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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編
25 つかの間の休息
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再びミシェルと合流したのは、日が頭上を通過する頃だった。
「随分と時間がかかりましたね」
宿の前で待っていたミシェルは、無愛想な顔を二人に向ける。随分を強調しているあたり、皮肉めいた言い方だ。
「待てもできない駄犬が一緒なものでな。待たせてしまってすまない」
「お察しします。その様子じゃ、収穫はなさそうですね」
ギロりと鋭い目だけを動かして、白髪頭の少年を凝視する。一方ツグナは眉間に皺を寄せ、じっとシアンを睨みつけていた。その身体は腕をまとめるように縄でぐるぐるに巻かれている。両手で革トランクの持ち手を握っているため、一切自由がきかない状態だ。
「おい外せよ。もうどこにも行かないから」
「さっきも言ったろ。君に優しくするのはもうやめる。外したければ外せばいい。そしたら、君の縄が大好きな首輪と手錠になるだけだ。その方が、絶対に傍を離れない確信があるから安心するんだがな」
冷たく吐き捨ててから、シアンは手網を無理やり引き寄せる。抗うことも出来ずに、ツグナはふらつきながら引かれた方向へと歩み寄った。一体何をしたらそうなるのかと、ミシェルは縛られているツグナを呆れながら見つめる。やはり、こいつと二人にならなかったのは正解だったようだ。
「宿の方は取れたか?」
話を戻すようにしてシアンが確認する。主に面倒事を押し付けてしまった罪悪感もあり、ミシェルは急に話を振られたことで肩を大きく飛びあがらせた。
「は、はい。言われた通り、最上階の部屋を。しかし、他は満室だったらしく、一部屋しか取れませんでした」
「そうか。まあ、仕方ない。この街には他にまともな宿がないからな。一部屋取れただけでも運が良かったと考えよう」
懐中時計を見つめ「日没までまだ時間があるな」とシアンは呟いた。広場の周辺には酒場が何ヶ所かあり、夜は昼間以上に賑やかになる。だが、浮浪者が闇夜に紛れて観光客を襲う事例は少なくなかった。もしそうした犯罪が起きても、憲兵は「見えなかった」と言うだけ。信用ならないというのはそういう所だ。
ただでさえ、金を求める浮浪者に引っかかる馬鹿がここにいるのに。縄で繋がれたツグナを見つめ、シアンは連れてきたことを後悔したように嘆息した。
「……とりあえず、夕飯の調達をしながら聞き込みを続けよう。日没前には部屋に戻る」
「分かりました。では、私は買い物を中心に周辺を回ることにします」
「そうしてくれ。はい」
そう言って渡されたのはツグナが繋がれた手綱だ。えっ、と青ざめるようにしてミシェルはシアンを見上げる。
「押し付けてすまないな。夕飯の調達、頼んだぞ」
目を細め、嘲笑するようにシアンが口角を上げる。その言葉は、先程ツグナを押し付けたミシェルへの皮肉なのだろう。笑顔の裏に圧力を感じたミシェルは「は、はい」とぎこちない笑みを浮かべ、黒い背中を見送った。
◆
「やっぱり、押し付けたのがまずかったよな……」
行き交う人々を横目にミシェルがボヤく。買い物を終え、暇を持て余したミシェルとツグナは、広場に設備されたベンチに座ってひたすら主の帰りを待っていた。ふと隣を見てみると、腕ごと体を縛られたツグナが足元に来た鳩と戯れている。変わりなく無表情だが、その瞳は好奇心に溢れていた。
「そういえばあんた、なんでそんな格好になっているのよ」
特に興味はないが、無言続きもそろそろ飽きてきた頃だ。なにより、縄で縛られた人間と一緒にいるのは、周囲の目を引いて恥ずかしい。理由次第では、外せないかとミシェルは考えた。
唐突に話しかけられたことで、ツグナは戸惑うように何度か瞬きする。
「あー……少し目を離すといなくなるからって。あと、他の人から何も受け取らないように」
「取らないの? 縄ぐらいあんたの力で解けるでしょ」
「さっきの会話聞いていただろ? 縄を解いたら首輪と手錠をつけられる。嫌がることばかり思いつくんだ、あいつは」
言葉と共に感情的になって、ツグナは座りながら空を蹴る。それに脅えた鳩がバサバサと音を立てて飛んでいき、うわっと声に出して肩を震わせた。途端に隣から煙が漂ってくる。
「そんな急に拘束器具が用意できるはずないでしょ。ただの脅しよ」
ふう、と白い息を吐きながらミシェルが呟いた。指先に挟まれた煙草は以前にも目撃したことがある。シアンに内緒でこっそり吸っているのも知っていたが、傍にいないからといって気を抜きすぎだと、ツグナは横目で凝視する。両足を開き、ベンチの背もたれに腕を広げくつろいでいるミシェルの姿は、時折見かけるだらしない中年男性のようだ。
「あいつの事だから本当に用意してそうで怖いんだよ。あとそれ臭い。やめろ」
「確かに。シアン様なら有り得るわね」
他人事のように平然と煙草を吸い続けるミシェルに「おい、無視するな」とツグナが睨みつける。
「まあ……いいよ。どうせ今日だけだしな。それに、勝手に行動した僕も悪いし」
向き直り、ツグナは空を見上げた。空は青の境目から朱色の綺麗なグラデーションに彩られ、街の影から漏れだした峻烈な斜陽が家路につく人々を照らし出している。あいつもそろそろ帰ってくる頃だろうと考えているツグナに、ミシェルは一驚の瞳を向けた。
「驚いた。あんたも反省するのね」
「人を反省しないみたいに言うな」
「だってそうじゃない。そもそも何が悪いかとか分かっていないでしょ」
「そんなことない。ちゃんと謝れる」
自信を持って答えるツグナに「そんなの誰だってできるわよ」とミシェルが鼻で笑った。
「謝ることはできても、なんで謝ってるかちゃんと理解している? あんたの謝罪は潜在的に刷り込まれた条件反射なのよ。口先だけの心無い謝罪……まるで奴隷みたい。そういう奴は自分のしでかしたことを理解していないから、過ちを繰り返すのよ……身に覚えがあるでしょ?」
