の上に静かに並べた。
 その中の一枚を見て、月奈は思わず「あ……」と声をもらした。そこに写っていたのは、テニスラケットを持った父と、月奈の母。ふたりが並んで笑っている、あの写真だった。
「月奈、ママのことは覚えてるよな? 前にも写真を見せたはずだ」
「うん。……知ってる。私、この写真、好きだよ」
 母の写真の中で、月奈はこの一枚が一番好きだった。とても幸せそうな顔をしているから。
 写真を見つめながら、月奈は父と母の思い出にふっと心を寄せる。そしてふと、一枚の古びた、少し黄ばんだ写真に目が留まった。
 そこには、どこかの団地の前でセーラー服を着た母と、隣に立つ黒髪の美しい少年が写っていた。学ランを着て、どこか面影のある顔──その目に、月奈は見覚えがあった。
「ママは、英作の義理のお姉さんなんだ」
 父の声が、静かに耳に落ちる。
 月奈は、ただ黙って、その少年の写真を見つめ続けていた。
「つまり、英作は──月奈の“叔父さん”ということになる」
 そのとき、英作の手が、卓の下で強く月奈の手を握った。
 月奈は、そっと彼の横顔を見る。けれど英作は、決してこちらを見ようとはせず、まっすぐ前を向いていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

小野寺社長のお気に入り

茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。 悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。 ☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。 ☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...