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第一部 二章 教会編
15 助けを呼ぶ声
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ほのかに甘く、清涼感のある匂いが鼻をくすぐる。その匂いを例えるなら、道端に植えられたリモネの木だろうか。その美しく可憐な姿に反して、その果実は甘味を持たず、食べられたものではない。けれど、その熟れた果実は、柑橘系独特の甘い香りを持っている。そう、この匂いと同じように。
金髪の少年が書き綴っていた手を止めて目線を横に移すと、そこには口角を上げてこちらを見つめている女性の姿があった。先程まで本を読んでいたはずなのに。女性と目が合った少年は、耳まで頬を赤く染めてすぐさま目線を元に戻す。
『何かわからないことでも?』
女性は少年に近づき、少年が書き綴っていた紙の中を覗き込む。なんでもない、と目を逸らした少年が答えると、女性はその様子を見て、クスクスと笑いながら『そうですか』と笑顔を浮かべた。
『本を読みながら坊っちゃんのペンの音を聞いていたんですよ。それが急に止まったもので』
勉強サボっちゃいけませんよ、と付け加えて少年の頭を撫でると、女性は再び目線を本に戻した。少年は撫でられた頭に優しく触れながら、速くなり続ける鼓動に暫く動けなくなる。
エリナは当時使用人の中でも一際若く、優秀で、執事より前にシアンの世話係をしていた女性だ。自分の子供のように優しく接し、また女性としても完璧と言える彼女にシアンが惹かれるのも必然と言えたのかもしれない。
人が心から恋をするのは初恋だけだと言う。誰がそんなことを言ったのかは覚えていないが、もしこの言葉が本当であるなら、少なくともシアンにとっての初恋は彼女だったのだろう。彼女の気を引くためなら、無知を演じることも、嫌いなヴァイオリンに精を出すことも苦痛ではなかった。
『以前より上達しましたね』
『ほ、ほんと?』
『ええ。坊っちゃんのヴァイオリンの音色、とても心地よくて好きですよ。ずっと聞いていたいぐらいに』
その言葉を貰う為に昨夜はこっそり一人でヴァイオリンの練習に打ち込んだ、とは言わない。今思えばただのお世辞にしかならない言葉でも、当時は自分の活力の源だった。そうすることでエリナにもっと見てもらえる。尊敬する父に近づいている。膨れ上がる欲求を満たす自尊心に、それだけで幸福なものだと思えた。自分の気持ちと彼女の気持ちが別のものだということは、幼いシアンにも十分理解はしている。それでも、シアンは彼女のことを家族同様に愛していた。愛していたのに。
母が亡くなった翌年、二人で街に出かけた時だったか。背後から聞こえる銃声に振り返ると、エリナが自分を覆うようにして立っていて。徐々に自分へかけられるエリナの体重に耐えきれず、シアンはそのままかたい石畳の上に倒れた。遠くで大勢の人の声が聞こえる。
『エリ、ナ?』
『ご無事で、良かった……』
吐息が混じる、掠れた小さな声だった。きっとこの言葉は自分だけにしか聞こえなかっただろう。それがエリナが放った最後の言葉だった。混乱した頭では助けを呼ぶことも出来ない。生暖かい液体のようなものが自分の衣服にじわじわと広がっていくのを布越しで感じる。未だ体温が残る動かなくなった人間の感触が、亡くなった母の体を彷彿させた。
『あ、え……うあっ、あ』
次第に好きだったシトラスの匂いをかき消して、血腥い臭いが鼻の奥をツンと刺激する。動揺と悲しみに我を失い、それが何かを感じとった時、全身はガクガクと悪寒に侵されているかのように震え出した。
「……様。坊っちゃん!」
ふと切迫した聞き覚えのある声に目を覚ます。眼前には声の主であろう眉を下げた執事の姿があった。やけに重い体を起こしてみると、自分の背中には毛布が乗っていて、目の前には昨夜整理していた書類の山が積み上がっている。
「随分とうなされていましたが、大丈夫ですか?」
「あ? ああ、心配をかけてすまない。……悪い夢を見ていたみたいだ」
シアンは少し鼻のかかった声で答えてから、眠気の中書き綴ったのであろうミミズの字に、これはまた書き直しだなとため息をついて横によけた。いつになくボサボサの前髪を掻き上げて、ぼうっと書類を見つめていると、夢の中でも見た懐かしい匂いが漂ってくる。
「今日のモーニングティーはリモネか?」
「はい。今朝仕入れたものですが」
「……そうか」
どうりで今更あんな夢をと、シアンは目を伏せた。あそこまでハッキリとした記憶を見るのはいつぶりだろう。あの日からずっと心のどこかにある一つの事実が過り、シアンは再度前髪をあげるようにして額に手を当てながら肘をつく。
「……そうだ、午前の配達物はあるか?」
このまま気を落としているのはいけないと、シアンは切り替えるように背筋を伸ばして執事に問う。
「はい。ロザンドの教会から」
執事はそれを待っていたかのように、ロザンド教会の手紙を一番上にしてシアンに手紙の束を受け渡した。
「そう言えば、もうツグナが教会に行ってひと月近く経つのか。早いものだ」
近くにあったペーパーナイフを差し込んで、シアンがシーリングスタンプの封を切る。手紙はびっしりと書かれた内容のものが二枚まとめてあった。
「そうですね。そろそろ迎えに行ってはどうです?」
「迎えに行くかどうかはあいつの行動しだいだ。まあ、近いうちに迎えに行くことにはなりそうだけどな」
