赤ずきんは夜明けに笑う

森永らもね

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第一部 二章

10 死神(挿絵あり)

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「あの馬鹿は我々の邪魔をした反逆者だからな。その場で首を跳ねて野犬の餌にしてやった。あの使えん兵たちと共に」

 わざとらしく煽るように抑揚をつけて、目の前の人物が語った。動けずに聞いていたアレクとリーゼロッテは同時に目を見開き、息を飲む。

「は……っ? そ、んな……あいつ……」

 未だに信じられないと、アレクは震えた声を漏らす。そういえば、どこかで嗅いだ覚えのある匂いだと思っていたのだ。この匂いは確か、あの王国兵の中にいた「アートルム」と呼ばれていたやつの―――

「ぁあぁぁぁぁあああ!」

 途端にリーゼロッテから絶叫が放たれた。弓を構え、リサと瓜二つの人物を睨みつける。

「よくも……よくもよくもよくもよくもっ!!」

 いつになく荒々しい声で激昂し、涙を浮かべながら弦を限界まで引き絞る。目の前の人物は平然とした様子で胸に手を当て「うちの事を撃つんか? リーゼ」とリサの声色で言い放った。緊張した空気の中でも「なあ」と変わらず笑みを浮かべる。

「なんであの時、戻ってきてくれへんかったん?」


 ヴァイオレットの瞳をカッ開き、先程とは打って変わって口角を下げながら言葉を続けた。ヒヤリとしたものが心臓の動脈に流れ込み、リーゼロッテは背筋が凍りつく。目の前の人物がリサじゃないと頭では分かっているのに―――

「リーゼがあの時戻ってきてくれたら、うちも死なずに済んだかもしれへんのになぁ」
「そ、れは……リサを、信じ、て……」
「信じて? 見捨てたの間違いやろ。うちを殺したのは、リーゼ……自分やないか」
「っ、あ……」

 抜け出るような声が口から溢れ、躊躇った瞬間に、紫目の人物はリーゼロッテの横腹目掛けて大鎌を振るった。体が真っ二つ―――になることはなく、そのまま殴られたかのような衝撃で、遠くまで飛ばされる。

「っ、は」

 太木に背中を強く打った。力なく倒れる前に、顔を押さえつけられながら、一方的に腹を蹴りつけられる。

「っあ、ぅあっ……」
「あはははっ! ほんまいい顔するなあ、自分」

 心底愉快そうに上げられた笑い声。髪を鷲掴みにされ、リサと瓜二つの顔が目の前に映し出された。

「決めたわぁ。一瞬で終わらせるのはつまらんからな。自分のことはなぶり殺すことにしよか」

 ドスッ、刺さるように腹に向かって打撃が繰り出され、リーゼロッテは意識が遠のいた。既に涙で顔はぐちゃぐちゃになり、身体中に夥しい赤黒の殴打痕が付けられる。

「……めろ、やめろ!! アートルム!! これ以上……リサの顔で好き勝手するんじゃねえ!!」

 声を張り上げた瞬間にアレクは筋肉が膨れ上がり、毛深い獣の姿へと変えた。背中にあった木々を押し出し、地面から起き上がる。その声に、アートルムと呼ばれた人物は動きを止めた。既に抵抗する気力を失ったリーゼロッテを片足で踏みつけながら「へえ」と狼になったアレクの方を振り向く。

「そうして人が狼に姿を変えるのか。ますます奇っ怪な奴……私の元の名前を知っているとは驚きだ」

 その返答に、やはりあの時に聞こえてきたものはこいつの名前で間違いなかったのかと、アレクは鋭い目付きで睨みつけた。「お前の名前なんてどうでもいい。そいつから離れろ」と低い唸り声のように呟く。

