誰も私たちを見ないで

あすみねね

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英作視点

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 ──ああ、思い出したくもない。
 なのに、ふとした拍子に、いつも蘇ってくる。


「英作! おかえりなさい!」
「……ただいま」
 自転車置き場の角を曲がったところで、買い物袋を下げた姉、水月とばったり出くわした。
 その日、英作は友達の優次郎と公園で遊んでいた。優次郎は新品のゲーム機に夢中で、英作は古本屋で10円で買った薄汚れた文庫本を読んでいた。
 優次郎の家は団地の向かいに建つ、やたらと立派な白い家だった。まるで映画に出てくる西洋の屋敷みたいな建物で、父親は霞が関の官僚、母親は産婦人科の医師だという。まさにエリート一家だった。
 けれど、優次郎はその家から抜け出して、団地に住む英作の部屋に遊びに行きたいとこっそり言った。
 ──目的は、姉だ。
「こ、こんにちは、水月さん! 今日も……お、おきれいで……」
「あら、ありがと。そうだ、さっきお菓子焼いたの。もう出来てると思うから、よかったら寄ってって」
 しどろもどろの褒め言葉をちゃんと聞いていたのか、いないのか。
 姉はいつものようにニコニコして、玄関のドアを開けてくれた。
 数分後、テーブルに並べられたパウンドケーキをひとくち食べて、英作は眉をしかめた。
「……姉さん、これさ。砂糖じゃなくて、塩入れてない?」
「え? うそ……やだ、本当だ! ごめん、ごめん!」
「こんなベタなミスするの、姉さんくらいだよ……」
 彼女は昔から料理が苦手で、よく残り物の材料で即興お菓子を作っては、何かしら盛大にやらかす。
 小さい頃からその毒味役を任されてきた英作は、自然と甘いものが苦手になった。
「いえ! しょっぱいお菓子も全然いけます! 水月さんの作ったものなら、俺、何でも食べますから!」
 優次郎はそう言って、しょっぱいケーキをパクパクと平らげた。
 頬をふくらませて一生懸命噛んで、それでも満足げに笑ってみせる。
「優次郎くん……ありがとうね」
 姉はくすっと笑いながら、そんな優次郎にお礼を言った。

 帰り道。団地を出て、優次郎の家の前まで送っていくと、彼は急に足を止めた。
「なあ、英作。俺さ、親には反対されてるけど……都立高校、目指してみようと思ってるんだ」
 黒い鉄柵の前。
 敷地の奥にそびえる大きな家を背にして、優次郎はまっすぐこちらを見て言った。
「英作、頭いいから偏差値高いとこ行くんだろ?」
「……まあ。先生が、奨学金も出るって言ってくれてるし」
「俺も頑張るよ。英作と、同じ高校に行きたいから」
「……っていうか、本音は姉さん目当てだろ」
「うっ、ば、ばれた……! いや、それだけじゃないんだ、本当に!」
 優次郎の顔が赤くなる。
「俺の学校のやつらって、なんか甘ったれてる気がしてさ。親の金で、大学も小論文ひとつで行けちゃう。受験も、よくわからないまま終わってくみたいな」
「……」
「そんなんじゃさ、水月さんに胸張って会えないなって思って。ちゃんと努力して、認めてもらえる男になりたいんだ」
 英作は、思わず小さく笑った。
 なんて贅沢な悩みなんだろう。
 受験をしなくていいなら、しないに越したことはない。
 それでも、そんなふうに物事をちゃんと考えるところが、優次郎らしいと思った。
 生まれ育った環境がどうあれ、彼はいつも、誰かのことを思いやっていた。

 その夜。
 昨日の残り物を温め直して、姉とふたり、食卓を囲んだ。
「……姉さん、”アイツ”は?」
「こら、お父さんのことそんなふうに呼ばないの。……きっと朝には帰ってくるわよ」
 英作には、母親の記憶がない。
 正確に言えば、あるにはあるけれど、それはずっと遠くて、輪郭がぼやけていた。
 昔、一度だけ──
 寝る前、ふと親の部屋を覗いてしまったことがある。
 母が父に覆いかぶされていて、泣いているような声をあげていた。
 けれど、不思議とそれは、どこか喜んでいるようにも聞こえた。
 あれがなんだったのかは、今でもよくわからない。
 英作は姉と血のつながりがない。父が再婚して義理の母の連れ子だったのが姉だ。でも、義理の母も父に嫌気が差して出て行ってしまった。
「……手伝うよ」
 流しの前に立つ姉に声をかけて、英作は隣に並んだ。
 洗剤の泡がついた指先。いつも絆創膏だらけの手。
 父が帰ってこない代わりに、姉が家事も全部、背負っていた。
 父はきっと、今日もどこかで酒かパチンコか、あるいは女と遊んでいる。  
 帰ってきたら、たばこと酒のにおいをさせて、姉を怒鳴り散らすだけだ。
 この家で、英作にとって姉だけが唯一の支えだった。
 ──姉さんがいなければ、生きていけなかった。
 あの笑顔が、どうか、消えてしまわないように。英作は、ただそれだけを祈っていた。
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