執事の言葉を横耳に、シアンは手紙を順に目を通して口角を上げた。
◆
教会に放り込まれてからそろそろひと月が経つ。自由気ままなブラッディ家とは違って一日のスケジュールに強制される教会に慣れるのは、それ程時間がかからなかった。むしろこれくらいやることがあると慣れるのは早かったように思える。以前より人といる機会が多くなって、人間に対する恐怖がそれなりに身を潜めたツグナは、最近では心の余裕ができ、以前気が付かなかった事も見えてくるようにまでなった。いや、もっと早く気づくべきだったのかもしれない。
またか。些細な足音に目を覚ましたツグナは静まり返った自室から起き上がると、修理された上段のベッドを覗き込む。そこには横になって寝息を立てているレイの姿はない。初めはトイレにでも行っているのだろうと気にしていなかったが、毎晩部屋を抜け出しているとなると別の何かがあるとしか思えない。
とはいえ、夜中に抜け出すということは人に悟られたくない事なのかもしれないし、レイに直接聞いたところで答えてくれる可能性は低いだろう。一体何をしているんだろうと考えているうちにツグナはまた浅い眠りに誘われ、布団の中で目を閉じた。
「ツグナ、起きろ。朝だぞ」
体を揺さぶられ目を覚ますと、そこには呆れた表情のレイの姿があった。その瞳の下には黒いラインがうっすらと出来ている。最近やけに隈が酷いが寝れていないのだろうか。ツグナは心配して口を開こうとするが「起きたら朝食行くぞ」と言ってレイは部屋の扉を開けた。仕方がなく、ツグナもレイの後に続いて部屋を出る。
「おはよう! レイ兄ちゃん! ツグナ兄ちゃん!」
「……おはよう」
ダイニングルームにつくと真っ先にメアリーの元気な声が飛ぶ。それに続いてビルが挨拶をしながらメアリーの背後から顔を出した。
「おはよう。ビル、メアリー」
レイは隈があるとは思えない爽やかな笑みで挨拶を返す。至って代わり映えのない、いつも通りの日常風景だ。その光景にツグナは寧ろ心配は無用かもなと、朝食の席につく。
朝食が終わり、いつも通り各自仕事が分担され、ツグナは教会と孤児院を繋ぐ長い廊下を数名の子供と共に掃き掃除していた。集団で同じところを掃いていても仕方がないと、ツグナは少し離れたところで仕事を進める。
最近はひと月近く経ったということもあり、年長者であるレイと別々に作業することが多くなった。近頃のレイの様子もあって大丈夫だろうかなどと考えながら掃き掃除を一人でしていると、談話室と書かれた部屋の中から聞き慣れた声がした。この声はレイか? と談話室の壁に寄り添い、聞き耳を立ててみる。
「……養子については無理にとは言いません。急に環境が変わるのは不安でしょうし」
「ありがとうございます。少しだけ考えさせてください。失礼します」
申し訳なさそうにレイの声がして、談話室の扉が開いた。急なことにツグナが離れようとすると、談話室からでてきたレイと目が合う。
「あれ、こんなところでなにしているんだ?」
「あ、いや。掃除してたらたまたま……」
部屋から出てきたレイに言葉を濁す。レイは特に変わらぬ様子で「聞いていたんだな」とツグナに問いかけると、ツグナはレイの目線に負けて首を縦に降る。
「別に聞かれたところで気にしていないよ」
そう言ってレイはツグナの背中に手を当てながら前へと歩き出した。
「たまにいるんだよ。良心的な人が」
「養子って……?」
「ああ。簡単に言えば、ここを離れて新しい家族の元に行くってこと。さっきの人は、将来に向けてのお金とか支援してくれるって言ってくれたんだけどね」
「お前はいかないのか」
ツグナが呟くと、レイはしばらく黙り込んでから「うん」と平坦に答えた。
「養子の話は珍しくなくてさ。今まで何回か持ちかけられたことがあったんだけど……俺は家族を―――あいつらを最後まで見守りたい。それに」
自分だけが幸せになるなんてできないよ、とレイは眉を下げて言った。レイがどれだけ家族を大切にしているかは、このひと月でツグナにも理解出来た。ツグナ自身も家族の温かさに触れて、一層自分の中の家族という存在が強まってきている。だからこそ。
「それは違うんじゃないのか?」
しばらく二人で廊下を歩いて、ツグナはその場で立ち止まった。レイは振り返るようにしてツグナの方を見つめる。
「家族なら、家族の幸せを願えるもんだろ。誰もお前だけがなんて思うわけない。お前はお前なんだから、もっと自由に……自分のために生きろよ」
ツグナの赤い瞳が真っ直ぐレイをとらえている。その瞳にレイはしばらく目を見開いて驚きを表してから、吹き出すように笑い声をあげた。ツグナはその声に「何か変なことを言ったか?」と訝しげに眉をひそめて言う。
「ああ。ごめん。全然その、馬鹿にしているわけじゃなくて。なんていうか。ツグナって、普段なよなよしいのに、時々力強いっていうか」
「それは馬鹿にしてるだろ」
なよなよしいってなんだよ、とツグナが不機嫌に顔を歪める。自分が変なことを言っている自覚はなかったのだが、笑われるとなんだか恥ずかしくなってきた。
「でも、ありがとう。ツグナ」
目を細めて笑うレイにツグナは先程まで込み上げてきた羞恥心を忘れて「うん」と短く答える。お礼を言われるのはなんだか照れくさくも嬉しいものだ。
それから、レイと分かれて午前中の仕事に戻ってから、時間の流れは速く感じた。いつものように昼食を終え、レイと一緒に聖歌隊の練習へ向かっていると、途中でドミニク神父と鉢合わせする。ドミニクとはあまり話した事がないので、未だ面と向かうと少々恐怖心があった。