「酷いやつだ。これから仲間になるというのに……まあいい。自己紹介しておこうか」

 なんて余裕だろう。誰がお前の仲間なんかに、と心の中で思ったが、目の前の人物は気にも止めずに口を開く。

「私の名はメーディア。メーディア・アートルムだ。アレク・ルーナノクス……まさかジークに息子がいたとはな……似ない親子もいたものだ」
「ジーク……?」

 初めて聞く名に困惑した様子で眉を顰める。メーディアは「その様子じゃ何も知らんようだな」と手元にあった大鎌を回し、アレクの方へと向けた。その迫力に、アレクの身が引ける。

「あのまま見ておけば良かったものを……歯向かう駄犬には躾が必要だな」

 鎌が空を横切った瞬間、メーディアが動き出した。素早く距離を詰められ、驚きながらも避けられないことを悟り、アレクが咄嗟に爪を振り下ろす。

キィィン

 辺りに金属音と、青白い火花が散った。「いい目だ」だが、すぐにメーディアが大鎌を持ち替え、アレクを殴るように飛ばす。

「……っう」

 地面を擦りながらも、数センチ後退する。今の状態の自分を吹き飛ばすなんて、なんて力だろう。

「アッハハハハハハ!」

 狂気さえ感じる笑い声がしてハッとする。柄を地面に立て、メーディアが体を転回し、上空から斬りかかった。後退して避けるが、顔を上げたと同時に、自分の顔を突き刺すかの如く大鎌が横切り、アレクは首を下げて避ける。頭先の毛がはらりと落ちた。

(くそ……っ、速い……! 避けるので手一杯だ……)

 四方から絶え間なく繰り出される大鎌に、アレクは後退することしか出来ない。大鎌の連撃を受け止めようとして爪を出すが、すぐに避けられ、無防備になった腹へと柄の一撃が浴びせられる。

「うがぁっ!」

 このままではと一歩前に踏み出し、噛み付こうとする。が、あっさりと避けられ首に大鎌をかけられると、メーディアはかけ上るように背中に上って後頭部を蹴りつけた。跳ね上がるようにして宙を舞い、そこから回転しながらアレクの体を切り付ける。

「ぐぅ……」

 翻弄され、アレクは呻いた。速い。全く追いつけない。人間相手なら負け知らずだと思っていたのに。距離を取り、血の滴りを感じてマズルに皺を寄せた。訓練された人間だとこうも違うのか。これが、レヴィナンテ王国の騎士―――とても敵う相手じゃない。

(体を痛めている今じゃ分が悪すぎる……)

 そう考えている間にもメーディアの攻撃は止まらない。振るわれた大鎌の刃が体に叩きつけられた瞬間、全身に雷が走ったかのような衝撃を感じた。「っぐ」その反応を見て、メーディアがわざとらしく足技で追い打ちをかける。

「……全く面倒だ。殺しを禁止されるとこうもやりにくい」

 お前は運がいいやつだ、と先程切りつけた傷を大鎌の先端で突き刺した。「っが、あ!」抉り出される感覚に、アレクが体をじたばたとさせて悶え苦しむ。血が飛び散り、辺りを真っ赤に染めあげた。後ろ足が震え、そこから崩れるように地面につっ伏す。

「はあ……半魔族といっても所詮はこの程度か。期待して損した」

 そろそろ飽きたな、とメーディアは倒れたアレクを置いて、動けなくなっているリーゼロッテの元へ向かう。「ア、レク……」その歩みに、リーゼロッテは目だけを力なく向けた。

「友を亡くすのは辛かろう。私がリサの元に送ってやる。これでもう悲しむ必要はない」

 一度大鎌を手元から離し、メーディアはリーゼロッテの前に来て再び持ち直すように大鎌を手にした。首に当てられた大鎌の刃に「やめろ!」と遠くからアレクが悲痛に叫ぶ。

「さようなら、赤ずきん。天国でリサと仲良くな」

 ザッ、風を切る音が脳内に大きく響いた。その光景を目にし、アレクはその真っ青な虹彩の中の瞳孔を開いた。光景が灰色に凍りつき、自身の周辺がスローモーションのように遅くなる。