奴隷、の言葉にツグナはその場で固まる。言われてみれば、謝る時にあまり相手を意識していなかったような気がした。施設にいた時は研究員が怒っていた時に謝罪の言葉を繰り返していたけど(言っても言わなくても酷い目に合う)その癖が未だにあるのかもしれない。先程のシアンの時だって、腕を掴まれて痛かったから離してほしくて―――。
「そ、うなのかな。全然何も考えていなかった……」
自信がなくなって、語尾が弱々しくなった。解放されて、心的ストレスの症状が落ち着いてきた今でも、根本的なものは変わっていない。それだけ、施設の記憶は体と心を蝕んでいるようだ。
「……でもまあ、反省できているのは、少なくともあんたが心から悪いと思えたってことよ。成長しているじゃない。良かったわね」
急に俯いて黙り込むツグナを面倒に思い、ミシェルは目を逸らしながら適当に励ました。意地悪のつもりで言ったが、思いのほか落ち込みだして焦る。一ヶ月ものの間付きっきりで世話をして思ったが、ツグナは本当に単純なやつだ。
口角を常に下げた無表情でいるが、意外にも喜怒哀楽がハッキリしている。重大なことを深く考えようとせず、基本的にいつも同じような態度でいるくせに、自分の不安を煽られると急に落ち込みだして情緒不安定だ。それはまだ彼が子供であるからなのか、もしくは彼の心的ストレスが原因なのかは、ミシェルにも分からない。
「……さっき、花売っている人が転んでて……声をかけたらシアンに怒られたんだ。傍を離れたのもそうだけど、警戒心がないって」
沈黙を割るようにしてツグナはぽつりぽつりと話を始める。言葉と同時にミシェルは目だけをツグナ向け、口を一文字に固く結んだ。俯いたツグナは地面の一点に焦点を当てて、話を続ける。
「でもその人、顔に火傷してて……一生懸命色んな人に声をかけてたんだけど、無視されていていたんだ。人と違うってだけでなんであんな扱いをされなくちゃいけないんだ? そんな人を疑うなんて……できないよ。何もかも疑っていたら、その人の中の大切なものを見落としそうで……それに」
「その人、娼婦でしょ?」
沈鬱になるツグナを現実に引き戻すように、ミシェルが会話を遮る。落ち込んで前屈みになっていた上半身のまま、ツグナはミシェルの方に顔を向け「なんで分かったんだ?」と問いかけた。
「今どき真っ当な花売りなんていないわよ。それは、娼婦が人を騙す時に使う手口の一つ」
「さっきシアンも言ってた。特にこの街の娼婦は客に薬を使うから危険だって」
前を向いて返すツグナに「娼婦の手口なんて、よく知っているわねあの人。騙されたことでもあるのかしら」と白い息を吐いてからミシェルは目を細めた。
普通の人間が娼婦と関わりを持つことなんて滅多にない。彼女達の目的はあくまで金を得ること。主な客は上流階級の人間が多いとされている。王都内には「放蕩の館」という監視付きの娼舘街が設置されているが、地方はほぼ野放し状態で、度々新聞にも娼婦絡みの事件記事が載っている。シアン様も上流貴族だし、過去に何人か関わりを持っていたのかもしれない。ふと主の情事を想像してしまい、ミシェルは申し訳ない気持ちになった。
「まあ、彼女達と関わるのはやめた方がいいわよ。ろくな目に遭わない」
「でも、あいつは火傷している事さえ疑っていたんだぞ」
いくらなんでも疑い過ぎだと口を尖らせるツグナに「確かにそれは疑いすぎかもね」とミシェルが微妙な表情で答えた。とはいえ、大袈裟に言ったのもフラフラと行動するツグナの警戒心を高めるために言ったのだろうし、ここで否定するのは良くないか。ミシェルは吸殻を落とし足で踏みつけてから「でも、シアン様がそう言ったのは、きっとあんたのためなのよ」と切り替えるように口を開いた。
「嘘つきは二種類いるの。弱者に擬態するタイプと強者に擬態するタイプ。弱者は自分が弱いとさらけ出すことで、他人からの期待を受けず、同情を得ようとする。世の中冷酷なやつが多いけれど、人の良い奴も勿論いるの」
脳裏にガタイのいい男の背中を思い浮かべ、ミシェルは沈痛な表情になる。
「弱者はそういった優しい人間につけこもうとする。さっき言ってた花売りも元は同情を買わせるための手口だから……自身のコンプレックスさえ利用しているとシアン様は思ったのかも」
疑う理由しては少し不十分に思えたが、何とかシアン様の思惑を否定せずに話せたはずだ。逆に、とミシェルがベンチの背もたれに広げていた腕を下ろす。
「強者は自分は強い、完璧であることを主張する。けれど、それは他人に弱みを見せられない臆病者でもあるの。そういう人間は、知らずに溜め込んだ心労で病みやすい」
「例えば?」
その問いにミシェルは「そうねえ」と目の前の広場を見つめる。思いつく限りでそういう人がいたかと考えていると、目の前から見覚えのある人物が歩いてきた。
「こんな所にいたか」
シアンの背中から漏れ出した強烈な落陽が二人の目を一瞬眩ませる。紅霞は急速に暗黒へと姿を変え、一度消えたガス灯に光が灯り始めた。不気味なほど真っ赤に染った夕日が、街の影に消えていく。
「あっ、シアン。遅かったな」
「まあな」
「何か分かったか?」
「残念ながら、なんの情報も手に入れられなかったよ」
落胆して嘆息するシアンとツグナの会話をミシェルは無言で見つめていた。途端にゴオンゴオンと中心部の鐘塔から大きな鐘の音が聞こえてくる。長い余韻を残し、街中に反響しながら人々に夜の始まりを告げた。
シアン、ミシェル、ツグナの三人は思わず鐘塔を見上げ、鐘の動きを目に焼きつける。
「さあ、そろそろ宿に戻ろう。夜がやってくる」
振り返るようにしてシアンは話を切り出す。同時に背中にあった夕日は街影に沈んで見えなくなった。
◆
一同は宿に帰宅し、今夜泊まる部屋の扉をゆっくりと開けた。部屋は正面の壁に窓があるだけの簡易な作りになっており、家具はベッド、机、木造の長椅子がそれぞれ一つずつ置いてある。ブラッディ家の豪華な装飾に慣れてしまったせいもあって、とても質素なものに思えた。
「一番高い部屋しか残っていなかったはずですが……」
無言でその部屋を見つめるシアンにミシェルが慌てて口を開く。誰よりも早くツグナが部屋に踏み込むと、床板が体重でギシギシと軋んだ。部屋の中は埃が蔓延し「ボロいし臭いな」とツグナが一言言い放ってから、空気の淀みに思わず咳払いする。