「やあ。レイ。ツグナ君。午前中はお疲れ様。これから聖歌隊の練習かな」
「はい。そうです」
「そうかい。毎日教会の仕事を手伝ってくれて、ありがとう。ツグナ君はそろそろこの教会に慣れたかい?」
「あ、はい。そうですね」
唐突に話を振られ、ツグナは肩を震わせてから最低限の言葉で返す。未だ自分から話を繋げられるほど饒舌には話せない。とはいえ、会話ができるレベルにまでなっているのだから成長していることは間違いないだろう。その答えにドミニクは「それは良かった」と笑顔で返した。
「そうだ。折角だし、家族の印として君にもこの新しいロザリオをやろう。首から下げているのはだいぶ汚れてきたからね」
そう言ってポケットから取り出したのは、レイが首から下げている金のロザリオと同じものだった。レイはそれを見て瞳孔を開かせると、ツグナの服の袖を引っ張る。ツグナは引っ張られた力によって少し後ろへとよろめきながら「なんだよ?」とレイに問いかけた。
「ん? どうしたんだい、レイ。顔色が悪いが」
ドミニクはそう言ってレイの目線まで膝を折り曲げて顔色を伺う。レイは俯きながらツグナの袖を引いていたが、しばらくして「なんでも、ないです」とその手を離した。ツグナはそれを横目で見てから「ドミニク神父」と向き合う。
「これは僕の大切な人から貰ったものなんです。家族の印は嬉しいですが……その、ごめんなさい」
「……そうか。すまないね、君たちを足止めしてしまって。では、お互い午後も頑張ろう」
ツグナの答えにドミニクは笑顔を向けて立ち上がると、真っ直ぐ反対側へと歩いていった。取り残されたツグナはその背中を見送ってからレイを見つめる。
「なあ、レイ。お前、何かあったのか?」
「いや。ちょっと目眩がして捕まっただけだ。心配かけてごめんな」
レイはそう言って顔を上げると「さあ。早く練習に行こう。みんなを待たせるわけにはいかないからな」と笑顔を向けて歩き出した。その背中に、ツグナは元々あった歪が膨れ上がって胸を侵食していくような感覚に襲われながら、レイの後を追って歩き出した。
それからは練習に打ち込むも、やけに通常通りのレイに違和感がつきまとって離れなかった。あの時は本当に目眩がしてたまたま掴んでしまったのだと思ったが、その時のレイの表情はまるでトラウマを思い出した時の自分と同じものだったのだ。自分がそうだったように、他人の怯えている表情は人一倍敏感である。じゃあ、レイは一体何に怯えていたのだろう。考えられるのはあの場にいたドミニク神父と神父の渡そうとしていたロザリオぐらいしかない。
確か、あの金のロザリオはレイが十歳の誕生日プレゼントとして貰ったと記憶している。それを汚れてしまった代わりとして同じものをプレゼントされるのが気に食わなかったのか。いやそうだとしたらそれに怯えている意味がわからないし、第一ロザリオはレイが毎日身につけているのだから怯える理由がない。それに、レイがそんな器の小さい男じゃない事は以前気まずくなった時に知った事だ。となると、やはりドミニク神父に怯えていたのだろうか。でもドミニク神父はレイを赤ん坊から育ててきた父親みたいな存在だと聞いている。そんな人に怯えるなんて普通に考えればありえない。
でもまあ、シアンに命を助けられたとはいえ、未だにあいつのことを怖いと思う時はあるし……考えれば考えるほど、脳の整理ができなくて頭が痛くなる。こういう時、シアンならなにか思いついたのだろうか。
『問題と向き合う時に大切なのは、対象をよく知ることだ。多くの情報があれば、不確かなものでも次第に形となって掴むことが出来る』
『じゃあ、その情報ってどうやって集めるんだよ』
『一番は会話かな。問題にさり気無く密接させた質問をして、相手に揺さぶりをかける。まあ、君には無理だと思うから、まずは相手を知るためによく観察するといいんじゃないかな』
『無理って決めつけるなよ!』
『だって本当の事だろう? そもそも君は人と話すことがまだ儘ならないのに。 けれど観察ほど情報収集しやすいものは無いからね。 まあ、ラヴァル卿がなかなか尻尾を出さない時は周囲を観察してみるといいかもしれない。人間はね、完璧に嘘を隠すことが出来るほど器用なわけじゃないんだよ。いつかどこかでボロが出るものさ』
ラヴァル卿の舞踏会の前にシアンと交わした会話を思い出す。そう言えば対象を知る事が問題解決に繋がる一番の近道だとシアンが言っていた。とはいえ、あれから殆どの時間をレイと共有してきたのだし、寧ろレイの知らない面は過去ぐらいしかない。そこまで考えた時、ツグナはレイのもう一つ知らない面を思い出した。
一日を終え、寝静まった部屋にヒタヒタと歩き出す足音が聞こえてくる。足音はドアノブを静かに捻ると、部屋の外へと出ていった。ツグナはそのタイミングを見計らって起きると、足音を追って部屋の外へと飛び出す。やはり、今夜もレイは部屋の外へと出たか。ツグナは昼間とは違って暗黒に包まれる廊下を見回しながらゆっくり歩き出した。
レイの知らない面といえば、毎晩夜中に部屋を出る不審な行動だ。もしかしたら今日のレイの行動の答えもそこにあるかもしれないと考えてツグナはレイを探し回る。窓も殆どないせいか、先を照らしてくれる明かりはなく、まるで深淵の闇にでも呑まれてしまったかのようだ。暗いのはあまり好きじゃないが、明かりをつけたらレイに気づかれるかも知れない。早々に部屋に戻りたくなってきながら、ツグナは根気よく教会を見て回った。