「やめろって、言ってるだろ!!!!!!」


 瞬間、咆哮のようなそれがビリビリと大気を揺らした。大気の揺れは衝撃波のように広がり、メーディアの手元にあった大鎌が宙へと溶けて消えていく。

「は……っ?」
(なっ……んだ、今の……)

 あまりの衝撃にメーディアはその場で呆然と立ち尽くした。一瞬だけだったが、凄まじい魔力を感じた―――それも魔族と同等のものだ。その魔力が、自身の魔力をかき消し、魔器が解除されたのだろう。意思に反して震えた自身の手に、冷や汗が垂れる。

「……ちっ」

 リーゼロッテから徐に離れ、後退しながら大鎌を取り出す。目の前の獣は目をギラつかせながら、全身を使って荒い息を吐くと、こちらに向かって飛びかかってきた。

「はっ、何度やっても私には当たら……」

 変わらず振りかざした大鎌をまるで煙のように揺らいだ体で避けた。振り切ったメーディアに向かって、アレクはその鋭い爪を振り下ろす。

「……っ!?」

 なんて速さだろう。先程とはまるで動きが違う。すぐさま振り切った大鎌を解除し、素早く伸ばした片手で再び大鎌を構え、その攻撃を受けた。数メートル後ろに弾き飛ばされ、空中で体勢を戻しながら地面へとつく。

「……っ!」
「お前だけは絶対に……許さない! 許さないからな!!」

 怨嗟の籠った瞳に肌がひりついた。アレクは逃がさないとばかりに、牙を剥き出しにしながら続けて攻撃を仕掛ける。爪を振り下ろし、屈ませた体を地面で切り替えて、弧を描くように蹴りつけた。今までより何倍も速く繰り出される攻撃にメーディアの反応がついていかない。

ザシュ

 肉を切り裂く音に、瞼を押し上げる。瞬間、辺りに強い風が吹き荒れた。視界が一瞬遮られる程の突風だ。その風が止んだ頃には、先程の大きな一撃のせいで体に深い爪痕を刻み込まれたメーディアの姿があった。

「……っぐぅ」

 久々の生暖かい自身のそれに、全身が震えた。まるで死の淵に立たされたかのような焦燥感と息切れに襲われる。体が鉛のように重い。心臓の鼓動が異常なまでに速くなった。そんなメーディアに構わず、アレクが突進し、絶え間なく獣の動きで攻撃する。

「っ、ぐ」
(こいつ……! この巨体で、私の速さを超えるとは……! だが……)

 向かってくる獣にメーディアはにやりと口角を釣りあげた。手のひらに溜めた血をアレクの目元にぶつける。

「っ!」
「馬鹿め、能無しが」

 一瞬の怯みに目を細め、先程から庇っていた方の体の側面を強く蹴りつけた。「ぐあっ!」野太い悲鳴を聞いて大鎌の刃を下に向けると、素早く天に向かって斬りあげる。

「が、うぅ……っ」

 再び溢れた赤。出血のし過ぎで視界の端から黒が迫った。アレクは震えながらもしっかりと四足で立とうとしていたが、力尽きたように崩れ落ちる。その姿を見て、メーディアは安心したように息をついた。「しつこい奴だ」どこか落ち着きの無い様子で背中を向け、リーゼロッテの元へ向かう。

「全く……無駄な体力を使わせおって」

 だが、一歩踏み出した際に、背後から物音がした。恐怖にも似た感情のまま振り返ると、そこにはボロボロになった獣が一匹直立している。

「なっ……」

 なぜ立ち上がれるのだ、と思いの言葉を発するまもなく、アレクが鋭い牙で噛みついてくる。油断したこともあり、メーディアは先程よりも幾分か反応が遅れ、咄嗟に後ろに下がった。

「がっ……!」

 ゴッ、大きな鈍い音が自身の腹から全身にかけて駆け巡り、五臓六腑を震わせた。先程切り裂かれた腹部から嫌な音が聞こえ、胃酸が逆流しそうになる。

「っあ……が」

 息が詰まりそうになりながらも何とか吐き出さずに堪えた。だが続けざまに凄まじい衝撃が脳天に走る。大鎌で受ける暇がない。

(まずい、このままでは敗北する―――この、私が……?)

