SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

26 赤目の化け物

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 じっとりと湿った空気に全身が侵されている。アンモニアを含んだ湿気によって、肌に張り付いた服の質感が気持ち悪い。地面についた頬を通して感じる僅かな振動に目を開けると、牢獄の前に二人の男が立ちはだかっていた。ヒュッと喉がしまって、生唾が勢いよく奥に流れ込んでくる。
 何度、この光景を目にしただろう。肌を濡らす湿気の多い空間も錆びついた臭いでさえ覚えが―――ああ、そうか。これは、夢なんだ。夢に決まっている。そして、知っていた。こんな時間に来る奴らの目的が、研究によるものではないということを。
「ほおら、お薬の時間だよ~」
 少年の顔面前にさらさらと白い粉が振りまかれる。粉末を飛び散らせ、煙を立たせるその匂いは甘く、なんだか美味しそうなものに思えた。覚えのあるそれに少年は頑なに口を閉じ、全面的に拒否を示す。
「なんだよ、お前。これ大好きだろ? 最高に気分が良くなって、何も怖くなくなる」
 ほら、と男が粉末を食すよう促すが、少年は目をつぶったまま動こうとしない。痺れを切らした男は少年の長い白髪を掴み「おい」と自身の顔前まで引っ張りあげた。 
「さっさと平らげろ、クソガキ。殴られてえのか」
 掴まれた髪を離され、少年は粉の上に叩きつけられた。粉末が散乱し、空中に細かい粒子が舞う。その拍子に少量の粉末が口内に入り、甘味を広げながら溶けていった。
「っ、うう……んんっ、ふぅ」
 途端に体の芯が熱くなり、震えるようにして下腹部が疼いた。自身の陰茎に集中する熱を逃がそうと太腿を擦り合わせるが、辛さが増していくばかりで解決には至らない。開いた口からは唾液が溢れ出し、嬌声に似た呻きが漏れ始めた。意識が湯気に覆われたようにふわふわとしていて、正常に物事を考えられない。もう、なにもかもどうでもいい。楽になりたい。きもちよくなりたい。
 少年は虚ろな瞳のまま、喉の渇きを満たそうと粉末にゆっくりと口をつけた。 
「んっ、ぁ゛えっんゔっ ふ、ぅ」
 牢内に響き渡る粘着質のある水音と鼻にかかる誰かの喘ぎ声。その声が自分のものだと気づいたのは、勢いよく中に流れ込んでくる熱を理解した時だった。腹の内側を押しつぶすように、男性の猛りが自分の中を出入りしているのが分かる。ぬちゃぬちゃと卑猥な音を出しながら上下に揺さぶられ、ただただ快楽と苦しさに身を捩った。
「おい、お前も混ざれよ」
 自身を激しく突き刺す男の声に誘導され、少年は力なく牢獄の隅を見つめる。よく見てみれば、もう一人の男性は見慣れない顔つきだった。たどたどしい立ち振る舞いや、この常軌を逸した光景を見て顔を歪めているところをみると、新入りに違いない。
「女もいるが、孕ますとガキの処分を任されるからな。新入りにはきつかろう。こいつは女みたいなナリだから、他の男を相手するよりキツくないぞ」
「で、でも……俺は」
 今にも逃げ出したいと言う気持ちの表れで、新入りが後退る。やれやれと男は呆れたように「俺のを貸してやるって言ってんだ。遠慮するな」と少年の頭を鷲掴み、新入りの前に引きずり出した。
「おい。俺にいつもしているやつをやってやれ。どうすれば喜ぶか、分かるだろ?」
 言葉に反応して、自然と少年の体が動き出した。新入りのズボンを下ろし、白い布地の下着に舌を這わせる。ゆっくりと膨らみをなぞって性器の大きさを確認し、これから入れられることを想像して震えながら、手を使わず下着も下ろした。その震えが恐怖によるものなのか、歓喜によるものなのかは少年にも分からない。新入りは小さく声を漏らし、離そうと少年の肩を押すが、淫靡な空気に酔いしれて力が入らないようだ。
 ここに来ると欲を発散できる娯楽が皆無に等しい。その溜まった性欲を鬱憤と共に囚人達にぶつけることが、唯一の娯楽なのだ。まともに自分の時間も与えられないから、始まってしまえば性欲に抗うことなんて出来やしない。男の性欲は至って単純だ。