「ツグナ、窓を開けろ」
先程から黙り込んでいたシアンは部屋に入っていくと、机の上に置いてあったランタンに火をつけた。そうしてから、慣れた手つきで壁に打たれた鉄釘に吊り下げる。ミシェルは驚きながら扉を閉め、遅れて部屋の中へと入った。
「あ、あの。部屋変えましょうか? なんとか言えば―――」
「別に構わないよ。地方の宿にしてはまだマシな方だ。さすが、一番高いだけある」
シルクハットを取り、シアンは慣れたように辺りを見回した。大抵の宿はベッドと机だけのものが多い。酷い時は他人と同室で床に寝させられるものもある(流石に泊まろうとは思わない)王都付近の街にいけば、仕事用の屋敷があるため寝泊まりに困りはしないが、地方に来た時はどうしても宿を利用しなくてはならなかった。
経験豊富なようで助かったとミシェルは脱力して息をつく。三年近く一緒にいたが、遠征について行くのは今回が初めてだったため、色々と不安だったのだ。
安心するミシェルをよそに、窓を開けたツグナが「下で何かやってるぞ」とこちらに向かって問いかけてくる。
「酒場があるからな。俺達もそろそろ夕飯にしよう。その前に。ツグナ、君が持っていたトランクを開けろ」
「それぐらい、自分で開けろよ」
「君の方が近いだろ」
文句ありげにむっと口を尖らせ、ツグナは傍に置いた革トランクの一つを開ける。そこには綺麗に畳まれた清潔なシャツと、錠前つきの太い鎖があった。先程帰る際に縄を解かれ安心していたが、鎖を目にしたことで再び自身の危機を感じ、小さく悲鳴をあげる。
「お、お前……本当に持って……」
ぎこちなく震えながらシアンに顔を向ける。わざわざ開かせたのは、いつでも拘束できるという脅しのためか。縄を解かれてからいつもの調子で話していたため、今度は鎖に繋がれるのではないのかと怯える。
「開いたか? ならそこから鎖と錠前を……」
「ひっ、ごめんなさい! ごめんなさい! 鎖だけは……」
涙目になって謝り続けるツグナに「何を言っているんだ?」とシアンが近づく。歩み寄る足に合わせてビクビクと震えていると、目の前まできたシアンが「早く渡せ」と手を伸ばした。ツグナは思わず目を瞑るが、シアンの手は怯えるツグナを通り越して鎖を掴む。何もない自分の体にしばらくして目を開けると、シアンはツグナから離れて扉前まで歩みを進めていた。
「地方宿の安全性は信用ならないのでね」
扉前まできて立ち止まると、シアンは持っていた鎖をノブに巻きつけ始めた。そうしてから鍵側の壁に引っ張り、先程移動させた長椅子の足に括りつけた。長椅子を扉から離すように動かし、鎖をピンと張らせて確認する。
「最も侵入されやすいのは深夜だからな。今夜はこの長椅子に一人寝てもらう。人間の重さがあればそう簡単に扉は開かない。もし開いたとしても、繋がれた長椅子の方にも何らかの大きな動きがあるだろうから、侵入に気づくことが出来る」
「じゃあ、今夜は私が長椅子で寝ます。シアン様はベッドをお使いください」
「そうか。ならその言葉に甘えさせてもらおう。本当は、女性と同室であること自体、許されないことなんだがな」
ふう、と一息ついてから、シアンはベッドに腰を下ろした。それを見たミシェルは、納得したように机の上に置いた袋からパンや包みを取り出し、食事の準備を始める。
「あれ。じゃあ、僕はどこで寝ればいいんだ?」
鎖が自分を拘束するためのものじゃないと知ってツグナはほっとしていたが、二人のやり取りを見て疑問を抱く。答えを求めるかのように周囲を見回していると「君は窓側の床だ」とシアンから声が聞こえてきた。
「窓から侵入してくる可能性もあるからな。まあ、この高さだからないとは思うが」
「……別にいいけど。なんかお前に言われるとイラつくな。というか、紳士なら女性にベッド譲れよ」
「俺は紳士だから、女性の親切を無下にはできない」
黒い本を取りだし、ページを捲っているシアンの背中をツグナは睨みつけた。理屈っぽい口調や、相手を煽るような言い方から見ても、こいつが紳士でないことぐらい自分にも分かる。本当に口ばかりが達者なやつだ。
「ああ、ちなみに。その鎖、部屋の安全性を高めるためだけじゃなく、他にも様々な用途があるんだ。例えば、駄犬の動きを封じたりとかね」
本を閉じ、口許に冷笑を浮かべながらシアンが振り向く。ぞわりと背筋を逆なでる悪寒にツグナは身震いした。先程、勘違いして怯えていた事がシアンに気付かれていたんだろう。もしかしたら心の中で面白がっていたのかもしれない。笑っているシアンを想像して怒りに溢れたが、鎖で拘束される可能性があることもあって押し黙る。
「……ゲスが。お前のそういうところ嫌い」
「奇遇だな、俺もだ。俺達気が合うのかもな」
やっと口に出たツグナの言葉さえ、シアンは余裕があるかのように返した。
恐怖につけ込むことで、相手をより支配しやすくなる。ツグナのトラウマや恐怖を熟知しているシアンにとって、ツグナを支配することは造作もないことだ。以前は心的ストレスで、何もしなくても勝手に恐怖で抑え込まれていた。だが、最近人馴れしてきてからはそうもいかなくなってくる。ここまで言うことを聞かなくなったのは、甘やかしていた自分のせいだ。
もし、自分より下だと判断されて実力行使で反抗されたら、ツグナを抑え込むことは出来ない。そうならないためにも、ツグナにとって自分は恐怖の対象でなくてはならないのだと、シアンは考えた。
「あー、あの……」
気まずい空気を割るようにミシェルは咳払いをする。円型のコーヒーテーブルには、先程買ってきたものを組み合わせて作った簡単な食事が用意されていた。
「夕飯できました。あとさっき買った水で紅茶も……」
テーブルの上にはガラス製のサイフォンが置いてあり、球状のフラスコに透き通った赤色の液体が入っていた。紅茶を入れている所は何度か見たことがあったが、この形状のものは初めて見る。
「頂こう。サイフォンなんて旅先でぐらいしか使わないからな。持ってきて正解だった」