ふと、歩き回っていると扉が少し空いて明かりが漏れ出している部屋があるのを見つける。ツグナはそっと扉に近づくと、壁に張り付きながら聞き耳を立てた。
「レイ、昼間は何故あんな事をしたんだい? もし彼に気がつかれたらどうするんだ」
「すみません、神父様」
その二つの声はドミニク神父とレイのものだった。ツグナはそっと扉の隙間から二人の様子を覗く。どうやらここは入ってはいけないと言うドミニク神父の書斎のようだ。本棚が沢山広がっていて、影になっているのか二人の姿を見ることは出来ない。参ったなとツグナは腕を組んで再度壁に寄り掛かった。
「でも、俺以外には手を出さないって約束……」
「ああ、勿論約束は守る。少し試してみたかっただけだ。君がちゃんと約束を守っているかどうか、心配でね」
「ひっ! ん、あっ、あぐっ」
肌を叩くような掠れた音とレイの苦痛な声が聞こえてくる。まるで内臓を押し上げられて吐く寸前の声のようだ。けれど、時折上がるレイの声は甲高くてどこか艶かしい。それを聞いたツグナは我慢できず、そっと部屋の中へ侵入すると、本棚に隠れながら二人の姿を探した。徐々に大きくなっていくレイの声に近づいていき、ここだと確信を持って本棚から顔を出す。
「し、神父様……」
「違うだろ、レイ? 二人の時はなんて言うんだ?」
「ぱ、ぱぱ……ぱぱぁ……!」
そこには頭上で両手を押さえつけられ、下半身を出したレイにドミニク神父が覆いかぶさっている光景があった。レイは耳まで真っ赤になりながら涙目で苦しそうに喘いでいる。閉じる事さえ儘ならない口端からは、だらしなく唾液を垂れ流し、与えられ続ける快楽から逃げようと華奢な体をくねらせていた。粘着質のある卑猥な水音が静かに響き渡り、ツグナは背筋を逆撫でられるようなぞわりとした悪寒を感じ取る。
「んんっ!」
背を向けていたドミニク神父よりもいち早く、レイはツグナの存在を知る。どうしよう、見られた? という羞恥心よりも先にレイはツグナの身に迫る危機を悟ると、思わずその場で声を上げた。
「ツグナ! 後ろだ! 逃げろ!」
「えっ……」
その声にツグナが振り返ると、いつの間にか背後に立っていたリトアが鉄棒を振り上げていて、そのまま躊躇なくツグナの後頭部に振りかざした。ドゴンと重々しく鈍い音が鳴り響き、ツグナはその場で崩れるように倒れる。ツグナを地につかせてもなお変わらないリトアの笑みは、昼間子供たちに向けているものと同じものだった。
「おや、客人が来ていたのかね」
「はい。レイ君を探していたようなので放置して様子を見ていたのですが」
ドミニク神父は倒れているツグナを見て「そうか」と残念そうに眉を下げた。そのやり取りの背後では青ざめたレイが「シスター、なんで……」と目を見開きながら呟く。
「何故? 私は神に仕えるもの。神の語りべである神父様に尽くすのは当然の義務ですわ。ねえ、レイ君」
「そんな……今まで知っていたのに、助けてくれなかったのか? どうして……」
シスターリトアは誰にでも優しく、困った時にはいつも助けてくれた。それなのにと、レイは瞳に涙を溜めて震えた。その様子を見ていたドミニクは途端に手を拘束されているレイの首を鷲掴む。ぐえっと喉を潰された声を出して背中を仰け反り、レイは口端からダラダラと唾液を溢れさせた。
「それにしても、どういう事だレイ? ツグナ君が此処に来てしまったではないか? やはり、あの後彼に助けを求めたのかね?」
「ちが……言ってな」
「言い訳は結構。残念だよ、私は君の約束を守ってあげていたのに」
首を絞めつけるドミニク神父の表情は昼間とは違って、憎しみに歪んでいる。ドミニクは投げ捨てるようにレイから首を離すと、リトアと向き合った。背後からはレイの激しい咳き込みが聞こえてくる。
「どうします? この二人?」
「監禁部屋に縛り付けておけ。どうやら抵抗しても無駄だということが分かっていなかったらしい。レイもツグナ君も後でたっぷり体に教えこんでやる」
「分かりました、神父様」
その答えを聞いて、リトアは嬉しそうに口角をつりあげて笑う。ドミニクは倒れているツグナに近づくとツグナの首から下げているロザリオを奪い取り、代わりに金のロザリオを首から下げた。
「こうなったのはレイ、君のせいだ。君が助けを求める様なことをしなければ、彼はこんな目に合わなくて済んだのに。しっかり反省するんだよ、朝が来るまで」
ドミニクは振り返らずに吐き捨てると、部屋を出ていった。残されたリトアは「可哀想に」と一言呟くとレイの方へと歩み寄る。
「神父様もお人が悪いですね。約束を破らせるための口実に、試すだなんて嘘を仰るなんて。本当はただ新しい奴隷が欲しかっただけなのに」
「どう、いう……」
そこまで言ってレイはとある想定が思い浮かぶ。まさか、昼間ツグナに疑念を持たせることで、わざとこの部屋まで誘導させたのか。そうすることで、ツグナも自分の手中に収めることが出来る。初めから嵌められていたのか。
「シ、シスター……ひっ!」
リトアはレイに近づき、未だ丸出しの下腹部を優しく撫でる。未だ冷めることのない熱を孕んでいる為か、レイの肩は大きく揺れた。その瞳は絶望と快楽が混濁して歪んでいる。
「ああ、未だ完熟しきれていない体に汚らわしい男の体液が入っているなんて。なんて可愛いらしくて、愚かなのでしょう。でもいいのよ。劣情こそ人の本能。その快楽に身を委ねてしまっても、神はあなたを許してくれるわ。何故なら、この行為に愛なんてないのですから」