 だからこの娯楽も極限まで新人を追い込め、性欲も苛立ちも限界にきたところで初めて囚人を襲わせるようにしている。一度解放されたら人はもう普通には戻れない。人間なんて所詮、そんなものだ。
「上手いだろ? こいつは他のやつよりも仕込んでいるから、技量に関しては高級娼婦と変わらない。それに、多少乱暴にしても壊れない体だ」
 男はそう言って少年の脇を片腕で抱えるように固定し、無理やり足を開かせた。薬の影響もあって、絶え間なく全身を巡る快楽に少年の腰は大きく揺れている。
「ほら、お前も今ので勃ったろ。こいつも辛そうだし、入れてやれよ」
 新入りの昂りを見て、男がニヤつく。新入りは乱れる少年に興奮しているようだが、未だに理性が邪魔をするのか、その場から動こうとしなかった。
 来たばかりの人間はみな良心を抱えている。だが、ここで生きていくには、人の死を何事もなかったかのように処理できる非道にならなくてはならない。これはそういった非道になるための、言わば洗礼でもあるのだ。
 男は新入りの理性を完全に断ち切るために、少年の顎を掴んで「おい、お前がおねだりしないと入れてやらねえってさ」と言い聞かせた。顎を掴まれたまま人差し指を口内に入れられ、歯列をなぞるように掻き回される。少年の頭は快楽によって埋め尽くされ、何も考えられなくなっていた。だが、快楽に従順な頭は、どうすれば楽になれるかということを本能的に理解していたんだろう。
「ほし……いれ、いれ、てくだ、さ……」
 泣きじゃくるように絶え絶えで放たれたその言葉は、雄の本能を新入りに思い出させた。屈服させる喜びにゴクリと生唾を飲み込む。そこからの記憶は曖昧だ。
 少年が次に意識を戻した時は、全裸で牢内に投げ出されていた。未だに体内には熱が残っていて、快楽と酸欠に意識が朦朧としている。ふと自身の後孔に違和感があって目線を移すと、先程の新入りが指で中を弄っているのが見えた。柔らかくなった肛内は敏感になっており、新入りの指がいい場所を掠める度に、腰を浮かせて跳ね上がる。
「も、ゃだ……ごべん……ごめんなざいっ、ごめんなざい゛っあ」
 枯れ果てた声で少年は叫ぶように謝罪を繰り返し、腕で目を覆う。直後「ごめんね……中に入ったままだとお腹壊すと思って」と新入りの声が聞こえてきた。少年は覆っていた腕を下ろし、ゆっくりと新入りの顔を見つめる。どうやら、先程中に出された白濁を掻き出してくれているようだった。
「こんなことして、許せるわけないよね……だから、許してくれなんて言わない。でも、分かってくれ……みんな、心が弱いだけなんだ。俺も……先輩も」
 ぽたぽたと太腿に落ちる微温湯は、男が達する時に放つものとは違って粘り気がなく、気持ち悪さがなかった。ごめん、ごめんと謝り続ける新入りの頬から伝い流れる大粒に、少年は困惑して目を見開く。
 新しくやってきた人間は、始めこそは彼のように戸惑いを見せ、囚人に対してもどこか人の優しさが垣間見れた。けれど、囚人と看守ごっこを続けるうちに非道になっていき、自分を襲った男のように変わり果てていく。初めて囚人を襲わせる時には、多くの人間が良心を失っているのに、彼だけは違うようだった。
 彼の言う心が弱い、という意味は理解できない。だが、彼のような優しい人間もいるという事を少年は絶望の中で知ったのだ。悪い人間ばかりじゃない。初めて人の良心に触れた少年は大きく跳ね上がり、気絶するようにして目をつぶった。
 途端に瞼の裏側が、多彩な色によって乱れる。悲鳴、赤色が飛び交う中で、先程の新入りの顔が大きく映し出され、叫び声を上げた。

やめて、やめてくれと。

 バチン。肌を叩く音と同時に、自身の頬に痛みが走った。口の中は鉄の味がする。ゆっくりと目を開けると、眼前にはいつになく焦りを浮かべるシアンの姿があった。風邪でも引いたみたいに全身が熱い。
「起きたか。随分うなされていたが……大丈夫か」
 シアンの言葉に夢の中の出来事が再生された。羞恥心が込み上げ、ツグナは気まずくなって離れようと上半身を起こす。が、勢い余って顔を覗いていたシアンの額と自身の頭がぶつかった。二人はぶつかった場所を抑え、地面を見つめて痛みに震える。
「クソガキ……何するんだ」
「 っ、うるせえ……! いつもは心配なんてろくにしないくせに! 夢なんていつもの事だろ……」
