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《70》脱出
しおりを挟む確認するように呟く。
ノワは口ごもった。
なぜか、適当に頷くことは出来なかった。
薄暗い牢に一筋の月明かりがさす。青白い光が、宙を舞う埃を輝かせる。
「僕は·····誰よりも、フィ·····」
別の人物の名を紡ぎかけたノワの声は、しりすぼみに消えた。
唇はさっきより乱暴に奪われてしまった。
「──ん、っ」
押し付けられた温もりが、喰うように上唇に噛みつく。
じんわり広がる痛みの上を、柔らかなぬめりが上書きした。
「·····っ?!」
震え上がったノワに構わず、それが口内に侵入してくる。
熱い舌が怯える舌に絡みつき、更に奥へと伸びてゆく。
身じろぐも、やはり力では敵わない。
瞳に涙の膜が張った頃、唇がゆっくりと離れていった。
「どんなに待ったって、あいつは来ねえよ」
ぞくりと、背筋を微電流が駆け抜ける。
ノワは思わず口元を押さえた。
「今お前の目の前にいるのは、俺だろ?」
「な·····」
無理やり犯されたはずの口内は、残った彼の熱を、未だ甘く感じていた。
二人の呼吸が静寂に溶ける。
「あんま、苛立たせんなよ·····」
リダルがじっとりとこちらを見つめる。
肌がひりつくほど強い視線だった。
(なんで、こんなことするの?)
「はぁ·····っは、·····」
彼に掴まれた腕が痛い。
冷たい空気は、熱くなった身体におかしな刺激を与えるようだった。
「は、離して·····っ」
「·····」
吐き捨てるような舌打ちを落とし、リダルはさっさと立ち上がった。
「あ·····ちょ、ちょっと!」
このゲームには不相応なキャラクター、リダル・ジルレイ・クワダムス。
そして、本来の役目を果たさぬ悪役令息、ノワ・ボース・パトリック。
どちらもこの世界では異質な存在だ。
さらに、この事件がバグを修正するための出来事だと言うなら、リダルはさらにおかしな存在になる。
が、彼が自分を救ってくれた事実に、違いはない。
彼を信じることは難しくとも、彼という存在を受け入れることくらいは、出来るかもしれない。
ノワは壁へ手を付きながら立ち上がった。
先程のキスで足に力が入らないなんてことは、墓場まで持っていく秘密だ。
こちらを振り返った横顔はすぐに前へ向き直る。
ノワは広い背に続き、牢を出た。
登っていた階段が石畳から木造に変わる。
ギジリ、と、足音が鳴った。
ノワはギクリとして立ち止まる。
前を歩いていたリダルは忌々しげにこちらを振り返った。
どんなに間抜けなへっぴり腰で抜き足差し足を意識したって、古びた建物は軋むものなのだ。
自分のせいではない。
ノワはバツが悪そうにリダルから視線を外した。
信じろと、確かにそう言った。
リダルの言動を思い返すほど彼の真意がわからなくなる。
そもそも、賭けで得た特権で人の気持ちを買おうとするなど、無意味な事だ。
本心は違えど、上辺だけイエスと言うだけならいくらでもできる。
そんな事、彼なら分かっている筈なのに。
不可解な言動はそれだけでは無い。
リダルは、2度もこの唇を奪ったのだ。
(からかって楽しんでるのか?)
敵か味方かさえ分からないのだから、兎にも角にも信じられるはずがない。
1階へと続く扉が開かれる。薄暗かった視界が急にひらけた。
床やテーブルに転がった男達が、皆気持ちよさそうに鼾をかいている。
充満した酒の匂いと汗臭さが鼻をつく。
ノワは渋い顔をしながら、最後の一段をのぼり切った。
気を張っていたせいか妙に疲れた。
とりあえずアレクシスへの手紙は間に合いそうだと思いながら、手すりに寄りかかる。
「──────えっ?」
それは、ノワの体重を支えること無く傾いた。
すんでのところで転ぶのを免れる。
木造の手すりは、派手な音を立てて地面に横たわった。
衝撃でテーブルの上の酒瓶がいくつか倒れる。
部屋一面に、けたたましい音が鳴り響いた。
「なんだ、なんだ?!」
「ん·····?」
眠っていた男たちが目を覚ます。
彼らはノワとリダルを見つけると、それぞれ武器を握りはじめた。
「お前、やってくれたな」
リダルが腰の鞘へ手を添えながら呟く。
こちらに背を向けた彼の表情は、確認しなくたって、凍てついた声色から予測できた。
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