大きく舌舐めずりをしてから、リトアはレイの瞳に溜まった涙を舐めた。あの時ツグナに不審に思わせる行動をしなければ、ツグナを巻き込まずに済んだのに。全部、俺のせいだ。
レイはそれから一度大きく体を揺らして、ただ涙を流した。
金髪の少年が書き綴っていた手を止めて目線を横に移すと、そこには口角を上げてこちらを見つめている女性の姿があった。先程まで本を読んでいたはずなのに。女性と目が合った少年は、耳まで頬を赤く染めてすぐさま目線を元に戻す。
『何かわからないことでも?』
女性は少年に近づき、少年が書き綴っていた紙の中を覗き込む。なんでもない、と目を逸らした少年が答えると、女性はその様子を見て、クスクスと笑いながら『そうですか』と笑顔を浮かべた。
『本を読みながら坊っちゃんのペンの音を聞いていたんですよ。それが急に止まったもので』
勉強サボっちゃいけませんよ、と付け加えて少年の頭を撫でると、女性は再び目線を本に戻した。少年は撫でられた頭に優しく触れながら、速くなり続ける鼓動に暫く動けなくなる。
エリナは当時使用人の中でも一際若く、優秀で、執事より前にシアンの世話係をしていた女性だ。自分の子供のように優しく接し、また女性としても完璧と言える彼女にシアンが惹かれるのも必然と言えたのかもしれない。
人が心から恋をするのは初恋だけだと言う。誰がそんなことを言ったのかは覚えていないが、もしこの言葉が本当であるなら、少なくともシアンにとっての初恋は彼女だったのだろう。彼女の気を引くためなら、無知を演じることも、嫌いなヴァイオリンに精を出すことも苦痛ではなかった。
『以前より上達しましたね』
『ほ、ほんと?』
『ええ。坊っちゃんのヴァイオリンの音色、とても心地よくて好きですよ。ずっと聞いていたいぐらいに』
その言葉を貰う為に昨夜はこっそり一人でヴァイオリンの練習に打ち込んだ、とは言わない。今思えばただのお世辞にしかならない言葉でも、当時は自分の活力の源だった。そうすることでエリナにもっと見てもらえる。尊敬する父に近づいている。膨れ上がる欲求を満たす自尊心に、それだけで幸福なものだと思えた。自分の気持ちと彼女の気持ちが別のものだということは、幼いシアンにも十分理解はしている。それでも、シアンは彼女のことを家族同様に愛していた。愛していたのに。
母が亡くなった翌年、二人で街に出かけた時だったか。背後から聞こえる銃声に振り返ると、エリナが自分を覆うようにして立っていて。徐々に自分へかけられるエリナの体重に耐えきれず、シアンはそのままかたい石畳の上に倒れた。遠くで大勢の人の声が聞こえる。
『エリ、ナ?』
『ご無事で、良かった……』
吐息が混じる、掠れた小さな声だった。きっとこの言葉は自分だけにしか聞こえなかっただろう。それがエリナが放った最後の言葉だった。混乱した頭では助けを呼ぶことも出来ない。生暖かい液体のようなものが自分の衣服にじわじわと広がっていくのを布越しで感じる。未だ体温が残る動かなくなった人間の感触が、亡くなった母の体を彷彿させた。
『あ、え……うあっ、あ』
次第に好きだったシトラスの匂いをかき消して、血腥い臭いが鼻の奥をツンと刺激する。動揺と悲しみに我を失い、それが何かを感じとった時、全身はガクガクと悪寒に侵されているかのように震え出した。
「……様。坊っちゃん!」
ふと切迫した聞き覚えのある声に目を覚ます。眼前には声の主であろう眉を下げた執事の姿があった。やけに重い体を起こしてみると、自分の背中には毛布が乗っていて、目の前には昨夜整理していた書類の山が積み上がっている。
「随分とうなされていましたが、大丈夫ですか?」
「あ? ああ、心配をかけてすまない。……悪い夢を見ていたみたいだ」
シアンは少し鼻のかかった声で答えてから、眠気の中書き綴ったのであろうミミズの字に、これはまた書き直しだなとため息をついて横によけた。いつになくボサボサの前髪を掻き上げて、ぼうっと書類を見つめていると、夢の中でも見た懐かしい匂いが漂ってくる。
「今日のモーニングティーはリモネか?」
「はい。今朝仕入れたものですが」
「……そうか」
どうりで今更あんな夢をと、シアンは目を伏せた。あそこまでハッキリとした記憶を見るのはいつぶりだろう。あの日からずっと心のどこかにある一つの事実が過り、シアンは再度前髪をあげるようにして額に手を当てながら肘をつく。
「……そうだ、午前の配達物はあるか?」
このまま気を落としているのはいけないと、シアンは切り替えるように背筋を伸ばして執事に問う。
「はい。ロザンドの教会から」
執事はそれを待っていたかのように、ロザンド教会の手紙を一番上にしてシアンに手紙の束を受け渡した。
「そう言えば、もうツグナが教会に行ってひと月近く経つのか。早いものだ」
近くにあったペーパーナイフを差し込んで、シアンがシーリングスタンプの封を切る。手紙はびっしりと書かれた内容のものが二枚まとめてあった。
「そうですね。そろそろ迎えに行ってはどうです?」
「迎えに行くかどうかはあいつの行動しだいだ。まあ、近いうちに迎えに行くことにはなりそうだけどな」
執事の言葉を横耳に、シアンは手紙を順に目を通して口角を上げた。
◆
教会に放り込まれてからそろそろひと月が経つ。自由気ままなブラッディ家とは違って一日のスケジュールに強制される教会に慣れるのは、それ程時間がかからなかった。むしろこれくらいやることがあると慣れるのは早かったように思える。以前より人といる機会が多くなって、人間に対する恐怖がそれなりに身を潜めたツグナは、最近では心の余裕ができ、以前気が付かなかった事も見えてくるようにまでなった。いや、もっと早く気づくべきだったのかもしれない。