真っ先に紅茶を口にするシアンを見て、ツグナは羨ましそうに目を向けた。気がつくと、シアンはいつも紅茶を飲んでいる気がする。一度は飲ませて貰ったが、頬の中心がきゅっと引き締まり、なんだか不思議な味がした。初めての味覚に戸惑ったとはいえ、もう一度飲みたいと思えたのをよく覚えている。
「なんだ? 飲みたいのか」
「べ、別に。そういうわけじゃ……」
ハッとなって顔を逸らすツグナに「素直じゃないガキだな」とシアンは飲み干した。テーブルの上にあるサンドを手に取り、その間にミシェルが紅茶を注ぐ。
「というか……トランク丸々一つ使ってそれ入れてきたのかよ。どうりで重いと思った」
文句を呟きながらテーブルに近づき「これ、食べていいのか」とツグナがサンドを見つめた。細長い手のひらサイズのパンにチーズとスライスした燻製肉が挟んである。
「いいわよ。今夜はそれ一つだけだから、味わって食べなさい」
注ぎ終わった紅茶を机に置きながらミシェルが呟いた。腹の虫が音を上げると同時にサンドを手に取ったツグナだったが、香ばしさとはまた違った特徴的な匂いに眉を顰めて鼻を近づける。
「なんか、変な匂いだな」
「嫌な言い方するわね。多分、燻製の匂いよ。体に害はないからつべこべ言わずさっさと食え」
語尾を特に強調するようにミシェルは言った。そんなミシェルの怒りに促され、ツグナはしばらく間を置いてから一口含んだ。匂い同様癖のある味だったが、チーズの甘みで上手くまとめあげられ、後味も意外にあっさりしている。初めは煙臭さが目立ったが、噛んでいくうちに気にならなくなっていた。
「どう? 一応港町の名物、ルーポスサンドを意識したんだけど」
「……うまい、と思う」
夢中で食べ続けるツグナを見て「それは良かった」と何故か誇らしげにミシェルが返した。
「ルーポスサンドなのに、チーズを入れたのか。珍しいな」
食べ終わったシアンは、ミシェルが入れ直した紅茶を飲んで、肩の力を抜く。
ルーポスはアルマテアの近海で取れる大型の肉食魚だ。れっきとした魚類だが、身が肉のようにジューシーで臭みが少ないため、言われなければ魚だと分からない。港飯で食べられるルーポスサンドは、基本的にレタスと挟んでいることが多かった。
「はい。レタスがなかったというのが一番強いんですが……鳥肉に近い味をしているのでチーズも合うかと。お口に合いましたか?」
「屋敷に帰ったら、執事に同じものを作るよう頼むよ」
「……っ! 是非!」
はっきりと感想を貰うことはできなかったが、遠回しにまた食べたいと言っているようだ。落ち着いているシアンの横顔を見て、これは結構上手くいったかもなとミシェルは満足そうにルーポスサンドを口にした。
「なあ、明日はどうするんだ? ここに滞在できるのは三日までなんだろ?」
指についたチーズをツグナが舐め取る。三日、という時間はシアンが自分自身に決めた、遠征する際の制約だそうだ。王都付近で仕事をする時は、ひと月ぐらい滞在できるらしいが、地方での長期滞在は滅多にしないという。
「ああ。何も出てこないのに、いつまでもこの街で探るのは時間の無駄だろう。三日間徹底的にやって収穫がなかった時は潔く諦めるまでだ。執事に仕事を任せているし、早く帰らないとな」
それもそうか、とシアンの言葉を聞いてツグナは納得した。もし、三日以内に何も情報を手に入れられなかったら、ヴェトナに来たことが無駄足になってしまう。せっかく苦労したのに(縄で縛られたり)それだけは嫌だった。
「明日は少し思考を変えて、町長の元へ行こうかと思っている」
「ちょうちょう……?羽があるやつ?」
「それを言うなら蝶々よ! じゃなくて町長! 町の長! ヴェトナで一番偉い人よ」
ツグナとシアンの会話に、口を拭いたミシェルが割入った。ミシェルがいると余計なツッコミをしなくて済むから助かる。開きかけた口を閉じて、シアンは無言で黒いコートを脱ぎ始めた。
「しかし、シアン様。そんな奴にお会いする事が出来るのですか?」
「それなら問題ない。地位的に言えば俺の方が上だからな。それに、奴と父は面識がある。ブラッディ家だと言えばすぐに気がつくだろう」
はあ、と返事をしながら、ミシェルはシアンからコートを受け取った。ヴェトナの町長……あまりいい噂を聞かないのだが、シアン様は知らないのだろうか。コートをその場で畳みながら、ミシェルはベッドに腰を下ろすシアンを見つめ、一人思った。
「とにかく。各自、今日は早めに就寝するように。いいな。特に」
「どうせ僕だろ!」
シアンが言うよりも早く、張り上げたツグナの声が遮る。分かっているじゃないかと、シアンはツグナを見てせせら笑った。
「あっ、ツグナ。寝る時はこれ使いなさい」
思い出したように、ミシェルがトランクの中から毛布を取り出してツグナに差し出した。なんだこれ? と言いたげな瞳でツグナは毛布を見つめる。
「そのまま床で寝るわけにもいかないでしょ。汚いし、風邪をひいたら迷惑がかかるのはこっちなんだから」
「あっ、うん。ありがとう。敷けばいいのか?」
「それでもいいけど。こうして寝れば、一枚で敷布と掛け布の両方になるでしょ」
持っていた毛布を広げて、ミシェルは無理やりツグナを包み込んだ。ほら、これなら暖かいと、驚くツグナを見つめる。毛布の温かさと清潔感が漂う石鹸の匂いに、ツグナは穏やかな気持ちになりながら毛布を抑えるように掴む。確かにこの状態で寝れば、床に直接寝ることもなく、寒さを凌ぐことができるだろう。
「お前……頭いいな」
「……あんたが馬鹿なだけよ」
ミシェルは呆れながら軽くツグナの頭に手を乗せ、その場を離れた。そんなミシェルを不思議に思いながらも、ツグナは乗せられた頭上に手を置く。ひと月前まで顔を見合わせれば口喧嘩していたのに、不思議なものだ。
『人を救えれば自分はどうなってもいいのか!? もっと自分を大切にしろ! 庇われたこっちの気持ちも少しは考えろよ! バカ!』
ふと、屋敷に帰ってきてミシェルから言われたことを思い出した。あの時は怒られている意味がよく分からなかったけれど、今思えばあれは自分を思っての言葉だったのかもしれない。初めて会った時から嫌な奴だと思っていたが、本当は優しいやつなのかもな、とツグナは考えた。