 プライドをズタズタにされ、意識の深みに落ちた。心臓が壊れてしまいそうなくらい暴れている。こんな雑魚に負けるなんて、絶対にありえない。さっさとこんな奴殺して―――

『貴方には期待していますよ、メーディア』

 優しく笑いかけるその赤髪の言葉に、メーディアは目を見開き、唇を噛み締めた。柄を掴む手を強くさせる。

(だめだ……! 今回の計画は、生きたままでのこいつの捕獲―――殺したら、を失望させてしまう……!)

 それだけは嫌だ、と思わず反撃の手を止めた。

ガッ

 その直後、下から振るわれた鋭い爪に殴り飛ばされ、数メートル先の地面に落ちた。カヒュ、呼吸する度に喉から息が漏れていくような音がする。

「っあ……はあっ……」

 地面に伏せたことで全身の血が肌に張り付き、気持ちが悪かった。ずるずると這うように、逃げようとするメーディアを、狼になったアレクが片足で踏みつける。骨をゆっくりと砕かれる感覚にメーディアから言葉にならない悲鳴が溢れ出た。上から血と胃液が混じった粘液が降ってくる。

(こいつ……私を喰らうつもりか……?)

 ギシッ、ミシッと耳障りな音が脳内に響く。それと同時に胃からせり上がってきた大量の血潮が、口から吐き出された。メーディアは痛みに喘ぎながら、動かない体を必死に捩って動こうとする。

(こんな……こんな雑魚に私が負けるなんて……! 嘘だ、嘘だ……っ!)

 そんなメーディアをアレクはぼうっとした頭で、愉快そうに眺めていた。貧血と、怒りで、もはや正常な判断ができない。血の匂いに、先程から抑えていた空腹が刺激される。弱りきった獲物を弄ぶことがこんなに楽しいものだとは思わなかった。

(こんなクズ、死んだところでどうせ誰も困らない)

 食っちまおう、そんなもう一人の自分の囁きにアレクは空腹のまま口を開いた。
  
「……だめっ、ア、レク」

 遠くから見ていたリーゼロッテは異常を察し、ふらつきながら上半身だけを起き上がらせた。腹を強く蹴られたせいで声が出ない。なにより、目の前にいるアレクの普段とは違った雰囲気に竦み上がり、止める声が自然と小さくなってしまった。

「あ……っ」

 思わず近くに転がっていた弓を構えた。アレクの目の前に威嚇の矢を放てば、注意が引けるかもしれない。けれど、今の自分の目じゃ、きっとあらぬ方向に飛んでいってしまうだろう。それどころか、アレクを間違えて撃ってしまう可能性もあった。

(できるの……? 今の私に……)

 迷う手が震える。狙い目が定まらない。そうしている間にも、アレクはメーディアに口を近づけていく。

『これ以上俺に罪を……与えないでくれ!』

 あの日を思い出す。このままアレクが人を食べれば、優しい彼はきっとまた自分を責めるに違いない。絶対に、止めなきゃいけない。間違えられない。

(どうしたらいい? 父さん……クリフ……誰か……)


『大丈夫』

 決断できないリーゼロッテの耳に誰かの声が聞こえてきた。自分を包み込む温かい声に、思わず息を飲む。

『リーゼは狩りのスペシャリストやろ? 絶対に上手くいく。自信を持ち』

 ずっと会いたかった声を認識し、下がっていた口角が上がった。そうだ。ここにいるのは私だけじゃない―――そう、リサの作ってくれた弓を握りしめる。

(私なら絶対できる……!! リサがついているから……!)