またか。些細な足音に目を覚ましたツグナは静まり返った自室から起き上がると、修理された上段のベッドを覗き込む。そこには横になって寝息を立てているレイの姿はない。初めはトイレにでも行っているのだろうと気にしていなかったが、毎晩部屋を抜け出しているとなると別の何かがあるとしか思えない。
とはいえ、夜中に抜け出すということは人に悟られたくない事なのかもしれないし、レイに直接聞いたところで答えてくれる可能性は低いだろう。一体何をしているんだろうと考えているうちにツグナはまた浅い眠りに誘われ、布団の中で目を閉じた。
「ツグナ、起きろ。朝だぞ」
体を揺さぶられ目を覚ますと、そこには呆れた表情のレイの姿があった。その瞳の下には黒いラインがうっすらと出来ている。最近やけに隈が酷いが寝れていないのだろうか。ツグナは心配して口を開こうとするが「起きたら朝食行くぞ」と言ってレイは部屋の扉を開けた。仕方がなく、ツグナもレイの後に続いて部屋を出る。
「おはよう! レイ兄ちゃん! ツグナ兄ちゃん!」
「……おはよう」
ダイニングルームにつくと真っ先にメアリーの元気な声が飛ぶ。それに続いてビルが挨拶をしながらメアリーの背後から顔を出した。
「おはよう。ビル、メアリー」
レイは隈があるとは思えない爽やかな笑みで挨拶を返す。至って代わり映えのない、いつも通りの日常風景だ。その光景にツグナは寧ろ心配は無用かもなと、朝食の席につく。
朝食が終わり、いつも通り各自仕事が分担され、ツグナは教会と孤児院を繋ぐ長い廊下を数名の子供と共に掃き掃除していた。集団で同じところを掃いていても仕方がないと、ツグナは少し離れたところで仕事を進める。
最近はひと月近く経ったということもあり、年長者であるレイと別々に作業することが多くなった。近頃のレイの様子もあって大丈夫だろうかなどと考えながら掃き掃除を一人でしていると、談話室と書かれた部屋の中から聞き慣れた声がした。この声はレイか? と談話室の壁に寄り添い、聞き耳を立ててみる。
「……養子については無理にとは言いません。急に環境が変わるのは不安でしょうし」
「ありがとうございます。少しだけ考えさせてください。失礼します」
申し訳なさそうにレイの声がして、談話室の扉が開いた。急なことにツグナが離れようとすると、談話室からでてきたレイと目が合う。
「あれ、こんなところでなにしているんだ?」
「あ、いや。掃除してたらたまたま……」
部屋から出てきたレイに言葉を濁す。レイは特に変わらぬ様子で「聞いていたんだな」とツグナに問いかけると、ツグナはレイの目線に負けて首を縦に降る。
「別に聞かれたところで気にしていないよ」
そう言ってレイはツグナの背中に手を当てながら前へと歩き出した。
「たまにいるんだよ。良心的な人が」
「養子って……?」
「ああ。簡単に言えば、ここを離れて新しい家族の元に行くってこと。さっきの人は、将来に向けてのお金とか支援してくれるって言ってくれたんだけどね」
「お前はいかないのか」
ツグナが呟くと、レイはしばらく黙り込んでから「うん」と平坦に答えた。
「養子の話は珍しくなくてさ。今まで何回か持ちかけられたことがあったんだけど……俺は家族を―――あいつらを最後まで見守りたい。それに」
自分だけが幸せになるなんてできないよ、とレイは眉を下げて言った。レイがどれだけ家族を大切にしているかは、このひと月でツグナにも理解出来た。ツグナ自身も家族の温かさに触れて、一層自分の中の家族という存在が強まってきている。だからこそ。
「それは違うんじゃないのか?」
しばらく二人で廊下を歩いて、ツグナはその場で立ち止まった。レイは振り返るようにしてツグナの方を見つめる。
「家族なら、家族の幸せを願えるもんだろ。誰もお前だけがなんて思うわけない。お前はお前なんだから、もっと自由に……自分のために生きろよ」
ツグナの赤い瞳が真っ直ぐレイをとらえている。その瞳にレイはしばらく目を見開いて驚きを表してから、吹き出すように笑い声をあげた。ツグナはその声に「何か変なことを言ったか?」と訝しげに眉をひそめて言う。
「ああ。ごめん。全然その、馬鹿にしているわけじゃなくて。なんていうか。ツグナって、普段なよなよしいのに、時々力強いっていうか」
「それは馬鹿にしてるだろ」
なよなよしいってなんだよ、とツグナが不機嫌に顔を歪める。自分が変なことを言っている自覚はなかったのだが、笑われるとなんだか恥ずかしくなってきた。
「でも、ありがとう。ツグナ」
目を細めて笑うレイにツグナは先程まで込み上げてきた羞恥心を忘れて「うん」と短く答える。お礼を言われるのはなんだか照れくさくも嬉しいものだ。
それから、レイと分かれて午前中の仕事に戻ってから、時間の流れは速く感じた。いつものように昼食を終え、レイと一緒に聖歌隊の練習へ向かっていると、途中でドミニク神父と鉢合わせする。ドミニクとはあまり話した事がないので、未だ面と向かうと少々恐怖心があった。
「やあ。レイ。ツグナ君。午前中はお疲れ様。これから聖歌隊の練習かな」
「はい。そうです」
「そうかい。毎日教会の仕事を手伝ってくれて、ありがとう。ツグナ君はそろそろこの教会に慣れたかい?」
「あ、はい。そうですね」