人畜無害そうなシアンが、今では人でなしのエセ紳士へと変わったように、第一印象はあてにならないものだ。腹の底では何を考えているか分からない、と言うのはそういうことなんだろう。少しだけ理解出来たような気がしたと、ツグナは窓の外を見つめた。
「随分と時間がかかりましたね」
宿の前で待っていたミシェルは、無愛想な顔を二人に向ける。随分を強調しているあたり、皮肉めいた言い方だ。
「待てもできない駄犬が一緒なものでな。待たせてしまってすまない」
「お察しします。その様子じゃ、収穫はなさそうですね」
ギロりと鋭い目だけを動かして、白髪頭の少年を凝視する。一方ツグナは眉間に皺を寄せ、じっとシアンを睨みつけていた。その身体は腕をまとめるように縄でぐるぐるに巻かれている。両手で革トランクの持ち手を握っているため、一切自由がきかない状態だ。
「おい外せよ。もうどこにも行かないから」
「さっきも言ったろ。君に優しくするのはもうやめる。外したければ外せばいい。そしたら、君の縄が大好きな首輪と手錠になるだけだ。その方が、絶対に傍を離れない確信があるから安心するんだがな」
冷たく吐き捨ててから、シアンは手網を無理やり引き寄せる。抗うことも出来ずに、ツグナはふらつきながら引かれた方向へと歩み寄った。一体何をしたらそうなるのかと、ミシェルは縛られているツグナを呆れながら見つめる。やはり、こいつと二人にならなかったのは正解だったようだ。
「宿の方は取れたか?」
話を戻すようにしてシアンが確認する。主に面倒事を押し付けてしまった罪悪感もあり、ミシェルは急に話を振られたことで肩を大きく飛びあがらせた。
「は、はい。言われた通り、最上階の部屋を。しかし、他は満室だったらしく、一部屋しか取れませんでした」
「そうか。まあ、仕方ない。この街には他にまともな宿がないからな。一部屋取れただけでも運が良かったと考えよう」
懐中時計を見つめ「日没までまだ時間があるな」とシアンは呟いた。広場の周辺には酒場が何ヶ所かあり、夜は昼間以上に賑やかになる。だが、浮浪者が闇夜に紛れて観光客を襲う事例は少なくなかった。もしそうした犯罪が起きても、憲兵は「見えなかった」と言うだけ。信用ならないというのはそういう所だ。
ただでさえ、金を求める浮浪者に引っかかる馬鹿がここにいるのに。縄で繋がれたツグナを見つめ、シアンは連れてきたことを後悔したように嘆息した。
「……とりあえず、夕飯の調達をしながら聞き込みを続けよう。日没前には部屋に戻る」
「分かりました。では、私は買い物を中心に周辺を回ることにします」
「そうしてくれ。はい」
そう言って渡されたのはツグナが繋がれた手綱だ。えっ、と青ざめるようにしてミシェルはシアンを見上げる。
「押し付けてすまないな。夕飯の調達、頼んだぞ」
目を細め、嘲笑するようにシアンが口角を上げる。その言葉は、先程ツグナを押し付けたミシェルへの皮肉なのだろう。笑顔の裏に圧力を感じたミシェルは「は、はい」とぎこちない笑みを浮かべ、黒い背中を見送った。
◆
「やっぱり、押し付けたのがまずかったよな……」
行き交う人々を横目にミシェルがボヤく。買い物を終え、暇を持て余したミシェルとツグナは、広場に設備されたベンチに座ってひたすら主の帰りを待っていた。ふと隣を見てみると、腕ごと体を縛られたツグナが足元に来た鳩と戯れている。変わりなく無表情だが、その瞳は好奇心に溢れていた。
「そういえばあんた、なんでそんな格好になっているのよ」
特に興味はないが、無言続きもそろそろ飽きてきた頃だ。なにより、縄で縛られた人間と一緒にいるのは、周囲の目を引いて恥ずかしい。理由次第では、外せないかとミシェルは考えた。
唐突に話しかけられたことで、ツグナは戸惑うように何度か瞬きする。
「あー……少し目を離すといなくなるからって。あと、他の人から何も受け取らないように」
「取らないの? 縄ぐらいあんたの力で解けるでしょ」
「さっきの会話聞いていただろ? 縄を解いたら首輪と手錠をつけられる。嫌がることばかり思いつくんだ、あいつは」
言葉と共に感情的になって、ツグナは座りながら空を蹴る。それに脅えた鳩がバサバサと音を立てて飛んでいき、うわっと声に出して肩を震わせた。途端に隣から煙が漂ってくる。
「そんな急に拘束器具が用意できるはずないでしょ。ただの脅しよ」
ふう、と白い息を吐きながらミシェルが呟いた。指先に挟まれた煙草は以前にも目撃したことがある。シアンに内緒でこっそり吸っているのも知っていたが、傍にいないからといって気を抜きすぎだと、ツグナは横目で凝視する。両足を開き、ベンチの背もたれに腕を広げくつろいでいるミシェルの姿は、時折見かけるだらしない中年男性のようだ。
「あいつの事だから本当に用意してそうで怖いんだよ。あとそれ臭い。やめろ」
「確かに。シアン様なら有り得るわね」
他人事のように平然と煙草を吸い続けるミシェルに「おい、無視するな」とツグナが睨みつける。
「まあ……いいよ。どうせ今日だけだしな。それに、勝手に行動した僕も悪いし」
向き直り、ツグナは空を見上げた。空は青の境目から朱色の綺麗なグラデーションに彩られ、街の影から漏れだした峻烈な斜陽が家路につく人々を照らし出している。あいつもそろそろ帰ってくる頃だろうと考えているツグナに、ミシェルは一驚の瞳を向けた。
「驚いた。あんたも反省するのね」
「人を反省しないみたいに言うな」
「だってそうじゃない。そもそも何が悪いかとか分かっていないでしょ」
「そんなことない。ちゃんと謝れる」
自信を持って答えるツグナに「そんなの誰だってできるわよ」とミシェルが鼻で笑った。
「謝ることはできても、なんで謝ってるかちゃんと理解している? あんたの謝罪は潜在的に刷り込まれた条件反射なのよ。口先だけの心無い謝罪……まるで奴隷みたい。そういう奴は自分のしでかしたことを理解していないから、過ちを繰り返すのよ……身に覚えがあるでしょ?」
奴隷、の言葉にツグナはその場で固まる。言われてみれば、謝る時にあまり相手を意識していなかったような気がした。施設にいた時は研究員が怒っていた時に謝罪の言葉を繰り返していたけど(言っても言わなくても酷い目に合う)その癖が未だにあるのかもしれない。先程のシアンの時だって、腕を掴まれて痛かったから離してほしくて―――。