 気持ちが落ち着き、かつてない集中力で弦を引いた。引き絞る音。角度。風の向き。全ての感覚が客観的に見え、心は波立たない水面のように静かだった。やがてアレクが、メーディアに牙を向けた瞬間―――

ヒュン

 風を切る音が口を開けたアレクとメーディアの目の前を綺麗に突っ切った。まるで時間を切り取ったかのような光景だ。はっ、とアレクの意識が戻る。

「だめっ! アレク!!!」

 聞こえてきた声が、アレクの脳から全身に駆け巡った。正気に戻ったアレクは「あっ……」と怯えたように顔を離す。自分はまた正気を失っていたのか。リーゼロッテが止めていなかったらこいつを―――

「……っ」

 それを見計らってメーディアがアレクの顔を蹴りつけた。どろりと顔が溶けたような揺らぎを見せ、それを隠すかのように片手で顔を抑える。

「! 貴方、その顔……」
「……っ!!」

 リーゼロッテの言葉にメーディアは顔を逸らすと、ふらつきながらその場から逃亡した。すぐに追ってこれないようにするためか、逃げた先の木々を一瞬で切り倒し、道を塞ぐ。

「あ……待って!」

 立ち上がるが、ふらつき、リーゼロッテは足元から崩れる。今追わないと、また襲ってくるかもしれない。王国兵なら仲間を呼ばれる可能性だって―――

「リーゼ! 俺に乗れ!」

 正気に戻ったアレクがリーゼロッテの前に立つ。ボロボロの体を見て「で、でも……」と遠慮するがすぐさま「いいから!」とアレクが急かすように声を張った。

「追うんだろ! あいつと決着をつける……!」
「……っ、うん」

 言われるがまま、狼アレクの背に股がった。「しっかり捕まってろ!」背中に目をやりながら、アレクが走り出し、目の前の切り倒された大木を飛び越えていく。

「振り落とされるなよ! あの怪我だ……まだ遠くには行っていないはず……」

 気にかけるアレクの声に、リーゼロッテは目を伏せながら「……うん」と毛深い背中に抱きついた。


 ◆


「はあっ……はあっ……最悪だ……っ」

 見られた見られた見られた。そんな思いが逃げるメーディアを支配した。恐怖のせいで顔の力が一瞬解けてしまったのだろう。先程のリーゼロッテの顔を思い出して爪を噛む。

『出来損ないが―――』

 かつて言われた言葉を思い出し、リサに戻った顔を歪める。何故。なぜ今思い出してしまうのだろう。




 私の家は、レヴィナンテ王国の公爵「アートルム家」―――他の騎士家系とは違い、影で暗躍する「闇の執行者」の家系だった。当然そうなれば、生まれた時から「完璧な殺人能力」が求められる。のに対し、私の力は「人から顔を奪う」ことのみ―――当然一族からは「出来損ない」だの「役立たず」だのと影口を叩かれ、肩身の狭い幼少期を過ごした。そんな自分の力が、大嫌いだった。
 もっと、努力しないと。出来損ないだから、誰よりも役立たずだから。そんな自責の念で、文字通り血反吐が出るまで勉強に励んだ。空き時間で剣術を習い、自分の魔法がなくても、できる人間だと証明しようとした。
 だが結局、光を浴びるのは魔法の才がある人間たちだった。元から才能のある人間に努力しても追いつけない私は一体、なんなのだろう―――ああ、出来損ないなだけか。

『あぁぁああああ!!』

 じゅっ、蒸発したような焼ける音がして、思わず顔を抑えた。瞼がくっつき、顔の半面が焼けただれる。見上げた記憶の父は酷く嫌悪したような、不快なものを見るような目で私を見下ろしていた。

