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三部
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しおりを挟む月奈は喉の渇きを覚え、夜中に目が覚めた。ゆっくりとした動作でベッドから起き上がる。窓から差し込む月の淡い光を辿り、目が慣れない真っ暗な部屋のドアをさぐる。音もたてずにドアを開けた。
廊下を裸足のぺたりとした足音をさせて、階段を降りる。月奈はリビングのキッチンに向かった。
「あ……お水、切らしちゃった……」
冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのペットボトルが空なことに気付き、月奈は思わず独り言をつぶやいた。月奈はテレビでよく見る美人な女優さんが美容でミネラルウォーターばかり飲んでいると聞いてから、自分も真似してみていた。しかし本当は子供っぽくジュースのほうが好きだった。でもそうと決めてからはミネラルウォーター以外の飲み物は購入していない。
月奈は仕方ないと、食器棚からコップをとり、シンクの水道の栓をひねった。浄水に切り替えて、コップに水を注いでいく。
恐ろしくなるような静かな夜だ。
月奈はコップの水が溢れっぱなしなのを、ぼうっとした目で見つめ続けながら、そんなことを思っていた。
「水、出しっぱなし」
ゆったりとした声が後ろから聞こえて、月奈は一瞬にして思考を閉ざす。ふわりと後ろから抱えられるように、コップを持った手が重なる。
「きゃっ」
月奈は驚いて甲高い声をあげた。声の正体の英作がいつの間にか、月奈の背後に居て、栓を閉めようとしていた。ただそれだけなのに、月奈はびっくりした拍子に、手からコップが滑り落ちる。
英作が焦ったように、シンクに落ちる寸前に、コップをキャッチした。
「またそうやって危ないことを」
英作は安堵したのと同時に呆れたように溜息を吐いた。英作はコップにもう一度、水を注ぐと、そのまま月奈の手に持たせた。英作は直ぐに月奈から距離をとって離れる。
月奈は今朝に割った皿の破片で切った、絆創膏が貼られた指先に、水滴がぽたりと落ちるのを眺めていた。
「……まだ起きていたの?」
月奈は英作のほうを振り返らずに言った。
一口だけ、ぐいと水を飲み込む。あんなに喉が乾いていたのを忘れてしまったかのように、まだコップには水が半分以上残っていた。
ちらっと少しだけ英作のほうを見る。彼はインスタントコーヒーの粉をマグカップに入れて、お湯を入れていた。
「寝たいのは山々なんだけどね」
英作は冷蔵庫に寄りかかり、苦笑しながら言った。欠伸を噛みしめて、涙目になっている。
きっとまだ原稿が終わらないのだ。
月奈はコップをシンクに置いて、今度はちゃんと英作のほうを振り返った。
「……仕事の調子悪くなっちゃったの……わたしのせい?」
月奈は声を小さく震わせて問い掛ける。英作は黙ってコーヒーを一口飲みながら、月奈を一度だけ見ると、目を逸らした。
「違う、そんなことまで心配しなくていい」
「するよ、英作さん、全然寝てないもん」
「一緒に住み始めたから気が付いただけで、職業柄こんなことはしょっちゅうだ」
英作はそれだけ言うと、マグカップを持って、部屋に戻ろうと背を向けた。月奈はその英作の背中姿があの海の夢を思い起こす。自分がどれだけ手を伸ばしても、海底に沈んでいく彼のことを。
自分から英作が離れていってしまう。
「……ま、待って……」
月奈は後ろから英作に抱き付いた。両腕を英作の腰にぎゅっと締め付ける。ドキドキとさっきから鳴りやまない心臓の音が、彼の背中越しに伝わっているかもしれない。そうおもうと恥ずかしさも覚えながら、月奈はすりつくように英作の背に自分の頬を撫でた。
「え、英作さん……飯塚さんのこと好き?」
頭が真っ白になりながら出た言葉がそれだった。今朝からずっと飯塚が語った英作への恋心を思うと、胸にもやがかかったようだった。
英作は沈黙を続けながら、マグカップを食器棚にコトンと音をたてて置いた。
「……いきなりどうしたんだ」
「も、もしかして、英作さん忙しいから……よ、欲求不満なのかも」
自分は何を言い出しているのだろう。心情とは反するように言葉を発することが止められない。
「だから……私の体、使って、いいよ。それで英作さんが、少しでも元気になるなら……」
月奈が絡みついている腕が、英作の下腹部へさがっていゆく。月奈は誘惑しているつもりだった。だが手つきはぎこちなく、どうしたらよいか、指先をさまよわせる。
しかし英作は、月奈の腕を自分ではがすと、彼女の体を離した。
月奈は英作から突き飛ばされて、胸がズキリとナイフに突き刺されたように鋭く痛んだ。
「そんなことは二度と言うな」
英作の低く怒った声が、月奈の耳の奥にまで深く響いた。
月奈は今まで耐えていた何かが崩れたかのように、涙腺が一気にゆるんだ。粒のような涙が目から溢れて、頬を伝い、床にポタポタと零れ落ちる。「うーっ」と呻き声をみっともなく上げながら、パジャマの袖で何度も目元を拭う。顔を手でおさえても、掌が濡れていくばかりである。「ひっく、ひっく」としゃくり上げ、涙を我慢しようと思っても、余計にとめどなく溢れていく。
月奈が泣き顔を隠すように、その場にしゃがみ込みそうになった瞬間だった。
英作が月奈に近付き、一回りも違う彼女の身長まで身体を屈ませた。英作は月奈の涙にぬれた目元に、優しく触れ、水滴を拭うように英作の親指が、月奈の目からこめかみまで伝う。そして掌で月奈のふっくらした頬を包み込んだ。
「悪かった、追い詰めて」
月奈は霞む視界で、両の頬を、英作の手に包まれながら、彼の瞳を見つめた。
「今まで黙ってて、悪かった、本当に、許されるとは思ってない、俺のことを一生恨んでいい……」
英作は、月奈が今まで見たことないような顔をしていた。筋の通った眉が歪み、潤んだ瞳は繊細なガラスのような透き通る美しさだった。苦痛だ。これが彼の苦痛の表情なのだ。
英作は月奈の体を引き寄せ、自分の腕の中に入れた。それは息が苦しくなるような抱擁だった。
「わたし、まだ、英作さんのこと好き……けど……もうどうしたらいいか……分からない……! 苦しい、苦しいよ、英作さん……!」
月奈は英作の胸元に顔を埋めながら、リビングに泣き叫ぶ声を響かせた。自分も英作の背中に腕を這わせる。顔を涙でぐじゃぐじゃに歪ませて、英作にすがるように彼の胸元の前で、首を横に振る。
「月奈、目を瞑るんだ」
「え……?」
「今から、起きることは、全部、夢だと思うんだ」
「ゆめ……?」
「そう、夢」
月奈はこくりとゆっくり頷いた。言われた通りに月奈は目を閉じる。
唇に暖かなものが触れた。それは一旦離れると、もう一度、降りてくる。時間があいたと思うと、また今度は、啄むように、月奈の唇を優しく撫でる。
月奈は思わずまぶたを開けてしまった。すぐそばにいる英作と目が合う。
「英作さん……私をベッドに連れて行って……」
月奈は残った涙を、あと一筋、頬に流した。ふふ、と声を出して、英作に笑って見せる。
「みんな……夢の中でしょ……?」
さっきまで子供のように泣きじゃくっていた月奈から一変した。月奈は英作に抱きかかえられ、身体が宙に浮くのを感じながら、彼の胸元に顔をそっと寄せた。
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