唐突に話を振られ、ツグナは肩を震わせてから最低限の言葉で返す。未だ自分から話を繋げられるほど饒舌には話せない。とはいえ、会話ができるレベルにまでなっているのだから成長していることは間違いないだろう。その答えにドミニクは「それは良かった」と笑顔で返した。
「そうだ。折角だし、家族の印として君にもこの新しいロザリオをやろう。首から下げているのはだいぶ汚れてきたからね」
そう言ってポケットから取り出したのは、レイが首から下げている金のロザリオと同じものだった。レイはそれを見て瞳孔を開かせると、ツグナの服の袖を引っ張る。ツグナは引っ張られた力によって少し後ろへとよろめきながら「なんだよ?」とレイに問いかけた。
「ん? どうしたんだい、レイ。顔色が悪いが」
ドミニクはそう言ってレイの目線まで膝を折り曲げて顔色を伺う。レイは俯きながらツグナの袖を引いていたが、しばらくして「なんでも、ないです」とその手を離した。ツグナはそれを横目で見てから「ドミニク神父」と向き合う。
「これは僕の大切な人から貰ったものなんです。家族の印は嬉しいですが……その、ごめんなさい」
「……そうか。すまないね、君たちを足止めしてしまって。では、お互い午後も頑張ろう」
ツグナの答えにドミニクは笑顔を向けて立ち上がると、真っ直ぐ反対側へと歩いていった。取り残されたツグナはその背中を見送ってからレイを見つめる。
「なあ、レイ。お前、何かあったのか?」
「いや。ちょっと目眩がして捕まっただけだ。心配かけてごめんな」
レイはそう言って顔を上げると「さあ。早く練習に行こう。みんなを待たせるわけにはいかないからな」と笑顔を向けて歩き出した。その背中に、ツグナは元々あった歪が膨れ上がって胸を侵食していくような感覚に襲われながら、レイの後を追って歩き出した。
それからは練習に打ち込むも、やけに通常通りのレイに違和感がつきまとって離れなかった。あの時は本当に目眩がしてたまたま掴んでしまったのだと思ったが、その時のレイの表情はまるでトラウマを思い出した時の自分と同じものだったのだ。自分がそうだったように、他人の怯えている表情は人一倍敏感である。じゃあ、レイは一体何に怯えていたのだろう。考えられるのはあの場にいたドミニク神父と神父の渡そうとしていたロザリオぐらいしかない。
確か、あの金のロザリオはレイが十歳の誕生日プレゼントとして貰ったと記憶している。それを汚れてしまった代わりとして同じものをプレゼントされるのが気に食わなかったのか。いやそうだとしたらそれに怯えている意味がわからないし、第一ロザリオはレイが毎日身につけているのだから怯える理由がない。それに、レイがそんな器の小さい男じゃない事は以前気まずくなった時に知った事だ。となると、やはりドミニク神父に怯えていたのだろうか。でもドミニク神父はレイを赤ん坊から育ててきた父親みたいな存在だと聞いている。そんな人に怯えるなんて普通に考えればありえない。
でもまあ、シアンに命を助けられたとはいえ、未だにあいつのことを怖いと思う時はあるし……考えれば考えるほど、脳の整理ができなくて頭が痛くなる。こういう時、シアンならなにか思いついたのだろうか。
『問題と向き合う時に大切なのは、対象をよく知ることだ。多くの情報があれば、不確かなものでも次第に形となって掴むことが出来る』
『じゃあ、その情報ってどうやって集めるんだよ』
『一番は会話かな。問題にさり気無く密接させた質問をして、相手に揺さぶりをかける。まあ、君には無理だと思うから、まずは相手を知るためによく観察するといいんじゃないかな』
『無理って決めつけるなよ!』
『だって本当の事だろう? そもそも君は人と話すことがまだ儘ならないのに。 けれど観察ほど情報収集しやすいものは無いからね。 まあ、ラヴァル卿がなかなか尻尾を出さない時は周囲を観察してみるといいかもしれない。人間はね、完璧に嘘を隠すことが出来るほど器用なわけじゃないんだよ。いつかどこかでボロが出るものさ』
ラヴァル卿の舞踏会の前にシアンと交わした会話を思い出す。そう言えば対象を知る事が問題解決に繋がる一番の近道だとシアンが言っていた。とはいえ、あれから殆どの時間をレイと共有してきたのだし、寧ろレイの知らない面は過去ぐらいしかない。そこまで考えた時、ツグナはレイのもう一つ知らない面を思い出した。
一日を終え、寝静まった部屋にヒタヒタと歩き出す足音が聞こえてくる。足音はドアノブを静かに捻ると、部屋の外へと出ていった。ツグナはそのタイミングを見計らって起きると、足音を追って部屋の外へと飛び出す。やはり、今夜もレイは部屋の外へと出たか。ツグナは昼間とは違って暗黒に包まれる廊下を見回しながらゆっくり歩き出した。
レイの知らない面といえば、毎晩夜中に部屋を出る不審な行動だ。もしかしたら今日のレイの行動の答えもそこにあるかもしれないと考えてツグナはレイを探し回る。窓も殆どないせいか、先を照らしてくれる明かりはなく、まるで深淵の闇にでも呑まれてしまったかのようだ。暗いのはあまり好きじゃないが、明かりをつけたらレイに気づかれるかも知れない。早々に部屋に戻りたくなってきながら、ツグナは根気よく教会を見て回った。
ふと、歩き回っていると扉が少し空いて明かりが漏れ出している部屋があるのを見つける。ツグナはそっと扉に近づくと、壁に張り付きながら聞き耳を立てた。
「レイ、昼間は何故あんな事をしたんだい? もし彼に気がつかれたらどうするんだ」
「すみません、神父様」