『その顔じゃ人前に出れまい。恥さらしのお前にはピッタリだ……その醜い顔を見る度に自分の無能さを知れ』

 自らの娘に熱湯をかけた父は言う。「もう二度と私にその顔を見せるな」と。そうして私は、ヴィクター・ル・ナティクスが研究する「魔力開発研究所」に送りつけられた。そこからは地獄でしかない。
 魔法の発現は人によって様々だが、傾向の集計などからして「強いストレスによる肉体的・精神的負荷」から来るものではないかとナティクスは仮説していた。そのため、魔力開発研究所は人体にあらゆるストレスをかけ、魔法が発現するかどうかの調査目的で設けられたのである。
 そこでは番号を振られ、牢獄での生活を強要された。長時間電気を流され、鞭で打たれ、激痛を伴う薬品を打たれ、気が狂いそうになるまで毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日―――

 結果。博士の仮説は正しかった。実験を通して、超人型でも珍しい魔器の力を手に入れたから―――博士が留守中に研究所の人間を皆殺しにしてやった。その足でアートルム家に向かい、父の首を跳ねた。自分が満足するまで切り刻み、初めて、自ら殺した人間の顔を奪った。

『あははははははっ!! 感謝致します、お父様。おかげで私はようやく―――この力を好きになれました』

 大鎌を地面に立て、倒れた肉塊の顔で笑う。父への憎しみが、自分にこの力を齎したのだ。これで完璧になった。私の人生はようやく始まったのだ。自分の人生をぐちゃぐちゃにした憎らしい父親の顔を剥がして―――そう、思っていたのに。




「……っ!」

 逃げた先の広大な池にメーディアは足を止めた。向こう岸まで行くにもかなりの距離がある。後ろから迫る獣の駆ける音に、何かを思いついて振り向いた。

「いたぞ!!!」

 しばらくもしないうちに、追ってきたリーゼロッテとアレクが到着した。逃げ場がないと悟っているのか、メーディアはこちらを見たまま動こうとしない。

「……私を殺しに来たか。リーゼ」
「っ! あなたにその名前で呼ばれる筋合いはない!」

 緊張した空気の中で話す二人に割って「よく分かっているじゃねえか」とアレクがマズルに皺を寄せながら近づく。いつになく血気盛んだ。

「アレク落ち着いて……!」

 宥めようと背中を撫でるリーゼロッテが、目の前のメーディアの表情に違和感を覚える。追い詰められているのにやけに落ち着いた様子だ。とある地点にまで来た時に、メーディアの口角が上がる。

「……っ! アレク止まって! なにか……」

 アレクも何かを感じたのだろう。その声に一度踏み出した足を、咄嗟に後退させた。

ドガァン!

 足元から轟音と衝撃波が襲いかかってきた。アレクが素早く避けたことで大事は避けられるも、爆風でその巨体が吹き飛ばされてしまう。

「……っ、う!」

 振り落とされたリーゼロッテは少し離れた地面に叩きつけられた。地雷―――だから、余裕だったのか。それを悟って、グレーの目をキツく釣り上げる。

「よくも……っ!!」

 剣鉈を構え、怒りのままメーディアに飛びかかった。その勢いで二人は大きな音を立てて池の中へと落ちていく。

(……、……っ!!)

 水の抵抗を受けながらも力強く剣鉈をメーディアに振り下ろした。けれどもメーディアはそれを避け、リーゼロッテの腹を殴りつける。その衝撃で口を開いてしまい、大量の泡が、自身のはるか頭上へと上っていった。

(息が……!)