 顔を赤らめ目を逸らすツグナに「いや、君の夢なんて心底どうでもいい。その口から出ている血に言ったんだ」と額を抑えたシアンが返す。そういえば、起きた瞬間に血の味がしたなとツグナが口元を触ってみると、乾いた唾液のような感触が顎に広がっていた。恐る恐る目線を下ろしてみると、口から自身の胸元にかけて大量の血液がこびりついている。
「えっ、なんだこれ……」
 先程まで羞恥心で逆上していたものが一気に萎みだし、ただただ見つめた。口から痕が続いているとなると、吐血でもしたのだろうか。寝ている最中に吐くなんて初めてだ。
 冷静に吐血した事を処理するツグナに起きてきたミシェルが「何かありましたか?」とシアンの背後から顔を覗かせる。そうしてから、あっ、と声をあげるツグナを見て、髪を下ろしていたミシェルはぎょっと目を見開いた。
「うげっ! ちょっ、どうしたのそれ!」
「吐血したみたいだ。寝ている時に」
 口をシャツの袖で拭きながらツグナは平坦に言った。シャツが汚れるでしょ、とツグナの腕を掴んでミシェルが阻止する。 
「君、吐血したにしては冷静だな。前にも同じことが?」
 取り乱すかと思っていたが、意外にも冷静なツグナにシアンは眉を顰める。
「まあ、寝ている時に吐くのは初めてだけど、吐血は初めてじゃないし」
 久々の感覚に顎を触りながらツグナが呟く。実験中や看守の機嫌が悪くて乱暴にされた時は、毎日のようによく血を吐いていた。ブラッディ家に来てからは収まったかと思っていたが、ここに来てまた再発したのだろうか。
 普段通りのツグナに「そうか。なら問題ないな。さっさと着替えろ。汚いから」とシアンがため息をついてその場から離れた。むっと不機嫌になってツグナが睨みつける。先程自分が目覚めた瞬間は心配してくれていたように見えたのに。やっぱり気のせいかとツグナは落胆し「言われなくてもそうする」と立ち上がった。二人の間に立たされたミシェルは交互に見つめながら「いや、おかしいわよ!」と声を上げる。
「あんた、吐血したのよ!? なんでそんなに平然としていられるわけ!? 吐血したってことは内臓の何処かに問題があるってこと! 今すぐ医者に見せるべきだわ!」
 吐血した人間を見て満点の反応だが、冷静な二人に囲まれていると、かえってオーバーリアクションに見える。
「別にこれぐらい普通だ。服、着替える」
「部屋が汚れていなければなんだっていい。追加料金を払わずに済んだ……さっさと出かける準備をしよう」
 二人はそれぞれ着替えをし、出かける準備を進める。平然な二人を見つめ、ミシェルは「私が変なわけ……?」と困惑した表情を浮かべるのだった。



 その日は非常に穏やかな朝だった。昨日とは違って霧の姿はなく、空は水彩画のように鮮やかな水色と朱色が入り交じって、一つの芸術を生み出している。以前まで外界を完全に閉ざした空間で過ごしていたので、そういった空の変化にさえ、自分が今こうして「生きている」という実感がして、目の縁が熱くなるような心の落ち着きを感じた。
 眩しい陽光に目を細め、空を見上げていると「おい、置いていくぞ」と前から声が聞こえてくる。
「綺麗な空だな」
「街の空なら昨日も見ているだろ。顔洗った時に記憶まで洗い流されたのか」
 シアンの言葉に「そんなわけあるか」と睨みつけるようにしてツグナが返す。こいつにとっては生まれた時からの当たり前でも、数ヶ月前までの自分には当たり前じゃなかったんだ。そう言ってやりたかったが、夢の出来事で調子が出ないのか、口を閉ざしたままついて行く。
 準備を終え、宿から出た一行は、その足で真っ直ぐ町長の屋敷に向かっていた。シアンが言うに「町長の屋敷は広場を抜けてすぐ」らしい。それだけ近くにあるなら、昨日のうちに訪ねれば良かったのにと、ツグナは行き交う人々を見つめて思った。その中に見覚えのある背中を目にする。頭に布をかけた、ブロンド髪の女性だ。
「あっ、あの人……昨日の」
 ふらりと向かうべき場所から逸れようとするツグナの襟を、隣にいたミシェルが鷲掴んだ。
「ちょっとあんた。昨日あれだけ散々な目にあったんだから、少しは学習しなさいよ」