「そ、うなのかな。全然何も考えていなかった……」
自信がなくなって、語尾が弱々しくなった。解放されて、心的ストレスの症状が落ち着いてきた今でも、根本的なものは変わっていない。それだけ、施設の記憶は体と心を蝕んでいるようだ。
「……でもまあ、反省できているのは、少なくともあんたが心から悪いと思えたってことよ。成長しているじゃない。良かったわね」
急に俯いて黙り込むツグナを面倒に思い、ミシェルは目を逸らしながら適当に励ました。意地悪のつもりで言ったが、思いのほか落ち込みだして焦る。一ヶ月ものの間付きっきりで世話をして思ったが、ツグナは本当に単純なやつだ。
口角を常に下げた無表情でいるが、意外にも喜怒哀楽がハッキリしている。重大なことを深く考えようとせず、基本的にいつも同じような態度でいるくせに、自分の不安を煽られると急に落ち込みだして情緒不安定だ。それはまだ彼が子供であるからなのか、もしくは彼の心的ストレスが原因なのかは、ミシェルにも分からない。
「……さっき、花売っている人が転んでて……声をかけたらシアンに怒られたんだ。傍を離れたのもそうだけど、警戒心がないって」
沈黙を割るようにしてツグナはぽつりぽつりと話を始める。言葉と同時にミシェルは目だけをツグナ向け、口を一文字に固く結んだ。俯いたツグナは地面の一点に焦点を当てて、話を続ける。
「でもその人、顔に火傷してて……一生懸命色んな人に声をかけてたんだけど、無視されていていたんだ。人と違うってだけでなんであんな扱いをされなくちゃいけないんだ? そんな人を疑うなんて……できないよ。何もかも疑っていたら、その人の中の大切なものを見落としそうで……それに」
「その人、娼婦でしょ?」
沈鬱になるツグナを現実に引き戻すように、ミシェルが会話を遮る。落ち込んで前屈みになっていた上半身のまま、ツグナはミシェルの方に顔を向け「なんで分かったんだ?」と問いかけた。
「今どき真っ当な花売りなんていないわよ。それは、娼婦が人を騙す時に使う手口の一つ」
「さっきシアンも言ってた。特にこの街の娼婦は客に薬を使うから危険だって」
前を向いて返すツグナに「娼婦の手口なんて、よく知っているわねあの人。騙されたことでもあるのかしら」と白い息を吐いてからミシェルは目を細めた。
普通の人間が娼婦と関わりを持つことなんて滅多にない。彼女達の目的はあくまで金を得ること。主な客は上流階級の人間が多いとされている。王都内には「放蕩の館」という監視付きの娼舘街が設置されているが、地方はほぼ野放し状態で、度々新聞にも娼婦絡みの事件記事が載っている。シアン様も上流貴族だし、過去に何人か関わりを持っていたのかもしれない。ふと主の情事を想像してしまい、ミシェルは申し訳ない気持ちになった。
「まあ、彼女達と関わるのはやめた方がいいわよ。ろくな目に遭わない」
「でも、あいつは火傷している事さえ疑っていたんだぞ」
いくらなんでも疑い過ぎだと口を尖らせるツグナに「確かにそれは疑いすぎかもね」とミシェルが微妙な表情で答えた。とはいえ、大袈裟に言ったのもフラフラと行動するツグナの警戒心を高めるために言ったのだろうし、ここで否定するのは良くないか。ミシェルは吸殻を落とし足で踏みつけてから「でも、シアン様がそう言ったのは、きっとあんたのためなのよ」と切り替えるように口を開いた。
「嘘つきは二種類いるの。弱者に擬態するタイプと強者に擬態するタイプ。弱者は自分が弱いとさらけ出すことで、他人からの期待を受けず、同情を得ようとする。世の中冷酷なやつが多いけれど、人の良い奴も勿論いるの」
脳裏にガタイのいい男の背中を思い浮かべ、ミシェルは沈痛な表情になる。
「弱者はそういった優しい人間につけこもうとする。さっき言ってた花売りも元は同情を買わせるための手口だから……自身のコンプレックスさえ利用しているとシアン様は思ったのかも」
疑う理由しては少し不十分に思えたが、何とかシアン様の思惑を否定せずに話せたはずだ。逆に、とミシェルがベンチの背もたれに広げていた腕を下ろす。
「強者は自分は強い、完璧であることを主張する。けれど、それは他人に弱みを見せられない臆病者でもあるの。そういう人間は、知らずに溜め込んだ心労で病みやすい」
「例えば?」
その問いにミシェルは「そうねえ」と目の前の広場を見つめる。思いつく限りでそういう人がいたかと考えていると、目の前から見覚えのある人物が歩いてきた。
「こんな所にいたか」
シアンの背中から漏れ出した強烈な落陽が二人の目を一瞬眩ませる。紅霞は急速に暗黒へと姿を変え、一度消えたガス灯に光が灯り始めた。不気味なほど真っ赤に染った夕日が、街の影に消えていく。
「あっ、シアン。遅かったな」
「まあな」
「何か分かったか?」
「残念ながら、なんの情報も手に入れられなかったよ」
落胆して嘆息するシアンとツグナの会話をミシェルは無言で見つめていた。途端にゴオンゴオンと中心部の鐘塔から大きな鐘の音が聞こえてくる。長い余韻を残し、街中に反響しながら人々に夜の始まりを告げた。
シアン、ミシェル、ツグナの三人は思わず鐘塔を見上げ、鐘の動きを目に焼きつける。
「さあ、そろそろ宿に戻ろう。夜がやってくる」
振り返るようにしてシアンは話を切り出す。同時に背中にあった夕日は街影に沈んで見えなくなった。
◆
一同は宿に帰宅し、今夜泊まる部屋の扉をゆっくりと開けた。部屋は正面の壁に窓があるだけの簡易な作りになっており、家具はベッド、机、木造の長椅子がそれぞれ一つずつ置いてある。ブラッディ家の豪華な装飾に慣れてしまったせいもあって、とても質素なものに思えた。
「一番高い部屋しか残っていなかったはずですが……」
無言でその部屋を見つめるシアンにミシェルが慌てて口を開く。誰よりも早くツグナが部屋に踏み込むと、床板が体重でギシギシと軋んだ。部屋の中は埃が蔓延し「ボロいし臭いな」とツグナが一言言い放ってから、空気の淀みに思わず咳払いする。
「ツグナ、窓を開けろ」
先程から黙り込んでいたシアンは部屋に入っていくと、机の上に置いてあったランタンに火をつけた。そうしてから、慣れた手つきで壁に打たれた鉄釘に吊り下げる。ミシェルは驚きながら扉を閉め、遅れて部屋の中へと入った。