 メーディアより自分の方が水面に近い。呼吸をしなければと、息苦しくなったリーゼロッテが水面に向かって泳ぎ出した。逃すまいと後ろからメーディアが追う。

「ぷはあっ! はあ……」

 水面から勢いよく顔を出し、大きく息を吐いた。這うようにして、地面へ上がろうとする。が、あとから顔を出したメーディアによって足を掴まれた。

「リーゼ」

 絶え絶えの息の中、名を呼ばれ振り返る。自身の足にしがみついていたメーディアは大きく口を開けて呼吸を繰り返し、リサの顔と声でリーゼロッテを見つめていた。

「助けて」

 水に濡れたことで髪が張り付き、その姿が酷く弱々しいように見えた。あの日、あの時、振り返っていたら、今と同じ表情で助けを求めていたのだろうか―――そんなことを想像したらいても立ってもいられなくなった。

「リサ……!」

 相手が別人だと理解していても、体は自然とメーディアに吸い寄せられた。そんなリーゼロッテを何者かが後ろから抱き寄せ、地上へと引き上げる。鋭い目つきの彼は血だらけの腕で、自身を優しく抱いた。

「リーゼは連れていかせない。このまま地獄へ落ちろ―――メーディア」


 低く、腹底から轟くアレクの声に、メーディアは目を見開いた。その顔はいつかの父と重なり、思わず怯んでしまう。
 直後、後ろから大きな水音が聞こえてきた。水面から顔を出したのは、ごつごつした硬い皮膚に爬虫類の目を持ったシビレワニ―――恐らく水辺が騒がしかったので、つられてやってきたのだろう。奴は確かに獲物を目に映している。

「いっ、いや……!」

 シビレワニがメーディアの下半身に齧り付いた瞬間、メーディアの全身が硬直したまま痙攣を起こし、一切の身動きが取れなくなった。必死の抵抗も虚しく、そのまま水中へと引きずり込まれる。

「いやぁぁぁぁあああ!!!」

 水の中から聞こえてくる断末魔が耳に刺さる。獲物を仕留めようとシビレワニが回転するように暴れたことで、池の中央には大きな水柱がたった。赤い水飛沫を目にし、リーゼロッテが過呼吸のように泣きいりひきつけを起こす。

「ああ……うあああああっ……」

 その光景を見せまいと、アレクがリーゼロッテの顔を無理やり自身の胸に押し付け、強く抱き締めた。その腕は細かく震えている。憎むべき相手とはいえ、あまりにも悲惨な最後だ。
 二人はその水柱が静まるまで、ただ呆然と見つめることしか出来なかった。





「おい、見ろよ。またシビレワニの被害が出たみたいだ」

 数日後、近隣の村人が水辺で何かを発見した。「村の人間か?」一人の声に対し「いや……それが分からねえ」ともう一人が答える。




「顔が完全に食いちぎられちまってんだ」





 ◆



 夕闇のバルコニーに立った赤髪の青年は、自身の腕に乗った烏を見上げ、ため息をついた。男性にしては丸みのあるグレーの瞳が憂いを映し、遠くを見つめている。

「……もう二日も連絡なし、か」

 返り討ちにされた? いや、彼女に限ってそれはありえないだろう。そんな自問自答を繰り返す中「随分浮かない顔をしているね」と背後からよく知った声が聞こえてきた。青年は、嫌気を相手に伝えるかのように肩を落とし「いないと思っていたら、もう帰ってきたんですか」と振り向かずに返す。

「そのまま、消えてしまえば良かったものを」
「酷いなあ。せっかく心配して、声をかけてあげたのに」
「頼んでいません……一体なんの用です? ジーク」
なら死んだよ」

 ジークと呼ばれる男の言葉を聞いて、赤髪青年が動揺したかのように指先を動かした。バタバタと烏が夕焼けの空に飛び去っていく。「……何?」きつく睨みをきかせた灰目で振り返った。


「またお得意の嘘ですか? 笑えませんね。死神は陛下からの勅令中です。失敗は許されない」

 ようやく顔を合わせる青年に対して「今は嘘をついていないんだけどなあ」とジークが笑った。

「死神はあの悪魔に殺されたよ。この目で見た」
「はあ、世界一信頼ならない目ですね……もしそうだとして、なぜ貴方は見ているだけだったんです?」
「別に、彼女はあの場面で死ぬべきだったんだ。お姫様を攫う展開はまだ早い」