 引きずるようにツグナの体を寄せ、じろりと見下ろす。わかったから離せと、暴れるツグナの声を横耳に、帰りまでには本気で拘束も考えておくかとシアンは嘆息した。
「ひでえなこれは……」
「憲兵はまだ来ないのか?」
 ふと、通りかかった路地に人だかりができているのが見え、思わず足を止める。通り過ぎようとしたが、何かあればそれはそれでツグナの行動を抑止出来るかもしれないと、シアンは近くの人間に声をかけた。
「何があった?」
「あん? 見ての通りさ。人が食い殺されてんだよ。多分、町を徘徊する野犬の仕業だな。おっと、子供は見ない方がいいぜ」
 シアンに続いて、ミシェルとツグナが人だかりに近づいた。そうして人の間から見えた凄惨な光景に、ツグナは目を見開く。
 路地にあったのは、男女であろう二人の人間が食い散らかされた跡だった。着ていた服は腹部と共に無惨に切り裂かれ、それぞれの性器や乳房が露出している。その傍らには触ったら破裂しそうなほど水分を多く含んだ赤黒い物体が飛び散り、路地の壁や地面を真っ赤に染め上げていた。ざわざわと小粒の黒い物体が腹から伸びる赤黒い臟に沿って蠢いている。初めは臟がひとりでに動いていると錯覚してしまったが、どうやらそれは小虫の集合体のようだった。
「う゛っ……うおえ゛ええ」
 路地の前から逸れ、ツグナは石畳の地面に今朝消化できなかったものを吐いた。固形物だったものがやがて黄ばんだ液体だけのものになり、白濁の唾液を地面にまで伸ばしながら震える。認識した途端、路地から流れ出ていた腥い空気がより一層強まり、自身から出た胃酸の匂いと混ざった。気持ち悪さが増していき、脱力して崩れ落ちるようにその場に座り込む。
 それを見たミシェルは、ちょ、大丈夫? と、ツグナに駆け寄り背中を摩った。ほら言わんこっちゃねえと、呟く男にシアンは「こういった死体は他にも?」と問いかけた。
「ああ。けどまだマシな方だ。酷い時は上半身がないなんてこともある。やっぱりあの噂が本当なのかもな」
「噂? なんだ」
 怪訝に眉をひそめるシアンに「よーく遺体を見てみろよ。何が足りねえ?」と男は死体に顔を向ける。連れてシアンも再び死体をよく見つめた。ラヴァル卿の女性たちに比べれば、理性を持たずして本能的に喰らった獣の食い散らかしようだ。けれど、死体には他にも一つ共通点がある。
「そういえば、遺体に心臓が見当たらないな」
 冷静に死体を分析して答えるシアンに「そうだ」と得意げになった男が続ける。
「この街でこんな姿になったヤツらは数え切れないほどいるが、みんな決まって心臓がねえんだよ。獣は食べた部位の味を覚えるとはいってもな、的確に臓器を探し出して持っていくのは人間にしか出来ねぇと俺は思ってる。だから、金に困った貧民街の連中が心臓を集めて臓器売買か、もしくは悪魔でも呼び起こそうとしてんじゃねえかって噂なんだ」
 大袈裟に抑揚をつけて怖がらせようとする男に「あながち間違っていないかもな」とシアンが独り言ちた。貧民街の噂はヴェトナ以外でもよく聞く。男が言ったこともそうだが、他にも食料を求めて死んだ人間の人肉を食らっているだとか、特に根拠もない噂ばかりが人々の間で広まっていた。だが、その中に真実が紛れている時もあるので、全てを否定せず、常に正しい情報を見極めていく必要がある。こういった捜査をする時は特に重要な事だ。
 もしこの死体が黒魔術と関わっているなら、臓器を取り出していたラヴァル卿の行動と合致する。だが、そう簡単に尻尾を出してくれるようにも思えない。信じる信じないにしても半々の気持ちで、情報を整理していかないとな。死体を見つめたまま、顎に手を添えるシアンの元にようやく落ち着いたツグナとミシェルが戻ってきた。
「落ち着いたか」
「……まだ、気持ち悪い」
 目を向けずに声をかけるシアンに、ツグナが身震いして答えた。まあ、確かに見ていてあまりいい気分ではない。ツグナと同じくらいの自分だったら、同様の反応になっていたかもなと、シアンは思った。
「だから、黒い化け物が連中を襲ったんだって言っているだろ! 俺は確かにこの目で見たんだよ!」
 ふと、背後から若い男の怒鳴り声が聞こえてくる。一同が振り返ると、憲兵らしき軍服を着た中年と若者がこちらに歩み寄ってきた。