「あ、あの。部屋変えましょうか? なんとか言えば―――」
「別に構わないよ。地方の宿にしてはまだマシな方だ。さすが、一番高いだけある」
シルクハットを取り、シアンは慣れたように辺りを見回した。大抵の宿はベッドと机だけのものが多い。酷い時は他人と同室で床に寝させられるものもある(流石に泊まろうとは思わない)王都付近の街にいけば、仕事用の屋敷があるため寝泊まりに困りはしないが、地方に来た時はどうしても宿を利用しなくてはならなかった。
経験豊富なようで助かったとミシェルは脱力して息をつく。三年近く一緒にいたが、遠征について行くのは今回が初めてだったため、色々と不安だったのだ。
安心するミシェルをよそに、窓を開けたツグナが「下で何かやってるぞ」とこちらに向かって問いかけてくる。
「酒場があるからな。俺達もそろそろ夕飯にしよう。その前に。ツグナ、君が持っていたトランクを開けろ」
「それぐらい、自分で開けろよ」
「君の方が近いだろ」
文句ありげにむっと口を尖らせ、ツグナは傍に置いた革トランクの一つを開ける。そこには綺麗に畳まれた清潔なシャツと、錠前つきの太い鎖があった。先程帰る際に縄を解かれ安心していたが、鎖を目にしたことで再び自身の危機を感じ、小さく悲鳴をあげる。
「お、お前……本当に持って……」
ぎこちなく震えながらシアンに顔を向ける。わざわざ開かせたのは、いつでも拘束できるという脅しのためか。縄を解かれてからいつもの調子で話していたため、今度は鎖に繋がれるのではないのかと怯える。
「開いたか? ならそこから鎖と錠前を……」
「ひっ、ごめんなさい! ごめんなさい! 鎖だけは……」
涙目になって謝り続けるツグナに「何を言っているんだ?」とシアンが近づく。歩み寄る足に合わせてビクビクと震えていると、目の前まできたシアンが「早く渡せ」と手を伸ばした。ツグナは思わず目を瞑るが、シアンの手は怯えるツグナを通り越して鎖を掴む。何もない自分の体にしばらくして目を開けると、シアンはツグナから離れて扉前まで歩みを進めていた。
「地方宿の安全性は信用ならないのでね」
扉前まできて立ち止まると、シアンは持っていた鎖をノブに巻きつけ始めた。そうしてから鍵側の壁に引っ張り、先程移動させた長椅子の足に括りつけた。長椅子を扉から離すように動かし、鎖をピンと張らせて確認する。
「最も侵入されやすいのは深夜だからな。今夜はこの長椅子に一人寝てもらう。人間の重さがあればそう簡単に扉は開かない。もし開いたとしても、繋がれた長椅子の方にも何らかの大きな動きがあるだろうから、侵入に気づくことが出来る」
「じゃあ、今夜は私が長椅子で寝ます。シアン様はベッドをお使いください」
「そうか。ならその言葉に甘えさせてもらおう。本当は、女性と同室であること自体、許されないことなんだがな」
ふう、と一息ついてから、シアンはベッドに腰を下ろした。それを見たミシェルは、納得したように机の上に置いた袋からパンや包みを取り出し、食事の準備を始める。
「あれ。じゃあ、僕はどこで寝ればいいんだ?」
鎖が自分を拘束するためのものじゃないと知ってツグナはほっとしていたが、二人のやり取りを見て疑問を抱く。答えを求めるかのように周囲を見回していると「君は窓側の床だ」とシアンから声が聞こえてきた。
「窓から侵入してくる可能性もあるからな。まあ、この高さだからないとは思うが」
「……別にいいけど。なんかお前に言われるとイラつくな。というか、紳士なら女性にベッド譲れよ」
「俺は紳士だから、女性の親切を無下にはできない」
黒い本を取りだし、ページを捲っているシアンの背中をツグナは睨みつけた。理屈っぽい口調や、相手を煽るような言い方から見ても、こいつが紳士でないことぐらい自分にも分かる。本当に口ばかりが達者なやつだ。
「ああ、ちなみに。その鎖、部屋の安全性を高めるためだけじゃなく、他にも様々な用途があるんだ。例えば、駄犬の動きを封じたりとかね」
本を閉じ、口許に冷笑を浮かべながらシアンが振り向く。ぞわりと背筋を逆なでる悪寒にツグナは身震いした。先程、勘違いして怯えていた事がシアンに気付かれていたんだろう。もしかしたら心の中で面白がっていたのかもしれない。笑っているシアンを想像して怒りに溢れたが、鎖で拘束される可能性があることもあって押し黙る。
「……ゲスが。お前のそういうところ嫌い」
「奇遇だな、俺もだ。俺達気が合うのかもな」
やっと口に出たツグナの言葉さえ、シアンは余裕があるかのように返した。
恐怖につけ込むことで、相手をより支配しやすくなる。ツグナのトラウマや恐怖を熟知しているシアンにとって、ツグナを支配することは造作もないことだ。以前は心的ストレスで、何もしなくても勝手に恐怖で抑え込まれていた。だが、最近人馴れしてきてからはそうもいかなくなってくる。ここまで言うことを聞かなくなったのは、甘やかしていた自分のせいだ。
もし、自分より下だと判断されて実力行使で反抗されたら、ツグナを抑え込むことは出来ない。そうならないためにも、ツグナにとって自分は恐怖の対象でなくてはならないのだと、シアンは考えた。
「あー、あの……」
気まずい空気を割るようにミシェルは咳払いをする。円型のコーヒーテーブルには、先程買ってきたものを組み合わせて作った簡単な食事が用意されていた。
「夕飯できました。あとさっき買った水で紅茶も……」
テーブルの上にはガラス製のサイフォンが置いてあり、球状のフラスコに透き通った赤色の液体が入っていた。紅茶を入れている所は何度か見たことがあったが、この形状のものは初めて見る。
「頂こう。サイフォンなんて旅先でぐらいしか使わないからな。持ってきて正解だった」
真っ先に紅茶を口にするシアンを見て、ツグナは羨ましそうに目を向けた。気がつくと、シアンはいつも紅茶を飲んでいる気がする。一度は飲ませて貰ったが、頬の中心がきゅっと引き締まり、なんだか不思議な味がした。初めての味覚に戸惑ったとはいえ、もう一度飲みたいと思えたのをよく覚えている。
「なんだ? 飲みたいのか」
「べ、別に。そういうわけじゃ……」