 他人事のように話すジークに「またわけのわからないことを……」と再度深く嘆息して頭を抑えた。魔力を持たない悪魔が、魔器使いである彼女を殺せるとは到底思えない。何かの間違い、だと思いたいが一日欠かさず来ていた連絡が途絶えているのを見るに、死んでいるのはまず間違いなさそうだ。

「……はあ。例の悪魔と彼が動いているのは本当らしいですね……面倒だ。考えられるとするなら、彼に殺られてしまったと思うのが自然……何せ彼は―――貴方の息子ですから」

 そうだろう? と言いたげに目の前の黒髪を睨みつける。「今更生き別れていた息子に情でも湧いたんですか?」威圧を放ちながら淡々と話す青年に「まっさか~」とジークが頭の後ろで腕を組んだ。

「僕に息子がいたなんて、最近まで知らなかったよ。魔族の混血って意外と長持ちするんだね」
「……人間に自分の子を孕ませるなんて、貴方も随分と素敵なご趣味があるようで。気分で始めた家族ごっこを突然投げ出して……胸糞悪い話だ」

 心底軽蔑したように語調をはっきりさせて青年は返した。「嫌だなあ。僕はちゃんと彼女を愛していたよ」ヘラヘラと軽い様子のジークに「まあ、どうでもいいです」と興味なさそうに目線を外した。

「彼は貴方の息子でしょう。彼女を見捨てたんだ。なら、代役はお前にやってもらう。責任をもってここに連れてこい。陛下のお手をこれ以上煩わせるな」
「ええ~面倒なんだけど」
「当然だろう」

 冷たく目を細める赤髪の青年に「まあ、別にいいけど~」とジークが面倒そうに語尾を伸ばしてから、何か思いついたように「あっ」と口角を上げる。

「それなら適役がいる。この話に乗ってくれそうなやつが」

 そいつに協力を促そうと、何やら企むジークに「なんでもいいですからさっさと行け」と青年がまた空を見上げた。山際を燃えるような赤が縁取る。

「それにしても、死神が死んだにしては結構あっさりしているね。彼女は君に心酔しているみたいだったけど」

 今回の任務失敗も、殺さないという制約を守ろうとした結果なのだろう。人の心がない、そう付け足すジークに「人でなしのお前が言うな」と赤髪青年が背中を向けたまま返す。

「彼女とは似た悩みを持っていましたから、よく話していただけです。ですが、施設以来変わってしまった―――」

 青年は灰色の瞳に沈んでいく緋色を映し出す。その感情が悲しみか、無関心かは分からなかった。

「実力は確かだと認めていましたが、所詮はその程度。陛下の期待を裏切るような弱いやつは、必要ありません……そして」

 お前の失敗は許さない―――振り返った青年は夜を迎えた空と同様に暗く、深淵の底を映した目で、冷たく吐き捨てた。





 あれからどれくらい経っただろう。拠点にしていた洞穴に戻ってきて数時間―――ボロボロになった二人はそれぞれ離れた場所で、顔を俯かせていた。

「……あの時、引き返していれば、よかった」

 泣きいりひきつけが落ち着き、ふと、リーゼロッテが後悔を呟いた。私のせいだ、と自責するリーゼロッテに黙り込んでいたアレクが「なあ、リーゼ」と天を見上げる。

「あいつの最後の言葉覚えてるか? ……絶対に逃げ延びろって」

 その言葉に、あの状況をよく思い出してみる。駆けつけてくれたリサが王国兵の前に立ちはだかり、自分たちの背中を押してくれた―――「それが、あいつの願いだ」アレクは揺るぎない青眼でゆっくりと語った。

「あの時引き返していたら、きっとお前はここにいない。だから、俺たちは振り返らない。振り返っちゃいけない。これからも、前に進むしかないんだ……そうだろ?」

 アレクはリーゼロッテから顔を逸らすように外を眺めた。湿地の森に静かな雨が降る。まるで二人の涙を隠すかのように。
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