「あんた、まだ薬やめていなかったのか。いい加減にしないと、独房にぶち込むぞ」
「売人とは縁を切った! もうひと月近く薬は絶っている! だから、あれは間違いなく現実だったんだ! 信じてくれよ!」
 若者はフケが巻きついたボサボサの頭をしていて、昨日路地で見た薬物中毒者と同様に痩せこけていた。薬を絶ったと言っているが、あの見た目じゃ信じてもらえるはずがない。
「ふん、ようやく来たか。税金泥棒め」
「さっさと遺体を片付けてくれよ。臭いが広場にまで流れてきて迷惑なんだ」
「これでやっと商売が再開できるぜ」
 路地に集まっていた人々は口々に吐き捨て、少しずつその場を離れていった。人が死んでいるのにも関わらず、住人達の反応は冷たい。あくまで自分の迷惑になる異物、と彼らは捉えているようだ。
 本当に見慣れた光景なのだと理解する反面、他人に無関心な人間の冷たさが酷く残虐なものにツグナは思えた。
「……まあ、こういった貧民街ではよくある事だ。生きるためなら同族を食べる生き物もいる。もしかしたら、これもその類なのかもな」
 特に関心のない声色で「そろそろ行こう。君もこうなりたくなかったら離れるなよ」とシアンが広場を向いた。同時に先程の憲兵と若者の声が前から聞こえてくる。
「暗闇だったけど確かに見えたんだ! 黒い化け物の中心に赤目のやつが……」
 若者はそこまで言ってから、ツグナを見つめて二、三度瞬きを重ねた。あっあっ、と呻き怯えるようにして少年を指さす。
「あいつだ……あいつが化け物に襲わせていたんだ! 間違いねえ!」
「はいはい。話は後で聞きますから」
 真面目に取り合おうとしない憲兵に若者は堪忍袋の緒が切れたようだった。足元に転がる石畳の欠片を拾いあげ、それをツグナに投げつける。急なことで避けることも出来ず、ゴンッと鈍い音をたてて欠片がツグナの頭に直撃した。後退するようにふらつくツグナを見て、シアンとミシェルは目を見開く。
「出てけーー! 今すぐこの街から出てけーー! 化け物! 死ね! 死んじまえーー! クソッタレ!」
 ガラガラの声で叫び続ける若者を、ミシェルは睨みつけ「何すんのよ!」と声を張り上げた。よせ、と短く切るようにしてミシェルの前にシアンが手を広げる。
「早くここから離れよう。行くぞ」
 顔を歪めたシアンがツグナに目線を向けた。若者の言葉に混乱しているのか、ツグナは目を見開いたまま動こうとしない。シアンはその横顔を見て、ツグナの腕を掴み、逃げるようにしてその場から立ち去った。ミシェルも二人の後を追う。
 その間、背後から聞こえてくる若者の声が止むことはなかった。



 路地から離れてしばらく立った。一行の足はそのまま町長の屋敷へと向かっている。
「あんた、大丈夫? 血出てるけど」
 無言続きのツグナを横目に、ミシェルは居心地悪そうに呟いた。ぼうっと歩いていたツグナはその声に遅れて「あっ、うん。もう、治った」と小さく答える。よく見てみれば、石畳の欠片で抉れていた額は既に傷が塞がっていて、先ほど出血したものが顔についているだけのようだった。ここに来て数分の間に治るなんて、やっぱりこいつの体はどうかしていると、ミシェルは内心に秘めながら「……そう、良かった」と呟く。
 何故だろう。以前よりツグナの回復能力が上がってきている気がした。怪我の治りが早いのはいいことかもしれないが、これじゃあ本当に―――。
「やっぱり。こんなの、おかしいよな」
 掠れたツグナの呟きが聞こえてくる。それに合わせて、ミシェルとシアンはその場で足を止めた。ツグナの血のように真っ赤な瞳には光がなく、見開いた目の縁からは涙が溢れ出し、顔についていた血液と混ざって落ちていく。
「普通の人間は、顔が熔けても元には戻らないし、腕を切られても生えてこない。あいつの言った通り、僕は化け物なんだ。人間じゃない。僕は―――」
「くだらない」
 腹底から轟くように低い声音でシアンが言った。ツグナとミシェルは肩を大きく震わせる。
「ああ、そうだな。傷跡一つつかず、ましてや腕が再生するなんて、普通の人間じゃない」
「シアン様それは―――」
 追い込むような発言にミシェルは思わず止めに入ろうとする。直後、だからどうしたと鼻で笑うようにシアンの言葉が続いた。