その二つの声はドミニク神父とレイのものだった。ツグナはそっと扉の隙間から二人の様子を覗く。どうやらここは入ってはいけないと言うドミニク神父の書斎のようだ。本棚が沢山広がっていて、影になっているのか二人の姿を見ることは出来ない。参ったなとツグナは腕を組んで再度壁に寄り掛かった。
「でも、俺以外には手を出さないって約束……」
「ああ、勿論約束は守る。少し試してみたかっただけだ。君がちゃんと約束を守っているかどうか、心配でね」
「ひっ! ん、あっ、あぐっ」
肌を叩くような掠れた音とレイの苦痛な声が聞こえてくる。まるで内臓を押し上げられて吐く寸前の声のようだ。けれど、時折上がるレイの声は甲高くてどこか艶かしい。それを聞いたツグナは我慢できず、そっと部屋の中へ侵入すると、本棚に隠れながら二人の姿を探した。徐々に大きくなっていくレイの声に近づいていき、ここだと確信を持って本棚から顔を出す。
「し、神父様……」
「違うだろ、レイ? 二人の時はなんて言うんだ?」
「ぱ、ぱぱ……ぱぱぁ……!」
そこには頭上で両手を押さえつけられ、下半身を出したレイにドミニク神父が覆いかぶさっている光景があった。レイは耳まで真っ赤になりながら涙目で苦しそうに喘いでいる。閉じる事さえ儘ならない口端からは、だらしなく唾液を垂れ流し、与えられ続ける快楽から逃げようと華奢な体をくねらせていた。粘着質のある卑猥な水音が静かに響き渡り、ツグナは背筋を逆撫でられるようなぞわりとした悪寒を感じ取る。
「んんっ!」
背を向けていたドミニク神父よりもいち早く、レイはツグナの存在を知る。どうしよう、見られた? という羞恥心よりも先にレイはツグナの身に迫る危機を悟ると、思わずその場で声を上げた。
「ツグナ! 後ろだ! 逃げろ!」
「えっ……」
その声にツグナが振り返ると、いつの間にか背後に立っていたリトアが鉄棒を振り上げていて、そのまま躊躇なくツグナの後頭部に振りかざした。ドゴンと重々しく鈍い音が鳴り響き、ツグナはその場で崩れるように倒れる。ツグナを地につかせてもなお変わらないリトアの笑みは、昼間子供たちに向けているものと同じものだった。
「おや、客人が来ていたのかね」
「はい。レイ君を探していたようなので放置して様子を見ていたのですが」
ドミニク神父は倒れているツグナを見て「そうか」と残念そうに眉を下げた。そのやり取りの背後では青ざめたレイが「シスター、なんで……」と目を見開きながら呟く。
「何故? 私は神に仕えるもの。神の語りべである神父様に尽くすのは当然の義務ですわ。ねえ、レイ君」
「そんな……今まで知っていたのに、助けてくれなかったのか? どうして……」
シスターリトアは誰にでも優しく、困った時にはいつも助けてくれた。それなのにと、レイは瞳に涙を溜めて震えた。その様子を見ていたドミニクは途端に手を拘束されているレイの首を鷲掴む。ぐえっと喉を潰された声を出して背中を仰け反り、レイは口端からダラダラと唾液を溢れさせた。
「それにしても、どういう事だレイ? ツグナ君が此処に来てしまったではないか? やはり、あの後彼に助けを求めたのかね?」
「ちが……言ってな」
「言い訳は結構。残念だよ、私は君の約束を守ってあげていたのに」
首を絞めつけるドミニク神父の表情は昼間とは違って、憎しみに歪んでいる。ドミニクは投げ捨てるようにレイから首を離すと、リトアと向き合った。背後からはレイの激しい咳き込みが聞こえてくる。
「どうします? この二人?」
「監禁部屋に縛り付けておけ。どうやら抵抗しても無駄だということが分かっていなかったらしい。レイもツグナ君も後でたっぷり体に教えこんでやる」
「分かりました、神父様」
その答えを聞いて、リトアは嬉しそうに口角をつりあげて笑う。ドミニクは倒れているツグナに近づくとツグナの首から下げているロザリオを奪い取り、代わりに金のロザリオを首から下げた。
「こうなったのはレイ、君のせいだ。君が助けを求める様なことをしなければ、彼はこんな目に合わなくて済んだのに。しっかり反省するんだよ、朝が来るまで」
ドミニクは振り返らずに吐き捨てると、部屋を出ていった。残されたリトアは「可哀想に」と一言呟くとレイの方へと歩み寄る。
「神父様もお人が悪いですね。約束を破らせるための口実に、試すだなんて嘘を仰るなんて。本当はただ新しい奴隷が欲しかっただけなのに」
「どう、いう……」
そこまで言ってレイはとある想定が思い浮かぶ。まさか、昼間ツグナに疑念を持たせることで、わざとこの部屋まで誘導させたのか。そうすることで、ツグナも自分の手中に収めることが出来る。初めから嵌められていたのか。
「シ、シスター……ひっ!」
リトアはレイに近づき、未だ丸出しの下腹部を優しく撫でる。未だ冷めることのない熱を孕んでいる為か、レイの肩は大きく揺れた。その瞳は絶望と快楽が混濁して歪んでいる。
「ああ、未だ完熟しきれていない体に汚らわしい男の体液が入っているなんて。なんて可愛いらしくて、愚かなのでしょう。でもいいのよ。劣情こそ人の本能。その快楽に身を委ねてしまっても、神はあなたを許してくれるわ。何故なら、この行為に愛なんてないのですから」
大きく舌舐めずりをしてから、リトアはレイの瞳に溜まった涙を舐めた。あの時ツグナに不審に思わせる行動をしなければ、ツグナを巻き込まずに済んだのに。全部、俺のせいだ。
レイはそれから一度大きく体を揺らして、ただ涙を流した。
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