ハッとなって顔を逸らすツグナに「素直じゃないガキだな」とシアンは飲み干した。テーブルの上にあるサンドを手に取り、その間にミシェルが紅茶を注ぐ。
「というか……トランク丸々一つ使ってそれ入れてきたのかよ。どうりで重いと思った」
文句を呟きながらテーブルに近づき「これ、食べていいのか」とツグナがサンドを見つめた。細長い手のひらサイズのパンにチーズとスライスした燻製肉が挟んである。
「いいわよ。今夜はそれ一つだけだから、味わって食べなさい」
注ぎ終わった紅茶を机に置きながらミシェルが呟いた。腹の虫が音を上げると同時にサンドを手に取ったツグナだったが、香ばしさとはまた違った特徴的な匂いに眉を顰めて鼻を近づける。
「なんか、変な匂いだな」
「嫌な言い方するわね。多分、燻製の匂いよ。体に害はないからつべこべ言わずさっさと食え」
語尾を特に強調するようにミシェルは言った。そんなミシェルの怒りに促され、ツグナはしばらく間を置いてから一口含んだ。匂い同様癖のある味だったが、チーズの甘みで上手くまとめあげられ、後味も意外にあっさりしている。初めは煙臭さが目立ったが、噛んでいくうちに気にならなくなっていた。
「どう? 一応港町の名物、ルーポスサンドを意識したんだけど」
「……うまい、と思う」
夢中で食べ続けるツグナを見て「それは良かった」と何故か誇らしげにミシェルが返した。
「ルーポスサンドなのに、チーズを入れたのか。珍しいな」
食べ終わったシアンは、ミシェルが入れ直した紅茶を飲んで、肩の力を抜く。
ルーポスはアルマテアの近海で取れる大型の肉食魚だ。れっきとした魚類だが、身が肉のようにジューシーで臭みが少ないため、言われなければ魚だと分からない。港飯で食べられるルーポスサンドは、基本的にレタスと挟んでいることが多かった。
「はい。レタスがなかったというのが一番強いんですが……鳥肉に近い味をしているのでチーズも合うかと。お口に合いましたか?」
「屋敷に帰ったら、執事に同じものを作るよう頼むよ」
「……っ! 是非!」
はっきりと感想を貰うことはできなかったが、遠回しにまた食べたいと言っているようだ。落ち着いているシアンの横顔を見て、これは結構上手くいったかもなとミシェルは満足そうにルーポスサンドを口にした。
「なあ、明日はどうするんだ? ここに滞在できるのは三日までなんだろ?」
指についたチーズをツグナが舐め取る。三日、という時間はシアンが自分自身に決めた、遠征する際の制約だそうだ。王都付近で仕事をする時は、ひと月ぐらい滞在できるらしいが、地方での長期滞在は滅多にしないという。
「ああ。何も出てこないのに、いつまでもこの街で探るのは時間の無駄だろう。三日間徹底的にやって収穫がなかった時は潔く諦めるまでだ。執事に仕事を任せているし、早く帰らないとな」
それもそうか、とシアンの言葉を聞いてツグナは納得した。もし、三日以内に何も情報を手に入れられなかったら、ヴェトナに来たことが無駄足になってしまう。せっかく苦労したのに(縄で縛られたり)それだけは嫌だった。
「明日は少し思考を変えて、町長の元へ行こうかと思っている」
「ちょうちょう……?羽があるやつ?」
「それを言うなら蝶々よ! じゃなくて町長! 町の長! ヴェトナで一番偉い人よ」
ツグナとシアンの会話に、口を拭いたミシェルが割入った。ミシェルがいると余計なツッコミをしなくて済むから助かる。開きかけた口を閉じて、シアンは無言で黒いコートを脱ぎ始めた。
「しかし、シアン様。そんな奴にお会いする事が出来るのですか?」
「それなら問題ない。地位的に言えば俺の方が上だからな。それに、奴と父は面識がある。ブラッディ家だと言えばすぐに気がつくだろう」
はあ、と返事をしながら、ミシェルはシアンからコートを受け取った。ヴェトナの町長……あまりいい噂を聞かないのだが、シアン様は知らないのだろうか。コートをその場で畳みながら、ミシェルはベッドに腰を下ろすシアンを見つめ、一人思った。
「とにかく。各自、今日は早めに就寝するように。いいな。特に」
「どうせ僕だろ!」
シアンが言うよりも早く、張り上げたツグナの声が遮る。分かっているじゃないかと、シアンはツグナを見てせせら笑った。
「あっ、ツグナ。寝る時はこれ使いなさい」
思い出したように、ミシェルがトランクの中から毛布を取り出してツグナに差し出した。なんだこれ? と言いたげな瞳でツグナは毛布を見つめる。
「そのまま床で寝るわけにもいかないでしょ。汚いし、風邪をひいたら迷惑がかかるのはこっちなんだから」
「あっ、うん。ありがとう。敷けばいいのか?」
「それでもいいけど。こうして寝れば、一枚で敷布と掛け布の両方になるでしょ」
持っていた毛布を広げて、ミシェルは無理やりツグナを包み込んだ。ほら、これなら暖かいと、驚くツグナを見つめる。毛布の温かさと清潔感が漂う石鹸の匂いに、ツグナは穏やかな気持ちになりながら毛布を抑えるように掴む。確かにこの状態で寝れば、床に直接寝ることもなく、寒さを凌ぐことができるだろう。
「お前……頭いいな」
「……あんたが馬鹿なだけよ」
ミシェルは呆れながら軽くツグナの頭に手を乗せ、その場を離れた。そんなミシェルを不思議に思いながらも、ツグナは乗せられた頭上に手を置く。ひと月前まで顔を見合わせれば口喧嘩していたのに、不思議なものだ。
『人を救えれば自分はどうなってもいいのか!? もっと自分を大切にしろ! 庇われたこっちの気持ちも少しは考えろよ! バカ!』
ふと、屋敷に帰ってきてミシェルから言われたことを思い出した。あの時は怒られている意味がよく分からなかったけれど、今思えばあれは自分を思っての言葉だったのかもしれない。初めて会った時から嫌な奴だと思っていたが、本当は優しいやつなのかもな、とツグナは考えた。
人畜無害そうなシアンが、今では人でなしのエセ紳士へと変わったように、第一印象はあてにならないものだ。腹の底では何を考えているか分からない、と言うのはそういうことなんだろう。少しだけ理解出来たような気がしたと、ツグナは窓の外を見つめた。
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