「この世に価値ある特別な人間なんていない。ましてや、他人から蔑まれる命なんてのもない。人を蔑む奴隷制も、劣っている人間を差別することで自分たちの優位性を主張し、優越感に浸りたいだけだ。そうでもしないと自分を守れない―――それは、人間の心が脆く、弱いからだ」
 背中を向けたまま話を続けるシアンの言葉に、今朝夢の中で見た新入りの言葉をツグナは思い出す。
「本質的な弱さは誰にでもある。自分が価値ある人間だと、この世に生まれてきた意味があると信じるのに必死なだけで、人間の価値はみな同じだ。だから、以前も言ったはずだ。他人の言葉に押しつぶされる必要はない。君が何者なのかは、君自身が決めろと。君には自分で決める権利があるんだ」
 例え普通じゃなくても、君は君だろう? シアンはこちらを一切振り向かず言ってみせると、ゆっくり歩き出した。一時はどうなるかと思ったが、彼なりに励まそうとしてくれたに違いないと、ミシェルは安堵して嘆息する。そうしてから、持っていたリネン性タオルをツグナの頭に被せた。
「そうよ、あんたみたいにマヌケで優しい化け物なんていないわ。あんたはツグナ・クライシス。そうでしょ?」
 優しく頭を撫で回し「早く涙拭きなさいよ、見苦しいから」と歩き出した。素直じゃないのは、自分もかと、数歩のところでふと思う。頭のタオルを抑えたツグナは、下唇を噛み締めながら「……うん。ありがとう」と小さく呟いた。
 今朝は嫌なことばかりが押し寄せる。まるで夢を見た事によって、悪い運気が自分に吸いよせられているみたいだ。胸の中には、未だに気持ち悪さや悲しみなどの負の感情が渦を巻いている。
 けれど、二人の言葉を聞いて、なんだかどうでも良くなった。それどころか少しだけほっとするような温かさがある。冷たい鉄格子の中で感じた、あの新入りの時もそうだ。思えばあの時からずっと、人の中にある微かな光を信じたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。
 人の弱さはきっと――― 自分が生きていくために、心を捨ててしまったことを言うんだなと、二人の背中を見て思った。
「ついたぞ」
 前を歩いていたシアンの言葉にツグナは顔を上げた。大きさはブラッディ家以上かもしれない。背の高い塀が豪邸を取り囲み、目の前には大きくて頑丈な鉄の門がそびえ立っている。敷地内には木々が沢山植えてあり、中の様子を見ることが出来なかった。
「何用だ」
 門の前に立っていた傭兵が、槍を持った腕をシアンの前に広げ足止めする。この治安の悪い街で、傭兵を雇うのは当然だ。想定通りと言った様子でシアンは「物騒だな。槍をおろせ」と白手袋を外し、手の甲を見せる。左人差し指には金のリングがつけられ、何やら太陽のような紋章が刻まれていた。
「俺はブラッディ家当主、シアン・ブラッディだ。お前の雇い主と話がある。通してくれないか」
「なっ……それは伯爵位の……ご無礼を働き、大変失礼致しました」
 険悪な表情で槍を突き出していた傭兵は、指輪を見た途端に背筋をピンと伸ばし、槍を下ろした。わかればいい、とシアンは再び白手袋をつける。それらのやり取りを見て、シアンは本当に権力のある人間なんだとツグナは改めて思った。
「しかし、入れるには主の許可を貰わなくては……」
「なら、ここで待っているから、報告しに行ってくれ。どうせ、俺が来たことは奴も分かっているだろうからな」
 豪邸の窓を見つめて、シアンは口許に笑みを浮かべた。その様子を窓から眺めていた男の部屋に、しばらくしてノックする音が響く。入れ、と腹奥からくる低い声で男が返した。
「失礼致します。ブラッディ伯爵が、デイヴィッド様にお会いしたいとのことで、屋敷前に」
「ああ、やはりそうか。どうりで、あの男と同じ目をしているわけだ」
 窓の外から目を離さずに、ニタリと男の口角が歪む。入口前に立っている細身のメイド服を着た女性は「どういたしますか?」と抑揚のない声で問いかけた。
「客人を招き入れろ。盛大にもてなせ」
「はい、デイヴィッド様」
 メイドは肥えた主の言葉を茫洋とした瞳で受け入れた。
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